図録・報告書・目録
【2006年1月21日 入力】 【2007年11月15日 更新】 【2004年】 図録「発掘された日本列島2004 新発見考古速報」(2004年 文化庁編) この図録の表紙の一つの写真が、佐倉市井野長割遺跡から出土した土器でした。文中にも紹介されています。 『千葉県佐倉市井野長割遺跡(第4次調査)』(印旛郡市文化財センター発掘調査報告書第205集 2004年) 児玉幸多監修「江戸大名下屋敷を考える」(2004年 品川区立品川歴史館編 ) 品川区立品川歴史館の企画展示「しながわの大名下屋敷」を開催した時の ディスカッションの記録です。 品川区内には大名の下屋敷が27ヶ所あった内の仙台藩伊達家品川下屋敷だった、 仙台坂遺跡の事例報告で「江戸だと思って掘っていたら、 煉瓦がいっぱいでてきて・・どうやら味噌工場の跡みたいなんです。 出土した煉瓦は明治期の味噌工場のもので、この煉瓦は非常に貴重で、 とくに火を使う所に使う『白煉瓦』は、皆さんも品川ガラスでよくご存知の 西村勝三さんが造ったもので、その会社の製品だったのです」とあります。 『佐倉市市制施行50周年記念・佐倉市民音楽ホール開館20周年記念 佐倉市委嘱作品 オペラ 龍の雨』(2004年 佐倉市民音楽ホール) パンフレットが発行されました。 『佐倉市制施行50周年記念事業 櫻井慶治展』(2004年 佐倉市 佐倉市教育委員会) 展示図録が発行されました。 『佐倉市市制施行50周年記念事業 佐倉の美術 先人からの贈り物』(2004年 佐倉市立美術館編) 考古資料から近代洋画家浅井忠などの作品が収められた図録です。 『城下町佐倉の名刀展』(2004年 佐倉刀友会) 郷土に伝わる名刀の写真が掲載されています。 『新選組展図録』(2004年) 新選組隊士・島田魁が書いた「新選組英名録」に、「江府/下総佐久良 桜井勇之進」 と載る人物があります。 『佐倉市制50周年記念写真集 写真に見る佐倉』(2004年 佐倉市) A4版 320頁で、とにかくボリュームがあります。写真は幕末の佐倉藩士から、 長嶋茂雄氏の佐倉市名誉市民顕彰式まであります。「一家に一冊」お勧めします。 【2005年】 図録「無言館 遺された 絵画展」(窪島誠一郎監修 2005年 NHKきんきメディアプラン) 佐倉に住んでいた蜂谷清の絵と経歴が記されています。 無言館は長野県にあり、、戦時中、絵を描くことの好きな若者が絵筆を捨てて戦場に 向かうにあたって遺した絵や、戦地で描いた絵葉書などを展示しています。 『没後20年 堀柳女展』(2005年4月 2100円 佐野美術館) 堀柳女は佐倉藩士柿内家の娘です。 『我孫子市鳥の博物館研究報告』第13号(2005年 我孫子市鳥の博物館) 「印旛沼鳥類目録」があります。 1970年代から2004年までの約30年間で、233種が確認された。ほかに 8種類の外来種が確認されたとあります。 このほか、貴重なデーターが掲載されています。 図録『成田山ゆかりの絵師』(2005年 成田山霊光館) 成田山霊光館で開催された「成田山ゆかりの絵師」展の図録。佐倉藩にゆかりのある河嶋雪航と黒沼槐山の 絵が掲載されています。 雪航は、天保11年(1840)10月7日、佐倉藩に掃除坊主席絵師として新規に召抱えられたとありました。 黒沼槐山は天保8年(1839)12月、佐倉藩に公用方定附坊主として召抱えられています。 図録『酒々井の絵馬』(2005年7月 酒々井町郷土研究会) 吉祥寺にある俳額(明治時代)の絵を旧佐倉藩士黒沼槐山が描いている(写真掲載)。絵は槐山が得意とする鯉。 【2006年】 『国立歴史民俗博物館研究報告 佐倉連隊と地域民衆』第131集 A4版 336P(2006年3月 国立歴史民俗博物館) 〔論文〕 塚本学「城下町と連隊町 ・・・佐倉町のばあい試論」 宮地正人「佐倉歩兵第二連隊の形成過程」 一ノ瀬俊也「佐倉連隊の日常生活 昭和九年のある上等日記から」 〔資料紹介〕 宮地正人「佐倉連隊関係資料」 安田常雄「昭和戦前期における第五七連隊と佐倉の町並み」 樋口雅彦「『さくら』『千葉連隊区将校団報』『五七』の総目録 『図説蒸気機関車全史A』(2006年4月 学研) 付録に昭和35年3月31日現在の各機関区のSL配置がのってます。無論佐倉機関区のも型番からのっていました。 展示図録『千葉の力士たちー利根川下流域の相撲文化ー』(2006年5月 千葉県立中央博物館大利根分館) 佐倉にゆかりのある雷電が記されています。 特別企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』(2006年7月 国立歴史民俗博物館) 明治6年、佐倉城跡に連隊が置かれることにより、翌年から歩兵第2連隊が駐屯しました。以来、終戦まで佐倉は軍隊の町となりました。 佐倉に置かれた連隊はどのようなものであったのか、また町と連隊とのかかわりはどのようであったのかということが、写真や資料を使ってわかりやすく記されています。 【2007年】 佐倉市立美術館編『没後80年 森谷延雄展』(2007年1月 佐倉市立美術館) ロマンあふれる文化が花開いた時期として知られる大正時代に、彗星のごとく現れ、夢あふれる家具や室内装飾を発表したデザイナーに森谷延雄がいます。 森谷延雄(1893-1927)は、明治26年、千葉県印旛郡佐倉町内宮小路町に生まれました。千葉県立佐倉中学校(現・千葉県立佐倉高等学校)卒業後、東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科に進み、在学中に各種展覧会で受賞するなど、早くからその才能を開花させました。 『印旛の原始・古代 縄文時代編』(2007年3月 財団法人印旛郡市文化財センター) 佐倉市関係では、【早期】間野台貝塚、【中期】神門房下遺跡、吉見稲荷山遺跡、生谷松山遺跡、【後・晩期】遠部台・曲輪ノ内貝塚、井野長割遺跡、 吉見台遺跡、宮内井戸作遺跡が紹介されています。 『千葉大学附属図書館亥鼻分館 古医書コレクション目録』(2007年3月 千葉大学附属図書館亥鼻分館) コレクションの経緯によれば、その起源は千葉医科大学の伊東弥恵治眼科学教授が大正末年に眼科を中心とする東洋医学、とりわけ江戸時代の 中国眼科の古書に関心を持たれ、その収集に乗り出されたことにある。 コレクションには、佐倉順天堂にあった洋書、古医書400冊も収められている。この本は「順天堂佐藤本」と分類されているため、本を拾えば 佐倉順天堂にあった蔵書の一端がわかるだろう。 カラー図には「ポンペが松本良順に与えたサイン入り眼科書」がある。二人のサインがあることから、二人の信頼関係がわかる。 かわったところでは、森鴎外『陸軍一等軍医森林太郎普国禁軍歩兵第二聯隊・隊務日記』一冊(明治21年 陸軍々医学会)がある。解説によれば、 「森林太郎がプロシア(現ドイツ)国へ軍医として留学した折の現地部隊で勤務実習の様子を記したもので明治21年から7月2日までのことが書かれ後半の 付録として独文の資料が入っている。」。本書は非売品であるが、佐倉順天堂にあった。 このように、各医書には平易な解説文がつけられているのでわかりやすい。 『千古不易 〜東京鎮台佐倉営所病院のあゆみ〜』(2007年4月 東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会) 2007年4月、国立歴史民俗博物館がある佐倉城址公園の一角に、「明治 大正 昭和 平成の四世に亘る佐倉射醫のこころ 茲に遺す 仁の心を腎に」という碑が建立された。 佐倉は明治6年に軍隊の営所が置かれるところとなり、翌年、東京鎮台佐倉営所病院が創設された。以来、病院の名称は何度か変わったが地域医療に貢献をしてきた。2004年、聖隷佐倉市民病院として経営移譲される。 この間の変遷を綴った記念誌で、佐倉衛戍病院から陸軍病院時代の話が詳しい。 トップページ |