佐倉にゆかりのある本

 

 
  鴎外と佐倉
  −「後北游日乗」に描かれた佐倉 − 

                           
 
 陸軍軍医であった森鴎外は徴兵検査立ち会いのため各地を巡回しており、明治15年11月12日、印旛沼を渡し舟で瀬戸から萩山に渡り、人力車で佐倉新町にやってくる。
 このとき鴎外は漢詩(七言絶句)を2首つくっている。その詩は、現在、湖畔荘跡に建てられている。この詩の解説は陳生保『森鴎外の漢詩 上』(平成5年6月 明治書院)に詳しい。
 1首は、荒れた畑の中に、茶花(山茶花か)のはげしい香りを感ずるというもの。もう1首は、湿気のある車の中で、鴎外が父を想うものである。
 鴎外の父森静男は佐倉の順天堂で西洋医学を学んでおり、そのときの苦労を思い出している。また、鴎外に漢文を教えた人が佐倉藩士依田学海であり、その鴎外が佐倉に寄せる漢詩となれば一層の感慨がわく。

 
  鴎外が第一大学区医学校(現東京大学医学部の前身)を卒業したのが明治14年であった。この年の12月、陸軍に入り、陸軍軍医副(中尉相当)に任ぜられる。
 陸軍に入って初めての休暇が翌年の正月早々にとれると、鴎外は、旧佐倉藩士依田学海の家を訪ねた。その様子を学海は日記に残す。この日記は、『学海日録』(岩波書店)として刊行されている。
 日記には
 「七日。朝くもり、森林太郎来る。近頃陸軍軍医副となる。年未だ十七、八に過ぎず。才子だといわれている。私が墨水にいたときに、その父静男から治療を受けたことがあり、縁をもって、文章を添削したことがあった。
 質実にして飾らず、心に本業をつくす。末たのもしき若ものであった。今日は陸軍はじめての休暇という」と記す。
 鴎外は、このとき21歳であった。鴎外は学海に漢文を習ったことがあり、後に「ヰタ・セクスアリス」という小説に、そのころの話を記している。

 鴎外は依田学海の家を訪ねた翌月、第一軍管区徴兵副医官に任ぜられ、1ヶ月半をかけて北関東、信越地方を巡回する。そして、7月、東部検閲監軍部長属員に任ぜられ、9月、再び徴兵検査立会いのために巡回に出た。
 11月6日、高崎から帰京。父の家に1泊した後、越谷、宇都宮に向かい、次に佐倉を訪れることとなった。
 鴎外の徴兵検査立会いの巡回日記は、後に「北游日乗」「後北游日乗」として紹介される。このうち、佐倉が記されたものは「後北游日乗」である。
 その中に、漢詩(七言絶句)2首が収められている。鴎外は印旛沼を舟で渡り、「萩山の渡し」に着いた後、人力車に乗って佐倉新町にある泉屋に向かった。
 佐倉が描かれた部分を『鴎外選集』(岩波書店)に収録された「後北遊日乗」から抜粋する。

 「十二日、雨ふる車を倩ひ渡口瀬戸を過ぎて午後五時佐倉新町なる泉屋につきぬ

 (荒れた畑の中に、茶花(山茶花か)の香りを感ずる詩)

  荒園幾畝接寒沙〔荒園幾畝(こうえんいくむ)
          寒沙(かんさ)に接(せっ)し〕
   処々村人養緑芽〔処々(しょしょ)の村人(そんじん)
          緑芽(りょくが)を養(やしな)う〕
  芳烈其香淡其色〔其の香(か)は芳烈(ほうれつ)たり
          其の色は淡(あわ)し〕
  菊花凋後見茶花〔菊花(きくか)の凋後(ちょうご)
          茶花(さか)を見る〕

 (鴎外の父、静男が佐倉で苦労したであろうことを想う詩)

  雨氣壓車人語濕〔雨気(うき)車(くるま)を圧
        (あっ)し人語(じんご)湿(しめ)る〕
  車中有客暗愁催〔車中(しゃちゅう)客(きゃく)有り
        て暗愁(あんしゅう)催(もよお)す〕
  阿爺昔日嘗辛苦〔阿爺(ちち)は昔日(せきじつ)
         辛苦(しんく)を嘗(な)め〕
  此地単身負笈来〔此地(このち)に単身(たんしん)
         笈(きゅう)を負うて来たり〕

 (漢詩2首の読みは、陳生保氏の『森鴎外の漢詩 上』を引用)

 佐倉は繁華ならねど宇都宮に優ること三つあり 俗の淳朴成る食饌の精き娼妓なき是れなり
 十六日、晴れたり車を駆りて寒川に至りこれより汽船に乗る」 

 
 鴎外の父、森静男は幕末に佐倉の順天堂で西洋医学を学んでいた。その記録は「佐倉順天堂塾社中姓名録」という文書が残っており、『順天堂史』に紹介されている。
 この文書は慶応元年(1865)に記されたもので、「石州津和野 森静泰(江戸時代の名前)」とある。しかし、順天堂創設時からの門人録が残っていないから、静男がいつ入門したかわからない。ただ、翌年の門人名簿には静男の名前がないので、慶応2年(1866)には佐倉を離れたと考えられる。
 一方、順天堂を創設した佐藤泰然の実子、松本良順の門人録「登籍人名小記」(村上一郎『蘭医 佐藤泰然伝』)には、「石州津和野産 文久癸十一月 亀井隠岐守臣 森静泰」とある。
 鴎外の生まれは文久2年(1862)であるから、静男は鴎外が生まれた翌年(1863)の11月、良順に入門したことになる。この年、良順は幕府の設立した西洋医学所の頭取となっていた。
 これらのことからすると、静男はまず江戸の西洋医学所で1年近く学び、翌年、佐倉の順天堂で学び始めたと考えられる。そして、静男は鴎外が生まれた翌年から江戸や佐倉で西洋医学を学んでいたため、鴎外は幼児期、父と離れて過ごしていたことになる。
 鴎外が漢詩に詠んだ静男の苦労話は、母の背中で子守歌のように聞いたのであろうか。それとも、後に静男から直接聞いたのであろうか。いずれにせよ、初めて踏む佐倉の地で、その声を思い起こしたのだろう。

 鴎外たち巡回の一行は22人であった。責任者は軍医緒方惟準(これよし)。惟準は緒方洪庵の子で、安政5年(1858)、幕命により長崎に赴き、オランダ軍医ポンペに学ぶ。
 文久2年(1862)、長崎医学伝習生となったが、翌年、父が死去したので江戸に帰り、西洋医学所教授となる。このとき西洋医学所の頭取は、洪庵の死去にともない松本良順がなっていた。
 惟準が西洋医学所の教授になった年に、鴎外の父静男も良順の門下に入ったことになる。二人の関係はわからぬが、良順を師として点で、目指す医学の方向は一致していた。
 鴎外は、父と同じような西洋医学を目指していた惟準の部下として佐倉にやってきた。

 
 鴎外が佐倉を訪れたころの佐倉はどのような様子であったのであろうか。
 鴎外が「後北游日乗」に記した佐倉の印象は、
 「佐倉は繁華ならねど宇都宮に優ること三つあり 俗の淳朴成る食饌の精き娼妓なき是れなり」であった。佐倉を誉めてくれているのだろうが、少々こだわってみる。
 つまり、佐倉は宇都宮に優る点として、土地の習慣が純朴で、食べ物が新鮮で、娼妓がいないというのである。これは一般的に言えば、「田舎」に対する誉め言葉ではないかと思っている。それはそれでよいのだが、そこに鴎外の純粋さを感ずる。
 加えて、軍医としての評価を含んでいたのではないかと考えている。「後北游日乗」をみると、巡回地を比較した記載がみられるのは、佐倉と宇都宮のほかに、箱(函)館と青森の比較もしている。
 「午後四時青森に着きぬ この地は箱館の如く繁華ならず楼上より街をみれば幅三寸 許なる黒き帯にて胸を約し紅にて腰を約したる娼婦群を成して往来す」とある。
 ここに軍医鴎外として、街を観察する視点が見出せる。それは、街の賑わいと、娼妓がいたり遊郭があるか否かという点を記しているということである。青森は繁華ならずとも箱館(箱館では廓)と同様に娼妓をみるため、青森に対して佐倉のような評価をしていない。
 鴎外の記した「後北游日乗」をみると、箱館では娼家・廓、青森では娼婦という文字が記され、また文面から宇都宮にも娼妓がいたと読め、鴎外は兵営の置かれた土地にそのような場所があるかどうかの確認をしていたのではないかとさえ思えるほどである。
 ところが、この巡回に先だって、明治15年2月より巡回に出た地は前橋・柏崎・新発田・長岡・高崎であるが、その巡回を記した「北游日乗」には、廓や娼妓についての記載は見られない。佐倉を訪れる2回目の巡回から娼妓などの記載が見られるのである。
 ここに、兵士の衛生面まで配慮が及んだ鴎外の軍医としての成長をみる。
 ちなみに、鴎外が佐倉を訪れたときの連隊長は児玉源太郎であった。そして、佐倉に遊郭が出来るのは、鴎外が訪れた翌年の明治16年であった。

 
 鴎外がドイツ留学を受けた明治16年の6月、旧佐倉藩士依田学海は神田小川町に転居した。
 学海は日々のできごとを記しており、それは『学海日録』(岩波書店)として世に出たわけであるが、学海は向島に別宅があり、ここでも漢文の日記を記し始めた。この日記は『墨水別墅雑録』(吉川弘文館)といわれ、同16年から同32年まで記している。
 この2つの日記に鴎外の記述がみられるのは、同17年2月6日になる(『学海日録』)。
「たまたま森林太郎来訪して云はく、過日、四谷に至り、先生移り去ると聞く。何れに住むか知らず。ようやくわかり来ると。この林太陸軍医なり。幼い時、余に従ひ文章を学ぶ。それ以来、行き来あり、本当に喜ぶべきことである」
 鴎外のドイツ留学が内定したのと学海の引越しが同月であったこと、そして、この記述から考えて、2月6日まで学海は鴎外からドイツ留学の話を聞いていなかったと思われる。
 鴎外は、自分のドイツ留学を漢文の師である学海に伝えたくて半年余ばかり探していたのである。    鴎外のドイツ留学にあたって、依田学海は励ましの文を書いている。『学海日録』の明治17年8月9日の条に、
 「森林太郎のために伯林(ベルリン)に遊学するの序を作る。林太頴敏にして沈毅、尋常の年少に同じからず、選択人を得たりというべきなり」
と記す。
 そして、その日のうちに序を書き上げ、翌日、序ができたので自宅まで取りに来てほしいとハガキを出した。
 「先日は両度御来訪
  被下候由恐入候拙文出
  来候間差上可申ト存候
  得共も急可申と存候御序
  之節一寸御来駕可被
  下候朝八時前或ハ午後在宅いたし候也 八月十日」
   (森鴎外記念会編『鴎外をめぐる百枚の葉書』より引用)

 このハガキは、現在、鴎外記念本郷図書館に所蔵されている。
 このことから数日前、鴎外が学海の家を訪れ、その席で学海がドイツ留学にあたっての励ましの文を書くことになったものと思われる。

 依田学海が書いた励ましの文は漢文であるが、川口久雄氏の『幕末明治海外体験詩集』に読み下し文が掲載されている。
 大意は、戦国時代の武将上杉輝虎(謙信)の兵法をたとえての励ましであり、修史局で日本史を編纂していた学海らしい言葉であった。鴎外も漢文を心得ており、その言葉を充分に汲み取れたことだろう。
 鴎外が、ドイツ留学のために東京を出発するのがこの年、明治17年8月23日。学海がハガキを出してから鴎外に届くまでを考えると、出発までわずかな日数しか残っていない。鴎外は出発準備をするあわただしさの中で、励ましの文を取りに行ったことだろう。
 学海と鴎外との交流は、鴎外がドイツから帰ったからも続いていた。しかし、これ以上書くと、「鴎外と佐倉」ではなく、「鴎外と学海」になってしまいそうだ。
 鴎外の佐倉を詠んだ漢詩から始まって、止めどなく話を進めてしまった。鴎外と佐倉の関係は、まだ調べたいことがある。後日、記したいと思う。(了)
 


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