佐倉本情報 2005年(3) 

(2005年8月12日〜12月31日)


12月22日
 駕篭舁さんから佐倉本情報。
『房総を学ぶ 房総地域文化研究プロジェクト記録集』(2005年3月 東京成徳大学人文学部日本伝統文化学科房総地域文化研究プロジェクト)
史料紹介「報じられた房総〔東京日日新聞明治5−7年〕」に、佐倉という文字がみられます。
 ・史料21 明治7年3月20日(639号)に同協社の記事。
 ・史料61 明治7年7月19日(747号)に佐倉風土記の文字。
 ・史料85 明治7年10月27日(836号) 貸座敷と仮称する妓楼、佐倉に3,4軒出来た。

『ーほととぎす 銚子は国のとっぱずれー 古帳庵 鈴木金兵衛をめぐって』(平成6年 越生町教育委員会)
鈴木金兵衛こと古帳庵は、佐倉市井野にある句碑を兼ねた道標を建てています。詳しくは駕篭舁さんのHP「旧成田街道を歩く」をご覧ください。本トップページにリンクしています。

12月15日
 佐倉本情報。
高比良直美「島尾敏雄『死の棘』と印旛沼 −遠望する沼と現前の沼−」同人雑誌『群系』第18号(平成17年12月 群系の会)
佐倉が描かれた小説『死の棘』に出てくる印旛沼。島尾敏雄が訪れた印旛沼は臼井か酒々井か?高比良さんは一つの結論を出している。
それが遠望する印旛沼と、現前の印旛沼という捉え方であった。詳しくは論考をご覧ください。

12月8日
 TONGさんから佐倉本情報のメールをいただく。

こんばんはTONGです。
「ラグビーマガジン」12月号(ベースボール・マガジン社)に、佐倉高校ラグビー部が「県内では流通経済大柏を追走する強豪」と、3ぺージ特集されています。
佐倉高は今年の県大会準決勝で、流経柏と対戦し涙を飲みました。

<返信>
情報ありがとうございました。
県大会準決勝で敗退とは残念でしたね。来年に期待しましょう。3ページも出ているのですから、購入しておきましょう。

12月7日
 虐ハンドルさんから佐倉本をいただく。
NTT東日本の冊子『Solution TODAY』(2005秋号 vol.29 東日本電信電話株式会社)
千葉の人間力というインタビューの中で小出義雄監督の話が4頁にわたって掲載されていました。

緑葉さんから佐倉本情報。
小和田哲男監修『日本の城ハンドブック新版』(2005年11月 三省堂)
佐倉城が出ていました。(82頁)

12月5日
 緑葉さんより佐倉本情報。
冊子『はらっぱ』(12月号 生活協同組合ちばコープ)
特集「福運を願って七福神めぐり」の中に、佐倉の七福神が紹介されていました。(11頁)

Wさんを介して佐倉本をいただく。
『日本の農業の先覚者 奈良専二翁伝』(平成9年 奈良専二翁顕彰会)
専二は、日本の農業の先覚者であり、明治18年に千葉県から農商務課員の辞令をもらい、県内の農事指導をすることになりました。県内各地を歩き、県内にあった農産物の普及に努めたのです。
本書に「彼は千葉県佐倉産のコンニャクが、食用の他、人造皮、ゴム製品の代用、耐火性を利用した防火材料、印刷資材等、多くの用途の他、外国へ輸出の見通しもある等、特異な作物であることに注目しており、それがこの研究の動機であった」(30頁)

峠の釜飯さんから佐倉本情報。
小倉光夫『房総キリスト教史』(2005年7月 2000円 恵泉書房)
「1878(明治11)にはプロテスタント教会は法典村のほか印西大森にもあり、講義所が佐倉ほか埴生・銚子・九十九里・布鎌・芝神・小見川・北須賀に伝道師が居住していた」(94頁)
「佐倉町でのキリスト教の布教は明治の初期からあり、日本基督一致教会の佐倉教会も明治末期には一時福音伝道館や聖書学院より応援があり、大正初期には東洋宣教会により佐倉ホーリネス教会説教所が設立されました」(117頁)
このほか津田仙の教育事業(234頁)、津田梅子の米国留学(235頁)についても掲載されています。

11月26日
 Mさんから、佐倉が出ているJALグループ機内誌『SKYWARD』(11月号)をいただく。先日、この雑誌は購入していたのですが、今回いただける雑誌は英語版とのこと。
ただし、佐倉のところは日本語ですがいかがですかといわれ、せっかくですからいただきます、という話でいただいたものです。言われてみれば英語版があってもおかしくないですね。

11月14日
 S2さんから佐倉本の初情報あり。お会いできず、メモでいただく。
島田雅彦『彼岸先生』に「私のヒーローは長嶋で」(201頁)とあります。

緑葉さんより佐倉本情報あり。
生活共同組合ちばコープ『はらっぱ』(2005年10月)
特集「おのおのがた!千葉のお城でござる」の中で、臼井城が取り上げられていました。(11頁)

11月13日
 JALグループ機内誌『SKYWARD』(11月号 520円)、新宿の紀伊国屋で購入。 気になる町・好きな町「成田市・佐倉市」で、武家屋敷、城址公園、歴史民俗博物館が紹介されていました。(93頁)

11月12日
 K2さんから佐倉本情報をいただく。K2さんからは情報を初めていただきました。
話の発端ですが、私がHさんに佐倉が出てくる小説を知っていますか?」と話していたところ、脇にいたK2さんが「先日、沖縄からJALで帰るときに機上で雑誌を見ましたら佐倉が出ていました。佐倉が出ていたのでうれしかったです」とのこと。
いやはや、誰にでも話してみると、思わぬ収穫もあるものですね。しかしK2さんとは、よく顔を合わせている人です。そのようなそばにいる人が、私が佐倉に関した本を集めていることを知っていなかったのです。
さてどうやってJALの本を手に入れようかと思いました。JALに友達はいないし・・・。 そこで、満開佐倉文庫の司書さんとは別に持っているKAMEDAネットワークを使って情報収集したところ、虐ハンドルさんからメールをいただきました。
JALの冊子は、「スカイワード 11月号」です。ホームページを見ましたら通販もできるそうです、とありました。
ありがとうございます。早速、申し込みます。

11月9日
 佐倉本情報。
小原敏彦編『長嶋茂雄に会いたい』(2005年7月 1300円 エコー出版)
本書は、長嶋茂雄著『燃えた、打った、走った!』(1974年 講談社)などを底本に、取材を加えたものであるそうです。

11月8日
 fukikohassyさんから佐倉本情報。
笙野頼子『金毘羅』(2004年10月 集英社)

「千葉の近所のお寺にJ寺というのがあります。藩主様のお墓のあるところではあるが、でももうそのJ寺と言ったら『ああ金毘羅さんね』、というわけです。
そこでやっている占いもJ寺のとはいちいち言わないのだ。『やー金毘羅さんの占いはよくあたるー』で、ガラクタ市をやったって『金毘羅でやってます』だ。但しここは佐倉の殿様が守護仏として象頭山から持ってきたと縁起にあり、それならば神系のオオモノヌシはどうされたのか、行ってみると完全に『仏様は神様です(引用は後述)』の世界に突入していました」(119頁)

「四十越えてから千葉に越して答えが判った。土浮のサルタヒコに参ったからです。土浮と書いてツチウキと読む、字も音も妙に納得する地名だ。家から少し離れた車で行くしかない干拓地の中。
そこの歴史は三百年位で、昔の干拓です。農業用地です。田んぼの中にいい感じの家がぽつぽつ建っていて、広々とした田は湖程に開け、畦に少しだけ木が植えてある。田んぼなのに印象派の絵みたいだと思うと、向こうには印旛沼の鉄橋と水が光っている。神社の周辺は家がなく行き止まり。宝暦年間と彫ってある石の御手洗、平成十一年寄贈、新品の石鳥居」(181頁)

(このほかにも土浮の地名が出てきます)

「金毘羅などと言う今まで縁のない単語が夢に出てきてしまう程、佐倉は習合的土地なのであった。朝からトラックで来る物売りが年中、複数『金毘羅ふねふね』をテープでがんがん流して行く。金毘羅好きのタクシードライバーにも遭遇するし。
縄文遺跡の宝庫で平将門の地、その後は義民佐倉宗吾を出したりしている。宗吾のモデルには諸説あるが、ともかく自分は処刑されても農民の請願を実現させた人物がいたという事です。佐倉市自体は堀田氏の城下なので宗吾様に対しては比較的冷めているようだが」(186頁)

「例えば、鳥居。同じ麻賀多神社から勧請したはずの同じ神の鳥居が、成田市の総社では明神鳥居です。しかし佐倉市では両部鳥居なのです。殆ど丹塗りですが中には風雪で剥がれて白木化してしまった両部もある。またそういうところにこそ子供がマジックで描いた狐やウサギの絵が供えてありよく拝んである。佐倉のその麻賀多は拝殿にもウサギの彫刻があった。しかし成田の総社麻賀多ではそこのお遣い女はアオバズクなのだ。−佐倉は風が強いから鳥居が倒れないように、両部的な足付きにして支えているのではないかと勝手な事を考えたのは」(209頁)

「そこには佐倉によくあるパターンの、小さい神社の境内に幾つもの摂社と末社をぎゅうぎゅう詰めにした体裁のものでした」(268頁)

このほかにも、佐倉が描かれた箇所がありますので一読をお勧めします。

10月30日
 Nさんから、初メールあり。
初めてメールします。今、読んでいる本に佐倉の文字を見つけました!もうすでに記録されてるかもしれませんが、お知らせしますね。
乙川優三郎 「武家用心集 」(集英社)
短編集で「向椿山」の中のP186、P198の2ヶ所に佐倉が記載されていました。
これからも見つけたら連絡したいと思っています。

<返信>
Nさんへ。初メール、ありがとうございました。
「武家用心集 」の件、申し訳ありませんが把握していました。みなさんからいただいた情報が多くて整理できていないため、よくわからなかったことと思います。
また、情報をお待ちしています。

10月29日
 飛鳥さんから、『カートピア10月号』(富士重工株式会社 平成17年10月1日発行)をいただきました。
本書に「(千葉スバル)佐倉営業所の宮内さんが・・・」(25頁)と、ありました。

駕篭舁さんから、子母沢寛の『花の雨』(1988年初刷 徳間文庫)をいただきました。
全編を通じて松本良順が描かれています。また「小林、ほら、榎本さんのうしろに若い男がいるだろう。下ぶくれのいい男のーあれだ。この軍一の俊才と言われる通弁官兼軍艦役の林董太郎というのは」(377頁)
「下総佐倉脱藩坂本完平」(346頁)、「下総佐倉脱藩坂本完平。命のいらねえ奴は来い」(451頁)とあります。

10月27日
 佐倉本情報。
『TICET CLASSIC』(2005年10月15日 クラシック・ジャパン)という雑誌に、佐倉市民音楽ホールで開催される「ウィーン・ニューイヤー・コンサート」が紹介されています。(251頁)
このような雑誌があるとは知りませんでした。いや〜、いろいろな雑誌がありますね。

10月26日
 駕篭舁さんからメールあり。 調べている途中で昔買って読んだ子母沢寛の文庫本があったことを思い出し、引っ張りだして見たところ、松本良順、林董らの名前を見つけました。
データベースに子母沢寛全集がありますので、既に登載済かもしれませんが、一応お知らせしておきます。
徳間文庫1988年初刷『花の雨』です。伴鉄太郎という旗本を主人公に戊辰戦争の最後まで描いたものですが、松本良順が全編を通じて登場してきます。
面白いのは、開陽丸に乗り込んだ刺青仲間に「下総佐倉脱藩坂本完平」なる人物が現れ、脇役ですが後半部分で一つのストーリーを作っていることです。
・・・坂本は怒鳴った。「下総佐倉脱藩坂本完平。命のいらねえ奴は来い」・・・・などのせりふがあります。
最後は切られて函館近くで死ぬのですが、勿論虚構の人物であって木村隆吉や小柴小次郎をモデルにしたのものではなさそうですが、佐倉藩の脱藩者を取り上げているのが愉快です。(以前読んだ時はまったく気がつきませんでした・・もう10数年も前です)

<返信>
知りませんでした。ありがとうございます。

10月25日
 T・Uさんから佐倉本情報あり。
及川修次『写真集 利根川紀行』(平成14年7月 国書刊行会)に、「佐倉連隊兵営跡の記念碑」「旧佐倉連隊営舎内の階段」「旧佐倉連隊営舎の一部」の写真が掲載されています。
私は建物内にある階段が写った写真は、初めて見ました。

同じく佐倉本情報。
末吉正子編著・藤原道子絵『5分で語る むかし話ワールドへようこそ』(2005年8月 一声社)
全国各地に散在する『養老の滝伝説』が、私の住む千葉県佐倉市にもあります。和田地区直弥の里に伝説のなごりを求めて、雨の中、見に行ったことがあります。
『子は清水』と称する旧家の門辺に、かつて清水が湧き出たそうですが、藪の中のわずかなくぼみに雨水が少々たまって、かの昔の面影をしのぶことができました。そしてその時いきなり、お話が私の中にやってきたのです。
瓢に水をくむひとりの少年・・・。けなげでひたむきなうしろ姿を思い浮かべ、このお話を再話しました」(25頁)

10月23日
 飛鳥さんからメールあり。
先日ぶつけられた車を、ディラーに持ち込んだところユーザーに配られる、『カートピア10月号』(富士重工株式会社 平成17年10月1日発行)に
「(千葉スバル)佐倉営業所の宮内さんが・・・」(25頁)と、ありました。
以前、レガシイと印旛沼特集がこの満開佐倉文庫の中で紹介された雑誌です。(平成14年1月参照)スバル車を愛するユーザーのための月刊誌です。
館主さんの目の前でぶつけられた車の修理のために車を預けに行き、そこで、手に取った雑誌に『佐倉』があったなんて、なんだか笑えます〜

10月16日
 Sさんから佐倉本情報。
小澤靖夫『昔話・絵本の再発見』(2005年5月 3800円 古今社)に、文とは関係がありませんが印旛沼の挿絵が1カット(43頁)あります。

Yさんから佐倉情報。
成田山霊光館館報『なりた NO94』(平成17年9月)に、矢嶋毅之「佐倉藩主の成田山参詣について」という小文があります。成田山は佐倉藩主の信仰が厚く、中でも堀田正順(まさあり)の参詣について取り上げています。正順は、毎年秋に行なっていたとあります。

佐倉本情報。
中村克巳『霧積』(平成17年10月) 佐倉についてのエッセイや短歌、千葉日報のシルバー通信員としての話、自分史の話などを丹精にまとめています。

10月11日
 佐倉本情報。
イデア・ビレッジ『千葉 上等なランチ』(2005年8月 1500円 メイツ出版)
県内のおいしいレストランを紹介した本で、佐倉市では中国料理店の「マンダリンキャップ」(ユーカリが丘)と、料理とワインの庄「茜」(王子台)、フランス料理「エスペランス」(南ユーカリが丘)が紹介されていました。

10月3日
 先日、成田山霊光館で開催されている「成田山ゆかりの絵師」展を観てきました。佐倉藩にゆかりのある河嶋雪航と黒沼槐山の絵が観られます。
雪航は、天保11年(1840)10月7日、佐倉藩に掃除坊主席絵師として新規に召抱えられたとありました。黒沼槐山は天保8年(1839)12月、佐倉藩に公用方定附坊主として召抱えられています。雪航は明治9年(1876)没。槐山は明治24年(1891)没。
図録『成田山ゆかりの絵師』(平成17年9月 成田山霊光館)に詳しく記されています。

9月22日
 N・Tさんから佐倉本情報あり。

陳生保『森鴎外の漢詩 上』(平成5年6月 明治書院)
明治15年11月12日、森鴎外は印旛沼を渡し舟で瀬戸から萩山に渡り、人力車で佐倉新町にやってきます。
このとき鴎外は漢詩(七言絶句)を2首つくりました。その詩は、現在、湖畔荘跡に建てられています。この詩の解説が本書にあります。
1首は、荒れた畑の中に、茶花(山茶花か)のはげしい香りを感ずるというもの。もう1首は、湿気のある車の中で、鴎外が父を想うもの。
鴎外の父森静男は佐倉の順天堂で西洋医学を学んでおり、そのときの苦労を思い出している。また、鴎外に漢文を教えた人が佐倉藩士依田学海であり、その鴎外が佐倉に寄せる漢詩となれば一層の感慨がわきます。

9月19日
 佐倉本情報。
成田山だより『智光』9月号(平成17年9月)
湯浅吉美氏の「成田街道いま昔」、本号は「本佐倉城周辺の寺院」で、勝胤寺が紹介されていました。

8月24日
 Sさんから佐倉本情報をいただきました。
『文藝春秋』の9月号に、阿川弘之氏が「葭の髄から・百一  江戸城大奥」を連載しています。9月号は堀田正睦について書かれていました。情報をありがとうございました。

8月9日
 S・Yさんから佐倉本情報をいただく。

藤倉菊太郎『藤倉菊太郎 版画文集 鉄道懐顧』(2004年1月 光村印刷)
佐倉機関区の版画が一枚掲載されており、「昭和40年代の始め、このあたりで蒸気が一番元気だったのは、新小岩、佐倉を基地とする総武、房総だったと思います」とありました。

8月8日
 飛鳥さんから佐倉情報のメールあり。

毎日暑いですね。

週刊誌の中に、こんな一文がありました。
「麹町学園女子中学校・高等学校の創立者の大築佛郎は、同じ千葉佐倉藩の津田梅子らと女子教育の振興について喧々諤々と論じあったというエピソードが伝わっています」 (『ヨミウリウイークリー 2005 7.31号』 読売新聞東京本社発行65頁)

明治38年に麹町女学校を創立した、大築佛郎ってご存知ですか? 佐倉藩士・大築尚志の四男、ということはわかったのですが生まれた年など、詳しいことがわかりません。館主さん、ご存知でしたら、教えてください。

<返信>

情報ありがとうございました。

大築佛郎は、尚志の四男として明治12年に生まれました。 兄の英吉と双子です。生まれた年にイギリスとフランスの軍艦が来航したので、英吉と仏郎と名付けられたといわれています。 明治32年、東京帝国大学に入学し、地質学を学びました。
父、尚志と津田仙は、いずれも手塚律蔵の門下で、二人で酒を飲みながら女子教育の重要性を論じ合っていたといわれます。 ですから、息子、娘も論じ合ってもおかしくない関係であったと思います。
でも、佐倉にとっては、おもしろい話ですね。



   トップページ