佐倉本情報 2005年(1) 

(2005年1月1日〜4月30日)


4月30日
 七つの子さんからメールあり。

久しぶりに歴博へ行って来ました。
売店で館主さんご紹介の「佐倉の軍隊」を購入し、他に何かないか…と 物色していましたら、旅行読売mook 「全国坂のある町を歩く」 (1998年 旅行読売出版)という雑誌が数冊置いてありました。
ご存知かと思いますが、この雑誌の佐倉の紹介のページに玉家の脇の坂 についての記述がありました。
新町の人々の間では、「通称、玉家の坂」なのだそうです。

<返信>
そうですか、「通称 玉家の坂」ですか。
坂には正式な名称がなかったのですから通称なんですね。でも、呼びやすけれ ば、また地域の人に受け入れられれば、その名前が残っていくのでしょうね。
後には、出典『旅行読売』なんてなるのかも知れませんよ。

4月29日
 佐倉本情報。
司馬良太郎『司馬遼太郎全講演〔4〕』(2004年1月 朝日新聞社)
1991年に東京女子医科大学で行われた講演「ポンペ先生と弟子たち」の中で、 松本良順について、いろいろ記しています。
「ポンペ先生に教わった人の筆頭は松本良順です」(332頁)
「ポンペ先生は遺言どおりにしました。標本にして、その頭蓋骨を授業でずっと使って いました。日本を去るにあたって、故人の遺志を尊重して、松本良順に与えました。
もっとも良順はその頭骨を大事に持っていればいいのに、花街でお酒を飲んでご機嫌 になると、ヌッと頭骨を出して芸者をびっくりさせていました」(333頁)
「さて良順は江戸に帰って、官位の西洋医学所の頭取になります」(333頁)
と、松本良順の話が続きます。
司馬良太郎が講演の中で、佐倉(順天堂)が出てくる話をしたのは、不確かですが このほかにも高知市であったと思います。『週刊朝日』に掲載されたときに読みました。
もしかすると、この全講演集の中に収められているかもしれません。
でも、まだ全講演集を読破どころか、ざっと見すらしていません。最近は、努力が足り ないですね。

4月26日
 佐倉本情報
佐倉野草会『野草をたずねて』NO23(2005年3月)を寄贈いただきました。
坂戸方面のスギ植林 雑木林下草について  松平喜美代
タンポポ「道端植物園」から    辻さつき
岩富カタクリの観察会    佐藤幸子   他

4月25日
 飛鳥さんから佐倉本情報あり。
前回、小説の中に書かれた「依田学海」を紹介しましたが、また、 依田学海と遭遇しました。
伊東成郎著『土方歳三の日記』(2000年7月 新人物往来社) この本は、多くの史料を引用して、土方歳三のことを書いています。
「大正十年三月に地元新聞に連載されたものを、一冊にまとめたもので・・・
土方歳三の文中には、(譚海)との参考資料名が付記されている。この 前半部の文章の多くは、佐倉藩士だった依田学海が著述した『譚海』に収録 された土方のエピソードを参考にし、書き記したものだった」(98・99頁)

郷土の活躍した人物を新聞に連載し、まとめた本は『八王子を中心とせる郷土 偉人伝』(大正10年11月 文華堂)著者は清水庫之祐(くらのすけ)です。
注目したのは、古い時期に「譚海」が使われたことです。
「譚海」を紹介したのは子母澤寛の「新選組始末記」と、以前、館主さんに教えて いただきました。(日記・平成17年1月8日参考)昭和三年に出た「始末記」よりも 古いのです!
インターネットでこの「八王子・・偉人伝」を検索したところ古本屋で買った(しかも 1200円で!)人がいて、ますます、どのように『譚海』が引用されているのか、知りたく なりました。八王子の中央図書館で閲覧できる、とのことです。(電話しました!)

館主さん、この本お持ちではないですか?

<返信>
伊東成郎著「土方歳三の日記」は知りませんでした。しかも大正10年に『譚海』が使われて いたのも初耳です。
私が、『譚海』を世に紹介したのは子母澤寛の「新選組始末記」と言いましたが、それは誰かの 文章を読んで書いたのですが、誰であったか忘れてしまいました。きっと、それは広く知られるよう になった、という意味合いであったのかも知れません。清水庫之祐とは、どのような人か知りませんし、 本の内容もわかりません。もしかすると、小説というより八王子の郷土史的な本であったのかも知れ ませんね。私はこの本を持っていませんので探したいですね。それから、またコメントします。
それにしても、すごい情報をありがとうございました。

4月22日
 佐倉本情報。
T・Rさんから、国立歴史民俗博物館友の会 「軍隊と地域」学習会の記録 『佐倉の軍隊』(2005年3月 500円 オクノプリント社)をいただく。
「佐倉連隊と住民」「兵営跡を歩く」「生還者と遺族の証言」などの項目があります。
購入は、歴史民俗博物館でどうぞ。

小出義雄・中谷彰宏『本当の生きる力をつける本』(2002年7月 幻冬舎)を 見つけました。

殿山泰司『三文役者の無責任放言録』(2000年9月 ちくま文庫)購入。
印旛沼で新藤兼人監督の映画「鬼婆」をロケしたときの話があります(146頁)

新藤兼人『三文役者の死 正伝殿山泰司』(1991年5月 岩波書店)購入。
印旛沼で映画「鬼婆」をロケしたときの話があります(154頁)

4月21日
 Kさんからメールあり。

ホームページ、拝見しました。早速「鬼婆」をご覧になったということで驚きました。
今日、Yさんから、かつて読んだ本というのを見せていただきました。
新藤兼人『正伝殿山泰司 三文役者の死』(1991年 岩波同時代ライブラリー62)

・まず、新藤監督のロケ地選定について
「一面の芒ケ原を探すのに苦労した。芝居の安達ケ原の舞台だといわれている福島県 の安達ケ原へ行って見たが、一面の芒ケ原は見あたらない。富士山の周囲を回って見たが、 山があり、松があり、一面の芒ケ原にはならない。ついに千葉県印旛沼の畔りにたどりついた。
沼の北端である。芒と葦が混って一面に波打っていた。」(154頁)

・次は、殿山泰司さんの文章を引用しています。これでその本が 、ちくま文庫から出ているのが 分かりました。
タイちゃんの文章(『三文役者の無責任放言録』)を少し借りて、このころの状況を見てみよう。(156頁)

「遠くに印旛沼が見えて見渡す限りすすきの原っぱである。ニッポンにこんな広いところがあったのか。
ここは水資源ナントカの所有だそうであるが、何んのために埋め立てるのかオレにはサッパリ判らない。」
(159頁)

「沼の畔りの葦の原は一見青々と爽やかであったが、水と葦の接点は泥沼で、さまざまな障害があった。
南から吹けば北の水面は一メートルもあがった。無数のエビガニが棲んでいて、これが堤防や畦に穴を開け、 水位があがるとたちまち沼の水が流れこみ、プレハブは水びたしとなった。」(160頁)

昨日拝見した、館主の文章と同じような内容でした。私はまだ映画も見ておらず、この本も『鬼婆』の章 しか読みませんでしたが、監督の創作意図なども分かり、また映画作りの苦労がしのばれて、いい文章に 出会ったと思いました。

〈返信〉
ありがとうございます。私も本を手に入れたいので、アマゾンで探すことにします。

新藤監督の文章を見て気づいたことがあります。新藤監督は、舞台のイメージをススキの原っぱと 考えていました。幸い、印旛沼周辺にススキがあったのですが、撮影現場に生えている植物は ススキというより葦の方が多かったのではないかと思います。
女がススキの原を駆けだしている場面が何度もありますが、着物一枚の女がススキの原をかき分けながら 走り通したら、体が傷だらけになってしまうでしょう。あの場面は、葦の中を走っていると思いました。
それにシルエットですが葉先がススキではなく葦と思いました。
  また、深い湿地に人が落ちたら上がれない深い穴がありました。私は、思わず伝説の「佐久地穴」かと思い ました。印旛沼には、昔、大きな穴がいくつかあり、水を噴き上げていたというのです。その名残の穴かと 思いましたが、そこまで深読みの必要なありませんでした。単なる古井戸という設定でした。

4月20日
 千葉県女性校長教頭指導主事等の会『さざなみ』(平成16年 第25号) を送っていただきました。表紙は、朝陽の中に舞うシラサギで、私の写真を使って います。これも印旛沼本です。
昨年から、私の写真を表紙に使う雑誌が出てきましたので、私の写真を表紙に 使った本という項目も考えていきたいと思います。

4月6日
 Kさんより佐倉本情報あり。 岩波新書『大地動乱の時代』(石橋克彦・1994年)、 この本は出た時、すぐ買って読んだのですが、関東地方に大地震が周期的 にやって来るということを検証したもので、とてもショックを受けました。安政 の大地震(1855年10月2日・旧暦)ではいくつか前兆が報告され、この頃地震が 頻発していたので、ある人は「今夜必ず大地震が来る」と思い、外に筵を引いて 寝た、といった記事があったのを思い出しました。それを読み返そうと思ったら、 少し後に堀田正睦の記事がありました。

「老中首座の阿部正弘は、対外交渉と将軍継嗣という二つの重大な問題で、 井伊直弼らの保守的な名門譜代大名たちと融和するために、佐倉藩主堀田正睦に 職を譲ろうとしていた。ところが、小川町の佐倉藩邸(地下鉄神保町駅の北側一 帯)が全壊して正睦は下敷きになり、ようやく人足に助け出された。彼は足に怪 我をしたまま急ぎ登城したが、留守中に藩邸は全焼し、四十一人が死亡した。正 睦は、危ういところで、十月九日(旧暦)に老中首座に任じられた。」(49頁) この地震の直後、二度目の老中に抜擢されたのだということを知りました。
また、お便りいたします。

4月3日
 N・Tさんから佐倉本情報あり。
三浦正幸『城のつくり方図典』(2005年3月 小学館) 佐倉城の紹介ではなく、城のつくり方を紹介しており、 たとえば「馬出」を説明する中で、佐倉城の馬出を例にとる(27頁)。
また「土塁の樹木」を説明する中で、平山城の土塁として佐倉城 の土塁を例にとっている(185頁)。
なるほど、このようにして城はつくられているのかと学ぶことが多い 本でした。

3月31日
 N・Tさんから佐倉本情報あり。
『ビジュアル・ワイド 日本の城』(2005年3月 小学館) 佐倉城と本佐倉城が紹介されています。

村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(2005年2月 公孫樹舎) 全国の将門伝説を紹介する中で、佐倉市にある伝説も紹介して います。また、取り上げた伝説についての出典が掲載されていま すので便利です。

3月27日
 飛鳥さんから佐倉本情報のメールあり。

ジャンルの変更の件、ありがとうございます。
と、言いながら、「風光る」の新刊が出たことを報告します! 渡辺多恵子の漫画『風光る 17巻』(2005年2月20日発行) 松本良順が16・17ページに出てきます。

新選組関係をもう一つ・・・
岳真也『土方歳三 修羅となりて北へ』(2002年4月 学習研究社) 佐倉藩士依田学海が江戸城内で、近藤勇と土方歳三に出会うシーン があります。
「大広間からべつの間へと向かう廊下のあたりで、近藤と歳三は顔見 知りの依田学海と出くわした。佐倉藩の江戸留守居役である。
依田はわきの板敷きにふたりをまねいて、腰をおろすようにうながし、 近藤に向かって訊ねかけた。」(47頁)

そして、新選組には欠かせない松本良順も登場します。土方歳三が、 宇都宮城を奪った後、数日後に再び、官軍に奪われた時の戦闘時に 土方歳三は左足を負傷します。
その後、傷の療養のため、会津の東山温泉で逗留。そこで松本良順と 再会し、沖田総司・原田左之助の最後を松本良順から聞きます。
(215頁〜219頁)
史実は、東山温泉で土方は松本良順と会ったのか?と疑問を持ち、 少し調べてみましたが、はっきりとは、よく、わからないようです。
東山温泉での逗留した場所とされているところもあるようですが・・・
足の傷も、右なのか左なのかも・・・

たまたま、宇都宮へ行って、通りかかった宇都宮城跡。土方歳三が 攻めたと思うには、何も残っていない城跡でしたが小説の中の依田 学海と、会うことができました。

話題変わって・・・
メールで時々話題となる、「児玉源太郎」って有名人なのですね。
もう、びっくりするくらい!個人的には興味のない時代なのですが、 少し興味を持ちました。

<返信>は後日、掲載します。少し調べてありますので、ゆっくり 書こうと思います。

3月20日
 T・Sさんから佐倉情報をいただきました。
京成電鉄『京成らいん』2・3月合併号(2005年2月) 「プラットホームで会いましょう」に、人気タレントのパペットマペットさんが 紹介されています。

さっそく読むことにしました。
パペットマペットさんは、「うし」と「カエル」の人形を使って、話を進めるのです が、その中でカエルさんの出身は「僕は印旛沼周辺です」(5頁)とありました。
また「そうそう、夏の佐倉・国際印旛沼花火大会も、すっごくきれいで思い出に 残っています」とありました。これはパペットマペットさんの出身をさすもので、 すなわちパペットマペットさんは佐倉出身であるということが、この文章でわかり ます。
以前からパペットマペットさんは佐倉出身と薄々わかっていましたが、佐倉 出身と記した本や雑誌がありませんので、紹介はしてきませんでした。
いや、まだ正確にはパペットマペットさんのカエルの出身が佐倉ということに なるのでしょう。人形遣いは黒子でしょうから、カエルさんの出身が佐倉という ことにしておきましょう。

3月14日
 Kさんから佐倉本情報のメールあり。

『ドクター・ケビンの里山ニッポン発見記』 (ケビン・ショート/家の光協会・2003年) こちらに「印旛沼」が3回、出てきます。

「ぼくはかれこれ十四年以上も、北総のカントリー・サイドを くまなく歩いてきた。高台の畑にナシ園、クリ林、手賀沼や 印旛沼を囲む谷津田。」(4頁)

「里山を歩くとき、ぼくは好んで水の流れをたどってみる。印旛沼 や手賀沼から川上の溜め池まで歩いたり、…」(105頁) ここで初めてオニヤンマを捕まえたケビンさんの感動が描かれています。
「たまには手賀沼や印旛沼へと足をのばすこともあるが、…」(163頁) この本では、文化人類学者としてのケビン・ショート氏の姿が後半に あらわれ、ナチュラリストとは別の側面がうかがわれました。

司馬遼太郎『殉死』(文春文庫・1978年) 「これよりすこしあと、熊本鎮台で同僚だった児玉源太郎もよびかえされ、 下総(千葉県)佐倉の歩兵第二連隊長に補せられた。(中略)習志野で 両連隊の対抗演習がおこなわれた。
演習がはじまるや、児玉は乃木の第一連隊の展開の様子からみて両翼 攻撃の意図をもっていると判断し、そう見抜くや連隊の軽快に運動させて 隊形を縦隊に変え、縦隊のまま、いままさに両手をひろげたように展開を 完了した乃木連隊の中央を突破して分断し、包囲し、大いに破った。」(24頁)

この記述は、『坂の上の雲』では、 「児玉はまだ数えて二十九歳のとき千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第二連隊長 であった。この時期、乃木も東京鎮台に属し、歩兵第一連隊長をつとめていた。
この二つの連隊が紅白にわかれて対抗演習をしたことがあったが、そのとき 児玉はかるがると乃木を破った。乃木は負けたが、しかも自分が負けたこと さえ知らず、演習場でぼう然と馬を立てていた。」(第4巻 117頁) と書かれていて、あまり具体性がなかったのですが、一度書いたことは、司馬 さんはくどくど書かないのだということが分かりました。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文藝春秋・1976の6冊本ハード・カバー)こちらは2巻 まで読みました。
「山県は(中略)十四個の師管を設置した。東京、佐倉、…」(第2巻 109頁) 「そのうちの津田梅子にいたっては数えでわずか九歳で、…」「もし黒田がいな ければ津田梅子は渡米することがなく、また後年の津田英学塾もなかったで あろうということになる。」(201頁) とあり、黒田清隆と津田梅子の話が詳しく載っていました。

また、佐倉本が見つかりましたらご報告申し上げます。印西の本の発見にも 努めたいと思っております。漆坂の話は面白かったです。このようなことが話題に なるというのが、貴ホームページのよさだと思いました。いろいろ、お教えいただき、 ありがとうございました。

〈返信〉
こんばんは。いつもKさんの読書エネルギーには恐れ入ります。

司馬さんは「一度書いたことは、くどくど書かないのだということが分かりました」 とありましたが、すごい発見ですね。同じできごとの文章を比較するのもおもしろい ですね。このような読み方もあったのかと教えられました。

今度、仕事の関係で印西に転勤になるとのことですが、インターネットには距離が ありません。これまで同様に佐倉本情報を送っていただきたいと思います。
それから、印西にいきましたら、これまでKさんがお話をしていた印西本の発掘が さらに充実されることと思いますので楽しみにしています。
また満開佐倉文庫の司書さんも、印西本に注意をしていくものと思います。
どうぞ、健康に留意されてご活躍ください。

2月24日
 なっちゃんから佐倉本情報のメールあり。

おはようございます。
お久しぶりです。お元気ですか。
満開佐倉文庫だより、楽しく読ませていただいています。

さて、佐倉本についてですが 佐倉について記述されているエッセイがありましたのでお知らせ します。
「京町家の四季」杉本節子著(展望社)104頁です。
もし、もう紹介されていたらすみません。

杉本家は、寛保3年(1743)、呉服商「奈良屋」として京都に 創業したそうです。いわゆる他国店商で、佐原と佐倉に店舗を 構えたと記述してあります。千葉市にあった「奈良屋デパート」も そうみたいです。
京都と佐倉の不思議な関係を感じました。佐倉のどこかにその跡 はあるのでしょうか。ご存知だったら教えてください。

<返信>
こんばんは。
  「京町家の四季」杉本節子著(展望社)は、知りませんでした。
私が探していた「奈良屋」の情報です。もう、最高です!

奈良屋は、なっちゃんが記したとおり、佐原と佐倉にありました。佐倉に あった奈良屋は美術館の回転駐車場あたりでした。江戸時代から明治 時代まであったそうですが、明治42年頃、千葉に移転しました。
旧セントラルプラザです。

以前、奈良屋が閉店するときか、あるいは旧セントラルプラザであったか定かでは ありませんが、写真展があり、佐倉にあった奈良屋の写真が展示されていました。
昨年、古写真を探しているときに、そのことを思い出して写真を借りようと思った のですが、セントラルプラザが閉鎖されており、どこに頼ったらよいかわかりません でした。文章からみて、杉本さんにお聞きできるのではないかと思いました。
ありがとうございます。

2月21日
 佐倉本情報。
土屋金司『土屋金司 木版画』(2004年8月) 房総の風景や民俗を素朴に描く版画家の作品。
本書に「佐倉の祭」を題材にした作品があり、麻賀多神社の御神輿を 担ぐ若者と、紋付袴姿の世話役が描かれています。この世話役のモデル が私です。
別に頼んだわけではなく、たまたま私が世話役であった年に土屋氏が 佐倉の祭の版画を刻んだだけなんだそうです。

2月20日
 昨日の「こんにゃく」の続き。
安政5年(1858)に記された『利根川図志』に、佐倉の土産として 「こんにゃく」があげられています。

Wさんより、こんにゃく情報。
現在、「佐倉蒟蒻」という製品が、大分市の(有)とうふ屋で売られて います。インターネットで検索できます。

<返信>
「佐倉蒟蒻」が「とうふ屋」という店で売られているんですね。最初、 理解不足をおこしてしまいました。
ありがとうございます。

2月19日
 本日は、こんにゃくの話です。
そう、あの食べる「こんにゃく」です。江戸時代には、佐倉の 名物として、「こんにゃく」がありました。
文化11年(1814)に十方庵敬順(じゅっぽうあん けいじゅん) が記した紀行文『遊歴雑記初編(ゆうれきざっきしょへん)』 (平凡社東洋文庫 499)に、佐倉を訪れた話があり、その中で 佐倉の名産に「こんにゃく」があると記しています。ほかに「やたら漬」 と「佐倉炭」があったそうです。
さて、この「こんにゃく」を近年紹介した本がYさんの情報で知った 川上行蔵『つれづれ日本食物史』(1992 東京美術)でした。
本書に参考文献があり、いくつかの本に「佐倉こんにゃく」のことが 掲載されています。いずれ、これらの本を探してみたいと思っています。
ところで、当時の「こんにゃく」はどのような味だったのでしょうか?

いろいろと探していたら、奈良専二翁顕彰会『奈良専二翁』という 本に出会いました。
専二は、日本の農業の先覚者であり、明治18年に千葉県から農 商務課員の辞令をもらい、県内の農事指導をすることになりました。
県内各地を歩き、県内にあった農産物の普及に努めたのです。
本書に「彼は千葉県佐倉産のコンニャクが、食用の他、人造皮、 ゴム製品の代用、耐火性を利用した防火材料、印刷資材等、 多くの用途の他、外国へ輸出の見通しもある等、特異な作物である ことに注目しており、それがこの研究の動機であった」とありました。
エ〜、こんにゃくが人造皮になったり、ゴム製品の代用になるんですか? ま、驚くのはこれくらいにして、明治18年までは、まだ佐倉のこんにゃく が命脈を保っていたといえるのではないでしょうか。

とすれば、佐倉こんにゃくの生産は、いつ途絶えてしまったのでしょうか? また佐倉のどこで生産されていたのでしょうか。私は和田地区では なかったかと思うのですが、どなたか教えてください。

2月18日
 Yさんより、佐倉本情報のメールあり。

川上行蔵『つれづれ日本食物史』(1992年3月 東京美術) 「佐倉こんにゃくと八幡こんにゃく」という項目(100頁)がありました。
江戸時代、佐倉こんにゃくは佐倉の名物でした。佐倉こんにゃく についての情報をお持ちの方は連絡してください。

N・Tさん、S・Yさんから佐倉本情報をいただく。

高橋在久『房総遺産』(2004年11月 2,000円 岩田書院) 「佐倉の学統」「佐倉順天堂」「浅井忠の誕生地」の話があります。

2月16日
 Kさんからメールあり。

今日は佐倉本情報ではなく、空振りの話です。海音寺潮五郎氏の 『平将門』を古本屋で探していて見つからず、代わりに吉川英治 歴史時代文庫46『平の将門』(講談社)という本を見つけました。
大岡昇平氏の『将門記』では、冒頭近くに佐倉情報が出ていたのに 味をしめて、将門の本なら必ず一回は出てくるだろうと思っていたので した。(吉川英治氏の母上は佐倉のご出身とのことで、歌碑がありま すね。)
たった今、497ページを読了し、ついに出てきませんでした。という訳で、 がっかりしました。つまり空振りでした。とはいえ、冒頭部、筑波山の歌垣 の話があり、昨日、そんなことも調べようと万葉歌碑の写真を撮る目的も あり、家族と筑波山に出かけました。
平将門という人物をとらえるのは難しいのだ、ということをこの本を読んで 実感しました。

<返信>
ごくろうさまでした。せっかく読了したのに大佐倉のことが出てこず、がっかり した気持ちを察します。また、そうまでして佐倉本を探してくれるKさんに 感謝いたします。
やはり史実に従って記せば、大佐倉は出てこないのでしょうね。

佐倉本の空振りですか。おもしろい話ですね。これまで佐倉本を見つけたと いう情報ばかりいただいてきましたが、空振りという話は初めてです。
もっとも、現在、出版された本に佐倉が描かれている割合はわずかですので、 ほとんど空振りではないかと思います。それをかいくぐって、佐倉本を発見する 喜びも感じているのではないかと思います。
これからも、情報をお待ちしています。

2月16日
 2月5日〜3月21日まで、東京ステーションギャラリーで「無言館 遺された 絵画展」が開催されています。
無言館は長野県にあり、、戦時中、絵を描くことの好きな若者が絵筆を捨てて 戦場に向かうにあたって遺した絵や、戦地で描いた絵葉書などを展示しています。
この図録「無言館 遺された 絵画展」(窪島誠一郎監修 2005年2月 1,800円 NHKきんきメディアプラン)には、佐倉に住んでいた蜂谷清の絵と 経歴が記されています。

2月13日
 Kさんから佐倉本情報のメールあり。

平将門について読んでみようと思い、最初に大岡昇平氏『将門記』 (中公文庫)を読みました。
P5「鎮めなければ祟りをなす怨霊として畏怖されたのだが、江戸 時代、領主の収奪に苦しむ農民によって、世直し神として崇拝され た形跡もある。下総の佐倉惣五郎は、幕末の農民の英雄であるが、 佐倉にもあった将門明神社の境内で、謀議を行なったことになって いるなどが、その例である。」とありました。

  T・Eさんから佐倉本情報あり。

成田山だより『智光』(平成17年1月号)に湯浅吉美「成田街道 いま昔」があり、今号は「佐倉城址 1」でした。
2月号には「佐倉城址 2」が掲載されています。

2月7日
 Kさんから、佐倉本情報のメールあり。

司馬遼太郎氏『坂の上の雲』、読了しました。やはり、『竜馬が行く』と並んで 氏の双璧と言われるだけのことがあると思いました。この本は佐倉情報の宝庫 でもありました。
文芸春秋の単行本6冊本を使いましたが、
松本良順、浅井忠、林洞海、林董 の名が見え、 さらに日露戦争における 佐倉連隊 の名がありました。
以下、ご報告申し上げます。

松本良順の記述
第1巻
P169 塾というが、門人は一人である。その一人の門人も、幕府の任命によるもので奥医師の松本良順(のち順)であった。

浅井忠の記述
第2巻
P92 ことしの一月には、画家の浅井忠が渡欧することになって、その送別会がこの子規庵でひらかれた。
P96 「浅井忠を知っているだろう。」 と、子規は言った。真之もその名前だけは 知っていた。中村不折とともに画技をもって「日本」の同人になっている人物で、 日本画も洋画もできる。いまは東京美術学校教授としてパリに留学していた。
その浅井が、

林董の記述
第2巻
P195 ところで、エッカルトシュタインは、日本の駐英公使の林董をも訪問して同様のことをささやいたのである。
P198 林董というのは、長州閥の青木周蔵とはちがい、旧幕臣系である。 幕臣林洞海の養子で、旧幕時代の少年期、横浜で英語を学んだ。 以下、『外交』という章の中でP218まで林董の話が続きます。
第5巻
P38 と、この当時、駐英公使をつとめていた林董がいったが、このとおりであったであろう。 P70 この一件は明石はさすがに手にあまるとおもい駐英公使林董に相談して一任した

佐倉連隊の記述
第4巻
P117 児玉はまだ数えて二十九歳のとき千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第二連隊長であった。この時期、乃木も東京鎮台に属し、歩兵第一連隊長をつとめていた。この 二つの連隊が紅白にわかれて対抗演習をしたことがあったが、そのとき児玉はかるがると乃木を破った。乃木は負けたが、しかも自分が負けたことさえ知らず、 演習場でぼう然と馬を立てていた。
第5巻
P235 歩兵たちの出身地は、東京府、山梨県、千葉県(これは、第6巻を読むと佐倉であることが分かります)。
第6巻
P9 さらには、この後備歩兵第二旅団(東京・佐倉)も、名目は現役部隊とはいえ、内実は応召兵が多く、 戦争最初の日本歩兵の戦力ににくらべてはなはだしく劣っていたといっていい。

また、佐倉とは関係がありませんが、第6巻では、岡田武松氏の話がありました(P171)。
「本日、天気晴朗なれども波嵩し。」の元を書いた人です。
この人は我孫子市布佐の人ですが、『満開佐倉文庫』の定義で いえば、この本も「我孫子本」に入ります。
また、登場人物の秋山好古氏も習志野に勤務することが多く、第1巻P72, 第2巻P272,第3巻P70,第6巻P334に習志野の地名が見えました。
もし、「習志野本」を集めるとすれば、この本もそれに当たります。
いろいろな可能性があるなと思いました。

<返信>
こんばんは。
まずは、長編読破、ごくろうさまでした。私も以前に読んだことがありましたが、『電子図書館 満開佐倉文庫』を編集にするにあたって、もう一度読む作業を怠ってしまいました。ですから、 ほとんど記憶から拾い読みした程度でした。漏れ落ちていた文章を拾っていただきまして ありがとうございます。
やはり、一度読んだ本の中から、文字を探すのはたいへんな作業と思いました。
それから、来年度のNHK大河ドラマは『坂の上の雲』ではなかったでしたっけ? それも楽しみにしていましょう。

ところで、Kさんからいつも佐倉本情報をいただきまして、司書の延長年が書ききれなくなって しまいました。何か良い方法を考えます。

2月6日
 飛鳥さんから佐倉本情報。

今晩は、ご無沙汰しています。
児玉幸多監修「江戸大名下屋敷を考える」 (品川区立品川歴史館編 2004年8月20日発行) 品川区立品川歴史館の企画展示「しながわの大名下屋敷」を開催した 時のディスカッションの記録です。
品川区内には大名の下屋敷が27ヶ所あった内の仙台藩伊達家品川 下屋敷だった、仙台坂遺跡の事例報告で「江戸だと思って掘っていたら、 煉瓦がいっぱいでてきて・・どうやら味噌工場の跡みたいなんです。
出土した煉瓦は明治期の味噌工場のもので、この煉瓦は非常に貴重で、 とくに火を使う所に使う『白煉瓦』は、皆さんも品川ガラスでよくご存知の 西村勝三さんが造ったもので、その会社の製品だったのです。」

発掘現場で西村勝三さんに会えるとは思いませんでした。調査が終わった後、 「白煉瓦」は、今も続く会社に寄贈されたようです。発掘の本にしては、読み やすく、面白い本でした。

<返信>
佐倉本情報をありがとうございました。
飛鳥さんの司書認定期間を1年延長します。

2月1日
 佐倉本情報。
佐倉ゆかりの画家、「倉田白洋展」が佐倉市立美術館で開催され ており、その展示目録が頒布されています。
(2005年1月)

『印旛沼とともに −20年のあゆみー 』(設立20周年記念 平成16年11月 財団法人印旛沼環境基金) 印旛沼環境基金で発行した刊行物一覧があり便利です。

1月30日
 N・Tさんから佐倉本情報。
川口素生『江戸諸藩 中興の祖』(2005年1月 1,500円河出書房新社) 佐倉藩主堀田正睦が記されていました(232頁)。
N・Tさんの司書資格を一年延長します。

1月23日
 八谷衣人さんからメールあり。

おひさしぶりです。というより、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年最初の佐倉本情報です。炭活用研究会編著、立本 英機監修『トコトンやさしい炭の本』(今日からモノ知りシリーズ)、 日刊工業新聞社、2002年の28−29ページに、関東で唯一の 炭の名産地として佐倉が紹介されています。
佐倉炭は、クヌギ黒炭で、茶道用の木炭だそうですね。

<返信>
あけましておめでとうございます。
今年も元気にいきましょう。
佐倉本情報いただきましてありがとうございます。知りませんでした。
「関東で唯一の炭の名産地」であったということも知りませんでした。
佐倉炭は、明治時代から昭和初期にかけて有名でした。夏目漱石、 国木田独歩、森鴎外の小説にも出てきます。小説には、「佐倉」だけ しか書かれていないものもあり、佐倉炭は「佐倉」で意味が通じるほど であったようです(『電子図書館 満開佐倉文庫』参照)。
幸田露伴の孫である青木玉のエッセイにもでてきますが、露伴は 佐倉炭でお燗をしていたとありました。

でも、このように知られた佐倉炭が、たちまち消えてしまったのは どうしてだったのでしょうか。今では、佐倉炭を出荷していた店や、 作業従事者の特定もできないのです。
小説の中から「佐倉炭」が使われた小説を探すのも佐倉本探索 の楽しみといえるでしょう。
なお、佐倉炭が茶道用に用いられた理由は、クヌギ炭は「長持ち がして、パチパチと跳ねない」からだと聞きました。

八谷さんの司書認定を1年延長しました。

1月19日
 Kさんから佐倉本情報のメールあり。

司馬遼太郎『竜馬が行く』、読了しました。3367ページを読み終え、 ただ一箇所、佐倉関連人物の名を発見しました。この本も佐倉本 でした。
文春文庫8巻本(1975年版)を使って読みましたが、第7巻P13「勝は 大坂の宿舎にあって家茂の回復を待ちつづけたが、ついに七月二十日 の朝、勝と懇意の将軍侍医松本良順からひそかな報らせがあり、「御大 切になった。」という。」

これをかなりたくさん読んでから見つけられた時は、うれしかったです。私の 周りの年配の方はほとんどみなこの司馬さんの小説を読んでいらして、 口々に名作とたたえています。私も重い読後感を持ちましたが、遅く読ん だのでかえって「佐倉関連事項を探す」という視点でも読めたのが幸運で した。

<返信>
まず、すごいページ数の中、松本良順を見つけられたのですね。ごくろう さまでした。私も若いときに読んだのですが、そのころは佐倉本という意識 がなかったので読み過ごしてしまったのでしょう。というか、松本良順が佐倉 と関係があるなんて思ってもいませんでした。江戸生まれの幕臣というイメー ジしかなかったと思います。松本良順が佐倉と関係があると小説の中に出て くるのは、昭和50年代かと思います。
ですから、松本良順の肩書きに、いつから佐藤泰然の息子とか順天堂と 記されるのか、その本を探していくのも面白そうですね。
松本良順が出てくる本をすべて並べ、同様に松本良順の研究書を合わせ てみると、わかると思います。これまた新しいジャンルに突入しそうですね。

話はもどって、司馬遼太郎『竜馬が行く』。
確か、この本が出て坂本龍馬に対する今の認識が定まったのではなかった かと、記憶しています。
とにかく、ごくろうさまでした。

1月11日
 佐倉本情報。
森銑三・柴田宵曲『書物』(1997 岩波文庫)
乙篇(柴田宵曲)の中に、「蔵書家」という項目があり
「千万の書は空しく虫ばみて先生のあとを継ぐ人もなし」という香取
秀真氏の歌のような例が多いのである、(259頁)とありました。

佐倉本情報。論文<近世>
中田善三「佐倉藩主堀田正仲の手紙」『成田史談』49・50号所収(2004年12月 成田市文化財保護協会発行)
鏑木行廣「大佐倉村口の明神の祭礼と佐倉藩ー宝暦〜安永期を中心にー」
『成田史談』49・50号所収(2004年12月 成田市文化財保護協会発行)
小倉博「六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)と佐倉藩・田安藩」
『成田史談』49・50号所収(2004年12月 成田市文化財保護協会発行)

1月5日
 昨年末、Kさんからメールをいただいたっきりにしていました。

ご無沙汰しております。
さて、私は司馬遼太郎氏の小説の幕末物はまだあまり読んでいないので、これ から少し読んでみようと思い、今回『花神』を読みました。
館主の御本に「松平壽子」さんのところで紹介されていましたが、その他に松本 良順、佐藤泰然の名が何度か出ていました。ご存知だとは思いますが、以下 書き出してみます。テキストは4冊本の新潮社のハードカバーです。

『花神』(一)
P299 このためポンペに自由な医学教授をゆるしたのではなく、幕府の奥医師松本良順(のち順。明治後軍医総監)だけに受講をゆるした。

『花神』(二)
P56 松本良順(のち順と改名、戊辰戦争には佐幕軍に参加、のちの陸軍軍医総監・男爵)が頭取職をひきつぎ、洪庵式のシステムを一変させてポンペ様式をとり、現在の医学教育の源流をつくった。

P75 松本良順のような洋医もいれば榎本武揚のような洋式陸海軍の指導者もいる。
P83 幕府の医官松本良順が、まるで戦国の武将のような風耒でゆったりとすわっている。

『花神』(三)
P123 ここは「松平壽子」さんのことが書かれていました。

『花神』(四)
P64 順天堂は蘭学者佐藤泰然・尚仲をもってその学祖としている。

四巻目まで読んできて、千葉県の地名が何度か出てきたので、それもメモを とってみました。P71市川、鴻ノ台、P102関宿、P104松戸。ある本を読み返すと いうのは時に苦痛を伴うことがあり、将来、こうした市や町で『満開佐倉文庫』 のような試みをする時、少し参考になればなあと思っていました。

  

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