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NHK大河ドラマ「新選組」と佐倉の歴史話
新選組の番組で、佐倉にからめた話ができる場面が出たら、それに合わせて佐倉の歴史話を書き込みます
(2004年2月1日〜 )
〔放映日〕
〔12月12日〕
本日、HNKの大河ドラマ「新選組!」が終了しました。
一年間、ホームページにも書き込むことができ、感謝しています。
これで、ホームページの、「NHKの大河ドラマ「新選組!」を佐倉らしく鑑賞する」コーナーも、終了いたします。ありがとうございました。
〔11月28日 再会〕
今週は、近藤勇が甲陽鎮撫隊の大久保大和と改名して、甲府城に
向かい、途中の勝沼で官軍と戦って敗れるストーリーでした。
話は、少し前にもどります。
2月5日、佐倉藩に甲府城代の話があり、翌日、佐倉藩は断り
ました。
2月16日、幕府は諸藩の重臣を江戸城に集め、朝廷より出
された徳川慶喜追討令を撤回してもらうように朝廷に哀訴して
もらいたいと依頼した。
2月17日。諸侯の重臣は麻布の佐倉藩上屋敷に集まり協議
した結果、哀訴することに賛成し、この書案を佐倉藩の依田七
郎が作る。
概要は、
徳川慶喜の兵士が、行き違いにより戦いになってしまい驚いて
います。徳川氏は朝廷に敵対する気持ちはなく、この不始末を
申し訳なく思って、江戸城に帰ってからも謹慎しています。
なにとぞ格別のご恩をもって、許していただけますようお願いします。
という内容でした。この哀訴書は関東・東北40余藩の連名で
した。翌日。幕府より佐倉藩が甲府城代になることを免ぜらる。
もう大名の大勢は官軍と戦う意志はなく、もっぱら戦後処理を考え
始めていたのです。
そのような流れを知っていたのか知らずか、近藤勇は戦いに挑んだ
のでした。
来週は、「流山」。近藤勇、最後の時を迎えます。えっ、もうそこまで
きてしまったのかと思いましたが、暦は12月になってしまうんですね。
一年、早いものでした。
〔テレビ予告 11月28日のために〕
11月28日の「新選組!」を、楽しみにしています。
先週の番組終了後、次週の予告が流れました。
いよいよ、新選組が甲陽鎮撫隊と名を改め、甲府城代となる
べく江戸を出発するんですね。
この命を、近藤勇が幕府から受けるわけですけど、どのように言われ
たのか、その辺のところを聞いてみようと思います。
というのも、近藤勇が、この話を聞く2週間前、幕府から佐倉藩主堀田
正倫に甲府城代の命があったのです。
その夜、藩の重臣が集まり、職を引き受けるかどうかの話し合いを
持ちました。みな辞退すべきと言いますが、依田七郎(学海)だけ、
受けるべきと主張し、話がつかなくなりました。
翌日、再び話し合いが行われましたが、七郎の説は用いられず、
堀田正倫は甲府城代の職を辞退することにしました。
その後、甲府城代の話が近藤勇にされるわけです。
ですから、この話は初めに近藤に持ち込まれたのではなかったのです。
もっとも、佐倉藩が甲府城代を引き受けていたら、甲府に向かった
佐倉藩が官軍と戦うことになったでしょうし、近藤勇らの、その後も
変わったでしょう。
近藤勇らの戦いを、佐倉藩に重ねて観てみようと思います。
〔11月21日 東に〕
時は慶応4年1月のことです。
近藤勇らは鳥羽伏見で戦い、そして江戸に帰ったのでした。
場面では、1月6日、9日と日にちを記していました。つまり
それほど、日々の状況が変化していたということになります。
さて、我が佐倉藩の動きになります。佐倉藩では、鳥羽伏見
の戦いがあったことを知るのは、1月8日のことです。佐倉藩の
江戸留守居役依田七郎(学海)のもとに京都の異変を知らせ
る手紙が届きました。
1月10日。江戸城に譜代藩の諸侯が集められ、心あるものは
戦列に加わるべし、と伝えられます。
1月11日。佐倉より上士隊2中隊、中士隊2中隊、大砲1隊、
江戸の佐倉藩邸に到着する。佐倉藩は、幕府方につくつもり
だったのです。
1月13日。夜、会津藩石川英蔵が訪ねて来、藩の負傷兵が
京都からもどったので、治療を佐藤家(順天堂)にお願いしたい
という。
1月16日。依田七郎は、江戸城で近藤勇、土方歳三に会って、
鳥羽伏見の話を聞いています。
まもなく、佐倉藩はどちらに付くか、その選択を迫られます。
〔余話〕
先日、NHK大河ドラマ「新選組!」の後に放映している「新選組が行く!」
のスタッフが、私の資料を撮影していきました。本日(10月3日)、
番組の都合で(時間がなくて)放映されませんという電話がありました。
ま、それくらいの資料でした。
〔9月19日 薩長同盟締結!〕
ドラマの最初が、松本良順が新選組の屯所となった西本願寺で新選
組隊士の健康状態を診察している場面でした。慶応元年(1865)の
ことです。
佐倉藩では、この年の9月に禁裏(御所)警護の命があり、藩主堀田
正倫と藩士は出発。10月、禁裏南門の警備につきました。
翌年は慶応2年(1866)になります。1月21日、京都の薩摩藩邸
では、坂本龍馬の仲介により、倒幕のための薩長同盟が成立しまし
た。
佐倉藩の動きですが、薩長同盟が成立する10日前の、1月11日に
禁裏警護の任を解かれ、江戸に向かいました。薩長同盟のことなど
知る由もありません。佐倉藩は結果的に歴史の隙間を歩んでいたと
いえます。
〔9月5日 さらば壬生村〕
元治2年(1865)3月、新選組は西本願寺に屯所を移す。
4月に元号を慶応と改元。
5月、14代将軍徳川家茂は京、大坂に向かう。家茂の侍医として松本良順が同行
する。京都に着いた良順は、会津藩士南部精一の僑居に住む。この南部精一は良順
の弟子ですが、佐倉にある順天堂の門人でもありました(名前は南部精一郎)。
『松本順自伝』によれば、まもなく近藤勇が訪ねてきます。そして、良順は勇の招きにより、後日、
西本願寺にあった新選組の屯所を訪ねます。勇は、土方に命じて屯所の案内をさせました。
部屋には健康な隊士と病人が混在しているのを見て、良順は病人を分けるように話しました。
これを聞いて、土方は早々に手配したので、良順は土方を評価しています。また、病人に対し、
精一の薬局において薬を調整し、精一に毎朝回診させることにしました。さらに良順は週に2回
往診して治療にあたることにしました。
これをみると、新選組の傷の手当てをしていたのは、会津藩士と松本良順ということになります。
ちなみに良順の官職名は「奥医師兼医学校頭取歩兵奉行格海陸軍医総長松本良順法眼」と
いう長いものでした。
9月、佐倉藩に再び禁裏(御所)警護の命があり、藩主堀田正倫と藩士は出発。このとき新式の
カノン砲4門、小銃28挺と、それに伴う弾薬を大坂まで船積みし、そこから陸路で京都に送りました。
前回の警護に比べて武器が増強されていますが、それは、前年、禁裏の蛤御門付近で会津・薩摩藩
と長州藩が交戦した事件(禁門の変)があり、そのような不測な事態を考えて、兵力が増強されたと
考えています。
10月、佐倉藩は禁裏南門の警護につきます。南門からは、前年に起こった禁門の変の事件現場が
見通せます。流れ弾が飛んできそうな距離にありました。
京都にいく機会がありましたら、是非、南門にたたずんで歴史を感じてください。
〔テレビ放映に追いつくために〕
元治元年(1864)7月、京都では禁門の変が起こりました。京都でこのような事件が
起こったころの佐倉藩の動きを話しています(8月20日の文より継続)。
那珂湊で降伏した天狗党の者を佐倉藩だけで預かるのではなく、各藩が分担して一時
預かることになりました。佐倉藩では、降伏した者に礼をつくして対応し、慶応4年2月
まで拘禁しています。
一方、このとき降伏しなかった天狗党の1,000余人は、上京して尊王攘夷の志を直接
訴えようと那珂湊を脱出しました。下野(現栃木県)、上野(現群馬県)、信濃(現長野県)、
飛騨(現岐阜県)を通り、途中、幕府方の諸藩と戦いながら、ようやく越前(現福井県)
までたどり着きました。しかし、ここで力尽きて加賀藩に降伏して天狗党の乱は収まります。
翌年は慶応と年号を改めます。慶応元年(1865)、松本良順は将軍徳川家茂の侍医
として京・大坂に向かいます。そして、着京後は木屋町に寓していました。このとき近藤勇
が訪ねてきました。
勇の招きにより、後日、良順は西本願寺にあった新選組の屯所を訪ねます。勇は、
土方に命じて屯所の案内をさせました。部屋には健康な隊士と病人が混在しているのを
見て、良順は病人を分けるように話しました。これを聞いて、土方は早々に手配したので、
良順は土方を評価しています。また、病人に対し、往診して治療にあたることにしました。
9月、佐倉藩に再び禁裏(御所)警護の命があり、藩主堀田正倫と藩士は出発。10月、
禁裏南門の警護に着きます。南門からは、前年に起こった禁門の変の事件現場が見通せ
ます。流れ弾が飛んできそうな距離にありました。
佐倉藩の本営は妙心寺麟祥院とし、藩士は広隆寺に滞在しています。ただ、お寺には、
そのような話は伝わってはいません。
(ようやくテレビの進行に追いつきましたので、「満開佐倉文庫だより」での話は終えます)
(8月23日 記)
〔テレビ放映に追いつくために〕
元治元年(1864)7月、京都では禁門の変が起こりました。京都でこのような事件が
起こったころの佐倉藩の動きを話しています(8月20日の文より継続)。
8月11日、佐倉藩は年寄役倉次甚太夫(後の亨)を指揮官とし、兵士350名を天狗党
討伐のために出陣。
佐倉藩の陣容は西洋式を取り入れた歩兵・騎兵・砲兵の三隊でした。それは、佐倉藩
の蘭学者木村軍太郎が考えた西洋式の軍隊編成が初めて試される場でもありました。
9月5日、佐倉藩が潮来に到着したが、すでに敵の館は常陸行方の麻生藩によって
焼き討ちされたあとでした。そこで、藩兵の一部を潮来に残し、ほかは佐倉藩の本営
が置かれた佐原の観福寺に引き上げます。佐原は、以前は旗本領でしたが、元治
元年6月29日に佐倉領となりました。これは佐倉藩が常陸に兵を進めることが予想され、
そのときは佐原が佐倉藩の拠点になるだろうと幕府が考えたからです。
9月13日、幕府から子生(こなじ 茨城県朝日村)に向けて進軍すべしとの命を受ける。
これより佐倉藩は祝町(現大洗町)、那珂湊まで進み、幕府や各藩とともに天狗党と戦い、
勝利する。
那珂湊の戦いで降伏した者は、榊原新左衛門を中心とした1,154人でした。この人数に
戸惑ったのは幕府でした。早々、佐倉藩の隊長を宿陣に呼び寄せて相談することになり、
求めに応じて佐倉藩の大砲頭依田十太郎は出向きました。
幕府は「降人、意外に多く、1,200人程もいるという。そこで、しばらく降人を佐倉城に
預けたい」という。
十太郎は「佐倉城には余地がなく、寺院は狭くてこれほど大人数を収容できる施設がない
ため、お断りします」と答えました。
(8月22日 記)
〔テレビ放映に追いつくために〕
NHKの大河ドラマ「新選組!」を佐倉らしく鑑賞するために、佐倉藩と松本良順の動きを
書いています。(まだテレビの進行まで追いつきません)
元治元年(1864)6月、新選組による尊王攘夷派への襲撃事件(池田屋事件)が起こり
ました。
翌月、尊王攘夷派の長州軍と公武合体派の会津・薩摩藩を中心とする軍が京都での
主導権を巡って戦いが起こります(禁門の変)。
この3カ月後、近藤勇は江戸に帰り、松本良順に会うのです。
佐倉藩の元治元年における動きですが、前年まで京都で禁裏(御所)の警護にあたり、
翌年、再び禁裏の警護にあたりますので、ちょうど佐倉藩が禁裏の警護を離れた年に、
禁門の変が起こったことになります。
もし、佐倉藩が禁裏の警護にあたっていた年に事件が起こったなら、佐倉藩は歴史に
刻まれることになったかも知れません。
この年、佐倉藩では大きな事件に巻き込まれていきました。
3月、水戸藩内で尊王攘夷を唱えていた藩士の一部が筑波山で兵をあげました。彼らは
幕府に攘夷を迫ろうとした人々で、始めは60人ほどでしたが、池田屋事件が起こった6月
には総勢700人にまで膨れ上がり、日を追ってその数を増していきました。
そして、その中の一部は、彼らの軍備と生活を維持し、目的を遂げるために周辺の商家や
農家に押し入り、軍資金として金品や家財などを奪っていました。人々は彼らを「天狗党」と
呼んで恐れました。
7月になると、彼らは筑波山を下り始め、常陸(現茨城県)の潮来村に集結を始めます。
このため幕府は、佐倉藩や高崎藩、宇都宮藩、関宿藩、結城藩に討伐を命じました。
(8月21日 記)
〔テレビ放映に追いつくために〕
NHKの大河ドラマ「新選組!」を佐倉らしく鑑賞するために、佐倉藩と松本良順の動きを
書いています。(まだテレビの進行まで追いつきません)
文久3年(1863)2月、京都では外国人を打ち払えと叫ぶ志士、浪士が横行していま
した。幕府は彼らの動きを封ずるために、江戸で浪士の募集を行い、浪士隊を結成し
京都に向かわせました。この中に近藤勇がいます。
4月、幕府は10万石以上の大名に交代で禁裏(御所)の警護にあたらせることにしました。
7月、佐倉藩では藩士と付き添いのものを含めて18人が上京します。このとき、大砲1門、
小銃3挺を持参していました。そして、10月に佐倉藩は禁裏警護の任を解かれます。
近藤勇が上京した年、佐倉藩士も京都にいたことになります。この年、長崎でオランダ
軍医ポンペから西洋医学を学んでいた松本良順が江戸に帰ってきます。そして、医学所
頭取となりました。
近藤勇が、京都から江戸に帰って良順と会うのは翌年のことです。
(8月20日 記)
〔8月15日 山南脱走〕
江戸での回想シーンに松本良順が出ていました。
江戸で近藤勇と松本良順が会う話は、『松本順自伝』(47頁)に出ていました。
元治元年(1864)6月、池田屋事件。7月、禁門の変。この3カ月後のことです。
江戸にいた松本良順のもとに近藤勇が訪ねてきます。名刺を通じ、良順に面会
を求めたのです。家族等は、恐怖すること少なからず。
良順は、恐れることはない。世の人は勇を暴虐の人のようにいうが、私が見た
ところはそうではない。道理を知っている人だ。そう話して、勇を応接室に案内し、
勇の話を聞くことにしました。
近藤は「君の名は轟いている。よって思うところを述べ、教えを請いたい」という
ことでありました。話の大意は、放映されたようなことであったと思います。
そして、勇は、将軍が上洛のおりに良順が侍医としてお供にてきたなら、再び
お会いしたいと約束をして別れました。
〔8月8日 江戸に帰る〕
八谷司書から情報。
簡単に大河ドラマ「新選組!」の前回の内容を紹介します。
近藤勇は、長州征討に将軍徳川家茂の出馬を願うべく、京から江戸に戻ります。
江戸で近藤は試衛館のなつかしい面々と再会し、また藤堂平助の紹介で、伊東
大蔵(甲子太郎)を新選組に迎え入れます。一方、京では土方歳三が山南敬輔
の反対を押し切って隊士葛山武八郎を切腹させ、二人の間はいっそう険悪に。また、
旧知の坂本龍馬と再会した山南は、その視野の大きさに感じ入り、内部抗争に
明け暮れる新選組に疑問をつのらせてゆきます。
…というのがあらすじです。で、肝心の松本良順はというと、近藤が江戸で良順宅?
を訪れるという一場面があったのです。近藤は沖田総司のせきが止まらないことを心配
して沖田の様子を良順に伝え、その見立てを請います。良順はこれを「労咳の恐れが
あります」と診断、いかなる症状が出るかを近藤に説明し、痛みをやわらげる薬を近藤
に渡します。そのとき、次のようなやりとりがありました。
「近藤さんは、攘夷派でしたね」
「ええ」
「…(中略)…西洋の医学は、東洋よりもずっと進んでいる。あなたの大切な人の苦しみ
をやわらげることができるのも、西洋医学の知識のおかげです。それでもあなたは、攘夷を
よしとするのですか」
近藤はうなだれて、言葉を失います。
正確ではないと思いますが、だいたいこんな感じでした。この会話はたぶんフィクションなん
でしょうが、近藤が従来の攘夷論に疑問を感じてゆくきっかけになるのではないかと思います。
障子から光が差し込む部屋に、地球儀や薬の小瓶が並んでいる良順の部屋も、なかなか
面白い映像です。きっと洋学者の部屋は、あんな感じだったんでしょう。
<亀田>
「近藤勇は、長州征討に将軍徳川家茂の出馬を願うべく、京から江戸に戻ります」とあり
ました。松本良順は、徳川家茂の侍医として京都に向かいます。ですから、これからいよい
よ京都と松本良順の場面が描かれるのでしょう。
なお、良順は順天堂を創設した佐藤泰然の実子で、江戸生まれです。佐藤家に生まれながら、
漢方医松本家の養子となりました。そして、漢方医の家にありながら、良順は蘭医を目指しました。
順という名前は、明治になって付けたもので、江戸時代は良順と名乗っていました。
ですから、近藤勇らと会ったときには、「良順」であったのです。
〔第9回 3月7日 すべてはこの手紙〕
八谷司書から情報。
大河ドラマ新選組!「すべてはこの手紙」の回は昨日再放送で見たのですが、
その最後に紹介された佐久間象山の門人帳、私も気づきました。吉田松陰
が象山の門人だったことを語る段で門人帳が映され、「西村平太郎」=茂樹
ですね、「馬場志津摩」「森村助次郎」、一人飛んで吉田松陰の名がありま
した。彼らは松陰の入門の直前に入門した、ってことなのでしょう。
ありがとうございます。
そうですか、たまたま佐倉藩士のページを映したというのではなく、吉田松陰が
記された部分を映すために画面を流していこうとして、そこに佐倉藩士の名前
があったということでしたか。
Tさんから、佐倉情報。
NHK大河ドラマ「新選組」で、最後に史跡案内をしていますが、
先週放映された「すべてはこの手紙」の最後には、
長野市松代にある象山神社が紹介され、展示されている門人録
が写されました。そのページに佐倉藩士が3人記されていたそうです。
何ページもある中から、偶然でしょうが佐倉藩士が記されたページを
写していたんですね。
〔第8回 2月29日 どうなる日本〕
本日は、文久2年(1862)の日本です。
この年、佐倉藩は5月から1年間、横浜にある外国人居留地警護をする
ように幕府から命ぜられ、居留地の入り口にある前田橋と八戸橋の番所に
藩士26人、従者76人を派遣しました。(八戸橋は現在の元町近くにあります)
この時には、佐倉に順天堂を創設した佐藤泰然は横浜に移住していました。
そして、居留地にいたアメリカ人宣教師ヘボンのもとに通って、医療の手伝いをし
ていました。
しかし、この話は攘夷派の水戸藩の浪士にも伝わり、佐倉にある順天堂に
押しかけ、
「横浜に隠居しているはずの佐藤泰然が、外国人と親しく交際をしているそうだ
が、けしからん。すぐ止めさせて佐倉に呼び戻せ」
と騒ぎ、順天堂の塾頭相良知安を困らせていました。
〔第7回 2月22日 祝四代目襲名〕
近藤勇が、四代目を襲名したのは、文久元年(1861)のことでした。
このころ、長崎にはオランダ人軍医ポンペが来日して、西洋医学を教えて
いました。後に近藤の親友となる松本良順(佐倉に順天堂を創設した佐藤
泰然の実子)が、ポンペから西洋医学を学んでいたのです。
文久元年、長崎ではポンペの指導により日本で最初の西洋式病院が造られ
ました。ベットが置かれ、時には洋食も出ました。
この病院の設立に、良順は尽力したのです。
後に、松本良順が京都で新選組の屯所となっていた西本願寺を訪れて、
普通の部屋とは別に病室をつくるように近藤・土方に話します。
良順には、このときの記憶がよぎったかも知れません。
〔第6回 2月15日 ヒュースケン逃げろ〕
オランダ人ヒュースケンは、攘夷派から暗殺されかかり、近藤勇は逃げるように
すすめます。
このヒュースケンは、安政3年(1856)にアメリカ総領事ハリスが下田に来日した
ときに、ハリスの通訳としてやってきました。
ハリスを江戸にくることを許したのは、老中首座であった堀田正睦で、正睦はハリス
と日米通商条約についての交渉をしますが、その通訳をしていた人物がヒュースケン
だったのです。
司書八谷さんからの情報。
大河ドラマ「新撰組!」に出てた清河八郎、佐倉にも来てるようですね。
堀田正睦以後幕末史の表舞台にはあんまり登場しない佐倉ですが、
「やはり時代の動きと無縁ではないようです」
とありました。
清河八郎のホームページを見ましたら、水戸で天狗党が暴れていたころ
佐倉を訪れたとありました。佐倉藩は天狗党の討伐のために、潮来から
大洗方面に攻めます。そのころの話ですね。
〔第4回 2月1日〕
番組後半。近藤勇は桜田門外で、井伊直弼が暗殺された現場を見に行きます。
この前年の安政6年(1859)、佐倉藩主堀田正睦(ほった まさよし)は、隠居させられ
かわって、正倫(まさとも)が佐倉藩主となっていました。正睦が安政5年に老中職を罷免され、
さらに翌年には隠居をさせられたのは、井伊直弼によってであると思われていましたから、
直弼の暗殺を知ったときには喜んでいました。
そのときの話は、林董(はやし ただす)が「後は昔の記」に記しています。
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