小説 城下町慕情

館主の友人、黒田 碧さんの作品です。本文は執筆中ですが、著作が黒田さんにありますので、引用はご遠慮ください。

2006年9月8日
黒田碧さんの連載小説「城下町慕情」20を掲載しました。黒田さんから原稿をいただきながら、しばし雑談。連載を始めて2年も経ってしまったことに、月日の早さを感じました。


20
 俺がもたもたしている間に玲子に好意をもっている奴が次々と現れるこの間 の悪さは一体どういうことなんだ。そりゃあ彼女はもてるだろう。みんなが夢 中になるのも仕方がないよな。明るくて素直で優しいしおまけに可愛いし。俺 だって、彼女に出会った瞬間、世の中にこんな可愛い女性が存在するんだって すごいショックを受けたくらいなんだから。うちのおふくろや聡子とおんなじ 女という人種だなんてほんと考えられないよ。だけど、だけどだよ、いままさ に俺が告白しようとしている、こんな時に限って何でみんながみんな彼女に近 づくんだよ。お願いだ。どうかこれ以上彼女に近づかないでくれ。
 俺は、正木に手渡そうとした数学のノートを持ったまま教室に戻った。これ から自分の目は、多分玲子ではなくて正木のほうに向けられるだろうと思った。 正木の視線の先はどこを追っているのか確かめずにはいられないだろう…… そして今、そうせざるを得ない自分が一番惨めだった。

 彰は、もう一度坂道を見上げた。当時はフェンスだった左側の崖の際は、竹 で丁寧に結ってあり、坂のいり口には『なよ竹小路』という名前までつけられ ている。ここの急坂を上っていくと登り切った右側の崖にはところどころに薮 椿が生えていて、冬には赤や白の可憐な花を咲かせる。反対側は急斜面一杯に 落ち込んでいる竹林で、生命力の強い竹の根はうねうねとへびのように小道 のアスファルトを持ち上げた。そして春の季節ともなると小さな竹の子があち こちから顔を出した。この小道を通る人はここを『竹の子通り』と呼んでいた らしい。そんなことを玲子から聞いていた事を思い出していた。案外おっちょ こちょいだった玲子は、その竹の子に足をすくわれてよくころんだものだった。
「だって、『彰先生』を待たしたら悪いと思ったんだもの」
 膝小僧に血をにじませながら、
「こんなところに生えているからいけないのよ、もう……」
 玲子は、小さな竹の子の穂先をつま先でつつきながら、ハンカチを手渡す俺 にまで小さな口をとんがらせ、真っ赤なほっぺたを膨らませて怒っていた。
 あのころは、毎日のようにここで待ち合わせ、一緒に登校して始業前に図書 館で勉強していた。数学が苦手だという玲子には特に重点的に数学を教えてや っていたので、玲子は事あるごとに俺のことを『彰先生』と言ってからかった。
 当時、竹や木が生い茂って昼でも薄暗いその小道の奥に玲子の家はあった。
 実を言うと、玲子には内緒で何度もこっそり彼女の家を訪ねたことがある。 小さな茅葺きの門に黒い板塀が続いていて、門のすき間から中をのぞくと御影 石の石畳の向こうに玄関が見える。玄関の左側には、六角形に突き出た洋館風 の部屋があり、その部屋の屋根の上には風見鶏がカラカラと音を立てて回って いた。時には窓が開いていて、きれいなレースのカーテンがフワリフワリと 風に揺れ、そこからピアノの音が流れてくる日もあった。それは多分ショパン の曲だったと思う。ピアノは玲子が弾いているのだろうか? 俺はまるで夢で も見ているようにいつまでもそこに立ち尽くしていた。
 こんな家に住んで、彼女は毎日どんなものを食べ、どんな会話を家族と交わ しているのだろう?
 だが玲子は俺と一緒にいる間、ほとんど家族のことを話題にすることはなかっ た。今思えば、俺がおやじやおふくろや妹のドジな話を面白おかしく話してい るときは、いつも黙ってニコニコ笑いあいづちを打つばかりだった。
 あの時、俺は若かったし何にも分かっていなかった。ただ、表面上の玲子の 屈託のない笑顔だけをボーッと見つめていただけだった。その笑顔の裏に隠さ れていた彼女の悲しみや苦しみにちっとも気づいてやることができなかった。
 けれども、まんがいち気づいた所で何をしてやることができただろう?
 彰はゆっくりと背広の上着を脱ぎ、フーッと一息ついた。人生を半分以上過 ごして来た今の俺でさえ、人を救うことなどできやしない。でも、あのとき彼 女がおかれていた立場さえ分かっていれば、他に何にもできなくても俺は彼女 の髪をそっと優しく撫でてあげることぐらいできただろうに……

つづく

(2006年9月8日 掲載)

21
 当時、玲子には不可解に思われることがいくつかあった。夏服の季節がきて 女子がみんな半袖のブラウスになっても玲子だけはいつまでも長袖のブラウス を着ていたことだ。クラスのみんなは、きっとケロイド状の火傷の跡があるん だろうとか、生まれつき大きな痣があるに違いないとか好き勝手なことを言っ ていたが、俺は色が白くって華奢な子だからそれで寒がりだから長袖を着てい るんだろうとばかり思っていた。
 また玲子は学校を休むことも多かった。突然2、3日休んでは、お昼頃にフ ラリと現れる。顔色も悪く沈んだ様子で、その日一日は友達と会話することも なく周りの者が気づいたときには消えるように下校していたのだった。
 だが、翌日にはいつもの陽気な玲子に戻っていたから、俺はさして気にもし なかった。お嬢様で育っているからきっと身体が弱いんだろうと勝手に思いこ んでいた。

 その日も朝のホームルームに玲子の姿はなかった。俺はがっくり気落ちして いた。玲子がいない日は何をする気にもならない。今日でもう5日目だ。
「かおり、おまえ今日学校の帰りにでも南雲の家へ寄って玲子の様子を見てき てくれ」
 木田先生が出席簿を抱えたまま、玲子の空席を心配そうに横目で見ながらそ う言った。
「はい」
 かおりも落ち着かなそうに窓の外を見ている。いつもならとっくにフラリと 現れるころなのに…… かおりも今、俺と同じことを考えているに違いない。
 3時限目の数学の時間だった。火星ちゃんが黒板の前で立ち往生しているま さにその時、運悪く玲子が後ろのドアーを開けて入ってきた。
 キキキーッ
 古い校舎のドアーはそっと押し開けたにもかかわらず無情にも大きな悲鳴を 上げた
「なんだ、今ごろ!」 火星ちゃんは黒板から振り向きざま、後ろにポツンと 立っていた玲子に向かっていきなり持っていた白墨を投げつけた。
 ドアーの悲鳴は、解けない問題にいらいらしていた火星ちゃんの神経をいた く逆なでたようだった。まさか遅刻して入ってきたのが女子だとは――まして 玲子だったとは思わなかったらしい。
 白墨は玲子の体すれすれに飛んでいって、玲子の足元のすぐそばに音を立て てころりと転がった。うつむきかげんで入ってきた玲子は、思いがけない出来 事に目を丸くして驚き、一瞬全身を硬直させたかのように見えた。だが、間髪 をいれずくるりと背中を見せると何も言わずスカートをひるがえしてドアーの 向こうに消えていった。
 教壇に一人取り残された火星ちゃんは自分のしでかしてしまったことを恥じ てか、顔を真っ赤にして開けっ放しになっているドアーの向こうに向かって叫 んだ。
「おい、出ていけとは言わんかったぞ。もどってこい」
 火星ちゃんの声が届かなかったのか、その授業が終わるまで玲子が戻ってく ることはなかった。
 4時限目になっても玲子は教室に戻ってこない。もう家に帰っちゃったんだ ろうかとクラスメートたちは口々に無責任に言っていたが、かおりをはじめと して玲子と仲のよい何人かの女子たちは、心配して休み時間にトイレや屋上な ど考えられる場所をくまなく探し回っていた。
「どこにもいないのよ、一体どこにいっちゃったんだろう?」
 さすがにかおりも顔色を変えている。
 俺は、ふと思い当たることがあって、昼の弁当の時間になるのを待ち兼ねた ように上履きを運動靴に履き替えて外に出た。
 校舎をぐるりと回って正門のほうに向かって歩いていった。正門の右手には 数え切れないほどの高い樹木が何本も茂っている。とりわけ、東郷池の周りに はツツジやサツキ等の潅木も茂っていて、昼でも薄暗い。その奥に玲子の白い ブラウスの背中が小さくボーッと浮いていた。
 俺は注意深く足音を忍ばせて玲子に近づいていった。声をかけたらそれだけ で白いブラウスは俺の目の前からフッとかき消えてしまいそうな、そんな気が したから……
 玲子は、じっと池の水面を見つめていた。ほんの小さな池なのに、トロンと して暗い色をした水面は、今にも玲子を飲み込みそうに見える。
 俺が玲子の背後に立ったその時、玲子の指先がゆっくりと動いた。玲子の細 い指先から白い大きな花びらがそっと池の水面に放たれた。俺は思わず後ろを 振り返って空を見上げた。15メートルもあろうかと思われる大きな泰山木が 一本、天を突き刺すように立っていて、その枝先には純白の花がいくつも咲い ている。
「カエルのお舟かい?」
 俺がかけた声に玲子は振り向きもせずに、指先で花びらを押しやりながら首 をかしげた。そして小さな声で「おじいちゃん?」と一言つぶやいた。

つづく

(2006年10月12日 掲載)

22
   玲子の発したおもいがけない反応に俺はとっさに言葉が詰まってしまった。
そういえば、俺の声はおじいちゃんの声に似ているって言ってたっけ……
「おじいちゃん、あたしもうどこにも行くとこがないよ……」
 彼女は両手で顔を覆って泣いている。その小さな肩が小刻みに震えていた。
 池のほとりに座っている彼女の制服のスカートが、まるでパラシュートが地 上に降り立つときのようにふんわりと地面にまあるく広がっている。どこかで 見た風景だと思った。
 − そうだ。子どものころにおふくろが読んでくれた親指姫だ。
 大きな花びらの中にスカートを広げてチョコンと座っている親指姫……
 モグラのお嫁さんになるのがいやで泣いていた可哀想な親指姫……
「女の子みたいねぇ、なんでそんなにこの話が好きなの?」
 何度も読んで、読んでとせがむ俺に、半ば呆れながらも根気よく読んでくれ たおふくろ。
 俺は素早く頭を横に振ると鼻から深く息を吸い込んで下腹に力を入れた。こんな ときに一体俺は何を考えているんだろう? それから意を決して、彼女の肩に そっと手を置いた。
「君のいる場所は、ほらここにあるじゃないか。クラスのみんなも君を捜してる。君はここにいていいんだ」
 びくっとした玲子は後ろを振り向いて、あわててスカートの端をつかむと乱 暴に涙をぐいぐいと拭った。
「俺だよ、俺……」
 鼻の当たりを指さしながら、俺はわざとそっぽを向いた。玲子の顔を 正面から見てしまったら彼女が辛くなると思ったからだ。
「君の居場所はいつもここにある。火星ちゃんはたまたま虫の居所が悪かった だけなんだ。黒板をにらんでイライラしてたからね。君だと初めから分かって いればあんなことはしなかったに違いない。そんなに気にすることはないよ」
 目の周りを真っ赤にした玲子の小さな口はまだポカンと開いたままだ。
「さあ、みんなが心配してるよ、早く教室に戻ろう」
「うん」
 スカートについた泥を払いながら玲子は素直に立ち上がった。
 そうは言ったものの、俺は泣き腫らした彼女の目がまだ真っ赤なことが気に なった。このまま教室に戻れば彼女はきっと気まずい思いをするに違いない。
教室に戻るのはもう少し後のほうがいい。
「やっぱり、もうしばらくここで話そうか?」
「うん」
 玲子はまたもやこっくりとうなづいた。
「ごめんね、心配かけてしまって…… いつも本宮君に助けてもらっているね 」
「そんなことないよ、みんな君のことは気に掛かっているんだからね。だから 自分一人だと思わないで、もし相談できる事は遠慮なく言ってくれよ」
 だれよりも心配してるのは自分なのにそれが言い出せない。
「体調が悪いんなら無理して出てくることはなかったのに」
「うん……」
 歯切れの悪い「うん」ばかりがかえってくる。
 ピンポンパンポーン
 五時限目が始まるベルが鳴った。校庭から引き上げて行く生徒達のざわざわした声が聞こえてくる。
「もう行かなくっちゃ」
 下駄箱に向かおうとする玲子の華奢なその手を俺は思わず引っ張った。玲子の目は まだ真っ赤だ。
「もう少しここにいよう」
「だって、そんなことしたら本宮君に迷惑をかけちゃうもの」
 迷惑なもんか、君と二人っきりでいられるんだもん……
「たまにはいいさ、二人でエスケープってのも。ちょっとドキドキでさ。俺、 君に話したいこともあったしさ。君から手紙をもらったのに返事もお礼もしな くってごめんな」
「そうよ、あたしすっかり嫌われちゃったと思ってたのよ。手紙なんか書かな きゃよかったってどのくらい悔やんだか……」
「だって、君には一杯ファンがいるだろう。ついつい言い出すきっかけがなく なっちゃってさ」
「そんな、ひどいよ。そんなこと言ったら本宮君のことだって好きな子は一杯 いるよ。かおりだって、川崎先輩だって……」
 真っ赤な目をして、頬をプッと膨らませている玲子の顔がおかしくってつい 俺も吹き出してしまった −
 それからどんな話をしたのかは覚えていない。何しろ三十年以上前のことだ から。六時限目に二人で教室に戻ったときには、いつのまにか俺が玲子の家まで 行って学校まで連れ戻して来たという話になっていた。
 東郷池で過ごしたささやかな時間は二人だけの秘密だった。それから 玲子と俺の距離は一気に縮まっていった。

つづく

(2006年11月20日 掲載)

23
   図書館デートがほとんどだった。私語は禁じられているから、話すことは勉 強のことばかりだ。それでも俺は毎日有頂天だった。玲子のことを考えるだけ で、どういうわけか胃の奥のあたりがむずむずしてきた。俺は、彼女をこの世 に送り出してくれた神様に感謝した。
 問題が解けなくって額に皺を寄せて「うーん」とうなっている様子も、難し い問題がようやく解けてはしゃいでいる彼女もどっちも可愛かった。
 宿題を出すと、三日も四日もかけて解いてくるときもあった。おっちょこちょ いだったので最後のつめが甘くって正解ではなかったが、それでも案外いい線 までいっているので褒めてやると、にっこりと笑って喜んだ。
「ところでその問題、去年の東大の過去問なんだけどさあ」
 そう告げると、とたんにほっぺをぷーっと膨らませて怒り出した。
「あたしにそんな難しい問題を出さないでよ。彰先生とはレベルが違うんだか ら。ひどい人ね、どのくらいない頭をひねって考えたと思ってるの?」
 怒った彼女はまた抱き締めたくなるほどいじらしかった。でもそのときの俺 は玲子の頭をくりくりっと撫でて、「怒るな、怒るな。可愛い顔が台なしだぞ。 この問題のお陰で数学を解くおもしろさが分かっただろう?」と言って抱き締 めたい自分の気持ちをごまかした。
 彼女の頭を撫でた瞬間、あたりにいい匂いがぷーんとしてきた。これが、シャンプ ーやリンスというものの匂いなのか? 妹の聡子がいつもおふくろにねだって、 「あんたはまだ小学生でしょ、そんな贅沢なものは買えません。石鹸で我慢し なさい」と叱られているあの例のものの正体なのだろうか?
 それからというものこの香しい匂いは俺を悩ませた。玲子のそばにいるとき は彼女に気づかれないようにいつも鼻をぴくぴくさせていた。
 彼女の髪からそこはかとなく香るふわっとした甘い匂いを、夜も昼も思い出 す度に俺はものすごく幸せな気持ちで一杯になった。この匂いこそ、当時の俺 にとっては清楚で可憐な玲子そのものであったのかもしれない……
 そんなある冬の朝、例のとおり玲子と連れ立って図書館へ向かう俺の肩を突 然叩いた者がいた。はっと振り返ると、
「おはよう、相変わらず仲がいいわねえ」二人の顔をのぞき込んだ爽やかな笑 顔の主はなんと川崎よしみだった。
「彰君、可愛い彼女ねえ」よしみは俺の背中の後ろに隠れるようにしていた玲 子に視線を向けた。玲子は顔を真っ赤にしてうつむいたまんまだ。
「彼女、ねえ彼女。うちの彰君をよろしくね。剣道部のホープなんだから、彼 は。朝錬をサボっていると思ったら彼女と一緒だったのね。でも仕方ないか、 一緒に勉強してるんじゃあ……」
 そしていたずらっ子のように「ふふっ」と小さく笑って首をすくめた。
「実は彼ね、あたしの弟にそっくりなのよ。やんちゃで、目がくりくりしてい て、いっつもあたしの後ばっかり金魚の糞みたいにくっ付いてきていた……。 弟も小さいころから剣道を習っていてね、『僕は強くなるんだ。そして大きく なったらお姉ちゃんをいじめる悪い人をやっつけてやるんだ』なんて可愛いこ とをいっていたんだけど」
 そこでいったん言葉を切って、ふっと小さくため息をついた。
「でもあんなに元気でわんぱくだったのに、弟は小学校5年のときに白血病で 死んじゃった。あっという間だった………。『お姉ちゃん、ごめんね。僕、お姉 ちゃんのこと守ることができなくなっちゃったみたい』という言葉を残して… …」
 初めて聞く話に、彰は男勝りだというよしみのその整った横顔をまじまじと 見つめた。よしみは黒目がちな大きな瞳が少しだけ潤んでいるように見える。
「それであたしは弟の代わりに弟の面と防具をつけて剣道を習いだしたという わけ。それでね、彰君を見ていると人ごとのようには思えないのよ。まるで弟 を見ているような感じっていうか、なんていうか。−−とにかく、よろしくね 彼女。自分の弟に可愛い彼女ができたみたいであたしとってもうれしいわ」
 一気にそれだけ二人に伝えると、よしみは長身で細身の体に一つに束ねた豊 かな黒髪を左右に揺らしながら渡り廊下の向こうに足早に去っていった。
 試合に臨んだ瞬間、「キエーッ」という大きな掛け声で相手を先制し、どんっ と床を踏み込んでいって攻撃するよしみの迫力にたいていの相手は竹刀を合わ せる前からびびってしまうのだが、それは普段の冷静なよしみからは考えられ ないような変身ぶりだった。その理由が今、初めて分かったような気がする。
 弟を奪った理不尽なものに対しての怒りや、弟が果たせなかった生きること への希望や剣道への情熱や、それらさまざまなものへのもっていきようのない 憤りが試合のときに彼女をそこまで駆り立てるのだろうと……
 そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、しばらくの間二人は無言だった。
「人間って、いろんな業を抱え込んでいるものなのね。いつも毅然としてて、 頭が良くって、美人で、どこにも隙がないっていうか、そんな先輩も辛いこと があったんだ」 しんみりと言う玲子に、
「まっ、そういうわけさ。そうそう俺はもてやしないってこと……。安心し た?」
 湿っぽい雰囲気に耐え切れなくなった俺が玲子のおでこをちょんとつついた。
「もう、彰くんったら。いじわるなんだから」
 小さな口をとがらせながらも、玲子の顔に笑顔が戻った。
「でもちょこっと安心した。かないっこないもん、あの人には」
 よしみ先輩との誤解も解けて、玲子と俺との二人だけの勉強会はますます順 調に進んで行くと思われたある日突然、俺の目の前から彼女の姿が消えた。
 何の前触れもなく、神隠しにでもあったようにふっつりと……
 いつものように、俺が出した宿題を大事そうに抱えて、「今日は難しい問題 じゃあないでしょうね」としつこいまでに繰り返していた玲子だったのに。
 担任の木田先生は、ホームルームの時間に「南雲は家の事情で急遽引っ越し ました。『クラスのみんなにはさようならを言えなくてごめんなさい』という 伝言がありました」とだけ伝えた。
 誰もがキツネにつままれたような顔をした。あんなに仲のよかったかおりで さえ、玲子がいなくなった理由を知らなかったらしい。
 俺はその日、学校帰りに通い慣れた玲子の家へ足を向けた。あの真っ白なレ ースのかかっていた窓はぴたりと閉まっていた。大きな屋敷は死んだようにシ ーンと静まり返っていて、人の気配が全くしない。
 どれくらいの時間家の前に立ち尽くしていたのかは覚えていない。やがて、路 地を通りかかった買い物帰りのおばさんに不審そうにジロリと見られてあわて てそこを立ち去った。
 玲子の身に一体何があったんだろう? さよならさえも言ってもらえなかっ た………。いつも彼女のそばにいたつもりだったのに、それは俺の一人よ がりだったのか。
 その後も玲子がどこへ行ったのか、クラスの誰も知ることはなかった。
 だが、誰が言い始めることもなくいろいろなうわさがクラスの中を一人歩き し始めた。
 玲子は今まで何回も自殺未遂を重ねてきた。手首のリストカットの跡を隠す ためにいつも長袖を着ていたのだ。それでちょくちょく学校を休んでいたのだ と。もっとひどいのになると、精神科の病院に通っていたなどとうわさする者 まで出てきた。
 自殺未遂の原因は色々だった。父親が暴力を振るっていたからとも、母親の 再婚相手の継父から母親のいない留守を狙って迫られたからだとか、うわさに は面白おかしくどんどん尾ひれがついて膨らんでいった。
 そのどれもが、俺が知っている玲子とは全く別の人間の話だった。
 何にも弁解できない玲子が可哀想だった。彼女を庇うことのできない自分が はがゆく、情けなかった。
 その日から、俺は毎日我が家の郵便受けを何度も確認するようになった。電 話のベルが鳴ると、誰よりも早く電話のところへ飛んでいって受話器を取った。 そして玲子からの連絡をいつまでも待ち続けた………
 玲子のいない学校は全く魅力がなかった。あんなに毎日がバラ色で、どきど きしていた日があったなんてまるで嘘のようだった。
 仕方がないから勉強した。来る日も来る日も図書館に通い詰めて、岩波の古 典文学大系を読破し、各大学の数学の過去問を繰り返し繰り返し解く毎日を送っ ていた。成績はどんどん上がっていったが、それは自分にとってうれしくも何 ともなかった。ただ勉強に熱中しているときだけは玲子のことを忘れていられ たから。それは唯一苦しい思いから逃げることができる時間だったから。
 それでも気が付くと、図書館では無意識にいつも玲子の座っていた椅子に座っ ている。窓側の一番奥の机だ。ここだと、なんとなく気持ちが落ち着いて勉強 できた。ただただ、ひたすら修行僧のように黙々と問題を解いている俺に、誰 も声をかけるものはいなかった。剣道の部活にも身が入らないようになって 部室からも足が遠のいていった。付き合いの悪いがり勉と陰口をたたかれよう とも俺は一向に気にならなかった。何とでも言うがいい。どうせ人の気持ちな んて分かる訳がないんだし、分かってもらおうとも思わない。
 しかし、職員室の先生方は、久しぶりの東大合格者が出そうだと期待してい たらしい。俺はどこの大学でもよかった。玲子のいない世界なんて俺にとって はどこも同じだった。
 受験が迫った1969年1月19日、東大キャンパスが安保反対を唱える全 共闘の学生達に占拠された。篭城して火炎瓶を投げつけてくる学生達を排除し ようと、学問の象徴である安田講堂に機動隊は次々と放水し続ける。そんな衝 撃的な映像がテレビから延々と流れていた。日本中の人々がそのニュースにく ぎずけになった。東大神話は安田講堂が崩れ落ちると同時に人々の胸に無残な 影を落としていった。そして、その年の東大の受験がなくなるという前代未聞 の珍事まで起こる。
 おまけに東大受験ができなかった人々によるなだれ現象が起きて、その年は どの大学も例年よりはるかに狭き門となった。その余波をまともに受けたのが 俺たち受験生だった。
 結局、俺はありふれた大学に入った。折しも学生運動が最も盛んな時期で、 『革マル』とか、『民青』とか、「ヘルメット」とか「バリケード」とかいう 言葉が日常的に飛び交っていて、教室の中でさえ常に緊張感が漂っていた。ク ラスの一人がデモ中に捕まって監獄に入ったということでカンパを始めた奴も いた。
 一方、体育会系の人間は皆右翼と決めつけられた時代だったので、そんなこ とにも関わりたくなかった俺は剣道のサークルに入ることもしなかった。結局 ノンポリを決め込んだ俺は、学生運動に熱中することもなく、四年後にそこそ この企業に入社し、まあこんなもんだろうという女とありふれた恋愛をし結婚 をして、人並に出世をして、あっというまに気が付いたら人生の半分以上を生 きてきてしまった。
 今考えてみると玲子と過ごしたあのわずかな一時こそが俺の青春そのものだっ た。毎日が充実していて、心が浮き立ち、生きていることがこんなにも素晴ら しいことだと実感した日々………
 彼女は地球上でたった一人だけ、俺にとっては光り輝く存在だった。

 彰は流れ落ちてくる汗を拭きながら、京成佐倉駅を背にして一方通行の坂道 を上って行った。なだらかにカーブする坂道を上り切った正面に立派な市立美 術館が建っている。あの頃は市役所だった所だ。大正時代に建てられたという 優美な洋風建築を、今は上手に保存しながら美術館として再生されているのを 見て、彰は「ほー」っと感心して見上げた。感心ついでにドアーを押して美術 館の中に入ると、そこは広いエントランスホールになっている。受付の先には 喫茶店もある。ちょうど喉も渇いたことだし、汗もかいていたので、ここで一 休みすることにした。
 なにげなく掲示してあったポスターに目をやると『佐倉にゆかりの画家たち』 という文字が目に入った。ちょうど今日はその企画展示の日に当たっている。
 アイスコーヒーを飲みながら少し心が動いたが、また別な日にここを訪れよ うと考え直した。今日の目的は他にあるからだ。しばらく経って館内のクーラー で汗が引いたのを確認すると彰は再び表に出た。
 どういう訳か今日はやけに車が多いなあと思いながら、人一人歩くのが精一 杯の狭い歩道を歩いて行った。新町の通りはシャッターが閉まっている店舗が あちこちに見える。当時は、ここが佐倉のメイン通りだったのだが・・・
 感慨にふけりながら歩いて行くと、道の左側に懐かしい店が目に入った。『加 瀬武道店』だ。ここのおやじさんには世話になった。クラブの帰り道によく立 ち寄って剣道の道具を見立ててもらったりしたものだった。店の中には所狭し と竹刀が並べられていて、ショーウインドーの中の樺色や、黒の立派な胴が飾っ てある。今もあのおやじさんは元気でいるんだろうか?
 城下町であるこの町は坂と鉤の手になっている道が多い。それらは昔、城が 敵に攻め込まれるのを阻む自然の要塞となっていた。新町の先の肴町と呼ばれ るクランクが続く道を歩いて行くうちに、その先の『厚生園』があったのをふ と思い出した。そこには最後の佐倉藩主堀田正倫が明治時代に建てたと言われ る邸宅と庭があって、そういえば勉強の合間に一、二度玲子と訪ねたことがあっ た。
 佐倉高校に行くのと反対方向の、大川水道という表示の建物の所を右に曲がっ た路地をしばらく進んで行くと、『厚生園』があったはずの場所に立派なマン ションが建っていて『ゆうゆうの里』という名前があった。もうあの庭がなく なってしまったのかとがっかりした時、薄紫色の帽子をかぶった品の良い老婦 人がマンションから出て来た。『厚生園』の事を尋ねると、婦人は奥のほうを 指さすとゆっくりした口調で答えてくれた。
 「このまま真っすぐに進んで行ってくださいまし。お大名の立派なお屋敷が ありますよ。是非ご覧くださいましな。それはそれは立派なものですから」
 彰は婦人が教えてくれたとおりの桜の並木道を道なりに真っすぐに進んで行っ た。きれいに整備されている『旧堀田邸』の門をくぐると、建物を回り込んだ 先に広い芝生が広がっていた。懐かしい風景だ。なだらかに奥に向かって下っ ている芝生の先の森の向こうには、今も一面に田んぼが広がっている。当時そ こを一直線に国鉄が走っていた。
 彼女と俺は、田んぼの中を白い煙を吐きながらボッボーッ、ボッボーッと警  笛を鳴らしながら走って行く蒸気機関車をいつまでも眺めていた。そのとき 二人で何を語り合ったのかは覚えていない。ただ今でも鮮明に思い出す情景が ある。それは、芝生に座っていた二人の頭上が夕焼けで真っ赤に染まり、彼女 の頬や髪、制服までオレンジ色に輝きだしたことだ。そのあまりの美しさに俺 は、我を忘れていつまでも彼女の横顔を見つめていた・・・
 今日もあっという間に太陽が傾き始めて、薄雲が水色から珊瑚色、茜色へと 刻々と変化していく。大きな庭石に体をもたせ掛けてじっと目をつぶっている と、今でも彼女がすぐにそばにいるような気がする。あの甘い髪の匂いまでよ みがえってくる。はるかな時を超えてたしかに今、玲子は俺の隣に存在してい るという実感があった・・・
 ― しあわせはどこにある?
あの時の玲子の震えるようなかすかな声が耳元に響いてくる。
その後玲子は幸せな人生を歩んでいったのだろうか?
 ― いま、あなたはしあわせですか?
 ― いま、あなたはあなたでいますか?
 俺は心の中で玲子に問いかけた。玲子はあの人懐っこいくりくりした瞳で俺 の顔をのぞき込んでいる。
「じゃあ、君は?彰君はどうなの? 彰君はいましあわせ?」

つづく

(2007年1月12日 掲載)

24
 あの頃、玲子は幸せではなかったのだろう。学校で見せる笑顔の陰で辛いこと を一杯我慢していたんだと思う。俺の目の前から姿を消したまま一切の連絡が途 絶えてしまった今となっては、もはやそれを確かめる術もないのだが・・・
 ただ少しでも彼女の力になってやれたらよかったのにと、それだけが心残りだ ったが、最後に親指姫が王子様に出会って幸せになったように、玲子にも今は幸 せに暮らしてほしいと心から願っている。間違っても、モグラの花嫁に何ぞなっ ていないように・・・あの娘には、涙なんて似合わないから・・・
 ― ところで、俺は? 俺は今、幸せなんだろうか? 
 仕事も順調だし、妻の朱実ともそこそこうまくいっている。彼女は料理も上手 だし家事も手を抜かず、結婚以来何十年も我が儘な俺を支え、尽くしてくれてい る。きっと、このまま夫婦の間にも波風のたたない、平穏な生活が一生続いてい くんだろうと思う。子どもが授からなかったこと以外は、何不足ない毎日を送っ ているはずなのに、改めてそれで満足しているんですか? 幸せなんですか? と問われると返答に困ってしまう。何かが足りないような気がするのだが、それ が何か自分でもわからない・・・

 彰は静かに目を開けた。  夏の夕日は、はるかかなたの低い山陰に姿を消し、空は鮮やかな夕焼け色から、 淡い藤色に変化している。生温かい風が吹き上げてきて、髪をふわりと撫でてい った。
 彰は立ち上がり、ズボンについた草を払って再び歩き始めた。少しばかり涼し くなってきたとはいうものの歩き始めるとまた汗が吹き出てくる。ポケットの中 を探り、ハンカチを取り出す。ハンカチを広げたとたん朱実の匂いがフッと鼻先 をかすめた。出掛けに見せた朱実の笑顔が目に浮かぶ。確かに、心の中には今も 密かに玲子が生きている。でもそれは、現実の朱実との生活とは全く違う世界の 話だ。そう思うのは男の身勝手なのだろうか?
 そんなことを考えながら、足は自然とこの小さな旅を締めくくるにふさわしい 場所へと向かっていく。
 彰は、来た道を引き返して、大通りに出ると左に曲がり、その先すぐの細い路 地を右に入って行った。しばらく歩いて行くと、右側に白い大きな建物が見えて くる。裁判所だ。裁判所の先、百メートル足らずで国道296号にぶつかる。その正 面に、高い樹木に守られるように凛として建っているのが佐倉高校だ。
 彰は、正面の前に立ち、木立の合間に見える薄い鴇色の記念館を仰ぎ見た。木々 の静寂の中に身を置いた途端に汗がスッとひいていく。心地よい涼しさだ。
 校舎の窓から、オレンジ色の明かりがポツンポツンと漏れている。当時、校内 合唱コンクールが行われた時も、バレーボール大会がクラス対抗であったときも、 いつも木田クラスが一番だった。何せ、先生は熱血教師だったし、クラスの団結 力も強かったからだと思う。どんな行事がある時も、他のクラスより練習に練習 を重ね、暗くなるまで教室の明かりは消えることがなかった。「下校時間はとっ くに過ぎているぞ。その情熱を、少しは勉強のほうに向けたらどうかね、君たち ?」
 生活指導をしていた火星ちゃんに嫌みを言われることもしばしばあったが、そ んな言葉は誰も気にしなかった。
 彰の頭の中で時が一気に巻き戻り、目の前にクラスの仲間たちの様子がありあ りと浮かんではまた消えていく。懐かしさに胸がギュッと締め付けられる。
 風に乗って校舎のどこからか、『学生時代』の歌声が微かに聞こえてくる。こ れは木田クラスが合唱コンクールで歌った歌だ。彰は体の芯から指先にいたるま で、ドクンドクンと熱いものが流れ始めるのを感じていた。
 その時、窓に黒い人影がチラリと映った。突然、人々が階段を下りてくる上 履きの音が聞こえてくる。
 パタパタ、パタパタ。バタバタ、バタバタ……
「おい、部活に行くぞ。彰、早くしろよ」
 彰は自分の耳を疑った。正木の声だ。声はどこから聞こえてくるのか? そ の声に重なるように、木田先生の熱のこもった声も聞こえてくる。
「人生に苦悩し傷つき、そして切ない恋をして胸がキリキリ痛む……それが 青春なんだ」
「何をしてるんだ。学級委員のおまえがしっかりしなきゃいけないんだろう」
 火星ちゃんの叱責する声は泰山木のてっぺんから降りてくる。彰はポカンと 口を開けて上を見上げた。群青色の空には、もちろん人の姿などなく、泰山木 の梢が大きく黒い手を広げているばかりだ。
「本宮くんったらあ、この数式分からないから教えてよう。ねえ、ねえ」
 この聞き覚えのある声は確か、かおりだ。
「弟はね、いい子だったの。いい子は早くに神に召されてしまうのね……」
 今にも泣き出しそうな声で、マドンナが耳元で囁いた。
 次々と聞こえてくる懐かしい声に、彰は辺りをぐるりと見回した。記念館の 正面玄関にも、薄暗い木々の間にもどこにも人の姿は見えない。
「おい、いつまで待たすんだよ! 親友だからって何でも許されると思ったら 大間違いだぞ」
 正木の声に誘われるように、人々の声は一つの大きな渦となって彰の頭の上 をぐるぐるぐるぐる回り始めた。
「大人になるのは寂しいもんだ。現実に追いかけられているうちにいつの間に か齢老いていく……」「彰君は優しい子よね。でもその優しさが周りの人を 傷つけるのよ」「おまえだけは、どんなことをしてでも初心を貫くと思ったの に、少し買いかぶり過ぎたな」「あたしも好きだったのに。ほんとは玲子が憎 くて憎くてたまらなかった……」
 声はぐんぐんスピードをあげ、大きくなったり小さくなったりしながら、う なるように彰の周りを飛び交っている。
「幸せなあなたには、あたしの気持ちなんて分かるはずない!」「所詮、恋な どというものは自分の心の中で勝手に作り上げた幻想に過ぎないんだ。そこに は現実の相手など存在しない」「おまえは、それでいいのか? そんなんで満 足してるのか?」「自分が傷つきたくなかったら恋などするな」「おまえは… …」「おまえなんてちっぽけで……」「……」
 それらの声は次第に誰の声か判別できなくなって、入り交じり反響し合って、 一つの大きな塊となって、彰の頭の上でうなりはじめた。
 ウワーン。ウワーン。ウワーン……
 あまりの大音響に耐え切れなくなって、彰は両手で耳を押さえた。やがて大 きな塊と化した声は、一陣の風を伴って木の葉を巻き込み、空へ空へと駆け上っ ていく。その大きなうねりは、竜巻のように群青の空をグイグイと押し上げ、 突き破って、あっと言う間にはるかかなたに消え去っていった。木がつくと、 既にあたりはひっそりと静まり返っている。声の塊が突き抜けていった跡には、 まあるく切り取られたような大きな穴がポッカリと開いている。ちょうど彰の 頭の真上のあたり、群青色をした空の中でそこだけが、抜けるようなコバルト ブルーに光り輝いている。
 どこかで見た空だった。こんな、眩ゆいばかりの空を見たのはいつの日か…
 ― それは玲子を初めて強烈に意識した、あの時の空の色だ。『草に寝て』 の詩を朗読した時に、校庭のバックネットの前でごろりと仰向けに寝転んだ時 に見上げた空の青さ……  彰の胸は高鳴った。
 その時だ。「彰クン、こっちこっち!」
 ハッと後ろを振り返った。夢にまで見た鼻にかかった懐かしい声。その声は、 夕闇に沈んだ東郷池の方から聞こえてくる。彰は、東郷池の方にゆっくりと視 線を向けた。今、あそこまで行けば、玲子に会える
 彰の足は、東郷池に向かって一歩踏み出した。
「あなた……」
 背後で誰かが呼ぶ。突然首筋の辺りがぞくぞくっとした。
 今行かなければ、もう二度と玲子には会えない。引き留めるな……
「あ・な・た……」
 再び彰を呼ぶ声がする。 ― ふわりと優しく温かい声 ―
 どうしたことか、足がピクリとも動かない。
「行っちゃあだめ、行かないで……」 ― 彰の背中に寄り添うようにその声 は囁いた。
 彰は、聞き覚えのあるその声の主に気づいて、固まったように動かない自分 の足元をじっと見つめた。
「だめ、だめよ。この先一歩でも足を踏み出したら最後、あなたは過去の世界 に迷い込み、引きずり込まれて、もう二度と現実の世界に戻って来られない… …」
 突然悪寒に襲われたように、ブルブルッと大きく体を震わせた。首筋のあた りに、冷たいものがツーッと流れ落ちてくる。
 彰はしばらくの間、その場でじっと立ち尽くしていた。
 とてつもなく長い時間だったような気もするし、つかの間の出来事だったよ うな気もする。
 やがて彰は佐倉高の建つ鍋山を後にして、坂道をゆっくりと下り始めた。坂 道を半分ほど下った所で後ろを振り返った。空は既に濃い藍色に沈み込んでい る。佐倉高をこんもりと包む森は、まるで巨大な暗闇が息をひそめて 翼を休めているように見える。
 彰はふーっと息をはくと、再び広い舗装道路の長い坂道を下りていった。や がて右手方向に明るい光とともに京成佐倉駅が見えてきた。
 駅近くになって初めて腹が空いていることに気づき、ファミリーレストラン に入った。生ビールが喉にしみる。
 ― あれは一体なんだろう? ―
 考えながら、見るとはなしに外を見ていると、佐倉駅からは大勢の人が続々 と吐き出されてくる。中でも浴衣姿の若い女の子が目立った。
「今日は、何か特別なことでもあるんですか?」
 レジで会計する時に彰は尋ねた。
「印旛沼の花火大会ですよ。お客さん、御存じなかったんですか? 何せ二万 発の花火が打ち上げられるんですから。墨田川なんてめじゃあないっすよ」
 まるで、自分のことのように自慢気に店の若い店員が答える。
「水中花火や二尺玉は最高ですよ。お客さん、ぜひ見物していったらどうです か?」
「二尺玉?」
「そう、二尺玉です。関東近辺じゃめったに見られない、それはそれはでっか い花火ですよ」
 店員の言葉は続く。勘定を済ますと、彰は店を出た。そうは勧められてもこ れから家まで帰るのには時間がかかる。花火見物する暇はない。
 駅の階段を上り、日暮里乗り換えの切符を買った。上りホームも下りホーム も人、人、人でごった返している。
「まもなく上り方面に特急上野行きがまいります。白線の内側に下がってお待 ちください」
 構内アナウンスが流れる。
 もうしばらくは、この地を訪れることもないだろう。そう思いながら、ふと 下りのホームに目をやった。
 彰は、はっと息を飲んだ。下りホームの真ん中付近に玲子の姿が見える。小 柄で、華奢で、長いさらさらした髪にくりくりした目。あれは確かに玲子だ。
佐倉高校の制服を着て黒いカバンを抱え、俯むきかげんでベンチに腰掛けてい る。白いとがった顎に、長い睫。寂しげなその表情。
「れいこ!」
 思わず大きな声をかけた瞬間、下りのスカイライナーが目の前を飛ぶように 滑りぬけていった。窓と窓の間に、彼女の姿が切れ切れに飛んで見える。彰は、 玲子を見失うまいと思い切りホームの先端に身を乗り出した。
「プオーン、プオーン、プオン」
 甲高い警笛が鳴り響いて、彰の鼻先に上り特急上野行きが滑り込んでくる。
「れ・い・こー」
 彰の声はまたもや轟音をたてる電車の音にたちまちかき消された。
 彰は目を凝らした。すれ違う電車のために、向こう側のホームを見渡すことが できない。見えるのは流れる窓ばかりだ。
 もどかしいばかりにゆっくりと、停止した特急電車に飛び乗って、反対側のド アに額をくっつけるように隣のホームをのぞきこんだ。
 玲子が座っていたはずのベンチに、すでに彼女の姿はなかった。そこには年配 の夫婦とその子供と思われる中学生ぐらいの男の子が座っている。ベンチの近 辺にも彼女はいない。
 あれは幻だったのか?
 彰はがっくりと肩を落とした。一日の疲労がどっと押し寄せてくる。
 けれども一方で、最後の最後に玲子に会えたという満足感で一杯だった。たと えそれが幻であったとしても・・・故郷に、自分の青春が確かに息づき、存在 したんだと確認したことで、これから先、豊かな気持ちで生きて行けるような 気がした。今まで探し続けていた何かが、ようやく見つかったような気がする ・・・
 その時だ。
「ドーン!」
 窓の外の薄暗がりの中でいきなり大きな音がした。
 車中の誰もが、一斉に音のする窓の方に目を向けた。
「ヒュルヒュルヒュルヒュル・・・」
 真っ黒な印旛沼の湖面から、一本の光の玉が昇り竜のように体をくねらせなが ら中天を目指して上がっていく。
「ド、ドーン」
 腹に響く音と共に、夜空に真っ白な大輪の菊の花が開いた。乗客たちは一斉に 「ホーッ」と感嘆の声をあげる。電車は花火に合わせ、ゆっくりと徐行運転に 切り替えている。
 空一杯に広がった菊の花は、次第に小さな花びらとなってチカチカチカと光り ながら、次々と夜空に吸い込まれていく。
 真っ暗な夜空を見つめている彰の瞳の中には、いつまでも佐倉のきらめく花火 が映っていた。

                            終わり

 あとがき

 こんなに長い期間、連載するとは当初考えてもみませんでした。中盤に差しか かる頃、癌が見つかり手術をしました。また、母が倒れ入院し、退院後も続け て二度の骨折で一時は寝たきりの介護も覚悟したほどです。その母の介護は姉 たちと、介護保険で公の皆さんの手助けもあって、何とか切り抜けてきました。 幸い母は寝たきりにはならずに済みました。私はこのたった二年間で、人生の 曲がり角を何度も経験しながらこの小説を書き進めて参りました。連載を読ん でくださっている方々におきましては、話の進行が途切れてご迷惑をおかけい たしましたことを深くお詫び申し上げます。
 インターネット図書館での小説連載は初めての体験ではありましたが、とても 楽しく書き進めることができました。高校時代の友人数人と沖縄旅行した時も、 ホテルのパソコンで検索して自分の小説に出会ったときは(当たり前のことで あっても)、やっぱりとっても感動いたしました。
 人は誰でも、大切な思い出を一つくらいは心の小箱にしまってあるのではないで しょうか?そして、そんな切ない思い出は、死ぬまで鮮烈に心の奥底で生き続け ているのです。そんな切ない想いをこの小説に託しました。もし機会がありまし たら立原道造の『夏の弔い』という詩をお読みください。ここからヒントをいた だいて『城下町慕情』を書きました。
 この作品を、佐倉を愛する方々と、佐倉高出身の方々と、そして『満開佐倉文庫』 の読書の方々へお贈り致します。
 またパソコンが使えない私の原稿を毎回打ち込んでくださった館主様にも、この 場を借りまして改めてお礼を申し上げます。長い間、本当にありがとうございまし た。

                          黒田碧

(2007年3月18日 掲載)

   

トップページ