小説 城下町慕情

館主の友人、黒田 碧さんの作品です。本文は執筆中ですが、著作が黒田さんにありますので、引用はご遠慮ください。

11
 − 食ふべきか、食わざるべきか。それが問題だ・・・・ 『あら、彰クン、口が臭いわ』なんて玲子に言われたらどうしよう −
 俺の箸は宙に浮いたままだ。
− 今日あたり、玲子に手紙が届いていることを告げなければ。それとも、返事を書いたほうがいいのか。 このまま放っておいたら、彼女は、きっと俺に無視されたと思うだろう −
「あらやだ、彰ったら、それソースじゃない」
 母親の声にハッと我に返った。俺はあわててソースの瓶をテーブルに戻した。しかし時すでに遅し。納豆の上にはソースがたっぷりとかかっている。
「どうしたの?この頃変よ。ご飯の時も、上の空じゃないの。おかわりだってしないし」
「お兄ちゃん、恋でもしてんじゃないの?いつもは、寝癖も水でシャッシャッと直していっちゃうくせに、  この頃、洗面所の前でいつまでも髪型を気にしているんだもん。お陰で、私は歯磨きができずに学校に遅刻しそうになってるんだよ」
 聡子が、ニヤニヤしながら俺の顔をのぞき込む。
 それまで新聞に目を落としていたおやじが、ジロリと俺を見た。
「えっ、どんな娘?そのうちお母さんにも紹介してくれる?」
「見たい、見たい。私も見たいよう」
「じゃあ、俺も会ってみるかな?将来の彰の嫁さん候補にな」
 カシャカシャ音を立てて新聞を折りたたみながら、おやじも口をはさむ。
 一体なんていう家族だ。
「ごちそうさん」
 ご飯を半分残して俺は席を立った。立ち上がり様、妹の頭をコツンと小突いた。
「痛いよう、お兄ちゃんがぶったあ」
 聡子が大げさに叫んで、頭に手をやる。まったく、小学生の分際で高校生の兄貴をからかうなんて十年早い。
 二階に駆け上がりながら、さっきの続きを考えていた。今日こそ玲子に何らかのアクションを起こさなければ・・・・

(2005年9月1日 掲載)



12
 玄関のドアーをパタンと後ろ手で閉めた。中からおふくろの声がする。
「あらあら、いってきますも言わないなんで、怒っちゃたのかしらねえ」
「まあ難しい年頃だからな、ハッハッハ」
 おやじの笑い声も聞こえてくる。
 ほっといてくれ。お願いだから俺の恋愛でそんなに盛り上がらないでくれよ。お陰で今日も手紙を書き損ねてしまっただろう、まったくどうしてくれるんだよ。せっかく玲子からいい感じで手紙をもらったのに・・・
 家族が仲がいいってのも、こんな時は考えもんだよ。俺のプライバシーはいったいどこにあるんだ。
 ブツブツつぶやきながら、下を向いて歩いていたら、突然後ろから声をかけられた。
「本宮さん、おはようございます」
 声をかけたのは、女子剣道部の部長川崎よしみだった。
「すごいですねえ、一年生なのに団体戦にも、個人戦にも出られるんですってねえ。小さいころから剣道を習っていたの?」
 この夏、県大会に出場することをいっているらしい。
「はあ、まあ」
 佐倉高一のマドンナにいきなり声をかけられて、俺は自分で何を言っているのか分からなくなってドギマギしてしまった。
「あなたの足さばき、すきがなくって。私いつもほれぼれと見ているのよ。県大会には女子剣道部みんなで応援しに行くから。頑張ってね」
 マドンナが俺に向かってウインクして見せた。
 ちょうどそのとき、マドンナの脇をすり抜けるように追い越していく人影が目に入った。玲子だ。確かに玲子だ。玲子は、マドンナのウインクを見てしまっただろうか?
 俺とマドンナの仲を勘違いしなかっただろうか?
 玲子は俺たちから逃れるようにこ走りで駆けだした。
 最悪のパターンだ。俺は呆然と玲子の後ろ姿を見つめていた。
「どうしちゃったの? 急にボウッとして」
 俺の目の前でマドンナが手をヒラヒラさせた。
「私たち女子部の分まで頑張ってよ。約束よ。ほら、指を出して」
 マドンナは俺の小指を取って、強引に自分の指と絡ませて指切りした。俺は彼女になされるまま、指をブラブラさせた。
 そしていつの間にか何となく、俺はマドンナと連れ立って歩いているような格好になってしまっていた。

(2005年9月2日 掲載)



13
「ねえ、ところでさあ、彰クン。あなたには兄弟がいるの?」
 よしみの黒く大きな瞳が突然、俺の顔をのぞき込んだ。
「えっ、まあ、妹が一人・・・」
 まっすぐに見つめる彼女の瞳がまぶしくて、思わず俺は目を伏せた。
「まあ、いいわねえ。きっと可愛いんでしょうね、妹さん」
「そんなことはないっすよ、小学生のくせに生意気で・・・」
 今朝がたの、聡子のませた口の聞き方を思い出す。
「いいなあ、兄と妹か。うらやましい」
 俺の言葉が聞こえたのか聞こえなかったのか、よしみはそのつんととがった あごをクィッと上げると、鍋山のてっぺんにある校舎の屋根の向こうに広がる 青い空を仰ぎ見て、小さく息をフウッーと吹いた。
「俺は兄貴が欲しかったから。妹なんか、うるさくてめんどくさいだけですよ」
「そう?口ではそういっても、本当はすごく可愛いんじゃないの?年が離れているんだもの」
 先に立って歩きだしたよしみの、一つに束ねた黒髪が、歩く度に右に左に揺れている。 揺れる度に、石けんの香りが漂ってきて、俺の鼻をくすぐった。
「じゃあ、頑張ってね、県大会」
 彼女は振り向きざま俺のおでこをチョンと一つつついて、制服のスカートの箱ひだをフワリとふくらませると 校門めがけて走りだした。
 ひとり取り残された俺はあっけにとられて彼女の後ろ姿を見送った。同じ剣道部だとはいっても、 学年も違うよしみとは口をきいたこともない。ましてや佐倉校のマドンナと呼ばれるよしみは男嫌いという評判だった。
なぜ突然年下の俺なんかに声をかけてきたんだろう?
 そんなことを考えながら、上履きにはきかえて、階段を駆け上がり、1年D組のドアーを開けた。立て付けの悪いドアーは 開け閉めする度にギギギーッと悲鳴を上げる。
 開けたとたん、
「ヒュー、ヒュー、ヒュー」
「いよっ、色男登場!」
 冷やかしの言葉が俺を目がけて飛んできた。
「見たぞ、見たぞ」
「今日は年上のマドンナと同伴出勤ですか?」
「おまえも隅におけないなあ」
 机の上に尻を乗せたクラスメートが口々にはやしたてる。
「いや、そんなんじゃないんだ・・・」
 言い訳がましくそういいながら、俺は廊下側の席に座っている玲子に目をやった。 俺のほうをチラリチラリと見ている女子の中で、ただ一人、玲子だけは周りの声など聞こえない 様子で教科書を広げ、前を向いたままだった。
 玲子の背中には、俺自身を頑なに拒絶するように、俺が向けた視線を冷たくはね返した。

(2005年11月12日 掲載)



14
 何としても、今日こそは玲子をバックネット裏に呼び出して、手紙と本のお礼を言おうと決心していた矢先の出来事だった。まさか、こんな展開になるなんて考えもしなかった。
 たまたま、よしみ先輩と親しそうにしているそのそばを玲子が通りかかる − こんな間が悪いことが現実に起こるなんて・・・
 − 誤解だよ。俺とよしみ先輩とはそんなんじゃないんだ。彼女とは今日初めて口をきいたんだ。それも向こうから突然話しかけてきたんだ。お願いだから玲子、俺の話を聞いてくれ −
 心の中で何度も俺は玲子に語りかけた。
 朝のホームルーム、一時限目のリーダー、二時限目の生物、三時限目の古文・・・
 いつもは俺が冗談を言うと、クラスのみんなが笑い、玲子も後ろを振り向いてにっこり笑いかけてくれるのに、今日の玲子は前を向いたまま微動だにしない。
 授業時間がやけに長く感じる。そして昼食の時間になった。大好物のハンバーグが入っているのに、ちっとも箸が進まない。
「おやおや、マドンナのことを想うと、ご飯も喉を通りませんか?色男は辛いね。恋しい恋しいマドンナ様・・・」
 隣の席の正木が俺の弁当箱をのぞきこんで、ひょうきんな声を立ててまたみんなをあおりたてる。
 − せっかくほとぼりがおさまりかけたというのに、何ていう男だ −
「男嫌いのマドンナ様の攻略法を、この私めにも伝授願いたいものですなあ」
 − いい加減にしろ、この下司野郎が! 俺の気持ちも知らないで −
 喉もとまででかかって、正木の前に立ち上がろうとしたそのときだった。
「玲子、お客さんだよ」
 かおりが訳ありげに、ニヤニヤ笑いながら、玲子の背中をつついた。とたんに俺の意識は正木から玲子のほうに移る。あの入学以来、玲子とかおりはいつも一緒にいた。
 教室のドアーの向こうに誰か来ているらしい。
「だれ?」
「まあまあ、いいから、いいから。ほら、急いで」
 かおりに急かされた玲子は、それでもゆっくりと席を立った。そして二人は連れ立ってドアーの外に姿を消した。
 何だか訳が分からなかったが、胸騒ぎがした。玲子にお客さんっていったい誰なんだ。あのかおりの意味深な口振りが気になる −
 しばらくして、頬を真っ赤に染めた玲子が、手に小さなすずらんの花束を持って教室に戻ってきた。後ろからついてきたかおりまで顔を上気させている。
「何てロマンチックなんでしょう。玲子のお誕生日にすずらんの花束をプレゼントするなんて」
 まるで自分がもらったようにかおりはうっとりして、夢見る乙女状態だ。
「ううん、いい香りだわ。これはまさしく恋の告白だわ。それも生徒会長よ」
「違うの、そんなんじゃないってばあ」
 玲子が首を振る。
「これが告白じゃないって? そんなこと誰が信じる?」
「これは、あの時の御礼だと思う・・・」
 うつむき加減で小さく答える玲子の声が俺の耳にも聞こえてくる。
「あの時って?」
「ほら、この間、誰かが雑巾バケツをひっくり返して、一階の生徒会室が水浸しになったことがあったでしょう」
「ああ、あの時ね。あれは本当は、正木君がふざけてて、その拍子に足でバケツを蹴飛ばしてひっくり返したのよね。そうでしょ、正木君」
 いきなり名指しされた正木は、かおりと玲子の話を聞いていたくせにそらっとぼけて、「ハアッ?」と訳が分からない振りをした。
「うちの教室、古いから床からもスースー風が通ってくるんだもの、水なんかこぼしたらたまらないわ、そのまま下の階までビシャビシャだわね。確かあの時、あの生徒会長が血相を変えて、『いったい誰が水をこぼしたんですか?生徒会室が水浸しです』ってどなり込んできたんじゃなかったっけ?」
「誰も自分ですって言わなかったから、余計に怒っちゃったのよ」
 玲子の言葉に、かおりはまた、正木の顔をにらみつけた。正木は、かおりににらまれた瞬間視線をそらすと、今度は窓の外を見ている振りをした。
「わたし、掃除当番の班長だったから、あらためて謝ろうと思って放課後に生徒会室を訪ねたの。そしたら会長さんがあんなに怒ったのには訳があったそうで、それを説明してくれてね、実はあの日、生徒会の議事録を徹夜して書き終えて、ようやくホッとしていたのに、あの事件でその大事な書類がビショビショになっちゃったんですって。わたしそれを聞いて、申し訳ないと思ったから、その議事録を書き直すお手伝いをしたのよ」
「へえーっ、玲子らしい」
 しきりに感心したようにかおりがうなづく。
「だからその時の御礼だと思うわ。きっとそうよ」
「ふうん、でもね、やっぱり私は違うと思う。花束を渡す時の顔を、わたしちゃんと見ていたもん。あれは、感謝の眼差しとは違うよ。あれは玲子に恋をしている目だよ。絶対にそう、間違いない」
 かおりの最後の言葉は鋭い刃となって、グサリと俺の胸にとどめを刺した。

(2005年12月3日 掲載)



15
 午後の授業は最悪だった。先生の話なんかちっとも耳に入らない。
 相手は年上の、しかも生徒会長だ。とうてい勝ち目はない。そのうえ彼は玲子の誕生日まで知っていた。それにひきかえ俺は、彼女のことは何も知らないことに気づいた。同じクラスにいるのに、目の前にいる玲子だけしか見ていなかった・・・
 おまけに衆人の前で堂々と玲子に花束を渡して自分の気持ちを告白した彼の勇気に、完全に一本取られた心境だった。彼は、恥ずかしいということよりも、回りの人の目を考えることよりも、玲子に自分の想いを伝えたいという気持ちのほうが強かったのだろう。俺にはとてもそんな度胸はない。
 − 負けた・・・ −
 玲子はすずらんの花は好きなんだろうか?
 花をもらって嬉しかったんだろうか?
 生徒会長のことをどう思っているんだろうか?
 俺はもう玲子の後ろ姿を見る気力もなくしていた。

「腹が痛いから部活は休む。悪いけど、部長にそう伝えといてくれないか?」
 授業終了のベルが鳴ると同時に、同じ剣道部の正木に声をかけた。
「ああ、分かった。伝えとくよ」
 いつもは俺の言葉に必ず突っ込みを入れる正木が今日はやけに正直に答えた。
 俺は足を引きずるようにして教室を出た。体が重い。心が重いと体もこんなに重いのか・・・。
 カバンを持ち直して何気なく顔を上げたときに、廊下の窓にもたれかかってうつむき加減で外を見ている正木の姿が目に入った。何か考え込んでいる様子だ。おかしい。何か変だ。いつもの正木らしくない。正木もどこか体の調子でも悪いんだろうか?

 京成佐倉駅のホームで、上りの各駅停車の電車を待つ。下りホームの向こう側の山裾に、二頭の牛がつながれている。足元の草をのんびりと食べながらそのうちの一頭が「モーッ」と一声鳴いた。
 − おまえら、いいなあ。食っちゃ寝しているだけでいいんだから。なあんにも考えてないんだろう。うらやましいよ、おまえらが・・・ −
 玲子から手紙をもらって早くお礼を言わなければと思いながら、とうとう一週間もたってしまった。
「サンキュー」
 この一言でことは済むというのに。
 何で男らしくきっぱりと言えないのだ。
 − おい、どうした、本宮。剣道の試合のときのおまえのキレはいったいどこへいった −
 もし、こんなにも玲子のことを好きじゃなければ気軽に言えただろう。
「サンキュー、南雲!」 − と。
 今の俺にとっては、この一言が鉛の塊のようにずっしりと腹の底に沈みこんでいる。それがプカリと浮んで俺の口をついて出てくるのはいつなのか?
 こんなめめしい俺に、玲子を好きになる資格があるのか?
 考えれば考えるほど胸が苦しくなってくる。
 いつの間にか一頭の牛が座り込んでいた。目をつぶってうつらうつらしている。腹が一杯になったのか?
 その時、さっき鳴いた牛が後ろ足をつっぱって、ボタボタボタと糞をし始めた。遠く離れているここまで、そのベチャベチャな糞が見てとれる。
「あっ、まずい」
 俺はとっさに自分の鼻を押さえこんだ。鼻を押さえながら、思わず「ククッ」っと笑ってしまった。
 その瞬間まで悶々と悩んでいた俺だった。
 現実なんてそんなものなんだろう。俺の内面の思いなんかとは全然関係なく周りではいろんなことが起こっていく。今も、そしてこれからも・・・・
「間もなく各駅停車上野行きが参ります。ホームでお待ちの方は白線の内側まで下がってお待ちください」
 アナウンスが響き、ハッと我に返った。
 緩いカーブの向こうから、普段見慣れている電車がホームに滑りこんできた。

(2006年1月3日 掲載)



16
 玄関のドアーが開く音に気づいた母親が台所から顔を出した。
「あら、ずいぶん早いじゃあないの?どうしたの?」
「・・・・・・・」
「具合でも悪いの? 部活を休むなんて珍しいじゃないの? 熱でもあるんじゃないの? どれどれ」
 台所で洗い物でもしていたのだろうか、濡れた手をエプロンで拭きながら、母のその手がおでこにすっと伸びてきた。
 瞬間、俺はその手を邪険に払いのけた。
「何でもないってば」
 あっけにとられて目を丸くしている母親を残して、俺は階段を駆け上がり自分の部屋に入るなりカバンを投げ出してベッドの上に倒れ込んだ。
 寝っころがって天井を見上げていたら、部屋の隅にある木目まで玲子の横顔に見えてくる。そういわれてみると、何だか体の芯が熱っぽいような気もしてきた。これはかなりの重傷だ。人を想うってことは、こんなにも苦しいことなのか?
 朝も、昼も、夜も、いつも玲子のことが頭から離れない。玲子の肩までかかるさらさらした黒髪、子鹿のようにクルクル回る茶色がかった大きな瞳、クックックッとすぐに笑いだす笑い上戸なところ。小さなふっくらとした唇・・・・・
 俺はいったいどうしちゃったんだ。今俺の心の中はすべて玲子が占領している。玲子は俺のことをどう思っているのか? あの手紙では、結構いい感じだと思っていたのに。
 俺はベットからゆっくり立ち上がって、机の引き出しの奥から玲子の手紙を取り出した。この手紙をもらった日から、何度読み返したことだろう。
 手紙の向こう側で、「彰君、私も彰君のことが好きよ」とほほえんでいる玲子が見える。
 告白できない俺は、何て意気地がないんだ。
 机の上には、解きかけの因数分解のノートが広げてあった。その横罫が引いてある隅にれいこと書いてみる。れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ、れいこ・・・・・
 数字の上にも、れいこという字がどんどん重なっていく。あっという間にノートはれいこという字でいっぱいになった。
 ノートも、俺の心の中も、玲子で氾濫している。

(2006年1月30日 掲載)



17
 夕飯を告げる母が何度もドアーをノックする。
「アキラ、アキラったらぁ、ご飯よ」
 だが、それ以上は入ってこられない。なぜかというと俺の部屋のドアーの外には進入禁止のマークが張ってあるからだ。
「ねえ、本当に大丈夫なの? 頭が痛いの? それともお腹が痛いの? 薬を飲む? それともお医者さんに行く?」
 ドアーの外で心配する母親を尻目にそれでも俺は知らんぷりを決めこんだ。
「ママ、もうほっといたら? 子供じゃないんだから。お腹が空いたら勝手に下りてきて冷蔵庫の中の物でも食べるよきっと……」
 聡子の声も聞こえてくる。
「でもあの子がご飯を食べないなんて、普通じゃないわよ。赤ちゃんの時から、どんなに熱があっても真っ赤になりながら離乳食をほおばっていた子よ」
「だからよ、だからね、大丈夫なんだってばさ。心配すんなって、ママ」
「だから? だからってどういう事?」
「まあ、まあ、ほっといてあげよう、たまにはこんな時もあるよ」
 やけにませた言い方で、聡子が母の背中を押して階段を下りていく。そんな姿が目に浮かぶ。二人の足音がだんだん遠ざかっていく。
 とうとう俺はその日、玲子の事で頭がいっぱいで何も食べずに布団をかぶって寝てしまった。
 翌朝はやけに早く目が覚めた。腹が減りすぎて目が覚めてしまったのだ。居間に下りていくと、母親が心配そうに眉をしかめて俺の顔をのぞき込む。
「おはよう、具合はどう? 直ったの?」
「ああ、まあな…」
 何となく気まずい思いで目を伏せる俺に、家族全員の目が注がれる。
「今日は少し暑くなりそうだな」
 まず父が口火を切る。
「今年は空梅雨って予報が出ていたものね」
 ご飯をよそりながら母親がそれに答える。
「せっかくかわいい傘を買ったのに……」
 聡子が口をとんがらせて生卵を激しくパシャパシャとかき混ぜた。
「なんだい、それは父さんが去年のクリスマスプレゼントに買ってやった、あれかい?」
「パパ、それいったいいつの話よ。パパが私に傘を買ってくれたのは三年生の時でしょう」
 言いながら妹はチラリチラリと俺を見る。
 本当はみんな、俺の話を聞きたくってうずうずしているくせにわざと差し障りのない話をして…… まったくみえみえなんだよ。
 どうしてうちの家族はみんながみんなこう分りやすいんだ。
 俺はその場の空気に、今にも息が詰まりそうになって、残ったご飯に味噌汁をぶっかけてズルズルとすすった。
「あらあら、お行儀が悪いわねぇ」
 半ばあきれながらも母親は、俺の食欲が戻った事を喜んでいるようだった。
「ごちそうさん」
 箸を置いて俺は席を立つ。
 教科書をカバンに突っ込みながら、うちの家族はあらためて密度の濃い家族だとそう思った。ちょっとうっとおしいなあとも思った。

 その日の三時限目は数学だった。数学の教師の名は渡辺といったが、誰もその名で呼ぶことはない。なぜかというと、その原因は 教師の風貌にあった。まだ三十代半ばだと思われるのに、頭頂部にはほんのチョビチョビとわずかばかりの頭髪しか残っておらず、 いつもそれが天に向かってピョンと跳ね上がっている。巷の噂によると彼はいまだ独身であるという。髪の乱れを注意する人もいなくて 気の毒な人だと女生徒の間ではもっぱら同情されていた。
 おまけに極度の近眼らしく、いつもレンズにグルグルと渦が巻いているような分厚い眼鏡をかけている。
 それらの風貌から、彼は俺たちから『火星ちゃん』と呼ばれていた。『火星ちゃん』は、授業中よく 黒板の前で一人立ち往生する事があった。腕を組んだまま「ウーン」とうなってその場に凍りついたように動かなくなる。
 その時も、『火星ちゃん』の手が、白墨で「AX2」と書いて止まったまま数分がたっていた。俺たちは、次に書かれる文字を 息を詰めてただ黙って見守っていた。
 沈黙が破られたのはその時だ。「ヒャーッ」
 その声があがったかあがらないかの瞬間、それまで俺の隣の席で教科書を立てて、黙々と早弁をしていた正木が持っていた箸の一本を コロコロっと床に投げ出した。
『火星ちゃん』が振り返って、生徒を見回した時、
「あれっ、鉛筆が転がっちゃったぁ」
 正木がすっとんきょうな声を上げた。
 クスッ、クスッ。女生徒の笑い声が漏れてくる。こちら側からは何もかもお見通しだ。
 正木は素早く弁当を机の中にしまいこむと、転がっていた箸を捜そうとして席を立った。
「あれっ、僕の鉛筆、どこに行っちゃったのかなあ?」
 かすかに教壇に向かって傾斜している床板のせいで、正木の箸は『火星ちゃん』の足元でピタリと止まった。
 近眼の『火星ちゃん』は、それが箸だとは気づかない。 「あった、あった、僕の鉛筆だ」
 正木が手を伸ばした時、何かがピョン3と飛んで『火星ちゃん』が履いていた紫色の便所スリッパに飛びついた。
「何じゃ、これは?」
 メガネのつるに手をやって、『火星ちゃん』がスリッパに目を近づけた時、その緑色の物体がジャンプしてペチャリとレンズに張り付いた。
「ウヒャーッ」
 叫ぶなり『火星ちゃん』はいきなり後ろに大きくのけぞった。
「誰か、誰か、アワワワーッ」
 同時に、ガタリと椅子が倒れる大きな音がした。誰かが素早く『火星ちゃん』に駆け寄り、その緑色の小さな物体を素手で捕まえた。
 その手は以外にも、小さく白い女の子の手……
 何とそれは玲子だった。
 そして玲子は大事そうに緑色の生き物を両手で包み込むと、教室からそのまま出ていってしまった。まるで早回しの映画でも見ているような、 あっという間の出来事だった。
 しばらくしてようやく気をとり直した『火星ちゃん』は、汚れてしまったズボンの尻のあたりをしきりに気にしてはたきながら、教室中 をグルリとにらみつけた。
「カ、カ、カエルはいけませんよカエルは」

(2006年3月2日 掲載)



18
 興奮のために、火星ちゃんの声は完全に裏返っている。おまけに、いつもの色白な顔が、まるで火をふいたように真っ赤だ。
「わ、わたしは、虫けらの中でも、と、特に爬虫類がだいっきらいなんだ。そ、それなのにこ、こともあろうにカ、カエルを教室に 持ち込むなど・・・・・・」
 虫だの、爬虫類だの、支離滅裂な言葉を発しながら体はブルブル震えている。
―これはまずい、本当に怒っちゃったみたいだ―
「さあ、だ、誰がやったのか、は、白状しなさい」
 普段見せたことのない先生の迫力に、クラスの誰もがうつむいたまま顔を上げようとしない。教室中がシーンと静まり返った。
 そして、火星ちゃんは震える手で一張羅の背広の裾でメガネを神経質にゴシゴシ拭きはじめた。メガネを取るとそこには以外に小さい目があった。 その小さな目は教室をグルリと見回した後に、俺の頭の上でピタリと止まった。
「そ、それでは、あのカエルを持ち込んだのは、こ、このクラスにはいないというんだな。それじゃなんだ、あのカ、カエルは、自分で この私の数学の授業をき、聞きたくて、教室にのこのこと入って来たとそ、そういうんだな、本宮」
―こんなときに俺の名を呼ぶなよ―
 俺はとっさに亀のように首を引っ込めた。
「分った、おまえたちの考えは。じゃあ、私にも考えがあるぞ。つ、次の期末テストは、授業態度が悪かったということで全員30点引だ、 いいな、全員だぞ。100点の奴は70点、60点の奴は30点だ」
いきなり教室中がザワザワし始めた。お互いに顔を見合わせる。
 その生徒の反応を見て、火星ちゃんはニヤリと笑った。
―おまえこそヘビのような奴だ―
 そう思ったときだ。
「おれがやりました」
 スクッと立ちあがった奴がいた。正木だ。
「すみません、ついやってしまいました。先生をちょっとからかおうとしただけなのに、あんなに驚くとは思わなかったものだから」
―何を寝ぼけたことを言ってんだ。おまえは飯を食ってたんじゃあないか―
 思わず叫びそうになって、正木のズボンのポケットのあたりを引っ張った。
正木は、素早く俺の手を払うと、教壇に向かって頭をさげた。
「ほんとにすいません」
「お、おまえか。やっぱりな。俺もはじめからおまえだと思っていたよ。こんな馬鹿なことをするのはおまえしかいないものな」
 何を言われても、正木はいつになく神妙な顔付きで頭を下げたままだ。
「いいな、正木。カエル何ぞ教室に持ち込んだ罰だ。今度のおまえのテストは取った点から30点引くぞ。せいぜい、赤点を取らない ように気をつけるんだな。さあ、授業の邪魔だ。おまえは廊下で少し頭を冷やしてこい」
 火星ちゃんは、メガネをかけ直すとエヘンとひとつ咳払いをして廊下のほうを指さした。
 とうとう正木は教室から追い出されることになってしまった。彼が教室のドアーを開けたとき、入れ違いざまに玲子が教室に戻って来た。 玲子は正木とすれ違うときに、一瞬だけ「あれっ」という顔をした。
 それに対して、正木は小さな、ほんとに聞き取れないぐらいの小さな声で「ドンマイ」と囁いた。それに気づいたのは多分俺一人だったと 思う。俺は正木の口の動きだけで聞き取ったのだから。
 火星ちゃんは、玲子が教室に戻って来たのを確かめると、メガネに手をやり、背筋をピンと伸ばすとおもむろに口を開いた。
「君は、女の子なのに勇気があるねえ。あのカエルを外に捨てに行ってくれたんだね。それに引き換え、あの正木って奴は全く とんでもないことばっかりしでかす奴で・・・・・・」
「えっ」
思わずあげた声に自分でもびっくりしたのか、玲子は両手を口にあてた。
「白状したんだよ。自分がカエルを教室に持ち込んだことを。今、廊下で頭を冷やして来いって言ったところだ」
 火星ちゃんの言葉に、なぜか玲子は顔を真っ赤に染めてうつむいたまま顔をあげようとしない。
 授業は正木の席が空席のままで、何事もなかったように進められていった。
 その間も、玲子はしきりに廊下のほうを心配そうにのぞき込んでいる。
 一体何がどうなっているのか?正木、おまえはあのとき、弁当を食べるのに夢中だったじゃないか。カエル何ぞ持ち込んだのは おまえじゃないだろう。
おまえが箸を投げたとき、確か「ヒャッ」と声をあげたものがいたよな。あれは、確かに女の声だった。 そういえば、聞き覚えのある・・・・・・
 俺の頭の中は、何がなんだかわからなくなってもうグチャグチャだ。

(2006年4月3日 掲載)



19
 「本日は、授業に邪魔が入ってしまって諸君たちには大変迷惑をかけたが、これで正木もしっかりと反省することだろう。 ところでだ。そうだな、正木がいない間に進んだ分は本宮、おまえのノートを見せてやれ、いいな」
 カエルの恐怖で一時はかなり動転していた火星ちゃんも、授業が終わるころにはすっかり落ち着きを取り戻していた。
「わたしも、なるべくならこのクラスから赤点を出したくないからな」
 火星ちゃんはそう言うと、エヘンとひとつ咳払いをしてからおもむろに数学の本をパタンと閉じると足早に教室から出て行った。
 その後を追うようにあわてた様子で玲子も教室を出て行く。俺も玲子の後に続いた。正木は、窓の外を見ていた。中庭の銀杏の木は 白い幹に浅い緑色の小さな葉をつけて、風に揺れている。
「正木君、ごめんね」
 玲子の声に、正木の背中がピクッと震えた。
「ごめんね、わたしの身代わりになってくれたの?わたしがやったって今から先生に言ってくるから」
 玲子がきびすを返したそのとき、正木が振り返って玲子の細い腕をつかんだ。
「やめな、やめな。もうすんじまったことだよ。今からまた蒸し返したら、『じゃあ正木、おまえはどうして自分がやったなどと 嘘をついたんだ』なんてまたややこしいことになって怒られるのが関の山さ。どうせ怒られるのなら二人よりも一人の方がいいだろう? 第一身代わりなんてオーバーだよ。どうせおいらは数学苦手だしよ。まともにやってもせいぜい赤点すれすれだもん。」
 正木はそう言いながら、そのときになって初めて気が付いたようにつかんでいた玲子の腕をさっと離した。うつむいている正木の顔が 真っ赤になっているのが俺のところからもよく見える。
「でもそれじゃあ・・・・・・・」
「いいって事よ。まあ、何とかなるさ。ああ見えて火星ちゃんは怒りっぽいところもあるけど、結構面倒見もいいんだぜ。 赤点とりそうな時は、そっと呼び出して補講何ぞしてくれるんだから。だから気にしない、気にしない」
玲子の前で、何度も手を横に振ると、
「もう、この話はおしまい!」
 そう言って、正木は階段を走り降りて行ってしまった。
 その後ろ姿を呆然と見ている玲子の肩を、ポンと叩いたものがいる。かおりだ。
「いったいどうしちゃったのよう?あれは玲子がやったんでしょう?何で正木君がやったなんて言ったの?」
「なんでだかわかんない・・・・・・」
「どうして授業中にカエル何か持ち込んだのよ」
「さっきの休み時間に東郷池へ行ったら、アマガエルの赤ちゃんがいっぱいいてあんまりかわいいから捕まえて手のひらに乗せて じっと観察していたの。光るようにきれいな緑色の皮膚で、クリクリっとした真っ黒な目でわたしを見るの。 その手がまたちっちゃくってかわいいのよ。一本一本の指の間にちゃんと水掻きがあってさあ・・・・・・」
「気持ち悪い、よくカエルなんか持てるわねえ。玲子って変!」
「カエルの皮膚はつるんというか、ぺとんというかまた気持ちいいんだから。そんなことをしていたら始業のベルがなったんで あわてて教室に戻ったら、手の中にカエルが入ったままだったのよ。何とか一時間手の中でおとなしくしててもらいたかったのに、 あのときカエルがおしっこしたの」
「きゃっ、とかひゃっとか玲子が叫んだ時?」
「そう。指の間からおしっこが漏れて、ノートがビショビショに・・・・・・」

 その後の会話は聞き取れなかった。俺は教室のドアーのところに寄り掛かったまま考えた。
 多分、正木は教師の目を盗みながら弁当を食べていたのだろうが、その目はいつも玲子に注がれていたのだろう。玲子の姿を いつも追っていたのは俺だけではなかった。だから、玲子がカエルを離してしまったときに、とっさにあんな行動ができたのだ。
 もしかして、もしかして・・・・・・ 正木、おまえもか?

(2006年5月5日 掲載)



 

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