日本の中の佐倉紀行 若き日に、日本の中にある佐倉(人)ゆかりの地を、いくつか訪れたことがある。それをミニコミ紙に発表していた。そして、発表した紙面は切り取ってスクラップしていた。今となっては懐かしい文章なので、ホームページに再掲載しようとスクラップを探したが、肝心の1冊目が見当たらない。2冊目は、平成5年4月18日号、第34回に始まる。 ミニコミ紙は月1回の発行だから、およそ3年前の平成2年ごろから書き始めたようだ。1冊目の内容が思い出せないが、現地を訪れたのは昭和時代であった。北海道の士幌町のことも書いてあったが、見当たらない。士幌町のことを書かずに進めるというのも気が引けるが仕方ない。おいそれとは士幌町に行けるほど近い距離ではない。 また、当時と風景や交通機関が変わってしまったところもあるだろうが、いちいち確かめることはしない。昭和末期から平成初期の時代をベースにしながら、新しく訪れた土地を含めて書いてみたい。 第4話 横浜市 1 横浜といえば、港を思い浮かべる。それも国際港として。 横浜が海外に開かれた港となったのは、日米修好通商条約が結ばれた安政5年(1858)であった。以来、横浜に外国人が居留し、また、日本人が海外に渡航するさいの港となった。 外国人が横浜に居留すると、幕府は外国人居留区を警護することとなり、佐倉藩にも命があった。佐倉藩は、文久2年(1862)5月から1年間、居留区に入る前田橋、谷戸橋を警護する。 この年8月、横浜付近の生麦村で、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件(生麦事件)が起こっている。佐倉藩士たちも緊迫の日々を過ごしたことだろう。 各地で攘夷が叫ばれる中、外国人が居留し、開かれてゆく横浜。この横浜にあこがれた人に、佐藤泰然がいた。泰然は、佐倉に順天堂を開設し、西洋医療と、教育にあたっていたが、横浜移住を考えていた。 文久2年3月、長崎で新しい医学を学んできた泰然の養子尚中が帰ってくると、尚中に順天堂を託し、横浜に向かった。しばらくして末子の董を呼び寄せ、泰然親子の横浜生活が始まる。 外国人居留地には、宣教師ヘボンが住んでいた。ヘボンは午前中、慈善医療を人々に施しており、泰然も時々出かけいっては、いっしょに治療を行っていた。 ある日、ヘボンのところへ、卵巣水腫の患者がやってきた。ヘボンは、 「難病なので、治療の方法がない。天に祈るだけだ」 というと、泰然は 「開腹手術をしてはどうだろうか」 と提案した。泰然は、すでに10年前に佐倉で手術をして成功していたのである。ヘボンはどうしても信じられないと答えた。当時の順天堂で行われていた医療水準の高さをうかがわせる話である。 泰然はヘボンとの交流を深める一方、董にはヘボン夫人クララの英語塾に学ばせた。塾には、尚中の長男、百太郎も学ぶこととなる。 ヘボンは、後に慶応3年(1867)、日本で最初の和英辞書を完成させるという仕事をするが、これに用いたローマ字は、いわゆるヘボン式のつづりの基となった。 さて、話は現在にもどる。JR関内駅から港に向かって、しばらく歩くと、ヘボン博士邸跡が見えてくる。泰然の家は、村上一郎氏の著書『蘭医佐藤泰然』によると、「殊にヘボンの家は、泰然の家から河を越えて堀割(居留地)39番目にあり、程近かったので」 とある。あまりに変わった街並みに、この文章を思い浮かべるだけである。 ただおもしろいことは、泰然が外国人居留区のヘボン邸に行くには谷戸橋を通り抜けるのが便利であり、橋のたもとの番所には佐倉藩士がいたことになる。泰然は、やすやすと番所を通過できたことだろう。泰然が横浜でこのような生活をしているころ、佐倉の順天堂には水戸の浪士が押しかけ、泰然が外国人とつきあうのはとんでもないので、佐倉に呼び戻せとまくしたて、塾生たちを困らせていた。 (2006年11月2日 掲載) 2 明治2年6月明治政府発行の海外旅行免状をもって進はドイツに留学することとなった。 進がドイツへの留学を思いたったのは、戊辰戦争を通じてであった。慶応4年(1868)1月、会津藩からの依頼を受け、江戸の会津藩邸で、鳥羽・伏見の戦いで負傷した藩士を治療した。そして、佐倉藩が官軍方につくと、今度は官軍方として、白河口方面(福島県)の奥羽追討陸軍病院頭取として治療にあたった。進が医療を施した福島県三春の病院には、西郷従道、大山元帥も傷の治療にきた。進は戊辰戦争時における治療を通じて、自分の医療の未熟さを感じ、また負傷者には、敵味方へだたりなく医療をほどこすべきだという考えが芽生えた。進24歳であった。奥羽追討の任を終えた進むが佐倉に帰着すると、まもなくドイツ留学を思い立った。 後に、日本はドイツ医学を導入すべきか、イギリス医学を導入すべきかの大議論となり、結局、ドイツ医学を導入することとなる。その選択はまちがっていなかったが、すでに進は、ドイツ医学がすぐれていることを知っていたのでいる。 進は、明治2年(1869)2月、ドイツ留学のため、佐倉を出発した。また、佐倉藩を通じて外国官(今の外務省)に欧州渡航の申請をだした。 横浜には、祖父に当たる佐藤泰然が住んでいた。進は泰然の家に泊まりながら、洋服を作ったり、崎陽亭という西洋料理店で洋食の食べ方をオランダ人医師に教えてもらった。このころ横浜には西洋料理店が一軒しかなかったと、谷紀三郎氏の著書『佐藤男爵』に記されている。 進はイギリス人から英語を習ったが、イギリス人は日本語を知らず、進は英語を知らず、お互いに最初は困ったという。 進が泰然に聞けば、英語塾を開いていたヘボン夫人を紹介でもしてくれたのではないかとも思う。ただ高谷道男氏の著書『ヘボン』をみると、ヘボンは明治2年2月から9月まで単身帰米とある。塾も閉鎖していたのだろうか。 海外旅行免状が発行されたのは、明治2年4月29日。出発は6月21日であった。 太平洋廻りのアメリカ船チャイナ号に乗り、ドイツに向かうのであるが、途中のサンフランシスコでは進の義弟百太郎がおり、案内をしてもらった。百太郎は、当時、雑貨店に勤めており、後に貿易商として博覧会開設に尽力し、日米間を往復する。そして、日本百貨店の元祖の功により、藍授褒章を受けた。 (2006年11月2日 掲載) 3 明治4年(1871)11月12日、右大臣岩倉具視を全権大使とする使節団が、太平洋会社の外輪船アメリカ号で横浜を出発した。 維新政府は、慶応4年(1868)、欧米各国に旧幕府の結んだ諸条約の継承を通告した。しかし、それは安政5年に旧幕府が結んだ不平等な条約を継承することでもあった。条文の一つは、外国人が裁判ざたを起こしても、裁判権が日本になかった。 このような不平等条約の改正をさぐる目的を岩倉使節団はもっていた。 この使節団一行に佐藤泰然の末子林董(数え年22歳)、順天堂を継いだ佐藤尚中の長男百太郎(18歳)、順天堂門人渡辺洪基(24歳)がいた。林董・渡辺洪基は二等書記官として、百太郎は通訳であった(村上一郎氏著書『蘭医佐藤泰然』)。 アメリカ号の乗員は、使節団の他、女子留学生5名が含まれていた。この女子留学生の中に、元佐倉藩士津田仙の娘梅子(8歳)もいた。帰国後、梅子は女子英学塾(現津田塾大学)を創設する。 後年、梅子は留学の動機を「どうしてその中に加えられたのかということもよくは存じませんでした」と読売新聞に回顧している。(明治35年4月6日付け)。それは父仙の意志であった。 仙は、佐倉藩で洋学を学び、慶応3年(1867)、小野友五郎の随員として福沢諭吉等と米国に渡った経験から、米国の様子を知っていたのである。また女子留学生の家は、すべて戊辰戦争で敗れた幕府方に加担していた。親は次の世代に期待をしたのであろうか。 一方、董は欧米視察の話を耳にして、伊藤博文に懇願しての乗船であった。 董は、戊辰戦争のとき、幕府方として行動し、五稜郭で投降して禁錮刑を受けた。明治3年4月、禁錮が解ける。翌年7月14日、廃藩置県となり、神奈川県に出任。 10月8日、使節団の話を聞く。伊藤博文が横浜に出張することを聞き、面会して使節の随行を請う。そして、翌月には荷物をまとめて出発するというあわただしさであった(由井正臣氏校注『君は昔の記』)。 出発当日の横浜は、政府の高官たちが渡航するとあって、見送りの人や見物人でごったがえしていた。 人々は、稚児まげに振袖姿の梅子らをみて 「随分物好きな親もあったものですね。あんな小さい娘さんをアメリカ三界にやるなんて。父親はともかく、母親の心はまるで鬼でしょう」 とささやいた(吉川利一氏著書『津田梅子伝』)。見送りにきたであろう仙夫婦に、この言葉は聞こえたのだろうか。 一方、泰然夫婦は前日に董と会った。しかし、当日は行き違いとなり、泰然夫婦が早朝より見送りにきたが、董はすでに船室で荷物の積み入れをおこなっていた。 当時、外輪船は岸まで着けられず沖に停泊していた。董が外輪船から顔を出したとて、とても見送りの泰然夫婦がわかる距離ではなかった。 泰然は翌年4月10日に肺炎で死去する。董は、アメリカで泰然の死を知らされ、出発当日に別れのあいさつをできなかったことを悔やんだ。 現在は大桟橋ができ、直接大型船に乗り込むことができるようになった。今も大桟橋では、さまざまな出発があるのだろう。 (2006年11月3日 掲載) 第3話 山形市 1 佐倉城の城主となる堀田正亮は、延享3年(1746)山形より転封となり、佐倉の地を踏む。正亮が佐倉へ移ってからも、前の領地の一部である羽州村山郡南部(山形市)は佐倉藩の飛び地とされてきた。村山郡南部の石高は4万石あり、佐倉藩11万石のうち3割強を占める重要な土地であった。 領地の中心である柏倉には陣屋が置かれ、佐倉から藩士が交代で任務にあたっていた。この藩士子弟の教育のために学問所が開設され、天保7年(1836)からは藩校成徳書院の分校として成徳北庠と称されるようになった。文久年間には藩士72名が陣屋内に住んでいた。 さて村山郡から集められた年貢米は、船町から小船で須川を下り、最上川との合流地大石田村で荷を積替え、最上川を下る。大石田村は、最上川河口の都市酒田と山形の中継地として発達した都内最大の船着場であった。 大石田村の領有権は、近世当初幕府と山形藩にあったが、延享3年以後、山形藩領分は佐倉藩領となり、山形藩の最上川水連に対する掌握権はなくなった。 また船町は村上郡流通機構の中心であり、米沢・山形・上ノ山方面から馬で運ばれてくる年貢米の集荷地でもあった。さらに紅花も出荷されるようになり、商業の発展を遂げた。 この船町も佐倉領であり、佐倉藩は最上川水連の二大中継拠点を確保していたことになる(木村礎・杉本敏夫遍著『譜代藩政の展開と明治維新』)。年貢米は酒田で御用達米仲買人に売り払われるものと、酒田から、江戸・大阪に回送され売り払われるものがあった。 慶応4年、戊辰戦争が勃発し、4月28日、山形藩の要請に応え、柏倉陣屋から官軍方として一分隊を派遣した。 戊辰戦争終了後、中央集権化構想を練っていた新政府は、各地にみられる飛び地の整理を計画した。 明治3年5月8日、佐倉藩に太政官より 「佐倉藩の飛び地である山形の地方を政府に納めること。その代替え地は後日聴く」 との命があった。この話は翌日、佐倉藩士で少参事となっていた依田学海に伝わった。 ところが、閏10月になっても、代替え地の話がこないのである。学海は太政官に行き、代替え地の話を訪ねた。すると 「諸藩は、代替え地の願いを収めて替わりを求めていない。そのため佐倉藩への代替え地も渡さない」 というのである。学海は約束を実行してもらうために、太政官に催促を繰り返した。 飛び地整理の話は山形県にも伝えられており、閏10月11日、山形より郡吏一人がきた。話は 「山形県に土地を渡すのに、その租税を佐倉藩で渡さなければなにもならないと知事が怒っている」 というのである。これに対して、佐倉藩にまだ代替え地が渡されていないから租税を渡せないのだと話した。しかし、話合いの末、結局山形県に渡すこととなった。 12月27日、太政官より書状が届き、佐倉藩に代替え地として、葛飾県管轄の千葉・印旛・埴生の3郡から4万石の地が渡されることとなった。(依田学海『学海目録』) 佐倉藩では安堵したことだろうが、この安堵もつかのま、翌年には、廃藩置県がおこなわれようとしていた。 そして、柏倉の陣屋には山形県庁出張所が置かれ、藩士たちは、佐倉に帰ることとなる。 ◇ ◇ 旗本領・代官支配地は、新政府の直轄地として廃藩置県以前に県知事が任命されていた。山形県の成立は明治3年9月28日。このため依田学海の日記には、この時期、県と藩の名称が混在している。 2 柏倉のある地域は、村山平野と呼ばれ、山形県の中でも特に米どころとして知られている。平成4年より「ササニシキ」に代わって、「どまんなか」「はえぬき」という米が生産され、好評という。 柏倉を訪れたのは7月であった。山形市は盆地であり、柏倉は市の西山麓にあるとはいえ、暑かった。緑濃い田園風景が広がり、遠方に三角の形をした富神山が見える。「どまんなか」という米の命名は、柏倉を訪ねると納得してしまう。 柏倉に置かれた佐倉藩の陣屋跡は田園の中にあった。明治4年の陣屋面積は約3町3反2敏歩あり、四方を石積みにした中に、藩士たちが住んでいた。 陣屋跡には、小高い場所があり、稲荷神社が祭られている。この境内に「湖堂平田先生碑」がある。郡奉行であった平田重次郎広は、藩校成徳北庠に、藩士の子弟だけでなく、領内各村の希望者も入学を許し、自ら読み書きを教えていた。この碑は、明治3年陣屋引き上げの前年、各村の弟子たちが建てたものである。 陣屋から少し離れた場所に明源寺があり、そこに藩士の墓があると聞き、たずねることにした。 天台宗七森山明源寺は、麓にあるせいか、少し涼しさを感ずる。本堂では住職が子供たちに習字を教えていた。江戸時代の寺小屋もこのような光景だったのだろう。しばらく待たされて、本堂裏にある藩士の墓所に案内をしていただいた。数は43基あるとのこと。静かに眠る藩士たちの中には、佐倉に帰る日を考えながらも、かなわぬ人もいたのだろう。 ここで安達盛篤の墓を見つけた。安達盛篤とは、直治のことである。安達盛篤は、戊辰戦争のおり、柏倉の陣屋から出陣し、達暦寺で戦死した藩士である。また、寺には堀田相模守正亮、堀田相模守正順の位牌が納められている。 ここ柏倉は朝夕涼しく、水も清流、そして、春には、いろいろな果物の花がいっせいに咲くという。豊かな自然を享受しながら生活をしていたのだろう。 明源寺を出て、「才べえ」というそば屋で板そばを食べる。大ざるという感じのそばである。暑さの中で食べるそばはうまい。 車で達暦寺へ向かう。安達直治の戦死場所をたずねたが確かめられず。 続いて佐倉藩の年貢集荷地であった船町から須川に沿って、大石田まで下る。須川は浅く、最上川で使われていた水深の深い御手船は須川に入ることができなかった。そのため船町から小船で輸送した年貢米を大石田で積替え、最上川を下っていった。大石田も板そばが名物ということ。河岸跡近くのそば屋「来迎寺」に入る。対岸には、幕府直轄の郡役所跡がみえた。 最上川を見ながら酒田に向かう。当時、柏倉の代官は年貢米を酒田まで運び、米の仲買人と折衝して売り払い、仕事を終えた。今も酒田は賑わっているが、当時も華やかであったのだろう。 なお、明源寺のK氏、山形市S氏、新庄南高校のW氏、S氏にお世話になった。 (2006年11月2日 掲載) 第2話 函館市 函館駅に着くと磯の香りが漂う。駅前の新しい建物を通り過ぎていくと、洋風の町並みが見えてくる。幕末以来、外国人を受け入れ、国際都市として発展してきた函館の景観である。 落ち着いた道を歩いていくと函館公園があり、その一角に市立函館図書館があった。この図書館に佐倉藩士が描いた「北蝦夷画帖」が所蔵されている。 この「北蝦夷画帖」については、青柳嘉忠氏が「佐倉藩の絵かき」(『佐倉市史研究』第二号)の中で、画家の名前は、藩命により安成4年に第二次蝦夷地探検に加わった今村次郎橘(画号は美山堂)ではないかと推察している。 図書館の孫に話して「北蝦夷画帖」を見せていただくことにした。彩色画の折本であり、写実的に描かれていた。 図書館を出て、五稜郭に向かった。五稜郭といえば、戊辰戦争のおり、幕府海軍副総裁榎本武揚がここに立てこもり戦いをした城として知られている。城内には博物館分館があり、戦いの様子を今も語ってくれる。 順天堂を佐倉に開いた佐藤泰然の末子、董も榎本武揚とともに五稜郭に立てこもった一人であった。 董は、佐倉の本町に生まれ幼少期を佐倉で過ごしている。文久2年(1862)父泰然と横浜に移り、アメリカ人ヘボン夫人から英語を習った。後に林洞海の養子となり、林董と称するようになる。また、董の義妹は榎本武揚に嫁いでいた。 董は、慶応2年(1866)幕府のイギリス留学生の募集に応募し、試験を受けて合格した。17歳であった。 董がイギリス留学中、戊辰戦争が勃発した。これにより幕府からの資金が途絶え、帰国することになった。 6月16日、帰国。泰然に帰国の報告をし、江戸の林家にもどった。数日後、榎本武揚が林家をたずねてきた。ここで董と武揚は時勢の話をし、董も武揚の志に賛同し、幕府の軍艦開陽丸に乗り込むこととなった。 8月19日夜、品川沖に停泊中の榎本艦隊8隻は北海道に向けて出航。10月21日北海道鷲ノ木に上陸。10月26日、五稜郭占領。董は武揚の下、外国人との応接文章の取り次ぎをしていた。 明治2年4月9日、官軍、北海道乙部に上陸する。五稜郭が官軍に包囲されてからは、榎本軍の中に自刃を考えるものが出始めた。董もその一人であった。董の心は揺れ動き、自刃はできるが仕損じることもできず、不意に斬ってもらいたいと、今井信朗に依頼した。信朗は坂本竜馬を斬った人物と噂されていた、と董は『後は昔の記』に記す。信朗ならば、腕は確かと考えていたのだろう。 しかし諸事定まらぬうちに斬られては取り返しがつかないので間違いのないように話に行き、信朗に笑われてしまった。 明治2年5月18日、五稜郭開城。榎本武揚、董等は投降した。董は弘前藩に禁錮される組に入り、大阪丸に乗せられ青森へ向かう。この船は、董がイギリス留学のとき、横浜から上海まで乗った船であった。 その時は心が弾んでいたが、今は水夫にさえ気づかいをする身となってしまったと嘆いた。 「一起一伏、人世の活劇は実に妙なりというの外なし」董の言葉である。 このように人生の浮き沈みを経験した董であったが、後に駐英公使として明治35年(1902)日英同盟を締結させることとなる。 五稜郭を出ると、土産物屋があり現実の世界にもどされた。 (2006年11月2日 掲載) 第1話 旭川市 明治44年、旧佐倉藩主の子息堀田正恒は北海道の原野(現 士幌町佐倉地区)を開拓するにあたって、当時、旭川町にいた斉藤米蔵と倉次謙に開拓地の調査を依頼した。二人はいずれも旧佐倉藩士の子弟である。米蔵は、それまで旭川町の町長を務めていた。旧佐倉藩士の子弟がどうして町長になったのか興味を覚え、旭川に行くことにした。 JR旭川駅を降りると、道路の雪が凍っており、何度か滑りながら図書館にたどり着いた。米蔵に関する資料は、『旭川市功労者伝』と『旭川市史』にわずかに記されている。このうち『旭川市功労者伝』は、 「旭川第三代町長斉藤米蔵は、明治42年5月、突然に出現したのであった」という文で始まる。 米蔵は、万延元年(1860)生まれ。米蔵の父利和は、嘉永年間に佐倉藩の勘定奉行を務めていた。利和は明治になって東京に移るので、それまで米蔵は佐倉で過ごしていたと考えられる。 明治13年、東京外語学校ドイツ語科を卒業し、宮内庁に出仕。明治28年から34年まで御料局札幌支庁上川出張所初代所長になり、増毛出張所長を兼ねる。そして、退職後の明治42年、旭川に来遊する。 この一年前、旭川では町長が任期満了となったが次の候補が出ず、また候補者をあげても議員の賛否が同数で決定までにはいたらなかった。町長が空白のまま一年が過ぎ、町民は苦慮していた。このような時期に米蔵は旭川を訪れたのである。 「前途打開の窮策として4月29日、突然、氏を推薦するの議起こり、5月1日の町会で満場一致、これを選挙し、第三代町長に当選したのであった」(前掲書) 町長在任中、師団衛戍地分離問題が起こった。師団が道路、衛生、教育などで町に寄与しているのに、町税の賦課が一般なみでは高い。そこで衛戍地を旭川町から分離して独立自治村にしたいというのである。この話が、米蔵が町長になって再燃した。結局、町は減税を行うこととなったが、町民は米蔵に辞職を迫った。在職2年で米蔵は辞職。町は再び混乱に陥った。 この時期を前後するころ、堀田正恒から北海道開拓のための調査依頼が届いたと考えられる。そして、米蔵が意を決するまで、さほどの時間はかからなかった。幕藩体制がくずれて40年を過ぎたというのに、主従の絆は、しっかりとつながっていた。 米蔵の町長在任中の仕事として今日に残るものは、明治43年、中島の町有地10.6haを公園地として定めたことである。これが現在、常盤公園として市民の憩いの場となっている。図書館からの帰り道、雪に埋もれたナナカマドがあった。赤い実は、雪の重さに耐えながらも、その色を引き立たせていた。 なお、米蔵の父利和については子孫の方にうかがった。 (2006年10月3日 掲載) トップページ |