カメラ片手に印旛沼

  まえがき

 写真集『印旛沼の四季』を作ったときの裏話です。
 なお、著作は執筆者にありますので、引用はご遠慮ください。
 
写真集を考えたころ(2004年8月10日 掲載)
 銀座4丁目にある鳩居堂の5階に、コンタックスサロンと併設してギャラリーがある。
1980年代のある日、私はぶらっと寄った。サロンではデザインの良い写真集を販売していた。
この写真集は素人の写真家が撮りためたものであったり、サークルの記念に作ったりしたもの であった。
それを見て「素人でも写真集ができる。そして、並べてくれる」という発見をした。
当時、写真集の出版といえば、本棚に入れても飛び出すほど判が大きく、ハードカバーで、しかも 多くがカラー印刷であるから、いかにも費用がかかりそうであった。これらはプロ写真家の作品で あるから、そのような写真集をつくるということは夢のまた夢であった。そのような写真集しか本屋で 見ていなかったため、コンタックスサロンに並んでいる写真集を見たときには、「お、やれそうだ」と 思った。
さっそく、店員に出版社を紹介してほしいというと、たまたま写真集の編集デザインをしているTさんが 来ているというので、話をうかがった。
Tさんは
「1頁に1枚の写真を使うとして、47頁の本を作ろうと思ったら、その倍のネガを見せてほしい」
と言った。
自宅に帰って、ポジファイルを広げる。「これが自分の写真、これが印旛沼の写真」と言えるものを、 47枚の倍になる90枚程度選ぶことはたいへんであった。素直に「足りない」と思った。それに私の 写真は季節が冬に偏っていたこともあった。冬は空気が澄み、筑波山が見えたりして絵になるのだ。
でも、夏の青い空、沼辺に咲く黄色や白い花を加えてこそ、冬が引き立つのだろう。そう思い、 もう一度撮り直すことにした。

レンズの世界(2004年8月24日 掲載)
 印旛沼の写真集を作るにあたって、どこまでを印旛沼の写真として取り上げようかと考えた。
印旛沼の捉え方は、その専門分野によって違っている。たとえば水質の専門家は印旛沼から、 印旛沼に注ぐ河川を思い浮かべるだろう。植物の専門家は印旛沼の土手や、周辺の田んぼ まで広げるかも知れない。鳥の専門家は、鳥のねぐらとする集落周辺の山まで含めるのだろう。
 では、写真家の捉える印旛沼は、どこまで含めるのだろうか、ということである。撮影中は、 ここからここまでが印旛沼、という撮りかたはしていない。印旛沼の風景を追い、鳥を追い、 花を追い、そこで出会った「美しさ」にシャッターを切る。印旛沼がテーマであったのに、いつの 間にか、花や鳥がテーマになっている。そのような写真を眺めて、あれこれと考えてしまった。
 いろいろ考えたが、結局、私が思うには、さりげなく印旛沼のイメージを醸し出している写真、 というところに落ち着いた。レンズを通せば、周辺の田んぼはもとより、山まで背景に入っている。
さらに、望遠レンズで見れば印旛沼から富士山まで入ってしまうのだ。
 写真で捉える印旛沼は広い。

打ち合わせ(2004年9月5日 掲載)
 1999年6月。Tさんの事務所がある六本木に行く。事務所に行くには地下鉄乃木坂駅で降りても良いし、 六本木駅で降りても近かった。六本木、乃木坂といえば梓みちよが歌っていた「メランコリー」という曲が頭を かすめる。そのような気高い女性が、つんつんしながら歩いているのではないかと期待しながら駅を降りる。
まあ、気分良く降り立つのである。気は心、写真集の打ち合わせには楽しい気持ちでのぞむことにしている。
 今年は暑い。ましてこれから写真の選択をすると思うと、なおさら暑くなる。今日は100枚ほど持参しており、 これを第1次選考として60〜70枚に絞り込むのだ。Tさんは全体の構成や写真の良し悪しをみていう。私 は印旛沼を語る上で必要と思われる写真を入れたいと思う。さらに、病院のベットで見られるような「安らぎ」 のある写真集にしたいと話した。だから、Tさんが良いという写真でも、病人に不安を与えるような色合いのも のは避けようと思った。そのようにして、晴れて第1次選考に残った写真を渡し、レイアウトを任せすることに した。
 数週間後、Tさんと第2次選考を行い、掲載する写真を確定する。その後、Tさんは「足りない写真が1枚 ある」という。光村印刷出版の写真集には、著者近影というものを本の最後に入れるのだという。思えば、 私は1人で撮影に出かけるのだから、私が写っている写真などあるはずがない。さっそく、写真家のSさんに 連絡して撮影をしてもらうことにした。
 撮影には、私が愛用していた服を着、カメラを使うことにした。一番乗っていたときのスタイルである。防寒服 に襟巻。真夏に、である。Sさんは、少し驚いたようであった。「暑いでしょう」と聞くが、それほどでもなかった。
撮り上がった防寒服の写真には、背景に夏草が青々と生えている。

写真の題名と解説(2004年9月22日 掲載)
 写真の題名は、さっと出るときはよいが、考え始め出したらもう決まらない。情けないが、辞書を出して適当な 熟語を探し出す始末である。ましてや苦し紛れにつけたりすると、しばらくして、その題名は辞書を引かなければ 意味がわからなくなってしまう。そのようなことで、題名をつけないようにしようと考えた。しかし、それではその写真 を何と呼んでいいかわからないことにもなり、結局、題名をつけることにした。
 さらに解説には、人の生きかたを励ましてくれるような文、またメルヘンチックな文を書いた。ところが、レイアウト された解説を見てびっくり。写真と解説がまったく合わないのだ。いや写真のイメージと解説が合わないというので はなく、写真を撮ろうとした時の気持ちと解説が合わないということである。
 誰かが私の写真を使ってメルヘンチックな詩をつけるのはよい。しかし、撮影した状況を知っている私にとっては、 そんな甘い気持ちで写真は撮れないことを知っている。だから、そのような解説をカットして題名だけにした。
あとがきも変えることにした。でも、Tさんは、あとがきの一文を生かして背文字に入れてくれた。「心が広がれば 風景も広がる」である。当初、どのようなあとがきを書いていたか忘れたが、たぶん次のようなことであったと思う。
朝日、夕日の景色は日々変わる。しかし、撮る場所と撮るレンズが同じであれば大きな違いは見られない。とこ ろが、野の花などを美しいと感じる新しい視点が生まれると、風景の中に新しい風景が生まれる。だから、自然を 美しいと思う心が生まれれば、風景が次々に生まれ、そして広がる。そのような内容であった。後日、そのときの気 持ちを詩にした。

  心が広がれば風景も広がる

 沼を撮ろうと思ったら
 野草の好きな人と話をするのがよい。
 野鳥の好きな人と話をするのがよい。
 思い出を持っている人と話しをするのがよい。
 夢を持っている人と話をするのがよい。

 でも、いくら話しても
 自分の心が広がらなければ
 風景は広がらない。
 いや、だからこそ
 いろいろな人と話をする
 ということである。

 心が広がれば
    風景も広がる。

本の題名(2004年10月6日 掲載)
 写真のレイアウトが決まり、掲載写真の題名が決まり、いよいよ本の題名を話し合う。
これまで私は「印旛沼」でいこうと思っていたが、Tさんは「印旛沼の自然」の方がわかりやすいという。
しかし、わかりやすいが、「自然」とするには写真が足りないと思った。つまり、人によって自然という言葉か らイメージする対象は植物であったり、鳥であったり、昆虫であったり、風景であったりするわけで、そのよう な自然を総合的に網羅した写真集ではない。そもそも、私は何かを意図的に撮り続けたものではなく、 眼の前に見えるものを撮っていたに過ぎない。ただ、撮り続ける中で季節は移り変わっていった。
そのようなことを考え、私は「印旛沼の四季」ではどうかと話した。「四季」ならば、少なくとも各季節の写真が 1枚は入っているから誇大広告ではないと思った。Tさんも、それならそれで良いでしょうと言ってくれた。
ようやく、本の題名が決まった。
 本の大きさは数種類あったが、私は当初見た本が印象的だったので、その大きさでお願いすることにした。
 打ち合わせが終わり、居酒屋でTさんとビールを少々飲む。写真集の感想を聞かれ、私は「ほっとして いる」と答えた。何か20数年持ち続けてきた荷物を下ろしたように感じる。写真のポジフィルムはカビや すく、傷つきやすく、色の劣化もある。それをどのように保存するかということに注意を払ってきた。そのた め、日陰に置く、乾燥状態にしておく、ポジを何度も焼かない、ということに心がけてきた。さらに、これは と思う作品はデュープを作り、別な場所に保管してきた。そのような配慮は、フィルムが増えてくると、なか なか面倒な作業となっていた。そのため、写真のより良い保存方法は、印刷をして残すことだと思っていた。
その作業が、ようやく終わった。

〔撮影の思い出〕

撮影の朝(2004年10月20日 掲載)
 家を出て、佐倉市役所を過ぎるあたりの台地から遠方に印旛沼が見えてくる。毎日のように 出かけていたときには、このときの空を見て、今日は西印旛沼に行くか、北印旛沼に行くかを決め ていた。
 今の時期、西印旛沼、北印旛沼にはどこにどのような花が咲いているのかがわかっていた。だから、 この天気ならばどこでどういう撮影ができる、という具合である。もし天気が悪ければ印旛沼周辺を 散策して何が咲いているかを確かめ、それを撮影するには、朝がよいか午後がよいか、光の状況を 判断しておく。そうすれば空を見ただけで、その日の目的地が決められた。そのような意気込みで あった。

カメラとレンズ(2004年11月12日 掲載)
 撮影で使ったレンズは主にニコンFE。昭和50年代に買い求めたもので、今は生産中止となった旧式 カメラである。ニコンFEの改良機としてニコンFE2が出たので、これも買い求めたが、やはり生産中止となっ てしまった。
 近年、オートフォーカスといって、カメラが自動的に焦点を合わせてくれる機種が出た。キャノンEOS−1 を持っているが、やはりここ一番というときにはFEを使う。シャッター音の耳障りが良いのだ。FEは「ボシャ」 という鈍い音。FE2は「カシャ」という金属質の音。私は、「ボシャ」という音に「撮れた」という安心感を覚え る。慣れなのかも知れない。
 レンズは、接写用のマクロ55ミリ、望遠用の300ミリ、超望遠用の800ミリレンズを主に使う。マクロ レンズは花を撮る。300ミリレンズは風景と鳥を撮る。私は印旛沼の風景を、ほとんど300ミリレンズで 撮っており、300ミリレンズは、私にとって印旛沼標準レンズといえる。これより短い50(標準レンズ)〜 100ミリくらいのレンズだと、沼の前景に葦の葉が写ってしまい、写真がうるさくなってしまうのだ。もし、 葦を入れたいなら、24〜28ミリくらいの広角レンズを使って、思いきり入れると良いだろう。
 800ミリレンズは鳥を撮る。このレンズは昭和50年代に買い求めたもの。このレンズを買いたいと思った きっかけは2つある。まず、このレンズを使って沼の鳥を撮りたいと思ったこと。もう一つは、このレンズを持って、 いつか北海道の丹頂鶴を撮りに行きたいと思っていたからである。私は若き日に丹頂鶴と白鳥に魅せられて 北海道に旅行したことがあった。当時は望遠レンズを持っていなかったので、多くのカメラマンが丹頂鶴の 生息する里で望遠レンズを構えるスタイルに、「いつか私も」であった。そして、ただただ丹頂鶴の舞う姿 を眺めていた。
 そのような思いがあり、奮発して800ミリレンズを買ってはみたものの当初は使いこなせず、数年経つうち に私の撮影フィールドは印旛沼だけで良いと思うようになっていった。ただ、印旛沼のシラサギを撮るときに は、丹頂鶴の舞う姿、たたずむ姿を思い浮かべていた。<「飛翔」 「静寂」などの作品>

季節感(2004年12月13日 掲載)
 写真集は「「印旛沼の四季」であるから、季節感がわかるような写真を選んでいるが、なかには季節感がわから ない写真もある。前後の写真の雰囲気で、季節の移り変わりを感じていただければよい。
 印旛沼で季節を主張するのは夏と冬。写真を見ると、それだけで暑さや寒さを感じる。
反対に、なかなか季節感を出さないが春と秋であった。写真に撮っても、春と秋のイメージがあまり出せない。
暦は春を告げているが、沼の風は冷たく、草の芽吹きがまばらで、枯草と土ばかり目立つ冬の色である。写真で 印旛沼の春というイメージを撮ろうと思ったら暦の春より遅れ、5月になってからになる。土は緑の草に覆われ、 土手一面にピンクや白や黄色い小さな花が咲いている。私は、このころの写真を春としている。
 秋も撮りづらかった。どうも私には、秋といえば紅葉というイメージがある。だから写真集に紅葉を入れないと、 何か物足りないと思うのである。つまらない思い込みであろうが、やはり、紅葉がほしかった。ところが、印旛沼で 紅葉する木を探すのがたいへんであった。
 ようやく沼辺に紅葉するヌルデの木を見つけたが、温暖化の影響か、数年は紅葉せずに枯葉となってしまった。
写真集に掲載した紅葉の写真は平凡であるが、撮影まで数年の時間がかかっている。

富士山(2005年1月27日 掲載)
 印旛沼周辺の台地から富士山を眺めることができる。何ヶ所かあるが、佐倉市飯野(西印旛沼)から撮ろうと すると、富士山の手前に送電線が強く入ってしまい、目障りとなる。
 富士山は、成田市大竹(北印旛沼)の台地上から眺めるのがすっきりしている。ここから300ミリレンズで覗いても、 送電線は気にならない。大竹の撮影地に行くには、佐倉を夜明け前に出かけなければならない。その日が晴れる か曇るかわからないが、とにかく出かける。成田市の北須賀を過ぎるころ、夜明け近くになり、青黒い空が見えてくる。
このあたりで、私は富士山が現れそうかどうかの判断をする。あまりにも雲が多いときには、ここから引き返す。
そうでないときには撮影地まで行き、カメラを設置して夜明けを待つ。
 富士山は朝日に照らされて、沼の遠方にゆっくりと姿を現す。富士は雪を被り、青空に突き出ている。沼は空を 映し、青々としている。しばし時を忘れて景色に見とれたいところであるが、カメラのレンズを取り替えて撮影したり、 35ミリカメラを中型カメラに変えて撮影したりして、カメラマンにとっては忙しい時間を費やす。
 出来上がった写真を見ると、印旛沼手前の土手や田んぼが枯草で茶色となっていた。そこで、この枯草が雪で埋 もれると、冬らしい印旛沼と富士山が撮れるのではないかと考えた。沼周辺が雪化粧、沼は空の色を映した青、 遠方に富士、そして青空というイメージである。
 雪の降る日を待つ。そして、撮影場所に向かった。朝日が昇るのを待つ。ところが、朝日が昇るころには周辺に 水蒸気があがり、富士山は現れなかった。
 また、風の強い日も富士山を撮るのに条件は良いのではないかと出かけたが、このときも富士山は現れなかった。
いくら下総地方に風が吹いても、東京以西の天気が悪ければ富士山は現れないのだ。富士山の写真は一冬通って 撮れた写真である。〔富士遠望・暮れる沼〕

1枚の写真(2005年4月3日 掲載)
 印旛沼を1枚の写真で表現するとしたら、どこで撮るのがよいだろうかと考えたことがある。印旛沼は干拓 される前、「W字状に広がる沼」と言われていた。そのような特徴をみせる景観は印旛村瀬戸にある。この 台地上から見ると、沼が佐倉市土浮、飯野の台地を取り囲むように巡って、W字状とはいかないがV字の ように尖って見える。〔流れゆく雲〕

ふたたび(2005年4月3日 掲載)
 カワウの写真を撮りに行った。800ミリレンズを構える。しばらくすると、同じように撮影をしていた人が 近づいてきた。私が長いレンズを使っているので、どのようなレンズを使っているのか気になったらしい。
話しかけてきた人は、鳥を専門に撮っていて、手賀沼、利根川、印旛沼を撮り歩いているという。
 話し振りからすると、彼は私のレンズを見て、私も鳥を専門に撮っているのではないかと思ったらしい。
そして、彼は自分で撮った鳥の写真をポストカードにしており、挨拶代わりにくれた。
 いただいたカードをみて、写真集を出版したが「まだまだ印旛沼で撮るものがある」と思った。

                             

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