回答記録


 私が知っている本を紹介します。
                               (2006年9月25日〜  )

 2009年5月10日
 船橋のTさんからメールあり
 現在臼井の円応寺について調べています。『千葉臼井家譜』は既に房総叢書に所載されてありますが、 もう一つの『瑞湖山円応寺世代紀』は既に活字化されているような気もするのですが御存知でしょうか。

 <返信>
 申し訳ありませんが、知りません。「たより」に掲載をして情報を待つことにします。

 12月28日
 〈発信 K2さんへ〉
 K2さんへ。
 探索依頼のあった広田彬について、ホームページに掲載したところ、えりっぷさんから下記のメールが届きましたのでお知らせします。

 以前「広田彬」さんのことを調べていたかたがいらっしゃいましたよね。時間があるたびにパソコンであれこれ調べていたのですが。国会図書館検索でひっかかりました。
 このサイトは中身の説明が割りと詳しいのでときどき利用するのですが、著者に「広田彬」といれると2冊でてきました。一冊は『北総匝瑳郡野手邑内裏塚碑和祭之記」といいます。
 内容まではわかりません。明治16年刊で出版地は佐倉町となっています。館主さまならおわかりでしょうか。検索してみてください。原本は古書店にあるようですが、もしかしてこういう古書はどこかで保管されているのでは?とりあえず気がかりをなくすためメールしちゃいました。ごめんなさい。こんどこそよいお年を。図書館があくのが楽しみです。

〈発信 えりっぷさんへ〉
 ありがとうございました。さっそく、K2さんに連絡をし、またホームページに掲載しました。手がかりがつかめましたので、しばらく時間をいただければ、何か探せると思います。よいお年を。

 12月24日
 市川市にお住まいのK2さんから初メールあり
 こんにちは。はじめてお便りいたします。しかし、実は以前からだいぶ満開佐倉文庫さまにはお世話になっておりました。遅ればせながら、いつも素晴らしい場を提供してくださっていることに心から感謝申し上げます。
 また、今後とも、是非、この活動を続けて下さるよう祈念いたしております。
 さて、早速で御無礼かとは存じますが、実は幕末から明治に掛けて活躍した佐倉出身の「広田彬」という人の情報を求めております。こちらで掲載していらっしゃる電子小説の中にも登場しているようなので、元佐倉藩士なのは間違いないとは思うのですが、いかんせん、どこからどのように調べたらよいのかが分かりません。
 近いうちに、佐倉に参りまして、市立図書館に籠もってみたいとは願っておりますが、なかなか機会に恵まれません。
 もしも、お手数でなく、ご存じのことがあれば、御教授していただけないでしょうか。また、「広田彬」に詳しいお知り合いがいらっしゃいましたら、何とかご紹介いただけないものでしょうか。
 初めてのお便りで、重ねて図々しいお願いばかりを申し上げて恐縮です。ご不快の折は、何とぞ御読み捨て下さいませ。

 〈返信〉
 はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。いつも、当ホームページをご覧いただきまして感謝しております。
 さて、お尋ねの「広田彬」について。
 1、小説「御くら花」に出てくるストーリーは水澤氏が考えたもので、どのような出典から書いたものかわかりません。ご指摘を受けて、ここに出ているのかと気づいたしだいです。
 2、私自身、広田彬がどのような活躍をしたのか把握していません。そのため、広田については調べていません。
 おそらく、調べている人はK2さんしかいないと思います。
 3、幕末の藩士の名前については、『印旛村史 近世』の第3巻(であったか)に、掲載されています。これを見ると、幕末時の役職がわかります。これは市川市の図書館にもあるのではないかと思います。
 4、広田彬が、どのようなことをやった人物であるのかということがわかれば、調べる糸口がつかめるかも知れません。佐倉のことなので、協力したいと思います。


 12月24日
 えりっぷさんからメールあり
 佐倉丸のことですが、移民関係から探ってみたところ見つけました。山田廸生(やまだみちお)著「船にみる日本人移民史」中公新書1998年刊にのっていました。
 「第一章明治・大正期の移民船 ペルー移民第一船佐倉丸 」の項目に「佐倉丸は日本郵船の船である。2953総トン。1887(明治20)年に英国で建造された鋼製汽船で、日清戦争のときに政府が購入し、戦後払い下げられたものだ。船名はそのころ歩兵第二連隊があった千葉県の佐倉にちなんでいる。日露戦争中に旅順港閉塞作戦で自沈し、壮烈な最期をとげた。」(53頁)佐倉です!

 〈返信〉
 ごくろうさまでした。ありがとうございます。


 12月19日
 Kさんへ。
 過日、Kさんから「佐倉丸」は佐倉から付けた名前ではないかという話あり(「佐倉本情報」12月14日に収納)。遅くなりましたが、佐倉丸の話を書きます。
 私が佐倉丸のことを知ったのは、平成9年4月2日付けの読売新聞「編集手帳」で、「1899年(明治32)の、あす4月3日、ペルー・リマの外港に日本郵船の佐倉丸が着く。新潟、山口、広島などから日本移民第一陣790人が乗っていた」という記事を見たことです。
 この佐倉丸が、わが佐倉と関係がありやしないかと思い、さっそく日本郵船に問い合わせてみましたが、よくわからないということでした。

 木津重俊編『日本郵船100年史』(1984年9月 海人社)に出ている佐倉丸は、明治20年に建造され、明治29年に陸軍省から払い受けたものとなっています。建造時、陸軍省で「佐倉丸」と名前をつけたのであれば、日本郵船に聞いても名前の由来はわからないということになるでしょう。
 陸軍といえば、第一師団の第二連隊が佐倉に駐屯していましたから、地名から付けた名前と期待したくなるのですが、推測の域を出ません。ここでは、断定をしないでおきましょう。
 この佐倉丸は、日露戦争時に旅順港の入り口を塞ぐための船(第三次旅順口港閉塞隊)の一隻に選ばれ、自沈しました。
 佐倉丸は、この自沈した船のあと、再び佐倉丸と名付けられるU世が誕生します。この佐倉丸がKさんの話される船です。こちらの方は、『七つの海で一世紀』(日本郵船創業100周年記念船舶写真集)に出ています。
 本によれば、竣工は1940年(昭和15)3月。ニューヨーク線に就航とあります。ところが昭和16年1月陸軍に徴用され、防空基幹船に指定されます。そして、高射機関砲8門で武装、磁気機雷に対する防雷銅帯を船体周囲に装着し、マレー半島コタパルの上陸作戦に参加。
 17年3月1日、ジャワ島北西部バンダム湾で上陸作戦中、水雷艦艇の雷撃を受け沈没とありました。
 新旧の佐倉丸は、いずれも戦争で沈んでしまった船でした。


   12月14日
 Kさんからメールあり。
 ご無沙汰しております。いかが、お過ごしでしょうか?また、2冊ほど「佐倉本」です。
 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(1988年 光人社)
「八日未明、コタバル上陸開始の報につづいて「淡路山丸」大火災。「綾戸山丸」「佐倉丸」も被弾と悲報が相ついだ。」(31頁)
「問題のコタバル上陸は第一回、第二回の上陸部隊は予定通りに着岸、第三回目の舟艇も半数くらいは上陸できたらしい。「綾戸山丸」「佐倉丸」はいったん避退、翌九日の未明、揚陸点にもどり、天明後に上陸を再開したが、このときはすでに飛行場の占領を終わっていた。」真珠湾攻撃の日、著者は第二艦隊参謀としてマレー沖海戦に従軍とのこと。「佐倉丸」の名の由来は、ネットで見ると「地名」とあるので、おそらくご当地のことでしょうか。

 11月27日
 Wさんから初メール
 はじめまして。志津駅の名前の由来が知りたく PC初心者なので操作方法も あまり解らないながら やっとたどりついたのが ここでした。
 『佐倉市史研究』第17号(2004.3)「京成電鉄気軌道 志津駅をめぐって」の記事を知るにはどうしたら良いですか?

 <返信>
 はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。
 『佐倉市史研究』第17号は、市内の図書館にあります。そこでご覧になるのが、一番早いと思います。また何かありましたら連絡ください。私の知っている図書情報をお知らせします。


 9月29日
 Kさんからメールあり
 今、岩波文庫『きけ わだつみのこえ』を開いていて、ふと、これも佐倉本かなと考えました。巻末に手記を残された方の略歴が出ていて、そこに佐倉、または57連隊と書いたものはないかと思ったのですが、はっきり書かれたものはありませんでした。
 ご遺族の住所が佐倉市であるのが1名、P377にあります。ただこれはプライバシーの問題で不可。そうではないかと思ったのは、P382に千葉県出身のF氏、昭和20年2月10日ブーゲンビル島にて戦死、とあります。
 私はここのところ、よく知らないのですが、千葉県出身者は佐倉に入営することになっていたのでしょうか?習志野ということもあるのでしょうか?本文57ページから氏の手記が載せられていますが、「ラ隊」とか「聯隊」という言葉がよく出てきます。
 また、千葉県外から佐倉連隊に入隊した方もいるのでしょうか?お教え願えれば幸いです。

 <返信>
 千葉県出身の人は、すべて佐倉連隊には入隊していません。詳しくはわかりませんが、軍の要請によって入隊先が決められていたようです。千葉県の人が、東京の麻布3連隊に入隊した人もいたと記憶しています(あくまでも記憶です)。
 逆に、東京の人が佐倉に入隊したという話も聞きます。松本清張の『遠い接近』という小説、青木玉の『小石川の家』 には、東京の人が佐倉に入隊したという話です。
 佐倉に駐屯していた歩兵第57連隊は、レイテ島とグアム島に行きましたが、ブーゲンビル島に行っていません。ですから、F氏は佐倉連隊ではなかったと考えられます。

 「ラ隊」とは、わかりません。
 「聯隊」ですが、、当時は歩兵第57聯隊と書いていましたが、現在は略して歩兵第57連隊と書かれる方が多いようです。意味は同じです。


 2006年9月16日
 えりっぷさんからメールあり。
 こんにちは!久しぶりのメールです。「佐倉の秋祭り」についての本をご存知ですか。佐倉在住22年目にして始めて祭りの歴史に興味をもちました。

 <返信> 
 「佐倉の秋祭り」とは、近年、言われ始めたもので、佐倉にある麻賀多神社、愛宕神社、八幡神社、神明神社の祭礼や、イベントも加わった行事の総称です。
 ですから、「佐倉の秋祭り」についての本は、ないと思います。
 〔参考までに〕
 麻賀多神社の祭礼は『佐倉市史 民俗編』
 市の指定文化財になっている神輿は『佐倉細見』
 江戸時代に行われていた、麻賀多神社の祭礼は『古今佐倉真佐子』
 城下町の祭礼は『ふるさと歴史読本 近世の佐倉』
 佐倉囃子は『佐倉市の指定文化財』
 仲町の山車は『佐倉市史研究』第18号
 仲町の山車人形「関羽」については『人形師 「原舟月」三代の記』

 これらの本が、一般の方が手に取れる本かと思います。思いつくままに。
 なお、詳しく知りたかったら、祭り見学をすることかと思います。迫力があります。


 
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