堀田正睦


堀田正睦の情報が多くなってきたので、このページに収納していきます。


 2007年9月14日 
  Mさんとは連日、メールのやりとりをしていました。以下、少しまとめてみます。
  堀田正睦を暗殺しようとした深川亮蔵の件です。
  1)深川亮蔵、及び深川亮蔵の堀田正睦暗殺話が記された本
  ・西日本新聞社が刊行した『大隈重信』(大園隆二郎著)「堀田正睦」の項目参照
  ・久米邦武編述『鍋島直正公伝』(大正八年 侯爵鍋島家編纂所)第四巻にあります。501頁から503頁までの記事です。年代の記入はありません。尚、この巻には、佐倉藩の蘭癖ぶりと、少々辛口の堀田閣老評がありました。
 ・『久米博士九十年回顧録』(早稲田大学出版部・1934年刊)にたびたび記されます。
 ・円城寺清著『大隈伯昔日譚』(冨山房・昭和13年刊)には、鍋島閑叟公の寛容なる例として深川亮蔵の事跡を挙げていました。年代記入はありません。元版は明治28年改進党出版局から出版されています。
 ・『大隈重信は語る−−古今東西人物評論』(早稲田大学出版部・昭和44年刊)の「大罪人深川を抜擢する」には、安政5年上京した堀田備中守を刺そうとしたと語っていました。
 以上の本に記されていました。佐賀の人にとっては、堀田正睦暗殺話は公然と記されていたことになります。このうちのいずれかの話が、司馬遼太郎の『歳月』の素材となったと考えられます(「堀田正睦」の項目参照)。

  2)深川亮蔵の生年月日は腑に落ちないところがあるので、まだ不祥としておきます。

  3)佐賀藩では深川亮蔵の暗殺計画を支持しておらず、国許に呼び戻した。

  4)鍋島閑叟公は、深川亮蔵の罪を許す。閑叟公の寛大な処置に感激して一生鍋島家に家令として仕える。

  5)維新後、亮蔵は困窮する士族を救うために八街に開墾に入る。現在、鍋島開墾と呼ばれる地域がある。

  6)没年は、佐賀郷友青年会発行の雑誌「佐賀」38号(明治36年2月)に、前年(明治35年)の12月21日に72歳で亡くなった深川亮蔵の訃報記事あり。

 2007年9月9日 
 Mさんからメールあり
 司馬遼太郎著『歳月』。これの「野路の村雨」に、老中堀田備中守暗殺を狙った人物として深川亮蔵の名前が出ていました。例によって『歳月』も未読でしたので、『佐倉と印旛沼』でこの作品のことを知り、慌てて読みました。
 深川亮蔵は危険人物として国許に呼び寄せられます。晩年は鍋島家の家扶として活躍していました。出典は『鍋島直正公伝』だと思われますが、十八歳の年齢部分は司馬遼太郎の計算でしょうか。

 2007年1月29日
 銀狐さんからメールあり
 こんばんは、館主様。銀狐です。昨年末は栄誉ある情報大賞を賜り感激しております。直ぐにでもお礼のメールをと思っていたのですが、いろいろありまして今日まで過ごしてしまいました。大変失礼致しました。
 ただ、お礼が述べたいだけでなく、受賞の理由が「外部から佐倉がどの様に見られていたのか」の点に注目していただいている点が気になり、追伸したいと思っていたのです。
 それは、「外部からどう見られている」かを佐倉サイドではどう受け止め・思っていたかです。つまり、正睦は一部から暗殺対象として見られていたと報告しましたが、そうした外部の評価を藩士たちはどの様に感じていたかです。
 既にデータは八谷衣人が「低支持率?堀田内閣」で紹介している水戸藩の蘭学者(隠密?)鈴木大の報告に注目して戴きたいのです。(本ページ「電子執筆」項目にある『さくら・しゃべくる・くろにくる』参照)
 小野寺慵斉が「正睦は才知力量無し、大名は育ち良く皆同じ。家老用人など左右に人無し」とか安井息軒が「正睦は才知は爪の垢程も無し、臣下に人材無し。西村茂樹もさしたる人物ではない。候の蘭学好きは経書よりも新奇な珍説を面白く思う程度」と答えているのは八谷さんのご紹介通りです。
 しかし江戸にいて多くの情報を見聞きできる立場で且つ招聘された兵学者や儒学者のこの言葉を文面通りに受け取れないのは私の贔屓目でしょうか?
 正睦の老中再任に際し水戸の斉昭は老中阿部正弘に文句を言っていますし、ハリスの将軍謁見後大名総都城に先立つ事前説明の意味で川路聖謨が水戸藩邸を訪問した際に斉昭は「堀田切腹・ハリス断首」と激昂したとか(あの阿部老中に「海防愚存」を提出して幕閣に影響力を及ぼしたあの水戸候ですよ)。既に当時から斉昭が正睦を単純に馬鹿と認識しているとは思えないのです。(川路は土岐頼旨・水野忠徳・岩瀬忠震と共に、ブレーン兼手足とも認められる人物ですよね。態々その人物に言うと言うもの見過ごせない力量と認めているのでは)
 従って、鈴木が来佐の頃にはその旨も佐倉藩士は十分熟知しており、危険性も察知して寧ろそうした聡明さを必死になって打ち消したがって(隠したが)のではないかと思うのです。
 また、態々息軒が弟子であっても藩士でない西村の名を上げ「さしたる人物ではない」と言及していることも変です。
 即ち、両者とも鈴木の目論見を察知して十分警戒しての発言、寧ろ暗殺等の対象となるリストから関係者を(「大した奴じゃないよと欺いて」)守ろうとしているのではないかと…私は感じるのです。
 まぁ、佐藤泰然に関しては既に江戸にて力量が知れ渡っているし、以前から暗殺リストに載っていることも承知ですから、素直に鈴木に「佐久良蘭学の張本人」と報告させても仕方なかったのでしょう。
 また、一緒に事情聴取?を受けた窪田官兵衛など「学海余滴」で‘性奇癖’と称されるほどの人物が、逆に真っ当に批判していることも気になります。彼も蝦夷探検などで多くの藩外藩士の意見を聞いているでしょうし。(鈴木の来佐が安政4年頃とすると丁度2回目の探検から外されてクサッていたとしても)それほど外部に関して藩士は外からの評価に敏感で十二分に注意していたのではないかと思うのですが如何でしょう。チョット八谷さんの批評とは異なる見解ですが、これも面白いと思いませんか?
 長々と失礼しました。では、今年も様々な情報に会えますように祈念しております。

 〈返信〉
 新しいご見解、拝聴しました。銀狐さんは、私の考えをさらに深く進めてくれたものと思っています。たとえていえば合わせ鏡のように鏡が何枚も向かい合って、歴史の表が見えたり裏が見えたり、さらにその表が見えたというような気持ちです。
 メールをいただいたばかりで検討をしていませんが、思い当たる節があります。それは、西村茂樹は天保年間に安井息軒に学び、頭角を現していきます。そして、安井息軒と西村茂樹の墓は東京の養源寺にあります。これは茂樹が師である安井息軒を慕っていたからと聞いています(記憶ですが)。
 二人の関係は、そのようであったとするならば、銀狐さんの考えるように、息軒の言葉を額面どおりに受け取れないかも知れませんね。
 それから、これまで小野寺慵斉という人物を読みすごしていましたが、少し調べてみると面白そうですね。兵学者とありますが、旧来の〇〇流なるものか、それとも西洋式の兵学者か。それによって考え方が随分違ってくるでしょうね。正睦は蘭学・西洋式の兵制を推進しますから、〇〇流なる兵学者は危機感を持っていたものと思われます。
 などなど、まだ深くなりそうですね。まずは、メールのお礼をいたします。


 2006年6月1日
 銀狐さんから佐倉本情報あり
 堀田正睦暗殺情報について。まず、一番分かりやすく話が構築されて、世間的に多くの目に触れる可能性のある情報発信源ですが、司馬遼太郎が江藤新平を描いた『歳月』という小説に次のような件がありました。
 「藩士深川亮蔵という者がかって幕府の老中堀田備中守を暗殺しようとして事成らず捕縛された」と。つまり肥前佐賀の上士の深川亮蔵が暗殺を計画し藩に捕まったというのです。
 著名な作家の作品ですから、このあたりが噂の原点かもしれませんね。
 この点は、単に司馬遼太郎の作文かとも思ったのですが、西日本新聞社が刊行した『大隈重信』(大園隆二郎著)の中で、大隈が後年語った「深川が安政5年、堀田備中守が上京して条約の批准を奏詣し、かつ、勢い猛烈であった京都の攘夷論者を圧迫しようとした時、堀田を刺そうとして岩倉などに会見した」と述べたとされていることを発見しました。
 深川亮蔵は実在の人物でどうも八街の開拓にまで関係のある面白い人物のようです。水戸藩の隠密の件もあり、幕末の佐倉周辺はヤッパリ大変面白いと再認識いたしました。

 〈返信〉
 佐倉では語られない話です。それだけ、他藩にとっては重要な人物と見られていた証ですね。
 佐倉や佐倉ゆかりの人物について、私たちの知らない他地域で誰かが語っていることがあります。佐倉本探しというのは、地元のつながりや故人のつながりからでは発見できないような本を、「佐倉」という言葉をキーワードにして全国の資料を手に入れようとするところに一つの「ねらい」があります。
 他地域の人が書いた佐倉の評価は客観的であったり、批判的であったりしますが、そのような資料もあってこそ佐倉の実像が見えてくるのではないかと考えています。本候補は、佐倉本探しの成果を具体的に示す好例です。



 八谷衣人さんが『さくら・しゃべくる・くろにくる』に掲載した第V話 

(2004年7月19日 掲載)

低支持率(?)の堀田内閣

佐倉藩主堀田正睦は、幕末に日本の開国を主導した老中として有名です。
海外事情に通じた彼は、老中首座、かつ徳川幕府始まって以来の外務専任 老中に任命され、日米修好通商条約の締結に尽力します。こんにちから見れば、 やや地味な人物ながらも、「開国の功労者」として堀田のイメージは決して 悪いものではないでしょう。しかし、果たして当時の堀田の評判のほどは どうだったのでしょうか?

 水戸藩に鈴木大という蘭学者がいました。安政4(1857)年ころ、鈴木が 佐倉藩の関係者らを訪れ、堀田正睦の人となりについて情報収集(いわば スパイ活動ですね)したときの記録があるので、ここから堀田の評判のほどを かいま見てみましょう。まず、小野寺慵斉(ようさい)へのインタビューです。
小野寺は、招かれて佐倉藩で兵学を教えていた著名な兵学者です。

「堀田侯は美質とでもいえるでしょうか。生まれはずいぶんよろしいけれども、 才知や力量などというものはまったくないのです。大名は生まれ育ちよく、 みな同じようなものですので、しっかりした補佐役さえいれば名君にもなれる でしょう。けれども、家老・用人ならびに左右の者にも人材がいなければ、 何事もできないものです。どこの藩にも藩のために一身をささげる、見識ある 者が家老・用人などのなかに一人くらいあるものですけれども、佐倉藩に 至っては、一人もいないのです」

 次は、安井息軒(そっけん)へのインタビュー。息軒は幕末を代表する 儒学者で、招かれて佐倉藩でも講義していました。

「堀田侯には才気などというものは爪のあかほどもないのです。かつ、臣下に 一人も人材がなく、みな凡人ばかりです。西村平太郎(のちの茂樹)という 者は拙者のところにも参りましたが、さしたる人物ではありません。しかるに、 西村のほかに人物がいない様子です。侯の蘭学好きは有名ですが、これは 経書の窮屈なことを聞くよりは新奇な珍説などを聞くほうが面白いという くらいのことです」

 さらに、鈴木が佐倉藩士窪田官兵衛(国家老平野重久の弟)を訪ね、「この 受難のときに老中首座を勤められる堀田侯のご心労、お察し申し上げます」と いうと、

「心配するくらいの主人ならば、かえって頼りにもなるところですが、主人も 家老・用人も心配どころではなく、この先も安楽に勤めるつもりの様子です ので、困っております。かえってそれを私どもは心配しております」
(日本史籍協会編『鈴木大雑集』第1〈復刻版〉、P.267〜271、現代語訳筆者)

 考えてみれば、水戸藩の実権を握り、攘夷を公言する前水戸藩主徳川斉昭は 堀田の天敵。その水戸藩の鈴木に対して、堀田のことをよくいわないのは当然かも しれません。また佐倉藩主で、老中首座で、かつ外務専任老中を務める堀田は、 こんにち風にいえば都道府県知事と首相と外相を兼任しているようなもの。手足と なって働く家臣たちは、どっと仕事が増えて不満もたまっていた、ということもあるかも しれません。ま、それを割り引いたとしても散々な評価ですが、藩内の一部には こうした声もあったということでしょう。


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