広田彬情報 【2006年12月24日〜 】 K2さんから広田彬についての問い合わせあり。ここに掲載して、みなさまからの情報提供をお待ちします。 2010年9月22日 Hさんよりメールあり 貴重なHP内に廣田彬のページを作っていただきありがとうございます。 又、皆様には廣田彬に興味を持っていただきありがとうございます。 廣田彬は私の曾祖父です。 廣田彬について調べたことをお知らせいたします。 えりっぷさんよりの北総匝瑳郡野手邑内裏塚碑私祭之記の本は、国会図書館にあり近代デジタルライブラリーよりPDFでダウンロードいたしました。登録利用者カードをもらわないと見られません。 希望の方には送ります。続北総匝瑳郡野手邑内裏塚碑私祭記はコピーで国会図書館より送ってもらいました。 碑のある現地には先週行ってまいりました。畑の中に木に囲まれて立っていました。 みなさまにお礼申し上げます。 〈返信〉 ありがとうございます。文庫に掲載して、みなさまにお知らせいたします。 2009年1月20日 駕篭舁さんから、メールあり 最近、旧佐倉藩士広田彬に関する記事が目にとまりましたので、少しまとめてみました。 (1)市制50周年記念写真集『写真に見る佐倉』 p12に掲載の「堀田正睦の写真」の 注書に 「文明公御肖像という旧佐倉藩士広田彬の裏書があり、藩士が知り得た堀田正睦の 風貌を伝えている」との記事がありました。 正睦公を写した唯一の写真だと思うのですが、写真の出所が広田彬とは意外でした。 (2)佐倉地方の学校教育別冊2『佐倉藩の教育』佐倉市教育委員会 p50に 「明治元年五月三日、温古堂の生徒佐幕論を主唱、政庁の内命を請い脱走、奥州会津勢に参加、奉行、頭など佐幕の意志なれば脱藩をこばまず (中略) このときの温古堂生徒の主謀者は、富樫多苗、後に佐倉の藩属となる。 広田彬、後奥州の闘いから帰り城下で密会を企て平野重久をきろうとする。更に維新後は千葉県警部、佐倉連合戸長、窪田穀太郎・・・・・」とあります。 平野重久を斬ろうとしたとは穏やかではありませんが、(当時の記録の一文)とあるだけで出所が明らかではありません。なお、この本の奥書によると編著者は秋山保氏です。 (3)時代研究『戊辰戦争と明治教育』秋山保 p61に 「温古堂の諸生徒狂奔して頭や奉行に迫り命を得て脱藩し東軍に力を戮せんとする。 富樫多苗(後、佐倉藩大属)、広田彬(後、千葉県警部)を筆頭に窪田穀太郎、隠岐載治、桜井斧蔵等拾数人は青年の意気佐幕論を主唱、城下各地で密会、同志を募り脱走・・・・」とあります。 (4)『千葉県警察史』第1巻 p21に 「佐幕論を主唱したのは藩校(温古堂)の諸生で、正倫公記によれば、我が佐倉の温古堂の諸生富樫多苗、広田彬をはじめ窪田穀太郎、隠岐載治、桜井斧蔵等の十数人、佐幕論を主唱し、ここかしこに密会し・・・」とあります。 これも文脈からみて秋山保氏が書かれたのではないかと思われます。 (5)HP 満開佐倉文庫 えりっぷさん情報に 学海日録第3巻 明治5年2月17日 「印旛県出仕たりし吉見明、小林虎、桜井勇、広田彬、小川大六などみなやめられ」 とありますので、広田は廃藩置県後いったん印旛県吏となったが、まもなく辞めたものと思われます。 (6)『千葉県警察史』第4巻別冊付録 「歴代幹部名簿」 八日市場警察署長 千葉県十等警部 広田彬 就任 明治12年1月、 転任 明治13年4月1日 前任地 警保課、 転任先 不詳 とあります。これは明治12年のことですが、印旛県を辞したのは明治初期のことです。 これについては『佐倉市史』巻三p678に、明治4年12月印旛県に引継ぎ。司法省、広田彬とあります。当時警察は司法省の管轄下にありましたので、この時に警部に替わったと思われます。 (7)HPから インフォシークニュース 内裏神社の由来に 「媛の名を天皇妃として明確に位置づけたのは明治15年、当時の八日市場警察署長七等警部広田彬だった。 広田は私費を投じて野手内裏塚に碑を立て「官女即大職冠内大臣藤原鎌足之女耳面刀自天皇大友妃也」と刻み、政府に正式に認めるよう熱心に運動し、以後耳面刀自姫は弘文天皇妃として認識されるようになった」とあります。 この碑は「北総匝瑳郡野手邑内裏塚建碑」と言い、壬申の乱で敗れた大友皇子の妃耳面刀自媛を埋葬した古墳の跡に広田彬が建てたというものです。 満開佐倉文庫でk2さんが情報を寄せられていますね。 また、『匝瑳郡史』には「雑樹叢生陵形を為さず、元八日市場警察署長広田彬の建てたる小碑あり。碑前に一桑樹の枯根存す・・・」と記載されているようですが、これもHP情報ですので確認はしておりません。 (8)HPから 山武市教育委員会 箭挿神社扁額(源頼朝像) 山武市指定文化財 「元治元年(1864)3月、北総佐倉の続豊徳の撰文により、宮崎重賢が書き、広田彬が彫刻したと背記されている」とありました。 いろいろな場面に登場してくる旧藩士で興味が湧いてきます。 以上 〈返信〉 ありがとうございました。 2月15日 銀狐さんからメールあり 以前、広田彬について調べている人がいましたね。『佐倉市史』巻三を読んでいましたら、明治22年に「佐倉新町外十一ケ町戸長広田彬」という表がありました(127頁)。 興味がありましたら、ご覧ください。 2007年1月22日 えりっぷさんからメールあり 明治期のことを調べてますが、依田学海という人のすごさを知りつつあります。2002年講談社刊 『日本の歴史』20 維新の構想と展開 鈴木淳著 第1章明治の藩 公儀人依田学海のとこです。 「公儀人とはどのような人物が務めたのであろうか。依田学海という人物がいる。天保4年(1833)江戸に生まれ、文筆を以って知られた。幕末には佐倉藩の留守居役として、諸藩との折衝にあたっている。 彼は幕末維新期を通じてほぼ連日の記載があるかなり詳細な日記を残しており学海日録研究会の努力により容易にそれに触れることができるようになっているので、それを使って話をすすめよう」佐倉藩のことが色々かかれてます。 歴史学的に学海日録は重要視されてたんですね。名前はよく耳にするのですが。内容は良く知りませんでした。 ちなみにこれに影響されて、学海日録第3巻を読んでいたのですが、明治5年2月17日のところに「田内秀二郎来りて旧藩士卒山逸平二が家禄のことを告らる。印旛県出仕たりし吉見明・小林虎・桜井勇・広田彬・小川大六などみなやめられ、」と、広田さんの名をみつけたのでお知らせしておきます。 〈返信〉 ありがとうございました。えりっぷさんの熱意に圧倒されます。「満開佐倉文庫だより」の「歴史人物情報」に広田彬の情報欄をつくりました。これから情報を重ねていきます。 12月28日 K2さんへ 探索依頼のあった広田彬について、ホームページに掲載したところ、えりっぷさんから下記のメールが届きましたのでお知らせします。 以前「広田彬」さんのことを調べていたかたがいらっしゃいましたよね。時間があるたびにパソコンであれこれ調べていたのですが。国会図書館検索でひっかかりました。 このサイトは中身の説明が割りと詳しいのでときどき利用するのですが、著者に「広田彬」といれると2冊でてきました。一冊は『北総匝瑳郡野手邑内裏塚碑和祭之記」といいます。 内容まではわかりません。明治16年刊で出版地は佐倉町となっています。館主さまならおわかりでしょうか。検索してみてください。原本は古書店にあるようですが、もしかしてこういう古書はどこかで保管されているのでは?とりあえず気がかりをなくすためメールしちゃいました。ごめんなさい。こんどこそよいお年を。図書館があくのが楽しみです。 〈発信 えりっぷさんへ〉 ありがとうございました。さっそく、K2さんに連絡をし、またホームページに掲載しました。手がかりがつかめましたので、しばらく時間をいただければ、何か探せると思います。よいお年を。 2006年12月24日 市川市にお住まいのK2さんから初メールあり こんにちは。はじめてお便りいたします。しかし、実は以前からだいぶ満開佐倉文庫さまにはお世話になっておりました。遅ればせながら、いつも素晴らしい場を提供してくださっていることに心から感謝申し上げます。 また、今後とも、是非、この活動を続けて下さるよう祈念いたしております。 さて、早速で御無礼かとは存じますが、実は幕末から明治に掛けて活躍した佐倉出身の「広田彬」という人の情報を求めております。こちらで掲載していらっしゃる電子小説の中にも登場しているようなので、元佐倉藩士なのは間違いないとは思うのですが、いかんせん、どこからどのように調べたらよいのかが分かりません。 近いうちに、佐倉に参りまして、市立図書館に籠もってみたいとは願っておりますが、なかなか機会に恵まれません。 もしも、お手数でなく、ご存じのことがあれば、御教授していただけないでしょうか。また、「広田彬」に詳しいお知り合いがいらっしゃいましたら、何とかご紹介いただけないものでしょうか。 初めてのお便りで、重ねて図々しいお願いばかりを申し上げて恐縮です。ご不快の折は、何とぞ御読み捨て下さいませ。 〈返信〉 はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。いつも、当ホームページをご覧いただきまして感謝しております。 さて、お尋ねの「広田彬」について。 1、小説「御くら花」に出てくるストーリーは水澤氏が考えたもので、どのような出典から書いたものかわかりません。ご指摘を受けて、ここに出ているのかと気づいたしだいです。 2、私自身、広田彬がどのような活躍をしたのか把握していません。そのため、広田については調べていません。 おそらく、調べている人はK2さんしかいないと思います。 3、幕末の藩士の名前については、『印旛村史 近世』の第3巻(であったか)に、掲載されています。これを見ると、幕末時の役職がわかります。これは市川市の図書館にもあるのではないかと思います。 4、広田彬が、どのようなことをやった人物であるのかということがわかれば、調べる糸口がつかめるかも知れません。佐倉のことなので、協力したいと思います。 ホームページをご覧のみなさまで、ご存知の方がおりましたら連絡ください。 トップページ |