はしだのりひことシューベルツのレコードジャケットに使用されたロケ地 鉄ちゃんクラブに掲載された、はしだのりひことシューベルツの話題が増えてきましたので内容を抜粋しました。 【新設 2006年12月6日】 8月6日 茨城のUさんからメールあり ずいぶんとご無沙汰しています。 早速ですが、佐倉で撮影された、はしだのりひことシューベルツのジャケの続きです。 ありました。ありました!! 6種類目の写真が。 さよならリサイタルのパンフレットの表紙に使われていました。昭和45年6月15日の小倉区市民会館での物です。 このショットは僕も見るのは初めてです。 探せばまだまだあるのですね。 *参照 左欄「情報プラットホーム」に、はしだのりひことシューベルツのこれまでの経過が収納されています。 6月2日 Uさんからホームタウン佐倉さんへ、お礼のメールあり 詳しい情報をありがとうございました。自称、はしだのりひこ研究者として、大変参考になります。レコードジャケの服装から推理すると、個人的には5月頃の撮影だろうとは想像しています。 今後ともどうかよろしくお願いいたします。 6月1日 ホームタウン佐倉さんからメールあり ご照会の件について、お答えします。 千葉県での蒸気機関車の活躍は、上野ー成田間の成田線列車が昭和44年3月15日まで、両国ー勝浦間は同年8月20日まで、千葉ー佐倉ー銚子間(総武本線、成田線ともに)が 同年9月30日までです。 いずれも佐倉機関区所属のC57,C58,8620が旅客列車・貨物列車を牽引していました。ただし、その後も新小岩機関区所属のD51は、貨物列車を引 いて新小岩ー蘇我間を昭和45年3月24日まで走っています。したがって、それ以前であれば佐倉にも、新小岩にも蒸気機関車は両数は少なくなっ ていたとはいえ、存在しました。 「さすらい人の子守唄」ロケの年月日が不明ですが、北山さんの文章に「帰りのディーゼル列車が新小岩・両国を通過すると蒸気機関車がいる…」 とありますから、両国にいたのは夕方の両国発館山行きか勝浦行き列車を見たのでしょう。 この列車は上記のように昭和44年8月20日まで蒸気機関車が引いていました。また新小岩では貨物列車が待機しているのを見たのでしょう。 したがって、ロケが昭和44年8月20日以前であれば、間違いではありません。Uさんは昭和44年3〜5月頃の撮影と以前ご推察でしたが、 まさに蒸気機関車が廃止される直前ということになりましょう。 昭和43年3月24日に千葉ー成田間が電化しているのに「デイーゼル列車に乗った」のは佐倉と成田から先は、まだ電化されておらず、両国や新宿行き急行は、 気動車(ディーゼル)列車であり、おそらくロケ一行は、それに乗車したのでしょう。当時「東京には蒸気機関車はいない」ので佐倉へ来てロケしたのは、調査不十分であったといえます。 <返信> ありがとうございます。いつもながら、対応の素早さに感謝しています。 調査不足が幸いし、佐倉機関区にあった蒸気機関車がシューベルツとともに記録されることになったといえるのですね。 5月31日 <鉄ちゃんクラブのみなさまへ> 昨日、Uさんから蒸気機関車の話がありました。昭和43、44年ごろ、東京の蒸気機関車(機関区)事情はどのようになっていたのでしょうか。わかりましたら教えてください。 5月30日 Uさんからメールあり お久し振りです。シューベルツ、佐倉ロケの続報です。 自由国民社発行の『深夜放送ファン』1971年8月号は、北山修特集号でした。その中に「ジャケットものがたり」というコーナーがあり、以下北山さんの文章です。 「さすらい人の子守唄(東芝=シューベルツ)これも小生の作詩、のりちゃんの作曲になる出来のいい曲である。 機関車をバックにしたこのPHOTO。東京にはもう蒸気機関車が走っていないというので、わざわざ千葉県の佐倉機関区まで1日がかりで撮影にいった。 ところが、帰りのディーゼル列車が新小岩・両国を通過すると、蒸気機関車がいるではナイカ!」 ということが載っています。この文から分かる事は彼らはこのロケに電車で佐倉まで行ったこと。ロケにはほとんど1日を費やしたことなどです。 〈返信〉 ありがとうございました。佐倉に来た理由や、ロケ時間までわかりましたので、完璧ですね。 2007年2月14日 Uさんからメールあり はしだのりひことシューベルツが佐倉で撮った写真の5種類目を見つけました。 東芝からのオムニバスアルバム『リクエスト・ベスト・14』のアルバムジャケに載っている写真はまた違った写真です。シューベルツのアルバム『未完成』は、C58166の機関車の前にはしださんと井上博さんは座っていますが、今度の写真はその状態から、2人が立って機関車前で4人が立っているバストショット写真です。 ここで今まで発表されているはしだのりひことシューベルツが佐倉で撮った写真を、分かっている分だけ発表順に整理しておきます。 @シングル「さすらい人の子守唄」 Aアルバム「未完成」 Bコンパクト盤「シューベルツ・ベスト・フォー!!」 Cオムニバスアルバム「リクエスト・ベスト・14」 D再発シングル「朝日の前に/白い鳥にのって」 E再発アルバム「はしだのりひことシューベルツ〜カレッジ ポップス・オリジナル・ストックC〜」ただし@の写真を伸ばしたもの FCD「はしだのりひことシューベルツ・クライマックス」ただしAの裏ジャケ写真と同じ 以上、7点5種類です。果たして6種類目の発見はあるのでしょうか?ちなみにアルバム『リクエスト・ベスト・14』に収録されている曲は勿論、「さすらい人の子守唄」です。 僕はシューベルツのカヴァー曲やはしださんの曲をコレクトしています。演奏のみのレコードでも可ですので、知っている事があれば何かの折にでもご教授いただければ嬉しく感じます。 <返信> 佐倉機関区で撮られた写真がこれほど使われていたんですか。私も「さすらい人の子守唄」などのレコードを買いましたが、当時は、まさか佐倉で撮られたとは思いませんでした。(というか、今のように「佐倉」に関心がなかったということですね) それから、ジャケットを発売順に並べていただきまして感謝いたします。このような順づくりもあるんですね。 さっそく、みなさんに呼びかけて情報が集まるようにしましょう。ありがとうございました。 12月9日 えりっぷさんからメールあり フォークルの話で意外な盛り上がりですね。はしださんは奥さんが病気になられて専業主夫されたりで『お父さんゴハンまーだ』という本を出されたことがあります。 ネットで検索すると今も子供の教育関係の講演もされてるようです。北山さんは『さすらいびとの子守唄』というタイトルで本もだされています。 相変わらずの映画「指導物語」ネタですが、吉村昭さんの「東京の戦争」筑摩書房2001年を何気によんでいましたら、丸山定夫さんのことがのっていましたのでお知らせします。 吉村さんが中学生のころ築地小劇場の新劇で丸山さんの舞台を見られたようです。映画「故郷」での丸山さんもみたようです。「丸山定夫が地方巡業中、広島に投下された原子爆弾で死亡したのを知ったのは、終戦後であった。生きていたらどんな俳優になったか。年を重ねるにつれて凄みのある俳優になったにちがいない。奥底の知れぬ俳優であった」(『ひそかな楽しみ』 より) 12月8日 Uさんからメールあり 今回のメールは「佐倉」の話題ではないので、ずい分と迷いました。ですが、管理人さんやえりっぷさんのメールを読んでどうしても紹介したい事があり、書きました。ふさわしくないと判断されましたら掲載はしなくてもかまいません。 『悲しくてやりきれない』や『さすらい人の子守唄』は名曲で、今までたくさんの方がカバーしてきましたが、今回はあまり知られていない、セルフ・カバーを紹介します。 まず、『悲しくてやりきれない』ですが、1980年代にはレコード会社各社が企画物で往年の名曲をオリジナル・メンバーで吹き込ませてGSやフォークのコンピレーション・アルバムを発売しましたが、1981年に『グループ・サウンズ・グッディーズ VOL1』として発売されたアルバムの中で、はしださんが『悲しくてやりきれない』をカバーしています。 『さすらい人の子守唄』の方はやはり1981年に北山さん自身がアルバム『キタヤマ・オ・サム 北山修青春詩歌集』でカバー。このアルバムは他にはしださんと組んだ作品では、『風』『花嫁』もセルフ・カバーしています。CD化もされているので手に入りやすいと思います。 また、2003年には、6曲入りのCD、『はしだのりひこ 風』ではしださん自身の思いを込めた作品をセルフ・カバーしています。もちろん『さすらい人の子守唄』も新録されています。以上、今回は貴重な本人たちのセルフ・カバーについての話題でした。 <返信> ありがとうございました。私はフォークルが大好きでしたので、佐倉に関係のない話題でもうれしいですね。 いきなりテレビで「おらは死んじまったぞ」と流れたときには驚きました。テレビは三人の人形しか出てきませんでしたから、どのようにして歌うのだろうか、なんて話題になりました。 友人は下手なギターを弾きながら、早口言葉のように歌っていましたね。しばらくしたらテープを早く回転させたこともわかって、納得したり。 当時が懐かしくなりました。団塊の世代が来年から定年になります。何か団塊の世代に共感をよぶような当時の歌の「こぼれ話」でもありましたらメールください。 12月5日 Uさんからメールあり 僕のメールがトップ・ページに掲載されていますね。ありがとうございます。近年、はしだのりひこさんの話題について語ることが少なかったので、嬉しかったです。 また、「鉄ちゃんクラブ」も読みました。みなさん、さすがですね。SLのことからあれだけ推理してしまうのですから。『さすらい人の子守唄』が出た時、僕は小6でした。 この曲、『風』よりも好きでした。それでレコードを学校まで持っていったんです。そしたら、たまたまそのジャケをSL好きの友人が見て「あ、これは千葉の佐倉機関区で撮影したものだ!」って教えてくれたんです。 もちろん、その時はまだアルバム『未完成』は発売されていなくて、ジャケ写の場所を僕は特定すらできていませんでした。「どうして判るの?」ときいたら、機関車で判るという様なことを確かその時友人は言っていた記憶があります。 あまり仲がよかった訳ではないその友人は、中2の時、佐倉機関区まで行ってSLの写真を撮ってきました。その写真を僕も1枚もらったのですが、残念ながら今はありません。この友人はその後無事現在のJRに就職しております。そんな事を「鉄ちゃんクラブ」を読みながら思い出してしまいました。 さて、残念ながら何故彼らが佐倉機関区でジャケ写撮影をしたかはわかりませんが、シューベルツやアルバム『未完成』のコンセプトは「旅」ですから、それを象徴するSLが必要だったのかもしれませんね。 僕は最初、彼らは京都のグループですから、京都周辺のSLを撮ったのだろうと思っていたのですが、前記の友人に佐倉だと教えられたのです。 前のメールで撮影時期は昭和44年の3月〜5月だろうと推理しましたが、あらためて『未完成』を調べてみたら、レコーディングが昭和44年の4月中旬ぐらいまでかかっているのが判りました。おそらくはそのレコーディングが終了してからジャケ写撮影だろうと思われますので、撮影は昭和44年の4月中旬〜5月までとの絞込みも可能なのではないかと思います。 はしださんとは僕の地元のラジオ局の仕事やライブで来るたびに、特に1972年〜75年にかけてお会いできていたのですが、ついにこの時のジャケ写が何故佐倉だったのか訊くことを忘れていたことが今考えると残念です。 ただ、はしださんはこう言っていました。(73年現在)「あの『さすらい人の子守唄』は僕が作った曲の中でも、傑作中の傑作だと自負してるよ」と。 『さすらい人の子守唄』って、よくよく聴き込んでみると駆け落ちの歌ですよね。そのイメージがSLと結び付くのでしょうね。この時駆け落ちした若い二人はSLに乗ってどこまで行ったのでしょうか? はしださんは後に『花嫁』でも夜汽車に乗せていますが、もしかすると、この時の撮影が北山さんやはしださんにSLの強烈なインパクトを与えたのかなとも思ってしまいます。 この時の撮影、メンバーや北山さん、広野さんはカメラマンの方にアングルはどうだこうだと五月蠅く注文したみたいですよ。それだけ沢山の枚数を佐倉機関区で撮影した証明でもあると思います。 で、もうひとつ気にかかったのは、亀田さんからのメールに「『未完成』の中に機関車の横で撮ったモノクロ写真があって・・・」とあったのですが、(あれ、『未完成』の中にSLの横で撮ったモノクロ写真ってあったっけ?)と思い、『未完成』を手持ちの4枚分を探してみたのですが、アルバムには機関車横のモノクロ写真はなかったのです。 もしかしたらシングル『さすらい人の子守唄』の裏面ジャケのことですか?あれならモノクロですよね。でも発見もあったんです。アルバム『未完成』はブックレットになっているので、ジャケットが開きます。その開いたすぐのカラーポートレートが機関車横を楽器を持って移動して行くメンバーが写っているのですが、後に再発されたシングル『朝日の前に/白い鳥にのって』は、おそらくこの次あたりの撮影だと思われ、カメラに向かいメンバーが顔を向けているアングルの物が使われています。 またまたつまらないことを書いてしまい赤面の至りです。どうか今後ともよろしくお願いいたします。 <返信> 失礼しました。『未完成』の写真は、カラーでした。「メンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いている写真です。」というUさんの言葉が印象に残っていて、そのような写真であったと記憶していたので、現品を確認せずに記憶で書いてしまいました。モノクロとカラーを混同してしまいました。おっしゃるとおりです。失礼しました。 ところで、今、気づいたのですが、Uさんは北山修氏と話をしたり、はしだのりひこさんとお会いしているようですが、そのような関係の方とお見受けしました。これからも、よろしくお願いします。 ☆☆☆ 鉄ちゃんクラブのみなさまへ。Uさんが「この時のジャケ写が何故佐倉だったのか訊くことを忘れていた」とあります。私の頼りない記憶によれば(あまり信用できません)、東京近郊で機関区の残っているところは佐倉しかなかった。だから佐倉で撮影した、というような(?)、いわないような(?)・・・。 そこで、みなさまの中で、東京近郊の機関区の閉鎖年月について調べていただける人はいないでしょうか、というお願いです。よろしくお願いします。 えりっぷさんからメールあり。 雑談ですが。フォクルセターズ後の北山修さんは大学にもどり、精神科医になられてます。いろいろカウンセリングの本や癒しの本をかかれてますよ。 <返信> ありがとうございました。 12月4日 Uさんからメールあり 僕のメールに返信をくださいまして、ありがとうございます。少し補足させてください。 僕はフォーククルセダーズ(フォークル)の時から、はしだのりひこさんと北山修さんのファンでした。だから、シングル『さすらい人の子守唄』とアルバム『未完成』が出た時から、このジャケットの撮影は千葉の佐倉機関区だと知っていました。 また1970年の頃、北山修さんが深夜放送のDJをやっていた頃、「シューベルツのレコードのジャケットの撮影には全て同行した・・・」と言っていました。それで、1971年の頃、サインをもらうわずかの隙に北山さんに確認できたのですが、確かにあの『さすらい人の子守唄』のジャケ写撮影には同行したそうです。 また、他にはフォークルの時から彼らのレコードジャケットをデザインしていた広野勝さんも(アルバム『未完成』のジャケも彼のデザイン。アルバムの中のイラストも描いています)同行していたそうです。 亀田さんも北山修さんが好きな様ですが、嬉しく思います。はしだのりひこ&シューベルツは以下のレコードをリリースしました。 シングル @風 Aさすらい人の子守唄 (佐倉で撮影した写真が初めて使われた) B朝日の前に C白い鳥にのって D一人ぼっちの旅(これは解散が決定し、端田宣彦とシューベルツ名義。D〜Gは同時発売) E杉田二郎とシューベルツ名義のシングル F越智ゆうじとシューベルツ名義のシングル G井上博とシューベルツ名義のシングル H朝日の前に/白い鳥にのって(解散後に再発されたベストカップリングシングル。「佐倉」で撮った別の写真を使用。アルバム『未完成』の中に載っている写真を別アングルで撮ったもの) <4曲入り> @さすらい人の子守唄(シングルとは別の写真を使用) <アルバム> @未完成(佐倉で撮影された写真満載。表面ジャケはアメリカのフォーク・ロックグループ、ザ・バーズを意識しているのでは・・・と当時話題になった。裏ジャケは後、CD時代になった時のベスト盤にも使用されましたね) Aリサイタル(ライブ盤) B天地創造 Cさよならコンサート(ライブ盤) Dはしだのりひことシューベルツのすべて(解散後の1972年に発売された2枚組ベスト盤) Eはしだのりひことシューベルツ(カレッジ・ポップス・オリジナルストックシリーズの1枚としてリリースされた20曲入りベスト盤。シングルAと同じ写真を引き伸ばして使用) その他Eに先立つ2、3年前に@が再発されています。オリジナル盤に付いていたポートレートなどは付いてなく、表と裏ジャケだけの作りでした) 以上はレコード時代で後はCD時代に突入します。 <返信> 新たな情報、ありがとうございました。私も、フォーククルセダーズが大好きで、レコードを聴いたり、下手なギターを弾いて歌っていました。懐かしいですね。今でもカラオケで歌っています(笑)。 それから情けないことに、「さすらい人の子守唄」のレコードは買いましたが、当時、佐倉機関区で撮影されたことは知りませんでした。 また何かありましたら、教えてください。 12月3日 Uさんから初メールあり 管理人 さま 初めまして。Uと申します。僕は、はしだのりひこさんの大ファンで、はしださんで検索していたら、こちらの『写真撮影他』に行き着きました。 さて、はしだのりひことシューベルツが佐倉機関区で写真撮影したのは昭和44年のことと思われます。何故ならこのグループは昭和43年暮れに結成され、昭和44年1月にデビュー曲の『風』をリリース。 で、佐倉機関区で撮った写真がはじめて使われた第2弾の『さすらい人の子守唄』のリリースが昭和44年の6月1日ですから、撮影は昭和44年の1月から5月までの間と思われ、またジャケットの服装などから推理して昭和44年の3月〜5月の頃ではなかったかとも思われます。 また、ここで撮った写真が使用された、はしだのりひことシューベルツのレコードジャケットは僕の知っている限り他にも2種類あります。 それは1980年代に出た、カレッジ・ポップス・オリジナルストックシリーズのCとして出た「はしだのりひことシューベルツ」集でここでのジャケ写はシングルの『さすらい人の子守唄』のものを引き伸ばして使っています。 もう1枚は、シューベルツ解散後の昭和45、6年ごろ、シングルでベスト・カップリング・シリーズとして再発された『朝日の前に/白い鳥に乗って』。はしだのりひことシューベルツです。ここでの写真は、まったく初出のもので、メンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いている写真です。 とにかくシューベルツは、この佐倉機関区で撮った写真がよくレコードジャケットに使われました。この撮影ではメンバー4人の他に作詞者(風やさすらい人の子守唄等の)の北山修さんも同行していました。 はしださんのファンなので書かずにはいられませんでした。失礼します。 <返信> はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。このたびはメールをいただいましてありがとうございました。また私の知らない情報をいただきましてありがとうございました。 『朝日の前に/白い鳥に乗って』は見ていませんが、『未完成』のジャケットの中にメンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いているカラー写真がありました。そのような写真を何枚も撮っていたんでしょうね。北山修氏も同行していたなんて感激です。 これからも、よろしくお願いします。 11月19日 Iさんから初メール 鉄ちゃんクラブ内容の件です(5月20日〜5月31日情報 はしだのりひことシューベルツの記事)。 C58289の履歴:昭和22年9月15日一関機関区で水害により履歴簿汚損、以前の履歴不明。昭和36年3月9日佐倉機関区。 C58166の履歴:昭和14年10月2日新鶴見機関区 昭和16年10月30日千葉機関区 昭和29年11月1日佐倉機関区。 たまたま「鉄ちゃんクラブ」拝見しました。小生、佐倉にいた58677の調査をライフワークにしています。 <返信> はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。このたびは貴重な情報をお寄せいただきましてありがとうございました。これからも、佐倉に関した情報がありましたら、お寄せください。まずは、お礼申し上げます。 5月31日 ホームタウン佐倉さんからメールあり。 ごぶさたしております。 「鉄ちゃん」の一員として認定していただいたようで、有難うございました。 C58166とC58289がだいぶ話題になっているようですから、久しぶりに「佐倉の鉄道噺」を下記に書きました。どうぞよろしく。 なお6月10日のオフ会には参加させていただきます。てっちゃんの皆さんは出席されるのかなぁ? はしだのりひことシューベルツの写真ジャケットに描かれているC58166とC58289がだいぶ話題になっているようです。 C58166は昭和14年9月、C58289は昭和16年9月にそれぞれ汽車会社で製造されました。製造番号は1800と2074です。最初にどこの機関区へ配置されたか、資料がありません。 昭和20年8月(終戦時)にはC58166は千葉機関区、C58289は一ノ関機関区に配置されています。C58166は千葉機関区にその後も引き続き配置されていますから、おそらく房総東西線(現外房・内房線)で使用されていたのでしょう。昭和30年3月現在の配置表からは佐倉機関区に所属し、昭和44年3月現在までそのままです。 C58289は昭和36年3月現在配置表から佐倉機関区へ所属しています。それ以前にどこに配置されていたのかは、これも資料がなく動きは不明です。やはり昭和44年3月現在まで佐倉機関区に配置です。 したがって、ジャットの写真撮影は昭和36年3月以降でしょうが、これの発売がいつかわかれば、おそらくその直前に撮影ということになりましょう。両機ともに昭和45年3月現在配置表では、番号が記載されていませんから、県下の蒸気機関車全廃に伴い、廃車されたものと思いますが廃車年月日は調べてありません。 sendagiさんの書かれた煙突上の回転火ノ子止めは、千葉鉄道管理局管内の機関車の大半は取り付けていました。 映画「点と線」に登場したC58も、この回転火ノ子止め付きでした。戦後まで総武線や成田線はハチロクの天下でC58の引く列車はありませんでした。佐倉機関区へ初めて配置されたのは、昭和24年3月配置表からで、C5898,C58139,C58150,C58156,C58179,C58328,C58395の7両です。(ただし昭和23年3月配置表が手元にないため昭和22年3月配置表からの推定です) <返信> ここしばらく、鉄道の話で盛り上がっていましたので、いつ、ホームタウン佐倉さんが参加されるのか心待ちにしていました。オフ会には、sendagiさん、N・Mさんも参加予定ですから、オフ会も盛り上がるでしょう。 はしだのりひことシューベルツの「さすらい人の子守唄」は、昭和44年(1969)6月の発売です。「風」は、昭和44年1月の発売です。 気になっていたことがあります。sendagiさんが探してくれたブログに、「風」と題名を書いた下に、C58の機関車が写っているのです。 ただジャケットの写真ではないと思うのです。というのも、私も「風」を買ったので、ジャケットの写真を薄ら覚えています。確か、枯葉の中にグループがいたような感じであったと記憶しています。 ブログを書いた人がどのような理由で、「風」の下にC58機関車を並べたのか興味の覚えるところでもあります。 5月26日 先日のオークションで落札した、はしだのりひことシューベルのレコードが届く。 シングル盤は、「さすらい人のも子守唄」のレコードで蒸気機関車に乗った写真。 この写真は、先日、sendagiさんからメールをいただいたCP盤の写真と蒸気機関車に乗ったところまでは同じですが、角度が違っています。 LP盤は、未完成というレコード名で、広角レンズでグループと蒸気機関車を撮った写真。この裏面にある蒸気機関車とグループが写った写真が、CDにありました。 どうも文章が舌足らずですが、要は4枚のレコード盤とCDに、4枚の佐倉機関区で撮った写真がジャケットに使われているという話でした。 5月23日 sendagiさんから一昨日の内容についてメールあり。 前回送信した内容の訂正、補足があります。まぁ、読んで軽く流すだけでもいいですけど。 上野駅で最後まで見られたSLが成田線直通列車のC57(1969年3月15日)・・・これはいいです。千葉駅で最後まで見られたSL・・・正確にはこれがちょっと複雑でした。 1969年7月10日・・・房総西線の最後のSL旅客列車。この列車が千葉駅を出発するシーンの写真は、千葉市史についての写真集などにはたいてい掲載されていました。私も小学校3年のときに学校教材の資料集で見ました。 1969年8月20日・・・房総東線の最後のSL旅客列車。両国発勝浦行で、両国発としてはこれが最後だったようです。 1969年9月30日・・総武本線のSL旅客列車。千葉発銚子行で、これが千葉駅での旅客列車としては最後だったようです。 1970年3月15日・・・蘇我-越中島間のSL貨物列車。千葉駅を通過しています。D51の貨物列車でした。 上記のうち、貨物のD51以外は、各線の最後を飾った機関車はいずれもC57。結局C57なのは同じです。 また、1972年に鉄道100年記念のイベントが各地で開催されましたが、このとき総武本線・成田線に運転されたSLは、やはりC57でした。SL全廃の後、山口線で復活したC57-1号機でした。 そんなわけで、千葉県内ではC58が多数活躍していたにもかかわらず、「さよなら列車」のような、おいしいところ(?)は、やっぱりC57ばかりでした・・・ということです。 C58-166号機については、副灯のない時代(ステーも無い時)の写真を見つけましたが・・まぁそれだけで、あのジャケット写真に関しての新たな発見には至っていません。 <返信> C58が出てこないのは少々さびしいところもありますが、文庫としては「佐倉機関区で撮影されたジャケット」ということで、充分に価値があります。 これからも継続して探してください。ありがとうございました。まもなく、オークションで落札した品物が送られてくると思います。お楽しみに。 5月22日 sendagiさんからメールをいただいて気づいたのですが、満開佐倉文庫の司書さんは「てっちゃん」が多いなということです。 最初の情報を教えてくれたTONGOさんや、N・Mさんがいます。それから「てっちゃん」といっては失礼になるホームタウン佐倉さんがいます。 もう、4人がそろったときのオフ会は、鉄道の話で盛り上がりっぱなしです。 はしだのりひことシューベルツのCD,ドーナツ盤、LP盤を落札しました。 3枚ともジャケットの写真は違うのですが、さらにsendagiさんが昨日、紹介してくれたHPにある写真とは違っています。 つまり、佐倉機関区で撮った、はしだのりひことシューベルツのジャケット写真は4枚あるということになります。詳細は、品物が届いてから掲載します。 5月21日 sendagiさんからメールあり。 はしだのりひことシューベルツが撮影に使った機関車はC58の166号機です。 C58の166号機の写真は、SLの写真を掲載しているHPを適当にあたって、これだけ見つけました。 ↓ (Webサイト 閉鎖) ご自由にどうぞとのことなので、ここに出ている写真を添付してあります。1967年12月3日撮影だそうです。 つぎに、TONGO氏から教えてもらった、例のジャケットの写真の出ているHPですが、 ↓ (Webサイト) ナンバープレートが隠れて見づらいですね。ほかのジャケットを探して見ますと、別のHPで、小さくしか出ていませんが、C58166らしいものはありました。 メンバーの服装からして、同時に撮影されたものでしょう。(添付の写真です) ジャケットの写真ですと、C58166には副灯(中央のヘッドライトのほかに隣にもうひとつある予備灯)があります。 1967年12月3日の写真には、副灯がないですが、取り付けるステーらしきものが写っており、修理か何かで、外していたのかもしれません。 こういう装備は、同じ機関区の同じ形式でも、1両ごとにまちまちだったりします。同時期に佐倉機関区にいたC58のほかの写真を見ても、副灯の位置が違うものがあります。 また、煙突が、皿を載せているかのように上が拡がっていますが、これは回転火の粉止め(多分)で、これはジャケットの写真も1967年12月の写真も同様ですね。 別のHPで、鉄道図書刊行会の国鉄車両配置表の内容を掲載しているものがあり、それによると、1964年4月の配置表と、1969年3月の配置表で、166号機は佐倉機関区に所属していたとされ、少なくともこの間はずっと佐倉に所属していたと思われます。 余計な話ですが、上野駅で最後まで見られたSLは常磐線から成田線への直通列車(1969年3月まで)で、これはC57。 千葉駅で最後まで見られたSLは房総東線の列車(1969年8月)で、さよなら運転はこれもC57。おいしいところ(?)はC57に持っていかれています。C57だと、自分の家にある鉄道の本でも結構調べられるのですが、C58だと、自分の家にある鉄道雑誌では、特集が組まれたものはなかったです。 本末転倒な話ながら、ジャケット撮影にC58でなくC57を選んでくれればよかったのに・・なんてことも、調べながら思いましたね。 SLなら何でもよかったのか、C58が好きだったのか、それとも佐倉機関区に何かこだわりがあったのか、さらにはC58の166号機を選んだ理由でもあるのか、わかりません。 HPでも雑誌でも、「ジャケット撮影エピソード」みたいなものを見つけられればズバリなのですが、今のところ見つけられなかった・・・ C58というと、客貨両用の万能機で、比較的製造数も多く各地で使われながら、それでいて、特急列車の牽引などの華々しい経歴はほとんどなく、そのためか、詳しいデータや写真を多く掲載しているHPは、自分が探した限りでは、なかなか見つけられませんでした。 なお、インターネットでの情報は、必ずしも正確でないことが珍しくないのでご了承ください。 またなにかわかりましたらご連絡します。6月10日は参加いたします。よろしくお願いいたします。 5月20日 はしだのりひことシューベルツのレコードをオークションで発見。ドーナツ盤、LP盤、CDがあり、それぞれ機関車の角度が違っています。 オークションの写真が小さいので、これが旧国鉄佐倉駅の機関区かどうかわかりません。とにかく手に入れたいと思います。 〔2006年〕 5月18日 TONGさんから佐倉情報 はしだのりひことシューベルツというフォークグループが、かなり前にレコードを出しましたが、ジャケットの写真は旧国鉄佐倉駅の機関区で撮られたものです。 <返信> ありがとうございました。さっそく、探してみます。 トップページ |