八谷 衣人さんの電子本執筆中

「さくら・しゃべくる・くろにくる」

  八谷です。
館主から佐倉に関して何かレポートを書いてほしいとのことですので、 大河ドラマ「新選組!」で注目の幕末について、何か書いてみましょう。
幕末の佐倉藩に関する、知っててもあまり役に立たないけれども面白い歴史の話をしてしまおう、という電子本です。
なるべく世の中に知られていないような話を発掘して、しかも分かりやすく紹介しますね。


館主です。
ありがとうございます。八谷さんは幕末に詳しいので、これまで埋もれていた佐倉の話を発掘して 紹介してください。
なお、八谷さんの文章は、八谷さんに帰属しますので、引用はご遠慮ください。
いつか、一冊の本にまとまるのを楽しみにしています。

                       

〔第Z話〕
彰義隊士木村隆吉伝(3・完) 幻の旅券編

 木村隆吉が赴任したのは、「開国」後間もない開港地、箱館。外国船が頻繁に来航するここでは、洋学者の活躍の場は多かろうと思われます。 しかも、箱館奉行所は外国との貿易航路の開拓に積極的であり、すでに役人をアムール川流域や上海に派遣していました。 そうした背景もあって、隆吉も中国に渡航するこ とになりました。 内田儀久氏の調査によって、箱館奉行杉浦誠の日記に隆吉の上海・香港渡航の記事があることがすでに知られています。しかし、これまで分からなかったのは、隆吉がなぜ渡航を企図したか、という点でした。それを解く鍵は、明治時代に外務省が編纂した、幕末の外交記録集である『続通信全覧』にあります。こ の中には、「箱館方雇木村隆吉支那行請願一件」なる項があり、いくつかの記録が紹介されているのです。 その最初の記録を紹介しましょう。慶応2(1866)年9月、隆吉が上海・香港への渡航を願い出た書面です。

「わたしは年来、外国における商船の作法などを心得たく思い、少々書籍にて研究しておりましたところ、書籍上のみにては何分隔靴のうらみ少なからず、悲嘆しておりました。 そこへ、こんどイギリスの商人ブラキストン(西太平洋商会の日本代表、博物学者としても知られる)の手船のアキンド号が帰港し、 ま もなく上海・香港に向けて出帆するとのこと。内情を問い合わせたところ、ブラキストンは香港にある造船所に交渉ごとがあるために赴くとのことでした。 アキンド号へ乗り組み、商船の諸事取り扱い法・運用法・測量法はもちろん、造船所の設置法まで心得ておけば、将来お役に立つと思われますので、 実地研究のために乗り組み を命じていただきたいのです。もっとも、右についてお手当ての支給などは願いませんので、 なにとぞお聞き届け下さいますようお願い申し上げます。以上。」(通信全覧編集委員会編『続通信全覧』類輯之部30 雄松堂出版)

 これによれば、隆吉は海事関係の実務全般に関心を持って熱心に研究しており、恐らく英語も使いこなせたのであろうことが察せられます。 結局、このときは船長に断られ、渡航はかないませんでした。しかし、この直後に上海へ、つづいて翌年に香港へ渡ることができたらしく、 杉浦の日記にその旨が記されてい ます。念願かなって大陸の土を踏んだ隆吉は、箱館奉行所にとって有益な情報を多数もたらしたに違いありません。
 しかし、このころ時代は幕末から明治への急転を迎えつつありました。王政復古に不満な旧幕臣らにより戊辰戦争の火蓋が切られると、 隆吉もこの動きを座して見てはいられなかったようです。彼は脱藩、佐倉藩士の身分を捨て、新政府との戦いに身を投じる意を決しました。 幕府のお雇いとして活躍の場を与えら れた隆吉は、幕府を葬り去った新政府を受け入れられなかった、ということでしょうか。
 慶応4年、江戸開城の日の夜、江戸に現れた隆吉は大鳥圭介と行をともにしました。が、結局大鳥とは行動をともにせず、旧幕臣を中心に結成された 彰義隊に―旧陪臣の身にもかかわらず―入隊したといいます。そして、戊辰戦争の混乱のさなか、隆吉は31年の生涯を閉じました。錦旗に背いた賊徒としての最期でした。
 おわりに、なぜ隆吉の渡航についての史料は重要なものと認識され、外務省の記録集に残されたのでしょうか。それは、実はパスポートの歴史と関係があります。 本格的に「開国」の道を歩もうとした幕府は、海外渡航者にパスポートを発給することを布告していました。しかし、隆吉が一度目に渡航を願い出たとき、 まだ幕府がパスポートを発給する作業が追いついていなかったのです。隆吉はそれに代わる書類で渡航する運びとなり、その手続きが記録として残されたのでした (前述のとおり、このときは渡航自体が実現しなかったわけですが)。
 日本初のパスポートは、アメリカ巡業の曲芸団に対して慶応2年10月に発給されており、これは隆吉が大陸に渡ろうとした翌月のことでした。 隆吉が渡航を願い出るのがもう少し遅ければ、初のパスポート取得者として歴史に名を残したかも知れません。(完)

〔第Y話〕
 彰義隊士木村隆吉伝(2) 北国雄飛編

 木村軍太郎を師として洋学修行に励んだ木村隆吉でしたが、しかし文久2(1862)年に軍太郎は36歳の若さで病死しています(隆吉は25歳)。 この前後の隆吉の動きはよく分かりません。管見の限りでは、隆吉の次なる動きが分かるのは元治元(1864)年のこと(27歳)。 『在住御雇御雇医師同並明細短冊』(北海道立文書館蔵)という記録に、隆吉の名が見えるのです。
 日米和親条約の結果、外国に対して開かれることになった箱館の地に、幕府は箱館奉行を置きました。 この記録は、箱館奉行所が幕臣以外からその能力を評価して雇用した者たちの名簿なのです。 これによれば、隆吉を「10人扶持」にて「元治元年6月24日、お雇いを命じる」とあり、彼はこの日付で佐倉藩士の身分のまま幕府に雇われたことが分かります (なお、(1)隆吉の祖父や父の名、(2)隆吉が元治元年の時点で27歳である=天保9年生まれであること、 (3)「本国・生国とも下総」とあるので、恐らく国元の佐倉生まれであること、 などもこの記録によって分かりました)。
 佐倉藩側にも関係する記録があるだろうと思って確認したら、やはり藩の記録にありました。簡単に確認しますと、隆吉のお雇いは次のような運びで実現したようです。

 「(6月24日)老中牧野備前守忠恭(ただゆき)様よりお呼び出しがあったので、磯矢与一右衛門(藩の江戸留守居役か?)が参上したところ、御用人をもって左のような御書付一通をお渡しになった。 御名(もとは相模守とあったのでしょう)家来へ 御名家来 木 村 隆 吉 右の者に箱館表お雇いを命じる。お手当ては10人扶持を下される。もっとも、箱館奉行はこれを承諾するべし。」 (「年集」元治元年6月25日条 『下総佐倉藩堀田家文書マイクロフィルム版』リール198)

 翌25日、隆吉は磯矢とともに牧野のもとにお礼言上に行き、また江戸にいた箱館奉行並新藤方凉が彼を「お引き取り」になったとあります。 このあと、隆吉はまもなく箱館に赴任したのでしょう。
 佐倉藩士である隆吉が、実力を評価されて幕府からヘッドハンティングされたわけですから、隆吉の名は江戸の洋学界でそれなりに知られていたのではないでしょうか。 長男に生まれなかった隆吉は、こうして出世の糸口をつかんだということができます。しかし、この出世街道は、隆吉にとってのちの悲劇へとつ ながる道でもありました。
 余談ですが、隆吉の箱館赴任後、同じ佐倉藩士の内田又五郎・須藤新八郎が洋学修行のためにかの地に赴いています。 内田は武田斐三郎(あやさぶろう 五稜郭の設計者)、須藤は大島高任(たかとう 近代製鉄業の先駆者)のもとで修行に励んだようです。 こうした動きは、隆吉の箱館赴任と切り離して考えるこ とはできないでしょう。(つづく)

〔第X話〕
彰義隊士木村隆吉伝(1) 洋学修行編

 内田儀久氏が「戊辰戦争に参加した佐倉藩士の碑について」(『佐倉市史研究』(10、P.9〜20)で すでに紹介していますが、有名な彰義隊にも、旧佐倉藩士がいたといわれています。その名は木村隆吉。
彰義隊に入隊したという根拠は、実は怪しいのですが、たいへん興味深い人物であることは間違いなさ そうです。
新史料によって、彼の足跡を追ってみましょう。

 木村隆吉は、天保9(1838)年の生まれのようです。生まれは佐倉。祖父・父とも佐倉藩士でした (以上の根拠になった史料は、次回以降で紹介しますね)。ペリー来航の年、嘉永6(1853)年に 一人扶持を支給されたといいますので、おそらくこの年に元服したのでしょう(16歳)。安政2(1855)年には、 西塾・東塾で藩士子弟の教育に当たっています(18歳)。また、洋学修行にはげんでいたようで、同4年8月 には江戸へ出て、望みの師のもとで洋学を修行するよう、藩から命じられています(20歳)。 隆吉は「大筒方」で勤務していたといいますから、洋学とは、具体的には西洋砲術ではないでしょうか。
この命を受けた隆吉が、誰のもとで修行をしたのかが不明だったのですが、佐倉藩年寄部屋日記に、次の ようにあるのを見つけました。
「一、入江彦左衛門、左のとおり達す。」
 木村斧右衛門(おのえもん?)の弟隆吉のこと。江戸表の木村軍太郎に内用があり、しばらく逗留させる つもりで派遣しておりました。用向きが済みましたので、帰ってくるはずのところですが、このたび洋学修行の ために望みの師のところで随身修行するよう命じられましたので、当分のうちは同人のもとで随身修行いた させます」(「日記」安政4年9月11日条、『下総佐倉藩堀田家文書マイクロフィルム版』リール169) 隆吉は、上役であろう入江の用事で江戸の軍太郎のもとに滞在中、さきほどの洋学修行の命があったので、 そのまま軍太郎に入門したというのです(なにか、できすぎた話のような気がしなくもないですね)。  軍太郎は、佐倉藩のほこる秀才で、手塚律蔵や佐藤泰然とともに当時日本でも指折りの洋学者の一人。同じ苗字 ですが、血のつながりはないようです。いい師匠にめぐり合えた隆吉が、修行に必死ではげんだであろうことは、 のちの彼の経歴が証明しています。
 このあと、隆吉は安政6年にも、もう二年洋学修行を続けるよう藩命を受けていますので、文久元(1861) 年までは軍太郎のもとにいた可能性があります(24歳)。時代の要請する学問を身につけた隆吉は、 その後、どんな人生を歩むのでしょうか?(つづく)

(2005年5月7日 掲載)



〔第W話〕
佐倉藩士が目撃? 初の北方領土交渉

 今年平成17(2005)年は、日本とロシアとの間で日露通好条約が調印され、 日露国交が樹立されてから150年の節目の年です。ちょっとややこしいんです が、この日露通好条約が結ばれたのは日本暦で安政元年の末。安政元年は 西暦で1854年なんですが、条約の結ばれた日は、西暦ではすでに新年になって いましたので、1855年。それで、今年が150年の年なわけです。

 この条約は日露国交を結ぶものであるだけでなく、北方地域における日本と ロシアとの国境を決定するものでもありました。つまり、千島列島において エトロフ島とウルップ島に国境線を引き、「北方領土」と呼ばれる地域を 日本領であると取り決めたのがこの条約なのです。こんな歴史上重要な条約の 交渉が行われた場に、実は佐倉藩士がいた可能性があるのです。しかも、なんと 二人もいたというのです。

 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航し、日本の開国と日露国境の画定を要求 したのは、嘉永6(1853)年7月。アメリカ使節ペリーが来日した一か月後 でした。幕府は、筒井政憲・川路聖謨(かわじとしあきら)・古賀謹一郎らを 対魯応接掛に任じて長崎に派遣、プチャーチンとの交渉に当たらせます。交渉の ため川路が江戸を発ち、長崎に向かったのは10月29日。この20日前の同月9日、 佐倉藩主堀田正睦は、旧知の川路に次のような書状を送っています。

「ついては内々にお願いしたいのは、かねてご懇命をこうむっておりました 愚臣串戸八十次郎(くしどやそじろう)を、このたびのお供のご家臣のうちに 加え、崎陽(長崎)へ召し連れ下さるわけにはゆかないでしょうか、という ことです。かの地にはかねがね内用もあり、かつロシア船の様子なども一見 させ、承知いたしておきたく存じております。しいてご都合の悪いことが ございませんでしたら、まげてご許容下されますようお願いいたします。」
(日本史籍協会編『川路聖謨文書』8〈覆刻版〉、P.332〜333、現代語訳筆者)

 串戸八十次郎(のち五左衛門)は、「愚臣」とあるとおり堀田の家臣=佐倉藩士。 彼は嘉永4年から5年の間大坂に滞在し、当時大坂町奉行の職にあった川路の もとで「刑名取調」に当たった経験がありました(「刑名」には政治とか裁判の 意味があります)。堀田はこのつてを利用して川路に八十次郎の随行を頼んだ のです。川路からはOKが出たようで、四日後の10月13日に、藩から八十次郎に 対して長崎行きの命が出ています。

 さらに、堀田はもう一人の家臣を、川路と同じく応接掛を命じられた古賀謹一郎に 随行させています。その名を八木釣といい、この長崎行について『征西紀行』と いう記録を残しています。

 ペリー来航時に藩士木村軍太郎を派遣して黒船艦隊を観察させたこともよく 知られていますが、西洋諸国による開国(ロシアの場合国境画定も)の要求という 一大事を知った堀田は、このように事態の把握に力を注いでいます。また川路宛の 書状の中で、長崎に「かねがね内用」があったとあるのが気になるところですね。
 恐らく、オランダ人相手に貿易を行っていた日本人商人らとの接触があったのでは ないかと思います。「ランペキ」といわれた堀田は、やはり海外の情勢に敏感で あったことが分かりますね。

(2005年4月7日 掲載)



〔第V話〕
低支持率(?)の堀田内閣

 佐倉藩主堀田正睦は、幕末に日本の開国を主導した老中として有名です。
海外事情に通じた彼は、老中首座、かつ徳川幕府始まって以来の外務専任 老中に任命され、日米修好通商条約の締結に尽力します。こんにちから見れば、 やや地味な人物ながらも、「開国の功労者」として堀田のイメージは決して 悪いものではないでしょう。しかし、果たして当時の堀田の評判のほどは どうだったのでしょうか?

 水戸藩に鈴木大という蘭学者がいました。安政4(1857)年ころ、鈴木が 佐倉藩の関係者らを訪れ、堀田正睦の人となりについて情報収集(いわば スパイ活動ですね)したときの記録があるので、ここから堀田の評判のほどを かいま見てみましょう。まず、小野寺慵斉(ようさい)へのインタビューです。
小野寺は、招かれて佐倉藩で兵学を教えていた著名な兵学者です。

「堀田侯は美質とでもいえるでしょうか。生まれはずいぶんよろしいけれども、 才知や力量などというものはまったくないのです。大名は生まれ育ちよく、 みな同じようなものですので、しっかりした補佐役さえいれば名君にもなれる でしょう。けれども、家老・用人ならびに左右の者にも人材がいなければ、 何事もできないものです。どこの藩にも藩のために一身をささげる、見識ある 者が家老・用人などのなかに一人くらいあるものですけれども、佐倉藩に 至っては、一人もいないのです」

 次は、安井息軒(そっけん)へのインタビュー。息軒は幕末を代表する 儒学者で、招かれて佐倉藩でも講義していました。

「堀田侯には才気などというものは爪のあかほどもないのです。かつ、臣下に 一人も人材がなく、みな凡人ばかりです。西村平太郎(のちの茂樹)という 者は拙者のところにも参りましたが、さしたる人物ではありません。しかるに、 西村のほかに人物がいない様子です。侯の蘭学好きは有名ですが、これは 経書の窮屈なことを聞くよりは新奇な珍説などを聞くほうが面白いという くらいのことです」

 さらに、鈴木が佐倉藩士窪田官兵衛(国家老平野重久の弟)を訪ね、「この 受難のときに老中首座を勤められる堀田侯のご心労、お察し申し上げます」と いうと、

「心配するくらいの主人ならば、かえって頼りにもなるところですが、主人も 家老・用人も心配どころではなく、この先も安楽に勤めるつもりの様子です ので、困っております。かえってそれを私どもは心配しております」
(日本史籍協会編『鈴木大雑集』第1〈復刻版〉、P.267〜271、現代語訳筆者)

 考えてみれば、水戸藩の実権を握り、攘夷を公言する前水戸藩主徳川斉昭は 堀田の天敵。その水戸藩の鈴木に対して、堀田のことをよくいわないのは当然かも しれません。また佐倉藩主で、老中首座で、かつ外務専任老中を務める堀田は、 こんにち風にいえば都道府県知事と首相と外相を兼任しているようなもの。手足と なって働く家臣たちは、どっと仕事が増えて不満もたまっていた、ということもあるかも しれません。ま、それを割り引いたとしても散々な評価ですが、藩内の一部には こうした声もあったということでしょう。

(2004年7月19日 掲載)



〔第U話〕
佐倉藩士須藤秀之助、トナカイを見る

 今回は、江戸時代にトナカイを見た佐倉藩士の話です。トナカイ……。そう、 サンタクロースの乗っているあのトナカイです。動物園がない頃のことですので、 寒帯に分布するトナカイを見るには、寒帯に行かなければいけません。江戸 時代に、そんな北まではるばる旅行した人物が佐倉にいたのです(といっても、 もちろん、トナカイを見るために旅をしたわけではないですよ)。

 時は安政4(1857)年。老中職にあった佐倉藩主堀田正睦は、須藤秀之助 (蛮社の獄で有名な江川英竜から、西洋砲術を学んだ洋学者)ら八人の信頼する 家臣に蝦夷地の調査を命じました。当時、蝦夷地の開発は、カラフトの領有を狙う ロシアに対抗するため、また新たな財源を確保するためにも、幕府の大きな課題 でした。そこで堀田は、開発の具体策を立案するため、前年の安政3年に家臣を 派遣して東西蝦夷地(北海道)を調査させ、続いてこの年にも残るカラフトと エトロフ島の調査を実施させようとしたのです。

 こうして須藤ら四名はカラフトに赴き、他の四名はエトロフ島を調査しました。 須藤らはカラフトの南部を巡視し、各自毎日の調査の成果を日記に記しています。 このうち須藤の日記に、トナカイが出てくるのです。カラフト中部まで足を運んだ 須藤らは、先住民族であるオロッコ(ツングース系の民族)やシリマオカアイノ (アイヌの一派)が遊牧しているトナカイの群を見物に行きました。

「昼食を終えて、例のトナカイ獣を見ようと思い、二、三人のアイヌに先導させ、 川を渡って、北側の岸に上陸した。原野はるか彼方まで広がり、一望して数里 先まで見えるも、樹木は一本もなし。そして、いわゆるトナカイ獣のあちこちに 群をなしているのが六、七〇頭。その顔は甚だ鹿に似て少し肥満、大きさは馬 ほどはない。頭のてっぺんに二本の角があり、大きく、数条に枝分かれし、その ことごとくが皮と毛に包まれている。雄・雌とも同じ。歳月を経ると、自然に 抜け落ちる。これも鹿の角が落ちるのと同様という。気性は素直で、よく人に なれ、四、五間の距離まで近づくとようやく人を避ける。シリマオカアイノ・ オロッコらが遊牧しているところのもので、有用のときには走って雪舟(そり)を 引き、かつ物を背負って、よく牛馬の用に堪えるという」(『唐太紀行』閏5月 14日条、成田山仏教図書館蔵、現代語訳筆者)

 トナカイはアイヌ語から日本語に入った単語で、江戸時代にも「トナカイ」と 呼ばれていました。角が皮でおおわれているとか、普通の鹿と違ってメスにも 角があるとか、現代でもあまり知られていないんじゃないでしょうか。
 そういえば、実際にトナカイを見た経験なんてあんまりないですね。まして江戸 時代にトナカイを目にした日本人なんて、ほとんどいないはずです。須藤は草むらに 抜け落ちていたトナカイの角を拾った、とも書いていますが、きっと貴重なカラフト みやげとして持ち帰ったのでしょう。

(2004年5月16日 掲載)



〔第T話〕
手塚律蔵が語った、桂小五郎の逸話

 手塚律蔵は、長州藩領内の村医者の子。長崎・江戸で蘭学を学び、嘉永4 (1851)年に佐倉藩の西洋学師範となって、藩士に蘭学を教授しました。また、 江戸の本郷に蘭学塾又新堂(ゆうしんどう)を開いて後進を指導し、蕃書調所 (ばんしょしらべしょ、幕府が設置した洋学研究所兼学校)の教授も務めて います。当時の日本でトップクラスの蘭学者といえるでしょう。

 明治維新の立役者の一人、長州藩士木戸孝允(当時は桂小五郎)も手塚の門人 でした。剣術修行のため江戸に出ていた桂は蘭学をもこころざし、安政2 (1855)年、数え年23歳のとき、又新堂の門をたたいたのです。
 さて、同じく手塚の門人だった西村茂樹は、のちにその回顧録のなかで、 手塚から聞いた当時の桂に関する面白いエピソードを紹介しています。桂が みずからの見たことと自分の考えとを手塚に話し、手塚はそれを西村に話し、 西村が後年それを回顧録に記したのです。
 それは、こんな話。桂はある日、路上で大男と小男がけんかしているのを 見ました。大男は一方的に小男になぐられ、無抵抗でいたところ、見物人の 一人が大男の臆病をあざけりました。それで発奮した大男は小男に応戦し、 しまいにはこれを打ち倒したのです。大男は陸尺=駕篭かき、小男はその頭 であり、陸尺は頭にかなわぬものとはじめから思っているので、自分の力が 頭に優ることを知らないものだ、と見物人が話しているのを、桂はあとで 聞きました。

「桂はこれを聞いて大いに感じるところがあり、私(手塚)にいうには、 『われら諸藩の家臣は、はじめから幕府に対抗することなどとてもできないと 思っています。しかし、これはこれまで受けてきた威圧がそう思わせるの であって、もしその実力を比較すれば、あるいは諸藩の力が幕府の力に優る やもしれません。陸尺の事例をその証拠といえるでしょう』と。私(手塚)は これをいましめていった、『そんなことをみだりに口にしないように』と」
(日本弘道会編『西村茂樹全集』第3巻、P.322〜323、現代語訳筆者)

 安政2年といえば、桂らが倒幕を成し遂げる10年以上も前です。当時すでに 彼は「幕府何するものぞ」という気概を持っていた、ということですね。それに しても、慎重な彼にしては、やや不用意な発言に思えます。おそらく桂と しては、手塚は長州藩出身の同郷人ゆえ、自分の思いを理解してくれるのでは ないか、と思ってこの話をしたのではないでしょうか。

(2004年3月19日 掲載)





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