佐倉発見本


佐倉を語る上で、このような本をみておくと参考となると思われる本を掲載しました。

 

2006年6月5日 入力



 9月22日
 七つの子さんからメールあり。
 おはようございます。実は、私は山車の変遷や構造については、あまり詳しくないのですが・・・
 千代田区教育委員会から発行された、「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年発行)「続・江戸型山車のゆくえ」(平成11年発行)には、『神田明神祭礼絵巻』『江戸天下祭図屏風』などの絵巻物、浮世絵などが掲載されています。
 それによると、山車だけでなく、屋台や曳物も牛に引かせていたことが判ります。もちろん、すべて牛に引かせていたわけではないでしょうが・・・
 番付絵のほうは、山車の周りにいる人間が多く描かれていますので、牛は隠れて見えないカタチになっているのではないでしょうか。
 牛引きの山車は2輪ですので、前に傾けさせると牛に負担がかかるため、後ろに傾くようにしていたそうです。参考程度ですが、牛引きの山車図を添付いたします。


 2006年9月21日
 七つの子さんからメールあり。
 ご無沙汰しています。さきごろ開催された国立歴史民俗博物館の企画展「佐倉連隊にみる戦争の時代」で、山車の写真をご覧になったでしょうか?
 『日清戦争の招魂祭』と題された一枚です。図録では43ページに掲載されています。この写真に、麻賀多神社祭礼の7本の山車が写っています。私が知る限り、最も古い山車の写真だと思うのですが、如何でしょうか。
 祭り好きな私の仲間うちでは、この写真をめぐって「ちょっとした大騒ぎ」になっています(笑)上町の「日本武尊」の山車が後ろに傾いているのは、この山車が二輪で、牛に曳かせていたものだという何よりの証拠だそうです。
  佐倉本の情報でなくて申し訳ありません。そろそろ祭礼も近くなってきましたので、心浮き立つままに記しました。


<返信>
 私も図録を買いましたが、まさか日清戦争で「祭り」の山車とは気づきませんでした。私の知る限りでは、現在、山車が写ったものとしては、一番古い写真だと思います。
 山車が傾いているから牛に曳かせていた証拠とは、おそれいりました。こだわって見ていると、見えてくるものですね。祭りが近くなってきましたから、大いに盛り上がってください。
 ところで、山車を牛で曳くっていいますと、江戸時代は人が曳いていなかったんですか?『佐倉写真帖』に掲載されている、「山王御祭礼番附(万延元年) -部分-」の挿絵を見ても、牛が出ていませんが?

2006年6月3日
 なっちゃんから佐倉本情報のメールあり。
 館主さま、佐倉本にならないかもと思いましたが、「佐倉」を発見しましたのでお知らせします。
 永橋爲成監修『建築家 吉村順三のことば100建築は詩』(2005年10月 彰国社刊)吉村順三氏のプロフィールに、 「1941年 12月8日 建築事務所開設独立後の処女作品は、佐倉厚生園サナトリウム。」と書いてありました。
 吉村順三さんのことはほとんど知らなかったのですが、書店で何気なく手にとってパラパラとめくっていたら佐倉厚生園の文字が目にとびこんできて、即買ってしまいました。
 佐倉厚生園にサナトリウムがあったこと、名建築家といわれる吉村氏の独立後の処女作品が佐倉であること、初めて知りました。
 この本は、吉村氏が生前に残した言葉を集めたものですが、日本建築への思いが、私にも伝わってきて大変よかったです。

 <返信>
 こんばんは。すばらしい佐倉本の発見です。プロフィールの中に出てくるので、小説・エッセイを対象とした佐倉本にはなりませんが、歴史の中で語られる佐倉本となることでしょう。
 佐倉にとって、歴史の証言となる1冊です。佐倉発見本とでもしましょう。ありがとうございました。


2005年2月24日
 なっちゃんから佐倉本情報のメールあり。
 おはようございます。お久しぶりです。お元気ですか。
 満開佐倉文庫だより、楽しく読ませていただいています。
 さて、佐倉本についてですが佐倉について記述されているエッセイがありましたのでお知らせします。 「京町家の四季」杉本節子著(展望社)104頁です。もし、もう紹介されていたらすみません。
 杉本家は、寛保3年(1743)、呉服商「奈良屋」として京都に創業したそうです。 いわゆる他国店商で、佐原と佐倉に店舗を構えたと記述してあります。千葉市にあった「奈良屋デパート」もそうみたいです。
 京都と佐倉の不思議な関係を感じました。佐倉のどこかにその跡はあるのでしょうか。ご存知だったら教えてください。

 <返信>
 なっちゃんから情報をいただいたときに、驚きました。驚いたというか、20数年来忘れていた「ならや」という響きに飛び上がるほどでした。
佐倉の新町が賑やかであったころ奈良屋という呉服店がありました。奈良屋が佐倉の店をたたんで千葉に移ったのは、記録を調べていませんが大正から昭和の初期であったと思います。
奈良屋が入ったビルは、「ニューナラヤ」、そして「セントラルプラザ」となって、やがて閉店します。記憶では、「ニューナラヤ」から「セントラルプラザ」になるとき、「奈良屋の写真展」が開催されました。
 もう、20〜30年前のことですから写真展が開催されたのは、「セントラルプラザ」が閉店するときであったか、また写真展ではなく資料展であったのかも忘れてしまいました。
このとき、佐倉で開店していたころの奈良屋の写真が展示されていたのです。この写真は、いつか使わせていただきたいと思っていましたので、その記憶だけは残っていました。しかし、「セントラルプラザ」が閉店してしまったとき、この写真の連絡先もたどれなくなってしまったのです。
 近年、佐倉市で写真集を出しました。このとき、奈良屋のことを言おうと思ったのですが、連絡先がわからなかったのでそのままにしてしまいました。この写真があれば、新町が賑わっていたという証に使えたのにと思いました。
そして一年後、『京町屋の四季』の情報をいただいたというしだいです。


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