約束







近頃時々オレの部屋へ泊まってゆく習慣の出来た彼が、その日はオレの寝床の上に仰臥して、天井を見たままこんなふうに言った。
「待っていてくれる?」
オレは何を待つのかと問い返した。そうしたら、彼は百年を待っていてくれるかと答えた。
「オレはもう死んでしまうんだ」
不吉なことを言うのに、彼の声は凪いでいた。。
「だから、百年待っていて欲しい」
ああ、これは聞いたことのある話だと思った。だが、どこで聞いたのだったか思い出せない。
彼の、青い血管まで透けて見えそうな、その白磁の肌には一点の翳りも無く、オレにはどうしても彼が死んでしまうようには思えなかった。
「どうしても死んでしまうの?」
オレがそう言うと、彼は物分りの悪いオレを面白がって、けれど相変わらず天井を向いたまま
「そう、どうしてもなんだ」
と微笑んだ。
オレはいよいよこれでは彼と別れなければいけないのだと感じて寂しくて泣いた。死なないでくれ、と、繰り返して言ってしまった。彼は少し困ったようで、ゆっくりと何度か瞬きし、百年待って欲しいという、あの願いをまた口にした。
だが、オレはそれは出来ないと答えた。
だって、百年なんて、とても生きていられるものではない。
百年もの歳月を、ただ待ち暮らすだけに使うなんて。

百年どころか、きっと今日この夜が明ければ、オレは自分のなすべき仕事のために彼を置き去りにしてこの部屋を出るだろう。
彼を想うかもしれない。
そして泣くかもしれない。
離れがたいと思い、悲しくて、生活の合間に彼を求めて嘆くだろう。
しかし、それは全ての時間ではない。
生きていく、全ての時間において彼を想うわけではない。そして百年を待たずにオレも死んでしまうんだ。
肌に馴染んだ彼の指先が冷えているのを摩ってやりながら、オレはどうしても百年待つと言えずに、苦しんだ。
「こういう時のお願いくらいは聞くものだ」
彼はオレのとても好きな、いつもの彼らしい、困ったみたいな優しい笑いを浮かべると、すう、と目蓋を閉じ、それきり死んでしまったようだった。
オレは何度か彼の名前を呼んだ。
そして、後悔した。
どうして待つと言えなかったのだろうと。


夜が明けた。
オレは服を着替えて仕事に出かけた。
そこにはオレの望みや理想や、それから現実的な生活がある。友達も居る。
日が暮れてから帰宅すると、ベットのシーツの上には、一握の土くれと、そこからすっくと伸びる萌黄色の柔らかな双葉があった。
そうか、彼は花になるのか。
薄暗い部屋の中、随分長い時間をかけてその小さな芽は成長し、やがて花をつけ、枯れた。
後には固い種子が残った。
オレはその種を懐に抱いて仕事へ出かけた。
ずっと離さず、彼を抱いていようと思った。
あの時、百年待つと言えば良かったと、後悔が消えることがなかったから。
百年の歳月を待ち暮らし、百年が経ったその時に、彼に言うのだ。百年待ったのだということを。きっとそう言おう。

けれど、満員電車に揺られるうちに、オレは彼の種子をなくしてしまった。
小さな物言わぬ種ごとき、二度と見つかるはずもない。
喪失はオレを締め付けた。彼をとても好きだった。百年の歳月の果てに、待っていたと言ってやりたかった。


それでも、オレは生きるすべのいずれも失ったわけではなかった。ただ、種をひとつなくしただけだ。
朝が来て、昼が過ぎ、夜になり、また朝が来た。
胸を灼く自己実現への努力はオレを満たした。優れてはいなかったかも知れないが、それなりに良く生きた。
歳をとり、やがて気が付くと、オレは彼と同じ、小さな固い種子になっていた。
百年の歳月が過ぎ、いつかオレは芽吹くだろう。
萌黄色の小さな双葉。
陽射しを浴びて、すっくと天に向かって蔦を伸ばす。
だがそこに彼はもう居ない。
それでもオレの希望はこの世界に変わらず存続し得る。彼とは最早無関係に白光を求め、緑の葉を繁らせて、いつか花ひらいてしまう。
彼が居なくとも、幸福になってしまう。


ただ、「百年待って欲しい」と言った、あの時の彼に感じた愛しさだけが、忘れられない。百年待つと言えば良かった。
百年待てば良かったのだ。
本当は、百年待てば良かったのだ。



end