呪文。
無機質な表音文字の並び。
そらんじてそれを綴れるようになることがボクの仕事。

S、W、A、K


英語の辞書を引く。
重たい、ぬるま湯のような眠気がボクを寝床へ誘うが、今はその誘惑に流されてはいけない。
Its significance lies……
significance lies in the fact……
significance……
significance……
なんだろう。辞書を捲る。同じ綴りを探す。単調な作業が難解な羅列をほどいてゆく。重たい、ぬるま湯のような反復がボクを眠りへ誘うが、今はその誘惑に耳を貸してはいけない。
シャワーを使う水音が、浴室から微かに伝わってくる。想像のなかの暖かな湯気を吸いこんで、湯冷めの心配をする。靴下を出して履こうか。このページだけ読んでしまったら。
s……
si……

sw……

このページではない。
Swallowああ、この単語は知っている。覚えたことを忘れないのもボクの仕事。
辞書を引くのは面倒ではあるが、思わずひき込まれる面白さもある。英単語の並びのなかに、省略語と思しき語を見つける。なんの省略だろう。横道逸れて、ふいに疑問を確認する。
S.W.A.K
可愛らしい意味がそこに綴られていた。
淡い色合いの封筒と、恋人からの手紙の封にそっと唇をおとす少女の姿。そういう、馬鹿馬鹿しいほどありがちな、可愛い、とても可愛らしい外国映画のワンシーンのような光景が目に浮かぶ。勿論現実逃避だ。
廊下の床板をひたひたと踏む音が近づいて来る。その足音は裸足でたてたものに間違いなく、寛ぎきった彼の表情が想起されて今は幾らかうんざりとした。
からり、と部屋の引き戸が開けられる。
「何してるんだ」
白いシャツの肩へ、髪から滴を落しながら緒方さんがボクを見た。
「宿題」
ボクは不機嫌に答える。
「そうか」
そっと彼の指が伸ばされて、ノートの上を滑らかにすべる。指先の丸みが紙の擦れる音とともに少し窪む。ボクの指よりかはしっかりと節目があって、折られた指の付け根の関節が堅い稜線をつくりだしている。手の甲の青い血管がはっきりと分かる。大人の、男の手だ。
ボクはそれを愛しいと思う。
先刻までの快楽の名残が身体の底で少し動く。
でも今は、その誘いに乗ってはいけない。宿題を済ませ、今日は早く眠ろうと思った。窓の外からはしとしとと柔らかな雨音がしていた。
「今何時」
部屋を見渡す緒方さんにボクは時計の位置を指し示す。
「まだ夕方か。暗いな」
「雨降ってますからね」
障子を開けずに、その向こう側の暗がりと湿った気配を感じ取る。暖かくほのほのと、雨は透過する離れた街灯の明かりを暈す。
畳の上を藺草の目に逆らって素足で擦る音。
温かみのある白の袖が視界の上から下へ降ろされる。甘い、石鹸の香りが掠めて思わず肩を竦めた。
すると、白の袖は引き込まれてボクの喉にそっと巻きつく。もう片方の袖も背後から腕の下を潜って腰へ絡んだ。
そんなことばかりしていてはいけない。
払いのけようとした身動ぎが情欲を少しだけ助長した。
白の袖はそれを読み透かす。
身を屈める緒方さんの身体は暖かな湿り気を帯びていた。
「駄目」
制止の言葉はいまや欲情を告白するも同然だった。大人の指でファスナーが下ろされる。室内着の着心地良いズボンの、タータンチェックの柄の狭間にその指が沈み、やがてボクのペニスを引き出す。
緒方さんの指が器用にそこを擦るのを、椅子に腰掛けたままで、つい、見入ってしまった。
自分のペニスが起ちあがって膨らむ課程を見るのは、何だか変な感じだ。
何してるんだろう。宿題を済ませてしまおうと思っていたのに。
だらしなく、生活してしまってはいけない。
「……厭」
先端がもう濡れている。厭だと云ったところでそれは既に喘ぎ声と変わらない。爪ま先立って膝を高くして、椅子の背もたれに背を反らせた。顎を仰のけ、また俯く。ボクのペニスが緒方さんの手の中でどんなふうにされているのか良く見れる。強く扱いたり、親指だけでこすったり。
こんなことばかりしていてはいけないのに。折角覚えた単語も忘れてしまう。
the world is waiting with tense expectation for……
教科書のページがはらはら閉じる。途端に言い訳を失ってだらしない時間を過ごす罪悪感でうんざりする。
なんて、良い加減なのだろう。
喉許に巻きついたままの緒方さんの左手の袖。白い袖に皺が寄って陰影が動く。その肘の内側に袖越しに噛みついた。緒方さんはそのままボクの好きなようにさせてくれる。
足の指にきゅっと力を込めて、ボクは上体を揺すり始める。
あとはもう流されるまま。
And,simultaneously, the light went out.
明かりがふっと消えた。




ボクが出してしまうと緒方さんは手を洗って、さっさと自分だけボクの布団に潜りこんでしまった。夜にはお父さんが帰ってくる。1時間したら起こせよ、と偉そうに云って気持ち良さそうに眠る彼。
ボクは辞書を捲る。
草臥れた。けれど彼と関係することは嫌いではない。彼の恋人のことを知りながら、性交渉する。それはボクにはとても安心なことだ。ボクは緒方さんの恋愛に参加したい。ただそれだけ。
緒方さんの無辜な寝顔。
ボクは溜め息をつく。寝返りに体温の気配が漏れて、ボクを眠りへ誘惑する。あと少し。このページを読んでしまったら浴室を片付けて、お父さんのために新しいお湯を張って、緒方さんを起こして、そして送り出してから、寝よう。

だけどそれは、詰まらなくはないか。

ボクには、緒方さんの恋愛が愛しい。
緒方さんの恋人を知っていること、ボクがそれを知っていることを緒方さんが知らないこと。けれど秘密を楽しむためには、時として、その共有者が必要なのだ。

ボクは机の引出しを開ける。鈍い音がして円筒形のマジック類が転がる。そのうちの一つを手に取る。
「なんにでも書ける」
というのがそのマジックのうたい文句だ。
キャップを外すとシンナー臭いにおいがする。

緒方さんは目を覚ましもしない。

ボクは手早く緒方さんのスラックスを下げてお尻にマジックで文字を書きこむ。

S,W,A,K

シャワーを浴びたくらいじゃ、すぐには消えっこない。
あの人はこれを見てどう思うだろう。ボクの愛情はあの人にも伝わるだろうか。
そうだと良い。

それからボクはまた机に向かう。

雨音が石畳を濡らす気配を、障子越しに聞きながら。




Sealed with a kiss
キスで封をした。
ラブレターの封のところに書く。




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