寝室





寝室はやけに静かで芦原さんの寝息ばかりが耳につく。安らか過ぎる。
ボクの家のボクの寝室。当然同じ屋根の下にはお父さんも居る。普通だったら決してこんな綱渡りみたいな危険を犯してまで彼を泊めたりはしないけれど、今だけは特別だと思った。今だけは特別にして、彼をここで寝かせてやろうと思っていた。

ここのところ芦原さんの顔を見ればボクは苛々するばかりだった。憎らしいとしか思えず、とにかく、こんな酷いひとは他に居ないと思っていて、どうしてこんなひとと特別な関係を結んだものだったのか、それは自分のことだけど、随分馬鹿なことをしたと我ながら呆れかえってさえいた。
どう考えたって最初から彼とボクとは相応しい取り合わせではない。ボクはそんなふうに考えた。それはボクの傲慢勝手な気持ちから出てくる考えで、ともすれば、ボクは自分の欠点の全てを忘れてしまったかのように、彼以外ならボクは誰にでも好かれる筈なんじゃないだろうか、彼に対するときばかりがこんなに不仕合せなんじゃないだろうかと思い込んだりするのだった。
何てくだらない思い込みだったろう。
でも、その時のボクはそんなふうに思って、彼を見れば邪険にし、そうやってボクが邪険にするものだから彼もつっけんどんになっていって、それをますます情けなく思って彼を恨んで、もとをただせば自分の態度が悪かっただけだというのに、何も分からずただ彼を責めたてて、何もかも腹立たしかった。

彼とボクとは随分物事の考え方が違っていた。
そんなことは当たり前のことで、だからといって腹をたてるのは間違ったことだと誰でも分かりそうなものだが、その時のボクにしてみれば、彼がボクを理解しないということは耐えがたいことだった。
「どうしてそんなことしたんだよ」
と彼は言った。
どうして、ウワキなんかしたんだって。
ボクは凄く下らないと思った。ウワキだって。馬鹿みたい。どうしてボクが何から何まで彼だけに特別でなければならないんだ。
芦原さんのことは好きだ。
それだけで充分じゃないか。
他の誰かとボクが寝たとか、そんな噂ぐらで血相変えて怒るなんて、どうかしてる。実際それは単なる噂ではなく事実だったのだけれど。
ボクは誰とでもそういうことになって平気。
今思うと、本当につまらないことをしたと思うんだけど、ボクには、そういうことをまるで平気で受け入れられる自分が誇らしかったりする悪い勘違いがあって、本当に子供っぽくてイヤになる。ボクは彼にウワキを責められて、却って胸をはって、彼を馬鹿にしたんだ。なんてこと、したんだろう。

ボクは本当に、一事が万事そんな調子で、思い上がった幼稚な見当違いの考えばかり持っているから、当然のように芦原さんと食い違ってばかりで、それを自分が悪いとも思わず、相手を非難してばかりいた。
芦原さんは、段々ボクと口をきいてくれなくなった。
電話もくれなくなった。
毎日習慣のように寄越してたメールもなくなった。
ボクは実のところ寂しくてたまらなかった。だけど、そんなふうに寂しくてたまらないような状況におかれることさえ、彼の咎のような気がしていた。それじゃ、ボクのほうから連絡してみようとは思わなかった。まるで当然のように彼からの電話を待っていた。くるわけがない。でもボクにはそれが分からない。道端で出会っても、芦原さんに無視された。ようやくボクはことの重大さに気付き始めた。
もしかして、このまま芦原さんはボクのことが嫌いになってしまうのではないかということ。
ああ、とうにボクは嫌われていて良かったはずなんだ。
彼に良いことを何もしてあげなかった。してもらうことしか考えなかった。そのうえ不満まで。足りない、違う、もっともっと、と。
彼はボクを好きだと言ってくれたじゃないか。いつも傍にいてくれたじゃないか。それは時にはボクの癇に障ることを……いや、そうじゃない、どうしてボクはボクの望むことを彼がしなくてはならないと思ってるのだろう。彼がボクにしたいと思ってることを知りたいと、どうして思わないだろう。ボクはどうかしてる。本当に、本当にどうかしてる。
ボクはセックスを、特別な約束のようには思えない。だけど、芦原さんにとっては違う。芦原さんとセックスしたいんだったら、芦原さんの価値観で芦原さんがボクを抱くことを、ボクは知らなくてはいけなかったというのに。自分の価値世界にだけ生きようとしたボクは、なんと幼稚で残酷であったことか。

ボクは何にも理解しないで、ただただ悲しんで、芦原さんが冷たくなったと、彼を非道なひとのように思った。それは全く自分の気持ちから出た、言わば自業自得の結果で、それだのにボクは彼ばかりが悪いとして、我が身を不幸のように悲しんだ。
芦原さんは黙っていた。
今日の、ウチの研究会の間もずっと黙っててボクと口をきかなかった。
ボクはなんて可愛そうだろう、あんな、分からず屋を好きになってしまったなんて。
そうだ。
ボクは不幸に打ちひしがれながら、彼を好きだと、内心では認めていたのだ。
だって彼はいつでもボクに優しくしてくれたじゃないか。
そう思えば思うほど、今のこの心細い仕打ちは彼の責任のような気がして、ひどい、ひどいとボクはずっと胸を痛めていた。まるきり自分の非なんて、思いもかけなかった。

研究会が終わったあと、皆は玄関からどやどや出ていって、お父さんは疲れたと言って部屋に戻って、ボクも一人で寝室へ入った。頭が痛かった。もう何もかもがイヤだった。それなのに、ふいに乱暴にそのドアがあけられて、芦原さんが駆け込んで来たのだった。帰ったふりだけしたみたい。引き返してきたみたい。息せき切って、走って、ボクのところへ。
乱暴だった。乱暴に抱かれた。
止めて。
そう言えずにボクはぽろぽろ涙をこぼして、彼の背を打った。もう、拳をかたく握り締めて滅茶苦茶に打った。彼はそうやって抵抗され、滅茶苦茶にされ、痛かっただろうに、必死のボクに強く拒絶されながらも
「アキラくん……」
ぽつりと、耳元でそう呼んだ。
優しいひと。
分かってた。
ボクはもっとはやく素直にならなければならなかった。子供じみた見栄を捨てて、わがままを捨てて、彼のことを考えてやらなければならなかった。
だけど、その段になってもボクはまだ、彼を許さないと彼を拒んだ。顔を背け、意地になって、彼を嫌いだと思い知らせてやろうとしていた。口もききたくなかった。なにしろずっと、彼に口をきいてもらえなくて傷ついていたから。ボクに酷いことをしたのだと、彼を傷つけてやりたかった。
なんて酷いだろう、ボクは。
彼には分からないのだ。
彼にはボクのことが分からなくて、そのことで傷つくのは、ボクじゃない。
顔だけいつまでも背けていたけれど、彼がボクの中に入れてくれたとき、どれほどほっとしたことか。
今日は痛くしてほしい。
そんなふうに考えていたら、痛くされた。
分からないのは、ボク一人だけだ。ボクだけだ。彼は何でも分かってる。違うかな。まあ、違うかも知れないけれど。

いつお父さんに気付かれるか知れない。
ドキドキしながら最後までした。
芦原さんは終わると、疲れて眠ってしまった。いつもなら、こんなままで眠らせたりしない。ボクの家で、ボクの寝室で。
なんて無神経だろう。散々ボクを振り回して、悲しませたくせに、突然こんなこと。
馬鹿だ、このひと。
イヤだなあ。
だけど、安らかな彼の寝顔を見ているうちに、段々、気持ちはほぐれてきた。
憎めるものか、こんな、口開けて眠るひと。

そうだ、これまでのことは、全てボクが悪かった、ボクが悪いと気が付かなければいけなかった。ボクがわがままで、思いやりにかけた、子供だった。彼には悪いところなんてない。そうでもないかもしれないけど、でも、そう。彼には悪いところなんて、何一つない。
今はただ、自分の悪事を悔いて、彼がいかに愛すべきひとなのかを思いたかった。



この部屋の、全ての静穏を支える、この寝顔。








end

樋口一葉の「この子」にヒントを得て書きました。ダブルパロ?