無題   










旅行にでも行かないか、と伊角が言い出した。
秋口の今の季節はそのような行楽に相応しくはあったが、和谷は何とも言えなかった。
返事を渋っているとそれをどのようにうけとったのか、伊角は知人のやっている宿があるからと押して誘った。彼がそんなふうに強く自分と出かけることを望むのは非常に稀なことであったので、和谷は結局、それに同意した。
幼くも既に社会人である和谷には、そのくらいの遊びの権利はあった。











東京からそう離れていない山奥の観光地。
だが平日、それに山里では紅葉も盛りを幾らか逃していたために、自分たち以外の人影は殆ど見当たらなかった。天気も曇りがちで、あまり良くは無かった。
有名な社寺を見物し、宿のすぐ傍にある湖を見た。
湖面は寒寒とした群青色で、枯葉が沈み込んで複雑に重たい表情をしていた。
「ボート乗ろうぜ」
伊角は寒そうにコートの襟に身を竦ませながらも笑って言った。
「こんな寒いのに?」
妙な提案に和谷も笑った。
「いいじゃないか、他に誰も乗ってないからさ、きっと楽しいよ」
手を引かれて、ボート乗り場へ急いだ。










群青の湖面は恐ろしい程凪いで平板だった。
色の濃い水面はそれが水であることも忘れそうになる。
何故だかむきになってその水面を乱すように、伊角はボートを漕いだ。そしてすぐに疲れて
「代わって」
と和谷に櫂を渡した。
「だから足漕ぎボートにしようって言ったのに」
不平を漏らした和谷に、伊角は肩を竦めて答えた。
「やだよ、男二人でアヒルのボートなんて」
それも尤もだった。
和谷が漕ぎ出すと、伊角はボート座席に頭を載せ、ごろりと仰向けになるように横たわった。
群青の湖を背に、灰色の空を上に。
「なあ、和谷」
「なに?」
「板一枚下は地獄って知ってるか?」
和谷は分からない、というふうに首を傾げてみせた。何だか不吉な響きの言い方だと思っていた。
「船乗りの人が、そう言うんだってさ」
板一枚下は地獄だ。
心細い群青の湖面と板一枚を隔て寄り添い合って。
伊角は瞼を閉じ、和谷は希薄な倦怠感を覚えた。










宿は、何の変哲も無い普通の旅館だった。
窓から外に、湖が見える。シーズンならば繁盛しているのかも知れないが、今は二人の貸切のようであった。暇を持て余していたのだろう旅館の主人は必要以上に二人に親切にしてくれ、身の回りのことを聞きたがった。
それが、どうしようもなく和谷の癇に障った。
いつもなら、他人と話すことは楽しいことである筈なのに、あれこれと伊角が質問に答えるのを見るのが厭だと思った。








「和谷?」
烏のごとき早風呂で切り上げてしまった和谷に遅れて、伊角が浴場から部屋へ戻って来る。
「伊角さん、遅い!」
「遅く無いよ、だって折角の温泉だぜ?オマエが速過ぎるんだよ」
和谷は手際良く敷かれた布団の上に行儀悪く身を投げ出して、することもなく時間を持て余していた。
伊角は窓を開ける。
昼間、群青に凝っていた湖は今は闇に沈んで、その水面を滑る明かりが空との境界線を示していた。
「何にも見えないな」
伊角がしみじみと言う。
何も、することが無かった。
いつも観ているチャンネルが無くてテレビ番組はつまらなかったし、これといってゲームも無い。
伊角の傍へ寄ると、彼の方から腕を伸ばして引き寄せてきた。
キスをした。それから、その続きも。
唇を深く合わせながら浴衣の裾を割って下肢の間を探ると、彼のその部分はゆるゆると硬く変化していく。
「ん……ふッ……」
水っぽい物音をたてる唇の間から、濡れた声が漏れる。
階下に聞こえはしまいかと思って身を竦ませ、それでは普段自宅でそうする時と変わらないな、と思って可笑しかった。
ただ、平素は容易くは性的なことを許してくれない伊角が、今日は積極的なくらいに体を明渡してくれるのが不思議だった。知ったばかりのセックスを、興味本位で何度も求めようとする和谷を、いつも伊角はやんわりと止めた。それなのに。



今は、こんなことの他にすることが何も無い。
自分たちの間には、話すことが何も無い。











伊角が今年もプロ試験を受けていることは知っていた。だがそれも人づてに聞き、伊角の口から直接聞いたわけでは無かった。伊角がまだ九星会と繋がりを持っていたことも中国に行ったことも、全部他人から聞いた。
久し振りに会った時、それらを知っているということを素振りで示したら、伊角は安心したように、いくつかの体験や考えを話してくれた。
それでも、もし自分がそれを誰かから聞くことが無かったら、そしてその話題を伊角の前で持ち出したりしなかったら。
きっと何も知らなかったのだろうな、と考える。
そして、今は彼のプロ試験の結果がどうなっているのかを知らない。順調に勝ち上がっているらしいことは周囲の様子からそれとなく知れたが、自分からそれを確かめる気になれず、詳しいことは分からなかった。
例えば、一番最近の対局はどうだったんだろう。
一つ負ければ全てが終わるような綱渡りの勝負。その結果を和谷は確認することが出来ないでいる。
自分が知らなかったことを知ることが、怖いのだ。
そんなことは知らなかった、ということを、思い知らされることが。




何故か和谷は伊角に何も聞けない。自分は伊角と特別な関係であると思っている。だが、特別な関係であると思うようになった頃から、どういうわけか伊角自身の事柄について尋ねることが出来辛くなった。
自分が伊角のことについて知らないということが怖い。怖くて、何も聞けない。
そんなジレンマに拘束されて、結局いつも曖昧な態度で踏みとどまってしまう。
どうして伊角は自分から話してはくれないんだろう。
聞かれなければ話さなくて良いと思っているのか、聞いて欲しいのか、聞いて欲しくないのか、知られたくないのか。
彼の望むようにしてやるのが一番だと思うのに、何が彼の望むことなのかすら分からない。そしてまた口を噤む。 



くぐもった声をあげて、伊角の体の奥がひきつる。
彼と話すことが無かった。
何も話すことが無かった。
何一つすることのない長い夜を、セックスで潰すより他が無い。まだそんな、長い時間を彼と過ごしたわけでも無いのに。本当は、キスにも細波の立つ気持ちをまだ抱えているのに。







話すことが何も無い。
することも。











夢を見た。
夢の中で伊角は薄い平らな板べりの上に仰向けに寝て、灰色の湖面を背にして群青の空を見上げていた。
板一枚下は地獄だよ。
安らかな顔で微笑みながら、彼はそう言った。
いつか、とぷん、と音がして、彼が沈んでしまったら。
そうしたら自分には見つけられないような気がした。









朝日が射して、目が覚めて、隣に眠る伊角を見つけ、和谷はどうしようも無い衝動を感じて抱きしめた。安堵と、僅かばかりの憎らしさと、愛情。
早くプロ試験が終われば良いと思った。
プロ試験が終わったら、彼を傷つけるようなこともたくさん言おう。そして最後に愛してるんだと告げるのだ。今度こそ、何でも話すんだ。
和谷の腕の中で伊角が眼を覚ます。
群青の瞳がひらかれる。
「何……」
伊角は微笑んでいた。











そしてその日も何も言えずに踏みとどまる。
何も、話すことが無い。
なんにも。










end