「個室」




遅々として進まぬ昇降機の現在地を示す表示ランプ。
ようやく自分の居る階に着いたかと思えば、1階上の8階で呼び出されていたらしく、上むきの矢印を維持したままに通過してしまった。8階に着くと鈍い物音がして暫く停止し、また鈍い音がして、下向きの矢印が点灯する。
緒方は苛々として首を上げ、階数の間隔を焦らすように移動する黄色っぽく古びたその明かりを睨む。階段を利用したほうが下りの場合は速いくらいなのかも知れないが、別段急ぎの用事があるわけでもないのに馬鹿馬鹿しい。
待っているうちにふとタバコが吸いたくなった。無意識に胸ポケットを弄ると軽い手応えで小さな箱が潰れる。空だ。
ささやかな不機嫌の種火が胸に点った時、丁度エレベータの扉が開いた。
「おや、緒方君」
とぼけたような呼びかけを発したのは、良く見知った相手だった。
「またお前か」
さも不愉快そうに緒方は顔を顰めた。
「乗る?」
「……」
返事をせずにその狭い空間へ乗り込んで来る緒方に、白川は苦笑した。
「1階で良い?」
扉を閉めるボタンを押す白川の手と交差するように緒方の腕が伸ばされて、6階のボタンを押す。
「わざわざエレベータ待って、それで、6階までなの?」
怪訝に問い掛ける白川に緒方は、いいんだよ、タバコ買うんだ、と答えた。
「タバコ?」
「6階に自販あっただろう?」
「1階で買えば良いじゃないか」
緒方は、鼻を鳴らして笑った。
「お前と一緒じゃ油断も隙も無いからな」
エレベータが6階に着いた。扉が開く。
「それ、どういう意味」
緒方はさっさとフロアに降りる。
「ねえ」
「おい、いつまでもエレベータ止めてると下の奴が迷惑するぞ」
「誰もいないよ、こんな時間だし……」
ちゃりちゃりと緒方が小銭を自動販売機に投入してタバコを買う。
「何待ってんだよ、一服してから下りるから、時間かかるぞ」
振り向きもしないで素っ気無いことを言う。
すると、大儀そうな音をたてて背後でエレベータの扉の閉まる音がした。
「………」
そっと伺うように緒方が振り向くと、エレベータの扉の前に、唇の端を微笑の形に吊り上げて白川が立っていた。
「今、僕が帰ったかと思ってちょっと寂しかったでしょう?」
「馬鹿」
思わず緒方も笑った。
「何言ってんだ、お前」
随分遅い時間帯なので、手合いに使う大部屋のあるこの階に、人気はまるで無い。薄暗く照明の落とされた廊下は空気までがひんやりとしていて、対局で疲れた頭には丁度心地良かった。
「こんな時間まで取材か」
廊下に置かれた灰皿へ灰を落としながら緒方が訊いた。
「いや、取材はもっと早く終わったけれどね、その後出版部の人達と話しこんでて」
「相変わらず愛想が良いんだな」
「何か怒ってるの?さっきからさ」
「別に」
ふう、と緒方が煙を吐き出す。白い煙は縺れるように絡み合いながら上昇する。
「じゃ、さっさと帰らない?寒いし」
「ヤダ。お前一人で帰れよ。何で一緒に帰らないとなんだ」
緒方がタバコを咥えると、その先端の赤い火がちらりと強くなって瞬いた。
「今まで対局?」
壁に凭れた姿勢になって、白川はその赤い火をぼんやり眺める。
「まあ……そのあと幾らか他の仕事を片付けて」
「ふうん」
じゃあ、後は帰るばっかりか、と白川が言う。
緒方は返事の代わりに深く煙を吐き出した。
薄く開かれた唇へ、再びタバコの白いフィルターが誘引される。歯列の先が覗いて見えて、そこへフィルタの端が収まる。ほんの少し、絶妙な力加減で噛む。タバコを摘んだ指先が離されて、胸ポケットに先刻封を切ったばかりのタバコの箱が仕舞われる。
動作のはずみで火の点いたタバコが傾く。
不精にも上歯と下歯の間から赤い舌がちらっと動いて、正しくフィルタが噛み直された。
指はそれを追ってゆるゆると上げられる。
ふと、白川の視線に気付いて、緒方が不快感も露わに顔を背けた。
「お前はさっさと先に帰れよ」
「え、折角会ったのに」
「オレは階段で下りるから」
「それじゃ僕も階段で……」
「なら、オレはエレベーターだな」
「君ね、子供みたいなこと言って……」
白川が溜め息をつく。
「もう今日は君の部屋か僕の部屋か、どっちかに泊まるって決定なのに」
緒方が眉をひそめる。
「何言ってんだ、お前」
「嫌なの?」
「当たり前だろう!」
「そう。……部屋は嫌なんだ」
白川の声が低く密やかに変えられたので、厭な感じがした。
ぎゅっと灰皿にタバコを押しつけると、緒方はさっさと階段へ向かって歩き出す。
その腕を白川が強く引いた。
「ほらこっち」
緒方の足がそれに逆らうよりも早く、白川が歩き出した。

廊下の隅にある手洗所へ、あっという間に引っ張りこまれてしまった。
勿論時間帯の都合でそこには誰もおらず、暖房もない場所柄、白々と蛍光灯が照らす空気は廊下よりもずっと冷えていた。
「おい、お前、白川」
個室の並ぶ方へと緒方を引き込みながら、白川は悠然と、楽しそうに微笑んでいた。
「だって君が」
「何だよ」
「……部屋は嫌だって言うからさ」
掴んだ腕を離さないで顔を寄せる白川に、緒方は知らず壁際に後退する。
「可愛げの無い……ねえ?」
耳許に吹きこまれた言葉が寒気に似た震えに変わって、緒方の背筋をゆっくり腰まで下った。白川の唇は、緒方の耳朶を掠めて、それから頬へ落とされた。
「何だよ……こんなとこで……」
「たまには気分が変わって良いかもよ」
白川は勝手知ったるとばかりに緒方のスラックスのファスナーを下げて、そこへ手を忍ばせる。
「おい!」
緒方が不機嫌な声をあげる。
「白川、お前まだ人が残ってるって分かってるのか。誰か来るぞ、きっと」
ふふ、と白川がくぐもった笑い方をした。
「見られたら、そうだな、困るかな。……ほら、こっち」
緒方の股間に伸ばした手はそのままに、白川が緒方の体を押して、個室の中へ入るように促す。緒方はそれにつられるように、後ろ向きに歩いて先の昇降機より余程狭い個室の中へと移動した。
それは、日常のふりをして紛れこむ、はめられたとも気付かぬくらいにさり気無い、罠のような誘い。ぼんやりしていると、何故か白川のペースにはめられてしまう。
「本当にここでするのか?」
呆れたように緒方が確認する。
「何言ってるの?今更」
白川は緒方のペニスを下着を下げて外へ曝し、何度か扱いてピンと起たせた。緒方の口から溜め息が漏れる。横顔を見せて白川の唇を躱しながら、緩慢にその腕が差し上げられ、内側から個室の戸は閉められた。
「ん……」
横を向いた緒方の頬に白川は舌を這わせる。顎のあたりからゆっくりと、わざと舌の先を細くして一筋のラインを引いて行く。目尻まで湿っぽい感触が移動すると、緒方がふと気紛れのように背けた顔を真正面に直して、それまで頬にあてられていた白川の舌先にキスをした。そして、突き出されたままのその舌を、唇でぱくりと咥えて、歯をたてずに唇だけで咀嚼して見せる。
巫山戯た仕草はやがて熱心なキスに変わった。
「は、ん……」
白川は緒方のシャツの中に手を滑りこませて、手探りで胸に突起を探した。冷えた指が移動してゆく。
寒気は甘く痺れて吐息に紛れた。
くすぐったさが独得の痛みになる。その痛みはすぐに性感に摩り替わる疼きのようなものだ。
冷えたタイル張りの壁に背中を預け、目を閉じて、官能に浸ってしまおうと思った時に、白川が背中に手をまわしてきた。
「後ろ、向いて」
乱れた声音で囁くと、緒方の身体を反転させた。
素直に従ってひんやりとした壁に手をつくと、さらに下着が下げられ、肛門に指が押し当てられる。白川の指は唾液で周到に濡らされていた。
多少強引に体内に侵入した細い指は、内部であちこちを引っ掻き回す。もっと痛むかと思ったが快楽に慣れた体は、次第に解れてしまった。
「邪魔だな」
「……は」
「スーツの上着」
白川はそう言うとさっさと緒方の上着を脱がせにかかる。脱がした上着は戸の内側のフックに掛けられる。続いて白川は自分の着ていたコートとその下の背広を脱ぎ、緒方の上着の上から重ねて掛けた。
ふわりと、微かではあるが白川の匂いと体温が狭い個室の空気に逃げる。緒方は白川の次の行動を待った。
じわりと、身体の底から熱が湧いてくる。これから白川が自分にどんな気持ち良いことをしてくれるのか、身体が知っている。期待が欲望をせっついて、途中まで煽られたペニスの先はカウパーの透明な液に濡れていた。
「白川……」
いつにない艶のある声で緒方は続きを催促する。
「はいはい。今ね」
知らぬ間に強請る主体が逆転している愉快さに、白川は微笑みながら自分のベルトを弛める。
「もう入れるからね」
白川がそう言うと、緒方はすぐに頷く。元より、こんな場所での情事に時間をかけるつもりはない。
第一もう、はやくイきたい。
白川の熱くなったペニスが後ろの入り口に押し当てられ、そのままぐい、と進入してくる。指で多少慣らされているとはいえ、湿り気の無い挿入は、摩擦の抵抗もあって容易とは言いがたかった。
だがその苦痛も、暫時の後には日常的に覚えさせられた快楽に身体が従って、受け入れてしまう。
はやく、あの快感が欲しい。
欲情が突き上げて、額に汗が滲んでくる。
「白川…しらか……あ……」
「静かに……声出さないで」
まだ、館内には人が残って居るのだ。緒方は唇を噛んだ。白川が腰を使って緒方の内部を掻き混ぜ始めた。
だが、その動きは立ったままの姿勢のせいか自由が利かず、快楽の要所を掠めては、またはぐらかすように逸れてゆく。
何だか、いつもと随分勝手が違う。
次第に緒方は焦れて、肩を揺すったり腰を反らしたりして白川へ不満を訴えたのだが、白川はなかなかそれに応えてくれない。腿のあたりで留めたスラックスが、それ以上下がって落ちてしまわないように足を開いているので、半端な快楽から逃れることも、これ以上を求めることも思い通りにはならない。
緒方がもどかしそうに、けれど律儀に声もたてず呼吸も抑えて上体を揺らした。白川の口許にうっすらと笑みが浮かぶ。
すっかり焦れて先走りの滴った緒方の前へ白川は手を伸ばし、その滴りを掬い上げるように根元から先端へ向けて撫でた。
「ああ……」
と、緒方がたまらずに呻く。
白川は荒く呼吸しながら少し笑った。
何故だろう、と、緒方は熱っぽい頭で考えた。
何故、笑ったのだろう。
白川の動きが段段速くなってゆく。緒方のもどかしさは増す一方だった。要所は、余所にあるのだ。
緒方の中で、白川は微妙な操作で自らの絶頂だけを捕まえた。
ひく、と、白川のペニスが内部で痙攣する。緒方が目を細める。
「……」
一瞬の判断で白川が緒方の中から身体を引き抜く。
足の付け根のあたりに、勢い良く生暖かい液体が撥ねかえる。
「あ……しらか……」
壁についた緒方の手の指が、力の入りすぎで白くなっていた。そっと、白川の手が緒方の手に重ねられ、引き寄せられて、唇で指を吸われた。
「ちゃんと立ってて」
そう言うと白川は緒方の足許に身を沈ませ、ペーパーで、引力に従ってゆるりと流れる精液を拭ってやった。
緒方はそれをじっと見下ろす。指先がはずみで肌に触れる都度、緒方の足が微かに震えた。
「白川・・・・・・」
綺麗に足の間を拭いてしまうと、白川はさっさと緒方の下着を引き上げ、元通り、スラックスを履かせてベルトを締める。
緒方は呆気にとられてそれを見た。
すっかり張り詰めたその部分は布地を持ち上げて存在を主張している。
白川は手早くペーパーを流してしまい、上着をフックから取る。スーツの上着を着せ掛けようとした白川の手を遮って、緒方がそっぽを向く。その眉は苦しげに寄せられて、上気した頬は扇情的と表現して良い範疇のものであった。
白川がまた少し笑う。
無理矢理緒方に上着を着せてしまうと、自分も背広を着る。コートは僅かの思案のあと、緒方に羽織らせた。
「お前、前隠しよけよ」
揶揄するように、そう言うと、緒方が睨みつける。だがその視線には普段の覇気は無く、ぼんやりとして潤んでいた。
「緒方、お前、コート着てこなかったんだ」
「………車で来たから」
「ああ、そう」
白川がにやりと唇を吊り上げる。それから、さっさと個室のドアを開いた。
「早く、帰ろう」
緒方の耳朶へ唇を寄せて、白川が低く囁く。
緒方が俯いて促されるままに白川の後について歩き出す。その足許はまるでおぼつかない。
白川は洗面台の蛇口を捻って勢いよく水を出すと、手を洗う。
跳ねかえる水。ちらちらとその狭間を縫うように翻る白川の指。緒方は大きく溜め息をつく。鏡ごしにその様子を眺め、白川が微笑む。
「さあ、さっさと行こうね、緒方君」



<end>



これは家主様のところの「昇降機」とゆかりの深い話です。実はシラオガ同盟が縁で出会ったあたしたちなのです(笑)。