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緒方さんはボクの身体中にキスしたり、軽く触れたりして、程良くじらす。ボクはもつれる足をどうにか操ってベットまで緒方さんをいざなう。
仰臥するボクの上に向かい合わせに緒方さんが覆い被さる。
ボクは右手を差し上げる。緒方さんは苦笑して、その手に自分の左手を合わせてくれた。さらりとした冷たい肌触り。ボクが左手で彼の頬の触れると、彼は右手で同じようにしてくれる。まるで幼子をあやすみたいに。
それはボクと彼との間ではひとつの儀式のように定着した戯れだった。
向かい合わせの鏡をはさんで、ボクと彼との唇が合わさる。
ボクが右へ頭を傾げると、彼も同じ方向へ頭を傾げる。子供じみた遊戯がボクを安心させる。
彼とボクとはひとつである。向かい合わせの錯覚のなかで。
緒方さんがボクの髪を撫ぜる。ボクも彼の柔らかな髪を撫でた。ボクはもう、我慢できなくて緒方さんの首に縋り付いて腰を浮かせる。緒方さんは、やっとボクの着衣に手をかけてくれた。
はやく……
とボクが急かす。早く、我を忘れてしまいたい。この望ましい錯覚のなかで。
緒方さんのシャツを脱がして、眼鏡を外した。外した眼鏡は枕許に置いた。緒方さんの首筋に顔を埋めると、微かに汗の匂いがした。仕事帰りなのだなあ、と実感する。ボクは彼の背にまわしたボクの手の、左右の指を合わせて、右手の指の爪の薄さを確かめる。同じなのだ、と思った。同じ仕事。同じ仕草。同じ欲望。
冷えきった緒方さんの体に、少しでも多くの熱を伝えようと、ボクは強く抱きついた。
胸の奥が不自然に疼く。
緒方さん、ボクね……
ボクはボクの言葉を飲み込む。
緒方さんの手は一息に、ボクのズボンも下着も脱がせてしまった。すっかりたち上がったペニスが露わになる。
恥ずかしくなんか無い。だって緒方さんも同じだから。
緒方さんの股間に指を伸ばして、ズボンの上からそっとそのラインをなぞる。緒方さんの呼気が乱れる。ボクの期待通りにそこは硬くなっていた。そのまま、指先をくすぐるように行き来させると、
「上手になったじゃないか」
緒方さんは鼻で笑ってそう言った。緒方さんがボクに教えてくれたことじゃないか。ボクは嬉しくなる。
「キミは本当に覚えが良い」
緒方さんは上機嫌でそう言い添えて、ボクのシャツのボタンを外した。ボクは体を一旦起こしてシャツを自分で肩から滑り落とす。なるべく皺にならないように床へ脱いだ衣服を置き、今度はボクが緒方さんの上に跨って緒方さんの残りの着衣を脱がせて行く。緒方さんはボクの身体を引き寄せてキスしてくれた。始めは触れ合うだけ。徐々に深く。舌で口蓋を探るように舐める。唇を吸われる時にはわざと逃げるように繋がりを弛める。そんなことのひとつひとつが緒方さんに教わったことだった。
大丈夫、上手に出来てる。そう思ってボクは満足した。
緒方さんは大人だから、こういうことの経験もたくさんあるんだろう。そのたくさんの緒方さんの相手のなかでボクは覚えが良い、そう言われてボクは喜んでいる。
はやく、と、ボクは思う。
はやく、追いつきたい。緒方さん、ボクは……
「あ……ん」
ふいに緒方さんの手がボクのペニスを握りこんだので、ボクは情けない声をあげる。
「あ、緒方さ……あ、あ、」
「おい、もうちょっと身体を起こせよ、やりづらい」
急な刺激に緒方さんの上にぴたりと腹ばいになってしがみつくボクの肩を、やんわりと持ち上げながら緒方さんが困ったように言った。ボクはどうにか腕をつっぱって身体を起こす。呼吸を整えながら緒方さんを見下ろすと、含み笑いでボクを見ている。ボクは何だか悔しくて、努めて平静を保とうとした。
「騎乗位ってしたことないんじゃなかったかな」
緒方さんは楽しそうに刺激を再開させた。自由になる両手の片方で根元のほうを摘んで、もう片方で濡らしてしまった先端の部分を、まるでグラスのふちをなぞる時のようにそっと指の腹をぐるりと回して軽やかにこする。
「ん……」
ボクは歯を食いしばって声が漏れるのを堪えた。鼻から浅い呼吸を繰り返して、意識を散漫にすることに集中しようとする。快楽を受け入れる方向に感覚を持って行けば今にも達してしまいそうだった。
「ん、ん……」
「今日はキミが上。自分で入れてみろよ」
「……え?」
「騎乗位」
緒方さんはボクの身体から手を離して、ベットの枕許の引き出しを開けると、手探りでそこから小さなチューブを引っ張り出した。それが、何に使うものなのか、ボクはもう良く知っていた。緒方さんはそのチューブをボクに手渡す。
「これ……」
「自分で」
戸惑いがちに緒方さんを見るボクへ、彼は優位者の笑みで告げる。
自分で。
自分で何をしろと彼が言うのか、ボクは了解できる。そのチューブのキャップを外す。とろりとしたクリームがその先端から溢れ出す。緒方さんがボクを見ている。
出来る限りの余裕を装ってボクはクリームを指に絡めた。膝立ちになって、腰を上げる。背を反らすようにして背中側から手を差し入れて、自分のその部分に指を押し当てた。冷たい。まるで自分の指ではないようで、不可思議な錯覚がボクをおそう。ボクはボクの下肢の間の入り口を、ゆっくり指先で揉む。いつも緒方さんがするように。暫くして、その感覚が快楽に近づいて来ると、そっと、指を中まで入れる。掻き混ぜるように指を動かす。
緒方さんがボクを見ている。
緒方さんはボクの腿をしっかりと持って支えてくれた。ボクはなるべく彼を焦らすように、時間をかけてそこを解していった。緒方さんは、いつもボクに我慢させるから。
「…は……」
ボクがため息を漏らすと、彼も大きく息をついた。彼は手を伸ばして、身体の内部に沈むボクの指に、彼の指を添わせた。スルスルと彼の指とボクの指とが交代する。安逸な錯覚。どこまでが彼の指なのか、あやふやに同化してゆく。
もう良いだろうか。
「もう良いだろう?」
絶妙なタイミングの熱っぽい緒方さんの声。彼とボクとの輪郭は曖昧に、置換可能な境界となる。それはとても望ましい錯覚だった。ボクがすぐに肯うと、彼はボクの中から指を抜いた。
「ゆっくり……」
「あ、緒方さん……」
ボクは少しずつ腰を落として緒方さんを受け入れる。もうあまり痛まない。最後まで、身体を沈めてしまうと、思いがけず深い結合になる。
新しい体位。それは不安でもあるけれど、セックスは新鮮であることを要求するものなのだから、新しいのは、知らなかったことを試すことは、良い事なのだ。多分。
緒方さんの手管に乗りたい。なるだけ上手に。
緒方さん、緒方さん、とボクは懸命に彼を呼ぶ。緒方さんはボクの身体を適当に宥めて、ボクが動きだすまで、じっとしたまま堪えてくれる。優しい緒方さん。こんな時ばかり。
ボクは彼の気遣いに応えようと、身体を動かし始める呼吸を計る。今度は先刻とは逆、快楽を探り出すように、その感覚を内部に求めるのだ。注意深く身じろぎすると、ボクは上手く、快感の発端となるほころびを、感じ取った。ああ、ぼんやりする。
気持ち良い……
ボクはゆっくり腰を回しはじめる。緒方さんが眉根を寄せた。目を閉じている。可愛らしい緒方さん。
「スジが良いな」
緒方さんは掠れた声でそう言った。ボクは微笑んだ。
緒方さんと関係を持った大勢の中で、ボクはスジが良い。そう言われて、ボクは喜んでいるのだ。馬鹿げている。だけど、その大勢の中に入り込みたい。ボクは、そのこと以上に、緒方さんの世界に踏み入った実感の持てる証拠を知らない。
はやく、と、ボクは思う。
はやく、もっと上手に自然に、こんなことが出来るようにならなくてはならない。お互いに束縛し合わず、さっぱりとして理性的な関係を楽しめるようにならなくてはならない。こんなことは何てことはないのだと、たった一人だけの、緒方さんだけの世界から、はやくボクは独立しなくてはならない。軽い、戯れのような涼やかな顔をして。だって、緒方さんは、そう出来るから。
同じが良い。
緒方さん、ボクは……
ボクは、緒方さんと、……
緒方さんが、ボクに合わせて動きはじめた。ボクはくぐもった声をあげて、身体を揺する。
小さな声は、喘ぎ声のまにまに紛れて霧散した。
精一杯上体を反らして、深く、緒方さんと繋がるようにする。緒方さんの膝に手をかけて、ボクの体から緒方さんの体の一部を出入りさせる。一生懸命に。
ひとつになる、とは良く聞く表現だが、こんな時、ボクは、悲しいくらいひとつになれない体を感じる。緒方さんの体は、出たり入ったり。そこに介在する快楽は、個々のものなのだ。どこまで行っても、個々のものなのだ。
ボクの体を使って緒方さんがオナニーして、緒方さんの体を使ってボクがオナニーする。そんな感覚が離れないことがある。絶頂のタイミングを合わせれば、快楽の共有を信じそうになるけれど、それは飽くまでも誤認にすぎない。馬鹿みたいだ。ひとつになるなんて、身体全体のうちの、ほんの一部。たかだかペニスの長さの分しか、体は合わさっていないのに。
そんなのじゃ、足りない。全然足りないのだ。
勿論、そんなことを言い出して緒方さんを困らせようとは思わない。何だか、変なふうな誤解をされて、緒方さんを変なふうに傷つけてしまいそうだから。そういう、下世話で滑稽な話では、無いんだ。
「緒方さん……」
ボクは心もとなく彼を呼ぶ。どうして、彼とボクとはひとつで無いのだろう。少しでも、彼をこの身のうちに込めようと足掻いて、ボクは繰り返し、彼の名を呼ぶ。緒方さんの腕が、ボクの肩を捕らえる。抱き寄せてくれる。キスしてくれる。腕が邪魔だ。唇が邪魔だ。胸が邪魔だ。もっと、彼と深く寄り添うために。ボクと彼との判別は、なし崩しになってしまえば良い。
「平気か?」
荒い呼吸の下から緒方さんが気遣ってくれる。平気か、平気じゃないか、いちいち尋ねられるのが煩わしい。何故、あなたに分からないのだ。お互いの、最たる理解者でありたいとボクは願うのに。いや、違う。そうでは無い。そうでは無くて……
緒方さん、ボクは……
「ボク、緒方さんと、同じが良い」
ぴたりと彼の動きが止まった。ボクは大きく息をついて、その顔をなんとか覗きこむ。緒方さんは、眉を引き絞るようにして目を瞑っていた。それから、薄く目をあけてボクを見る。
何だろう。
と、思う間もなく、ボクの身体の中に緒方さんが射精した。詰めていた息を吐き出しながら、緒方さんが、ごめん、と情けなさそうに言った。ボクは思わず笑ってしまった。可愛らしい緒方さん。こんなことは滅多にない。だって緒方さんは大人で器用だから。
……小さな声は、聞き漏らされたに違いない。
緒方さんはボクの身体から自分の身体を引き抜くと、ボクを下に組み敷いて、ボクの足を持ち上げて大きく足を開かせる。身体の奥がきゅっと動いて、後ろから、緒方さんの精液がいくらか零れた。思わず、ボクは顔を背けそうになる。
緒方さんがボクの足許に移動する。まだ何もされてなくても、予感がボクの身体を震わせる。緒方さんはわざとボクに見せるように、舌をだしてから、ゆっくり顔を下ろした。その先端が触れ合うか合わないかのうちに、ボクは裏返ったような声を出してしまった。
緒方さんが意地悪く鼻をならして笑う。
「おい……折角人がサービスしてやろうというのに、少しは我慢してろよ」
「あ…だって、ボクだって、もう……」
もう、何もされなくても惰性でこのままイってしまいそうだと思った。すると、緒方さんはボクの膝の裏側を微妙なタッチで撫ぜ始める。ボクの意識がそこへ流れる。くすぐったい。それから、もどかしい快感に移り変わってゆく。
「や…緒方さ……苦し……」
放置された熱が残るままに、次の火を点けられる苦しさにボクは喘いだ。
「嫌……早く」
「もう少し待てよ」
緒方さんの手が、今度はボクの肩口を撫で擦り始めた。そんなところが、こんな風に感じるのだとボクは初めて教えられた。ますます、苦しい。
「やだ……ッ、自分は先にイっちゃったくせに」
ボクがそう言うと、緒方さんが吹き出すように笑った。その後、ようやく、ボクの身体の核心に触れてくれた。
「あ……ッ」
遠のきかけた階の頂上へ一息に導かれる。緒方さんの手がボクのペニスを扱く。ボクはわけが分からなくなって、変な声をあげた。
「おい、ちゃんと見てろよ」
と、緒方さんが言う。きちんと見ておこうとボクは思った。彼のやり方を、出来る限り覚えられると良い。
絶頂に達しかけたとき、そのことを察知したみたいに、一瞬、その手が弱められる。感覚の共有を体感で錯覚しながら、ボクは奥歯を噛んで叫ぶのを堪える。そのほうが深い快楽を得られるのを知っているから。緒方さんが口を使って、ボクのそこへ吸い付こうとする。
「あッ、だ、だめ……ッ!」
もう駄目だった。唐突に加わった刺激にボクは反射の指令で腰を引いた。
結局、その瞬間に、ボクは呻く声を漏らした。
開放。余韻。
何だかそこらじゅうが甘く痺れるようだった。ボクの身体は沈みこむように脱力してゆく。
呼吸を整えながら、薄目を開けて緒方さんを見る。恐る恐るも確認すると、緒方さんは顔を顰めていた。ボクが直前に身体を離したものだから、緒方さんの顔に、ボクの出した飛沫がかかってしまったのだ。
どうしよう……
と、ボクは少し考えた。笑っても良いだろうか。こういう時は、謝るものなのかな。何か気の利いた言葉があればいいのに。
そんなことを逡巡の材料にしていると
「悪ガキめ」
と、さも腹立たしいように緒方さんが言った。ボクはほっとして、笑った。だっておかしかったから。緒方さんは大仰に顔を歪めてみせた。
「ティッシュは?」
「良い……洗ってくる。全く」
緒方さんはさっさと立ちあがり、寝室を出ていった。程なくして洗面台を使う水音がする。そういう間延びした日常的な展開が、ボクに、大人の世界を垣間見せる。普通の顔をしなければ。普通の表情で緒方さんを迎えなければ。今、緒方さんが、ボクの出したものを洗っているのだと思うと、恥ずかしいような、可笑しいような気がして、複雑になる。でも、平静でなければいけないのだ。こういう時の、気の利いた仕草があれば良いのに。
緒方さんなら、どうするだろう。
「髪にまでかかってる」
と、洗面所の方から緒方さんの声。
「オレはこのまま風呂に入るからな」
「う、うん。分かった」
気まずさを堪えてボクは返事した。
そのまま、ベットの上で暇を持て余す。一緒に入るって言えば良かっただろうか。そこまで言うとしつこいように思われるだろうか。
ボクは緒方さんが居ない間に色々身支度を整えて、後は帰宅するばかりにしておくことを選択した。とは言え、まだ服は着ない。時計を確認するとまだ7時にもなっていなかった。2時間だけ……そう思って携帯電話の目覚ましをセットする。ベットのなかで、心地よい姿勢を整えたところで緒方さんが湯気を纏って戻ってきた。
「シャワーは?使わなくていいのか」
「うん、後で」
もう眠たかった。どうしてか、こういうことの後は眠くなる。緒方さんも、直ぐにボクの隣に潜りこんできた。下着しか身に着けていない緒方さんは、シーツの中に湿っぽい肌触りを見つけて不機嫌に
「汚したじゃないか、やっぱり」
と言った。洗いたてのシーツが好きなのだ、この人は。
「でもそれ、緒方さんが出したものだし」
と、ボクは澄まして答える。緒方さんはボクの返答に愉快そうになって、そうだったな、と言った。ボクの体内から零れた分が、シーツを汚したのだもの。それは緒方さんの咎のうちに入るだろう。
緒方さんはそのまま横にはならず、半身を起こしたままタバコに火を点けた。ベットの脇のテーブルを無造作に片手で引き寄せて、その上に置いてある灰皿に灰を落とす。ボクは寝そべった姿勢から、彼の横顔を見上げる。紫煙を燻らせながら、ふと、彼はこちらへ視線を落とす。
「可愛いな」
大人の手がボクの額に当てられて、それからくしゃくしゃと髪を掻き回された。
そんなことを言われるのは、とても嫌だった。
「キミに、恋人が出来たら」
緒方さんは、とても優しい声で言った。
「寂しいだろうな」
ボクは眉を顰めて、どうして、と答える。
「何も変わらないよ、そんなことじゃ」
「変わらないって?」
「ボクと緒方さんのこと。だってボク、緒方さんには教えないから、それまで通り」
緒方さんが鼻を鳴らす。
「自分はたくさん余所に恋人がいるくせに」
ボクがそう言うと、緒方さんは今度こそ吹き出した。
「何言ってんだ」
「違うの?」
「そんなに居るものか。テレビドラマじゃあるまいし」
ボクは返事につまってそっぽを向いた。緒方さんの手が、優しくボクの髪を梳く。
緒方さんの隣に居ると、このままではいけないのだという思いが過る。はやく、と気が急く。
「恋人なんて……」
と、ボクは言う。
「ん?」
「そんな言葉で相手を縛ろうなんて思わないよ」
関係の範囲を拘束することに、何の意義があるだろう。そんなことは修辞上の遊戯にしか成り得ない。馬鹿馬鹿しい。なのに、ボクの胸が不自然に疼く。
優しい緒方さんの手が、ボクの頭を宥めるように撫ぜる。暖かな寝床に誘引されて、ボクはまどろみかける。緒方さんはまたタバコをふかし出す。その横顔はいつになく穏やかで、子供っぽく見えた。
緒方さんは大人なのに、とボクは思った。
緒方さんは大人で、ボクとこういうことをする時も手慣れていて、理性的で、ボクは大勢のなかの一人だけれど充分で、タバコを無造作に吸って、皮肉屋で冷めていて、そんなふうに大人なのに、だけど、時々、子供のような表情をする。
緒方さん、ボクは……
眠りに引き込まれながらボクは呟く。だけど、ボクが緒方さんに対して感じる親和力を、どんな言葉に置き換えたら良いだろう。ボクは……
「キミに恋人が出来たら……」
緒方さんが、また、優しく囁いた。はやく、と、気が急く。
ボクは、小賢しい免罪の表現を、いつも胸の内に持っていた。
緒方さん、ボクは。
「ボク……緒方さんが、好き」
心細く、ボクは答えた。
胸の底がざわめく。
ああ……なんと見え透いた安易な言い訳か。そんなことじゃない。そんな、通い合う感情じゃない。もっと、過渡的な、拙い感情なのだ。
ボクは、本当は、知っている。ボクは緒方さんみたいになりたいのだけなのだと。緒方さんみたいに、大人っぽくなりたいのだと。
安直なボクの狡さが、とても恥ずかしかった。そっと緒方さんの横顔を覗う。緒方さんは穏やかに燻る煙に巻かれている。
小さな声を、彼は聞き逃してくれたに違いない。

やがて眠ってしまった緒方さんの頬に、ボクは指を這わせる。優しく、優しく、彼を呼ぶ。
緒方さん、緒方さん……
甘く、子供じみたボクの声。
ボクの知らない、愛する人の傍らで寛ぐ時の彼を真似て。

彼がボクの望むような大人ではないことを、ボクは本当は知っている。
胸の奥が不自然に疼く。
緒方さん……緒方さん……
緒方さんの恋がボクの胸を甘く疼かせる。

<end>


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