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芦原さん……芦原さん……
ボクはうわごとのように芦原さんの名前を呼ぶ。どうしてそういう時に相手の名前を呼んでしまうものなのか分からないけれど、芦原さんもそういう時にはボクの名前を繰り返す。
なんで、こんな、甘えた声がでてしまうんだろう、と思うようなボクの声。まるでバカみたいに子供っぽく身じろぎをする。
恥ずかしい、とも思うのだけれど、芦原さんが、ボクがそういう時に甘えた仕草をするのを憎からず思ってくれてることを知っているから、それでいいのだとも思う。
だけど夢中で芦原さんの名前を呼ぶ時こそ、実はボクの頭は真っ白で、芦原さんのことも何もかも無我夢中の彼方へ飛んでいってしまっている。ボクは、ボク自身の快楽が高まると、だんだんに自分のその感覚だけでいっぱいになってしまって、芦原さんのことを考えてなんてなくなってしまうのだ。
芦原さんがボクの髪に触るのも芦原さんがボクの身体に触れるのも、どちらもとても心地良く、ボクを幸福にする。ボクは芦原さんがとても好きなのだ。そんな実感が湧いてきて、ボクは満ち足りる。
けれど、その心地よさは快楽と呼べるほどに高められるとボクの思考から芦原さんを奪いあげる。
芦原さんを忘れまいとボクは必死で芦原さんの背中に手をまわすのに、流されまいとしがみつくボクの身体をますます抱き寄せて、芦原さんはボクの快楽を追いつめる。
芦原さん……芦原さん……
甘い声をだして身をよじって、そのうちにボクはボク自身の感覚でいっぱいになる。しっかりと抱きしめたはずの芦原さんが、ボクの手からすり抜けて消えてしまったみたいに。
その瞬間には、何も考えていない。ただ、自分の快楽が頂点に達するのを感じるだけだ。
ボクは芦原さんをとても好きだから、こうするのに。


「引越ししたんだよ。」
と芦原さんはさも楽しそうに言った。午後。日本棋院からの帰り道。ボクと芦原さんは時々こうして二人で帰る。
「一人暮し、しようと思ってさ。もう部屋も片付け終わった」
ふうん、とボクはどうでも良さそうに答えるけれど胸中は穏やかでない。
ボクの知らない間に引越し。
転居なんて、そんな重大なことを、芦原さんはわざとボクに内緒にしていたに違いないのだ。ボクを驚かせようとして。でもそれは憎たらしい悪戯だ。ボクは芦原さんのことをいつでも一番良く知っていたい。
あんまり憎たらしかったので、ボクはまるで関心の無いふりで応じた。
「それで?どこに引っ越したの」
平静なそぶりでたずねると、芦原さんは
「あれ、驚かない?」
と、あからさまにがっかりした顔をして、
「何だよ、アキラ君を驚かせようと思ってこっそり全部すませといたのに」
と言った。芦原さんの、そういう正直なところがとても好きだ。
「別に。引越しくらい、何ですか」
すまし顔でそう言ってやると、芦原さんは腑に落ちない、といった様子で唇を「へ」の字に曲げて不服そうにした。
「そう……そうかなあ」
こんな時の芦原さんは、とても年上とは思えない。ボクの胸のなかの愛情の水位が、くすぐったく上がってゆく。
「嘘」
「え?」
「凄く驚きました。だって全然気がつかなかったもの」
ボクがそう言うと、芦原さんは単純にも、すぐ嬉しそうになった。
「そうでしょ。名人にも内緒にしてたんだから。アキラ君を驚かせようと思って」
「え、そんなことのために?お父さんにも言わなかったの?」
「うん」
芦原さんは得意満面だ。仕方ないなあ、と思った。
「ねえ、どこに引っ越したの」
「ええと……」
芦原さんが伝えてきた新住所は、棋院からそう遠くなかった。
「あのへんの高校に通ってたから馴染みもあるし、棋院からも今までよりは近いしね」
遊びに来る?と芦原さんがボクに言う。もちろんそのつもりだったので、すぐに頷いた。
まだ若年の棋士である芦原さんは、当然のように実家にご両親と住んでいて、今までボクは芦原さんの部屋に行ったことがなかった。ボクの部屋に芦原さんが来ることは度々だったけれど。
芦原さんの部屋。一人暮しの。
引っ越したばかりだと言うのだから、もしかしたらまだ誰もその部屋には入れてないのかも知れない。
「狭いんだけどさ」
と芦原さんが言う。
「アキラ君ちは広いからなあ。窮屈かもね」
「アパート?」
「うん。1LDK」
芦原さんの部屋。他に誰もいない部屋。
それは、ボクの家とは比べ物にならない。比べようの無いほど狭くて、それから二人きりになれる空間。早く行きたい。芦原さんの部屋。芦原さんの持ち物と、芦原さんの匂いと、芦原さんと、ボク。それだけしか無い部屋。思わずボクは早足になりかける。
「それとね、アパートの側に出来たばかりらしい喫茶店があるんだ。今朝通りがかったら開店祝いの花がかざってあったから。そこに寄ってこうよ」
芦原さんが優しい声でボクを誘う。本音を言えば喫茶店なんかよりよっぽど、早く芦原さんの部屋に行きたかったけれど、芦原さんはボクを喜ばそうと気を回してくれてるのだろうから、ボクは、本当?楽しみだな、と答えた。だけど芦原さんの新居のことのほうが気になってしまっていて、ほんの少し、上の空だった。そんなボクの僅かの変調も見逃さずに芦原さんが
「どうしたの」
とボクの顔をのぞいた。
「具合でも悪い?」
「ううん。ごめん、ちょっと考えごとしてた」
ボクは、芦原さんがボクのことを絶えず気遣ってくれてるのが分かって、嬉しく思いながら正直に返事した。
「そう?あ、もしかして今日ってこの後用事とかあったのかな」
申し訳なさそうな芦原さん。でもボクは他の予定のことなんかじゃなく、芦原さんのことを考えてたのに。
「無いよ、大丈夫」
ボクがそう言うと、芦原さんはまだそれでも心配そうにしばらくボクの顔を見ていた。顔なんか見なくても、ボクはきちんと本当のことを教えたのに。
「用事があったら行かないよ」
ボクは少しだけ不機嫌になって、けれど心配して欲しくなかったので、そう言った。無理なんかしてない。ボクはもっともっと芦原さんと一緒に居たいのだ。
「そう、だね」
芦原さんが答えた。

その喫茶店は駅から歩いて5分くらいのところにあった。まっすぐにのびる駅前の通りの先に深緑の看板がぽつんと見える。
「ほら、あそこだよ」
と芦原さんがその看板を指差した。かわいらしく、白いペンキで店名が書かれている。何て書いてあるのかはボクには分からない。アルファベットだけど英語じゃないと思う。カントリー調の、お洒落な可愛いお店。女の子が見たら喜びそうな。
芦原さんは時々ボクを女の子のように扱うことがある。それは芦原さんなりの、大事にする、ということのせいいっぱいの表現手段なのだろうと思う。可愛らしいお店。優しいエスコート。
そんな風にしてくれなくても良いのに、と時々思う。
そんな風にしてくれなくても良いのに、そんな風にボクを大切に扱ってくれる芦原さんを、ボクはますます好ましく思う。そして同時に、芦原さんはボクが女の子だった方が良かったのかな、と不安にもなる。もちろん、そんなつまらないことを言い出して芦原さんを困らせたいとは思わない。ボクは芦原さんの優しいあしらいに愛着を持っている。
けれど、本当はボクも育ち盛りの男子だから、お洒落な喫茶店でお茶を飲むよりも、お腹にたまるお好み焼きとかの方が良いんだ、と言ったら、芦原さんはどんな顔をするだろう。そう考えてちょっと笑った。
「なんだよ?」
一人で笑顔になっているボクの肩を、軽く小突いて芦原さんも笑った。
「嬉しくて」
と、ボクは素直に感動を伝えようとした。芦原さんが、ボクを大切にしようとしてくれているのが嬉しい。ボクは芦原さんがとても好きだ。
「綺麗なお店なんだよ、ここからじゃ中までは見えないけど」
芦原さんの返答は、やや的外れだった。そうじゃないのにな、とボクは唇をとがらした。
往来は平日の午後にしては人通りが多かった。やたら天気が良くて、立秋も過ぎたというのに歩いていると汗が流れてくる。それでも若干は陽射しがやわらいできていた。夏休みの残りの日数を思うと、照りつける陽射しが名残惜しくもある。学校が始まってしまえば、プロ棋士としての仕事と学業との両立は結構大変で、ボクには自分の自由になる時間があまり無い。
今のうちに、と気が急く。
今のうちに、たくさん芦原さんと過ごしたい。ボクは芦原さんがとても好きなのだ。
「芦原くん」
急に、通りの向こうから素っ頓狂な声があがって、大きく手を振っている女のひとが目に入った。大きな声で唐突に芦原さんの名前が呼ばれたから、ボクはとても驚いた。
「あ!」
と叫んで、芦原さんがその人に大きく手を振り返した。女のひとがこっちに駆けて来る。息を弾ませながら、芦原くん、芦原くんじゃない、ああ、びっくりした、どうしたのこんな所で、とはしゃぐように話す。
「びっくりしたのはこっちだよ。仙台の大学に行ったんじゃなかったの」
「夏休みだもん、里帰り。芦原くんの家はこのへんじゃなかったよね」
「この近くに引っ越したんだよ、つい最近。なつかしいな、今、どうしてるの」
女のひとは芦原さんと同じ位の年齢で、殆どお化粧して無いようなのに綺麗で、元気のよさそうな人だった。弾む会話のリズムから、二人が古い友人同士なのだとボクは察する。
ボクは二人を邪魔しないように、
「芦原さん、ボク、先にあのお店に行って待ってるから」
と耳打ちして、女のひとに会釈し、急ぎの用事は無いんだからゆっくり後から来てくださいね、と芦原さんに念を押して喫茶店に向かった。そう言い添えて置かないと、芦原さんが気にしそうだったから。
芦原さんはいつもボクに優しい。
店内に入ると、木で出来た調度類や、ごくシンプルなグラスに生けられた小さな花が可憐に調和していて、なるほど女性向のお店らしく、冷えすぎない程度に空調が調整されていた。
外がとても暑かったので、ボクは窓際の席に腰掛けながらアイスティーを注文した。
芦原さんの部屋に行く。そう思うと浮き足立ってしまう。これからは遠慮無く芦原さんに会えるのだ。今までだって、それは会ってはいたけれど、いつも周り、特にお父さんの目が気になってこそこそしなくてはいけなかったから。
芦原さんと最初にそういうことになったのは、家に誰もいない日だった。それ以来ずっと家に誰も居ない時しか、秘密のことは出来なかった。
でもこれからはいつでも芦原さんの部屋に行けば良いのだから……と、考える。なんだかそういうことを考えるのはいけないことのような気がする。不道徳のような。
あやしい想像を吹き払うように、ボクは手帳をとりだして数日後までのスケジュールを確認したり携帯電話の着信が無かったかチェックしたりした。、
程なくしてお店の扉が開いて、その扉の上に品良く括り付けられた小さな鈴が鳴った。入って来たのは芦原さんだった。芦原さんはきょろきょろと辺りを見渡して、窓際の席のボクを見つけると
「ごめん、アキラ君、待たせて」
と謝りながら歩いてきた。ボクは手帳を閉じながら、いいえ平気ですよ、と言った。芦原さんはせかせかと席に腰掛けながら、彼女は高校の頃の友人なんだ、とか、本当にただの友人で、とか聞いてもいないのに説明してくれた。ボクは芦原さんが熱心に言い訳してくれるのが嬉しくて、少し、笑った。本当に、ボクは幸福を実感していた。ボクがにこにこと何も言わずにいると、芦原さんはそのうち口をつぐんで悲しいみたいな顔をした。ウェイトレスの人がアイスティーを運んできてくれたので、芦原さんがコーヒーを頼んだ。暑いのに、あったかいもの飲んじゃうんだ。
ボクは芦原さんをじっと見る。
コーヒーはすぐに届いた。芦原さんはうつむき加減にお砂糖を2つも入れた。芦原さんがカップをかちゃりとおろす。また持ち上げる。まだ吹いてる。ネコ舌なんだ。
「ごめんね」
と、芦原さんが突然言った。何で謝るのかボクには分からなかった。
「退屈かな」
芦原さんが言葉を続ける。
ボクは今、芦原さんのことで頭がいっぱいで、退屈しているヒマなんかないって、どうして芦原さんに伝わらないのだろう。
こんなにも優しい、見過ごすはずのないほど鮮明な感情が、その共有者でありたいとお互いに最も願い合うはずの二人の間ですら、伝達のすべが無いのだとしたら、これ以上、ボクはどうしたら良いのか分からない。
ぼんやりと、ボクが黙り込むうちに、芦原さんはコーヒーを飲み終わってしまった。
「行こうか」
心細く微笑んで、芦原さんがボクの手をそっとひく。そんなに大事にしてくれなくても良いのに。
何が、そんなに不安なのだろう。
会計をすませて外に出る。先刻より幾分か街路樹の影が長くなったようだった。細い路地を見つけてボクは強引に芦原さんを引き込む。蝉が鳴いている。どこかのマンションの階段の陰に隠れてキスをした。ボクの口の中はアイスティーで冷えていて、芦原さんの口内はコーヒーで熱くなっていた。その温度差がたまらなく愛しかった。芦原さんの唇の、舌の、たしかな存在感がはっきりと感じ取れて。

芦原さんの部屋に着くまでに、ボクの息はすっかりあがってしまった。やたら顔が熱くてふらふらする。キスひとつで、その続きを求めずにいられなくなってしまう。そんなことを、すぐに求めるのは不謹慎だろうか。
芦原さんはボクの肩を片手で抱きかかえて、部屋の鍵を開けた。
「大丈夫?」
ボクの髪を芦原さんの手が撫でる。
「うん……」
うまく歩けないくらいになってしまった自分が恥ずかしくてぐずぐずするボクをドアの内側に押し込んで、開けたばかりのドアの鍵を内側からまたかけながら、芦原さんがキスしてくれる。芦原さんの口の中はもうぬるくなってしまっていて、ボクの舌もやっぱりぬるくなっていて、ボクは物足りずに芦原さんの口の中に熱を探して舌でさぐる。芦原さんは、貪るようなボクの唇を上手にあやしてキスの形に整えた。
「あ……ん……ん……」
甘えるようなボクの声。
「芦原さ……」
芦原さんがボクの背骨を指先だけでさすって刺激する。
芦原さん、芦原さん、芦原さん
ボクはうわごとみたいに繰り返す。すぐに快楽に夢中になってしまう自分の堪え性のなさが情けなかった。それこそが、ボクから芦原さんを見失わせるものなのに。
芦原さんがボクの唇にそっと指をあてる。
「ごめんね、玄関は、外に音が響くから」
芦原さんは優しくボクの額を撫でて、浮き出た汗をぬぐってくれる。
「行こうか」
と、芦原さんがボクを促す。どこに、とは言わなくとも分かる。ボクは子供ぶった仕草でこくんと頷く。この閉ざされた室内の、寝室以外のどこに行く場所があるというのだろう。玄関のすぐ先にリビングが見えて、その延長線上に扉もあけっぱなしの部屋がもうひとつ見える。そこに芦原さんのベットが置いてあるのだろう。ああ、布団かも知れない。良く考えたら、ボクは芦原さんがベットで眠るのか、布団で眠るのか、知らない。
芦原さんに背中を抱えられながら、ボクは芦原さんの部屋にあがる。
リビングには新品らしきテレビ、それから食卓にしているのだろうテーブルと椅子が置いてあった。それ以外には何もない。まだ、どこか生活感が定着していなくてがらんとしている。ここに、少しずつ、芦原さんの気配が積もってゆくのだ。リビングの脇に小さなキッチンが続いている。流しの上に食器が載っているのがちらりと見えた。寝室の扉は、未整理のままの本や雑誌が邪魔で閉じることが出来ないのだと、側まで歩いて行くと分かった。別に、閉じなくても良い。この部屋にはボクと芦原さんの二人しかいないのだから。
「狭いんだよ」
と芦原さんが笑った。寝室は、6畳あるかないかくらいの広さだった。そこにベットが置いてあって、まだ開けていないダンボール箱が二つつんであって、雑誌と本が床に積んだままで、クローゼットも開けっぱなしになっていて、服が適当につめこまれていた。スーツだけはかろうじてカバーをかけて吊るされている。それだけだった。他には何も無い。リビング同様、ここもまだがらんどうなのだった。
「全然片付いてないじゃない」
とボクは言った。芦原さんは案外几帳面で片付け上手なので、この雑然とした室内は、準備万端整う前に、真っ先にボクを呼びたく思ってくれたことを物語っているようで、ボクは嬉しくてたまらなかった。
「棚を買わないと本が片付かなくて。クローゼットの中も。収納用の引き出しかなんか買ってこないとな、シャツとかがしまえないよ」
散らかっててごめんね、と芦原さんが優しく言う。そんなこと、いいのに。ボクは嬉しかったのに。ボクは芦原さんの胸許に顔をこすり付けて、この幸福を表現する言葉を探す。
「ごめんね」
と、また芦原さんは謝った。なんですぐに芦原さんが謝るのか分からない。
「ホコリっぽいかも知れないけど」
そう言いながら、芦原さんはボクをベットに座らせる。そんなこと、いいのに。ボクは嬉しかったのに。
音をたてて身体中にキスをする。
芦原さんの部屋。そう思うと安心がボクの身体を弛ませて、だらしなくボクは声をあげてしまう。アパートなんだから、隣の人にきこえてしまうかもしれない。
芦原さん芦原さん芦原さん
安心と緊張と。一生懸命に声を忍ぼうと堪えながら、二人きりである安心を楽しむ。ボクは芦原さんの、芦原さんはボクのシャツのボタンを外す。ボクがもつれる手で芦原さんのシャツのボタンを外し終える前に、芦原さんはボクをすっかり裸にしてしまった。
あっという間にボクの身体はその感覚でいっぱいになる。炭酸水の泡みたいに、手足の先へと痺れが流れる。
「嫌だ」
とボクは叫ぶ。
「嫌、あ、嫌、嫌」
もっとゆっくり。
緩やかにしてもらわないと、ボクは芦原さんを、この腕から逃してしまう。わけがわからなくなって、芦原さんを忘れてしまう。それなのに、芦原さんは、ボクが制止の言葉を口にすればする程より強く、ボクの快楽を追いつめる。振り回された炭酸水の瓶のように、ボクの身体はどうしようもなくなる。
「あ、嫌、あ……芦原さんッ」
ボクは芦原さんの名前を呼ぶ。芦原さんを見失いそうになるからこそ、必死で名前を呼ぶ。
「あし……さ……」
実にあっさりとボクの頭はからっぽの瓶になって、身体に不自然な力が入ったかと思うと芦原さんの手の中に出してしまった。
「ん……う……」
余韻の残る身体をさすられて、ボクは声をもらす。
「アキラ君……」
首筋に芦原さんの熱くなった吐息が触れて、じわじわと次の熱がボクにこもり始める。
芦原さんが覆い被さってきて、ボクはその首に手を回してキスを受け入れる。芦原さんの唇は熱くなっていたけれど、ボクの唇もすごく熱くなってしまっていて、舌を絡めるうちにそれはあやふやに同化していった。気持ち良い。だけど、物足りない。もっとしっかりと芦原さんの輪郭を実感したいのに。
一旦唇を離して体を起こしながら、芦原さんはそのへんにあったタオルで手を拭いて、
「待ってて」
とボクに言う。何だろう。何にせよ、待てない。
芦原さんの顔も紅潮している。芦原さんはベットからおりると、もどかしそうにため息をつきながら、リビングの方へ行ってしまった。
「芦原さん……ねえ……」
ボクはたまらなくなって起きあがると、自分も芦原さんのあとを追おうとした。
「すぐ行くから、そのまま寝てて」
向こうから、芦原さんの声が聞こえて、ボクは少しだけほっとする。でも待ちきれなくて、切なくて仕方なかった。がちゃがちゃと乱暴に何かを引っ掻きまわす音がして、程なくして芦原さんが戻ってきた。手には何か持っている。
「ごめん、これ……」
それ、ハンドクリームじゃない、どうするの、と一瞬疑問符が浮かんだ。でも一瞬の後には芦原さんの意図が分かって、自分でも自分の顔が赤くなるのがわかった。
「他になんにも無いんだ。これ……大丈夫かなあ」
何でもいいから、早く。
「お肌にやさしい……って書いてはあるけど。今日は、その、ここまででも」
「平気……早く……」
ボクはいつまでもベットの脇につったっている芦原さんの、半端に外されたズボンのベルトをすっかり外した。さっき、間に合わなくて最後まで外せなかった続きだ。ホックも外し、ファスナをおろす。ズボンに手をかけて、下着もいっしょにおろそうとすると、芦原さんがベットに片膝をついて、先刻のようにボクの上に覆い被さった。
「アキラく……」
芦原さんの呼吸が荒い。いつにない乱雑な動作で芦原さんはハンドクリームのチューブのキャップをとった。ボクの足が持ち上げられる。芦原さんの手のひらが熱い。ボクの足よりも。温度差が、ボクの幸福を刺激した。なんだか、芦原さんの手のひら、かぴかぴした変な肌触りがする。ボクの出したものを、適当に拭ったまま放っとくからだ。アルカリ性だから皮膚に悪いんじゃないかな。
「あッ」
冷たい、クリームの感触にボクは背を反らす。芦原さんの指がボクの中で動きだす。ボクはそのままの姿勢で、無心にその作業に集中する芦原さんの表情を眺める。恥ずかしい。でも、このことをするのは嫌いじゃない。特別な関係であることを証明するようで。
他の、これ以上の証明の手段をボクは知らない。
ボクは芦原さんを、とても好きだ。満ち足りた気持ちでボクは芦原さんを見る。芦原さんは苦しそうに息をついている。
「アキラ君……ごめん……もう、いい?」
何を聞いているのかは、分かる。ボクがすぐに頷き返すと、芦原さんはするりと指を抜いて、高くあげたボクの腰を膝で支えるようにしてくれた。
芦原さんは優しい。何度も、何度もボクを気遣って動きを止めながらゆっくり、入れる。もっと乱暴でもいいのに。ちょっとくらいなら、痛いほうが良いのに。たまになら、芦原さんの持ち物みたいに、好き勝手に扱われたい。
芦原さんの眉根が寄せられる。ボクの髪をせわしなく掻きあげる。
今度は、ボクの身体の中のほうが、入れられた芦原さんの身体より熱い。
「アキラ君……」
優しい声で芦原さんがボクを呼ぶ。芦原さんの動きにだんだんボクの身体が慣れだすと、芦原さんはボクの身体のあちこちに触りながら、ボクの快楽を煽り立ててゆく。ボクはまた、わけがわからなくなりそうになる。嫌だ。
「あ、嫌……」
それが合図のように、芦原さんが激しく動きだす。嫌だ。芦原さんを忘れないように、ボクはしっかりと芦原さんを抱きしめる。どうにか快楽を減速させようとして、ボクは意識を散漫にすることに集中しようとする。ゆっくり。そうでなければ、ボクは芦原さんを忘れてしまう。
「あ、あッ、あッ……あし……さ……あ」
ほとんど衝動的な悲鳴を、なんとか芦原さんを呼ぶ言葉に置換しようと、ボクは足掻く。
芦原さん芦原さん芦原さん
堪えよう、堪えようとすると、手の、足の指の先に、奇妙な震えがつたって、ぐっと力が入る。どうしようもなく切ない衝動で、身体のなかはいっぱいで、はちきれそうに痛む。それが愛情の身体的感覚なのだと思う。
「アキラ君……アキラ君……」
ボクを呼ぶ、芦原さんの声。芦原さんが好きだ。とても好きだ。
「アキラ君…………好きなんだよ……」
ボクは一生懸命に芦原さんの言うことをしっかり聞いていようと思った。
芦原さんがボクの名前を繰り返す。芦原さんも、名前を呼ばないと不安になるのだろうか。ボクを忘れまいとしてくれているのだろうか。
「アキラ君……」
忘れないで、と芦原さんが言った。ボクは大きく頷いた。
「君が」
もっとゆっくり。
「いつか、君が、本当に好きな人を見つけてしまっても」
優しい、とても優しい芦原さんの声。
ああ……
ボクは芦原さんの身体を強くひっぱって、芦原さんの身体の上にのった。芦原さんの顔が、はっきり見えるようになった。
「芦原さん……」
どうして伝わらないのだろう。芦原さんは、こんなに優しく、ボクを見ていてくれるのに。
ボクは芦原さんの喉に手をかける。喉仏がすこし出てるのが、親指の腹に触れて愛しかった。そのまま、喉をしめる手に力をこめる。だが、ボクの手は自分でもおかしいくらい震えてしまって、さっぱり力がはいらない。まるで、プログラムされたかのように、ボクは、ほんの少しでも芦原さんに傷をつけることなんか出来ないのだ。しない、のではない。出来ないのだ。芦原さんが眉をよせる。
「くすぐったいよ」
そう言ってちょっと笑った。
ボクは悔しかった。ふざけてるのではないのだと、伝えるすべが無くて。全てのことにおいて、悪ふざけではないのだと。
ボクは泣き出した。泣き出したボクを、芦原さんが驚いた顔で見る。それから、優しく抱き寄せてくれる。突然泣き出してしまったボクを甘やかす感覚を楽しみながら。
芦原さん芦原さん芦原さん
ボクは芦原さんを真直ぐ見つめる。芦原さんもボクをじっと見てくれる。視線は甘ったるく絡みあう。それから、キスをする。ボクは子供みたいに甘えた仕草をする。芦原さんは優しくしてくれる。
ボクは芦原さんを、好きだ。とても好きなのだ。
アキラ君、と芦原さんがボクの名前を呼ぶ。
芦原さん芦原さん芦原さん
ボクを忘れないで。


<END>

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