いるか
「ねえ、どちらかが先に死んだら」
突然、相臥しの共寝の床で不吉な話題を持ち出すカカシに、イルカは眉を顰めた。
「そしたら、どうしましょう」
「……どうって?」
寝返りの素振りで覗き込むと、仰臥するカカシの白面は小面憎い程に平和そうだった。
かつん、と音がして、どこからか紛れ込んだ夏の虫が台所の流しか何かに掴まろうとしてぶつかったようで。
今日も当たり前のようにイルカの部屋に押しかけたカカシは、当たり前のようにイルカの寝床に潜り込んだ。だが、この図々しい恋人は、実のところ案外なくらい強情に打ち解けてくれぬ人でもあった。イルカも近頃ではそれを知っている。何が彼の望みなのか、見えそうで見えない。
かつん、かつんと、硬くて軽い音がする。
カカシの視線が自然そちらへ流れる。
「何でしょう」
「カナブンかな、昼間、窓開けっ放しにしてたしなあ」
二人の顔が見合わされる。ああ、やっとこちらを向いたか……
暗がりの中で身体を手繰り寄せる。
虫の羽音。布団の襟から漏れる体温。情事の後の匂い。あなたの足。
乾いているのは虫の音だけ。
「どちらかが先に死んだら、死んだほうを甕に入れて、きっとそれからも仲良く暮らしましょうね」
カカシがそう言った。
あれは二人で年の暮れに買い物に行った時のことだった。
クリスマス間際の街中は騒々しく飾り立てられ、人ごみでごった返していた。木の葉の里のクリスマスは余り盛り上がる行事では無かったけれど、それでもお祭り好きの気質故に人々は浮き足立って楽しそうだった。
混雑を避けて早めの時間帯に二人で買い物に出た。手際良く夕飯の買い物を済ませた帰り道、てくてくと商店街を歩く。辺りは暗くなり始めていた。いくつかの商店は店頭に鈴や柊を結って飾り付けている。
ふと、カカシが足を止めた。
「どうしましたか」
イルカが振り返る。カカシは少し小首を傾げるような仕草をしたあと、「いいえ」と言ってまた歩き出す。
「この時期は人が多くて歩くのが大変ですねえ」
カカシの不機嫌そうなコメントに、しまった、こっそりカカシのほうに重たい荷物を押し付けたのがばれたかな、と思ってイルカは内心で舌を出した。
翌日今度は一人で買い物に出かけ、イルカは通りすがりの店の人に勧められて小さなクリスマスツリーを買った。売れ残りなのだろう。三寸程の高さのツリーは別に邪魔になることも無いだろうし、安価だった。帰宅して、それを部屋に飾っておいたら、夜中になって遊びに来たカカシは何だかやけにキラキラした目でそれを眺めていた。
「お好きなんですか?こういうの」
無性に微笑ましくてイルカがからかうと、カカシは曖昧に首を傾げて見せた。
その年は、正月飾りもいつもより丁寧にしてみた。アパートなのに門松まで立てて見たところ、どんなに叱っても窓からイルカの部屋に進入してきていたカカシが、玄関から入って来るようになったのが可笑しかった。
いつももっとずっと妙なものを欲しがって、しかもその妙な品々を部屋に持ち込んでイルカを迷惑がらせるのに、彼の遠慮のツボは良く分からない。
欲しいと言ってくれれば良かったのに。
そういえば、初めて抱いたり抱かれたりの夜を過ごした日の彼も、何だか不思議だった。
情交の後、心地良くまどろんでいたイルカが明け方に目覚めると、背中にくすぐったい人の気配を感じた。ぴったりとイルカの背に顔を寄せて、多分、背後の恋人はまばたきを繰り返しているのだ。その都度に睫毛や瞼が触れてくすぐったかった。いつの間にか寝返りをうって、カカシに背を向けて眠り込んでいたらしい。
夢うつつの中で、そのくすぐったさは、ずっとあったもののような気がして、イルカは何となく振り返ることがためらわれた。
眠れなかったのだろうか。
コトの最中には、どうも場数を踏んでいるらしい様子のカカシが余裕の態で終始リードしイルカは情け無いくらいの気分でいたものだから、もしかしたら彼を満足させられなかったのだろうかと思って心配した。
だから翌朝になって、どうやら柄にも無く不気味にも恥らっているらしいカカシの様子を見て、イルカは内心ほっと胸を撫で下ろした。コトの終わりの方で、あれこれ色んな声が出てしまったことを、カカシは恥ずかしがっていたらしかった。イルカにしてみれば彼が日常的に繰り広げる奇行のほうが余程恥ずかしいだろうにと思ったのだが。
それじゃ、何故あの晩、彼は眠らずに起きていたのだろう。
一緒に眠らずに起きていてやれば良かったのだろうかとイルカは訝る。結局は彼が何も言わなかったので分からない。
カカシはいつも場所も状況もわきまえないで好きだとか何だとか言い出して、イルカを驚かせた。人目があろうとも構わず抱きついてくるし。
そのくせ、その態度は悪ふざけとしか取れないようなもので、イルカは何度もハラをたてた。
「アナタ、本当にオレのことが好きなんですか?」
その日も任務受付でイルカのことをからかったカカシを、アパートに帰ってから怒りに任せて怒鳴りつけたら、ピタリと彼は黙り込んだ。ちゃっかり夕飯をご馳走になりはしたが上の空でイルカの話を聞いておらず、いつものように泊まりもせずに早々と帰ってしまった。
イルカはムッとした。
なんて自分勝手なんだろう。叱られたら聞きもしないで出て行くか。
翌日、イルカが任務受付の当番だったがカカシは来なかった。ナルト達だけで任務の報告に来た。特別の報告書を提出する必要の無い任務では、下忍達の報告だけで構わなくはある。だが、ますますムッとした。それから少し不安になった。まさか、これっきりになるのじゃないかと思って。
先のことが分からないような、そんな不確かさがカカシの態度にはいつもあった。好きだと言うときには、いつでも冗談のような響きがあった。
気塞ぎになる自分を叱咤しながら遅い時間帯まで残業し、帰宅したのは深夜になってからだった。
冬の、冷え込みの厳しい日だった。
アパートに着くとさっさと風呂に入って、布団を敷いた。こんな寒い日は早く寝るに限る。
昼間のカカシの態度を思い出すと多少胸に蟠りを感じ、落ち着かなかった。だが疲れのせいもあって、横になるとすぐに眠りについてしまった。
と、どれほど時間が経った頃だったろうか。
こつん、と,窓が叩かれた。
「イルカ先生……居ますか?」
小さな、優しげな声が呼びかけてくるのを聞いた。
目を開けて見ると、ガラス窓の外には、憎たらしい上忍がいつも通りに貼り付いていた。
慌てて跳ね起きて窓を開けてやると、冷えた夜気と共にカカシが室内へ滑り込んでくる。寒がりの彼は白い息を吐きながら、ニコニコして
「コンバンハ、先生」
と言った。
「あなた、こんな夜更けに……どうかしたんですか?」
手を貸してやろうとするイルカに、カカシはことも無さげに肩を竦めて見せた。ハタとして自分がカカシにハラを立てていたことを思い出すに及び、悪びれもしないカカシの様子にイルカは眉を吊り上げた。吊り上げながらも、伸ばしかけた手は惰性でカカシの指先に触れた。
その指先の、余りの冷たさに、言葉は失われた。
「……イルカ先生?」
無言になったイルカの顔をカカシが覗き込む。
「あ、イルカ先生、鼻毛出てる……」
とんでも無いことを言う。
「え?嘘!」
慌ててイルカが自分の鼻をゴシゴシと手でこすると、カカシは素っ気無く「嘘デス」と言って脱いだばかりのサンダルを玄関へ持って行こうとし、ふと立ち止まり、振り向いて、ニヤニヤ笑った。
「ッ……この…」
夜気は開け放しの窓から流れ続けて室内を冷やしていった。
勢い良く振り上げた手を彼の腕を引くのに使い、いつも通りの鉄拳制裁では無くて、不意をついた口付けに変えた。カカシの唇は冷えて、乾いていて、咄嗟のキスに何故かさっと顔を背けた。
一体、あなたはオレにどうして欲しいんだろう。
翌朝出勤したイルカは、昨夜イルカの住むアパートの部屋の下を、ウロウロと歩く不審な人影が目撃されたんだと教えられた。
「気をつけろよ、オマエの部屋の入り口とか窓の下とかベランダとか屋根の上とか、とにかく3時間くらいうろついてたらしい」
ただひたすらウロウロ歩いてるだけだったから誰も注意しなかったらしいけど、と言い添えた同僚に、木の葉の里が平和であることを心から感謝せずにはいられないイルカだった。
「どちらかが先に死んだら、死んだ方を甕に入れて、きっとそれからも仲良く暮らしましょう」
不吉な話題を持ち出して不思議な提案をした上忍は、言い終わると自分だけとっとと眠ってしまった。
イルカは眠ってしまったカカシを抱いて、彼の望むようにしてやりたいと考えていた。
滅多に露わにされることの無い望みを聞いたような気がして。
かつん、かつんと虫の羽音。
夜闇は込み上げて、それから引いて行こうとしていた。
「約束しますよ」
イルカはカカシを揺り起こす。
「約束しますよ、ずっと一緒に暮らしましょうね」
眠たげに瞼を上げた情人は、きちんと聞こえたのだろうか、口許を綻ばせると再び眠りに落ちていった。イルカはそれに満足して、自分も寝心地の良い姿勢をとることにした。
そして、多分、自分の方が後に死ぬことになるだろうなと考えた。危険性の高い任務が多いカカシの身上を思えば、それは妥当な予感と言えた。
果たして、イルカの予感の通りにカカシのほうが先に死んだ。
任務先で負った怪我が原因であったが、それでも最期は畳の上でイルカに看取られながら息を引き取ったので、忍の人生としては悪い方では無かったのではないかと思う。彼程の任務をこなしていれば、遺体の欠片も残らないような事態だって有り得る。何にせよ、これでイルカも彼との約束が果たせると言うものだ。
イルカはその日のうちに早速大きな甕を買ってきた。その中に死んでしまったカカシを入れて、少々迷ってからキッチンの真中に置くことにした。食卓の、いつもカカシが座っていた椅子の上へ甕を乗せる。ここなら、部屋のどこからでも甕が見える。
平凡な、安っぽいキッチンの有り様に素焼きの大きな甕はいかにも不釣合いで、それだけに目に付いて存在感があった。
それからイルカは甕の中のカカシと、ずっと一緒に二人で暮らした。
朝目覚めるとカカシに声をかけ、朝食を取りながらカカシに声をかけ、昼も、夕方も、風呂上りにも、就寝前にも、夜中に目が覚めた時も。
カカシも時に触れ、イルカを呼んだ。
「イマスカ」
と。
甕の中から。
「ええ、ここに居ますよ」
イルカが優しく応えてやると、その声は止む。そしてまた程あって後に繰り返し
「イマスカ、イマスカ」
呼び返す風のようにイルカを呼んだ。
イルカは仕事を辞め、一日家に居てやった。
アパートから一歩も出ないので、買い物は不自由だった。だが注文をしておけば米は届けに来てくれるし、水は水道がある。行商の人がアパートの傍を通るのを呼び止めて毎度買い物をするから、イルカはあっというまに彼らの得意客になった。だが魚や野菜等は毎日は売りに来ない。そうなると唯一毎日のようにアパートの脇を通る豆腐屋ばかりが頼みになって、何だか豆腐ばかり食べている季節もあったりした。
イルカが洗濯物を干していたりすると、キッチンから呼ぶ声がする。
「イマスカ、イマスカ」
「居ますよお」
大きな声で部屋の中へ返してやると、その声はまた暫く止む。中々応えぬでやると、しつこく呼ぶ。人を縛り付けて我が物顔のその図々しさは、成るほど彼らしく、イルカの胸を擽った。
ある日、玄関の呼び鈴が鳴って、見知らぬ若い男が立っていた。
火影からの伝令で、用件はカカシが使っていたアパートの部屋についてだった。
「もうじきあの部屋に新しい入居者があるので、その前に片付けておいて欲しいのです。捨てるものと、必要なものと」
「ああ……」
成る程。あれは里の管理する言わば社宅のようなものだ。部屋の主が居なくなれば次にそこを使う人間もいるということか。
自分とカカシの思い出の場所が失われるようで残念だったが、仕方が無い。何しろカカシは死んでしまったのだから。
どうぞ勝手にあるものは全て捨ててしまって良いですから……と、言いかけて、彼の寝室にあった写真立てのことを思い出した。あれは多分彼の大切にしていたものだろう。せめてあれだけでも取っておきたい。多分カカシもそれを喜ぶだろう。
「……それじゃ、少々お願いがあるのですが」
「何でしょう」
生真面目そうな男だった。
「実はですね、私が留守にしている間、この部屋に居て欲しいのですが」
「ああ、構いませんよ」
イルカの申し出を、男は快く承諾した。
イルカは久し振りでサンダルを履きながら、男にこう頼んだ。
「あのね、オレが留守にしている間に、イマスカ、と聞こえたら、居ます、と応えて下さい。それだけ、どうかお願いします」
小さな頃のカカシの写真と、まだ下忍担当になってばかりの頃のカカシの写真の二つを抱え、イルカはアパートに戻った。ドアを開けると、違和感のある静寂がそこを包んでいた。何だろう、と思う間もなく、呆然とした風の、先刻の男と目が合った。
「どうしたんですか?」
「あ、あの……」
男は視線を彷徨わせ、その視線の先には素焼きの甕があった。
厭な予感がした。
「あの……この、甕が」
「甕がどうしましたか」
「甕、から、人の声が」
それは、カカシのイルカを呼ぶ声だ。
「返事は……?」
イルカの背を汗が伝った。久しく忘れていた感覚だった。
「あ、あの、甕から人の声がして」
しどろもどろで答える男の様子から、全ては明白であった。ああ、しまった。男は甕から突然人の声がしたことに驚いて、きっと返事をしてやらなかったのだ。
「カ……カカシ先生」
震える足を堪えて、堪えて、イルカは甕に近づいた。カカシは応えない。
「カカシ先生、居ます、居ますよ、ねえ」
イルカは甕の縁を何度か手で撫ぜた。
「カカシ先生……居ます」
どうしようか、あなたのために。
イルカはカカシの甕のすぐ脇に椅子を一つ寄せて置いた。そしてそれに座った。
イルカの留守中、いつものようにカカシはイルカを呼んだのだろう。だが、それに誰も応えなかった。カカシは何度も呼んだだろう。だが、どんなに呼んでも返事は無かった。
イルカがどんなに好きだと言っても信じなかった彼。
いつでも別れるだとか、期待しないだとか、そんな拗ねたようなことばかり言っていた彼。
初めて二人で過ごした夜でさえ、彼は恐れるように、イルカを呼んで起こすことすらしなかったのだ。
本当に望むものこそ、決して欲しがらない人。
「ねえ、カカシ先生」
イルカは甕の中へ語りかけた。愛しそうにその素焼きの表面を撫でながら。
「あなたが、死んだあとも一緒にいようと、ああ言ってくれた時ね」
部屋の中には午後の陽が射して、とても静かだった。ただザリザリと素焼きの甕を撫で摩る物音だけが響いていた。
「あの時ね、とても嬉しかったんですよ。やっと、あなたの望みを聞けたような気がして。あなたはオレが黙ってる時はいつもしつこいくらいオレに好きだと言ってきたけど、いざオレから愛情を尋ねるとね、決まって何も言ってくれなかったでしょう。だから、あの時ね、初めて、あなたがオレに答えてくれたような気がして」
とても嬉しかった。
怯える心を押し込めて、あなたは何度もオレを呼んでくれた。
けれど、あの日に、呼ぶことを止めたんですね。
もう一度、呼んでくれれば良いのに。
「カカシ先生、居ますよ」
問いかけも無い甕の縁へ向かって、イルカは知らせた。
「……居ますよ」
それっきり。
イルカは二度とその椅子から立たなかった。
End
いるか 01 12 15 manai