彼は幸せの歌をうたう





芦原さんは明るい歌が好きだ。
流行の歌もノリの良いものばかりを好むし、一年中季節を問わず鼻歌はクリスマスソングだ。そうでないときはお正月ソングだ。いくらなんでも限度を越えていると思う。限度を越えた……のうてんきだ。
芦原さんが車を買った時ドライブに連れ出されたりしたが、次から次へと上っ調子な音楽ばかりかけるので、終いには疲れてしまったくらいだ。
ボクは元々あまり音楽をかけたりするのは好まないほうだけど、たまに彼が部屋へ来た時にCDを聞いていたりすると、
「え、何でこんな暗いのかけんだよ」
なんて言って、クラシックからポップに切り替えられてしまったりする。いっそアニメの主題歌とか、そういうものが、彼は好きだ。好き嫌いというよりは、そういうものしか理解出来ないんだろうと思う。
ほんとに限度を越えて、沈むことの出来ないひとなのだ。
まあ、いいんじゃないの、ああいうひとも世の中にいたほうが、とボクは思う。
夏の恋は素敵だとか夢は叶うとかあといくつ寝るとお正月だとか、そういう歌ばかり、彼はうたう。

年の瀬も押し迫った頃。その年、ボクはプロ試験に受かったばかりで、身辺も慌しく、落ち着かない日々を過ごしていた。
当時芦原さんにはおつきあいしている女性がいたらしい。
けど、ふられてしまったらしい。
クリスマスも目前でふられてるところが芦原さんらしいけど、それでも彼は鼻歌でサンタが町にやってくる、を繰り返し歌いながら研究会のためにうちに来て、お茶をいれていた。
幸せで、ちょっと馬鹿なひと。
進藤のことやプロとしてこれからやってゆくべきこの世界のことで、あの頃のボクは考えこむことが多かった。
いつだって、綱渡りのような時間が続くことを当たり前だと思ってはいたけれど、覚悟をつけることは、まるで悲しい歌を聞くときのような甘い感傷を伴って、自分の、考えごとの世界へボクを潜らせてしまう。
「大丈夫」
と芦原さんはいつも無責任に励ましてくれた。
「大丈夫、アキラなら何も心配ないよ」
屈託無い笑顔は羨ましいくらいだ。
誰も、彼のように楽しい歌だけで生きていくことは難しい。
一つの才能なんじゃないかと思う。
だが時々彼ののうてんきな顔を見たくないと思うこともある。
あんなふうに幸せなひとは、歯を食いしばって我慢しなくてはならないときには、毒なのだ。
何もかもが馬鹿馬鹿しくなる。

朝から冷え込みが厳しくて、どんより曇った日のことだった。
緒方さんに誘われて院生の研究会を覗いたら、そこに進藤が居た。
「院生になってたなんて知らなかったろう?」
と、緒方さんが言う。
ボクはまた、覚悟が揺らぐ。
上手くは言えない。ただ、彼を見ると覚悟が揺らぐ。綱渡りの生活から手を放したい、と思うし、同時にそれとは全く正反対のことを思う。
ボクは苛立ち、雪の中、傘もささずに駅まで歩いた。棋院から駅までなんて、ほんとに僅かの距離だ。もっと長い時間、雪にさらされたかった。指先が真っ赤に冷えて痺れるくらいまで。けど実際は、一つ目の角を曲がれば駅舎が見えるほど、歩くべき距離は短い。
つるつるの銀行の窓ガラスの横を歩いていたら、調子外れな歌声が聞こえた。
芦原さんだった。
「あれ、アキラ君、どうしたの」
彼は傘をさし、薄茶の毛糸の手袋をしていた。
「今帰り?オレも丁度さっき仕事終わって帰るとこなんだけど」
ボクは返事出来なかった。
彼は頓着しなかった。
「一駅歩かない?雪降ってさ、綺麗じゃない」
年末の街並みはクリスマスのネオンに彩られ、白い雪は真綿のようにほたほたと降り続けた。
芦原さんには傘がある、手袋もある。
ボクは凍えて手先を赤く冷やしている。
けれど彼は頓着せずに、幸せそうな鼻歌を歌いながら、街を歩く。そして街は綺麗だとボクを誘う。
ひとつ隣りの駅まで、二人で歩いた。
馬鹿だなこのひと、とボクは思った。
「芦原さん、だから彼女にふられるんだよ」
突然何だよ、ひどいな、と芦原さんは情けない声を出した。
ボクは笑った。
少しだけ、どうにかなる、どうでもないことだ、なるようになる、と気分が和らいだ。
ほたほたと、雪は降り積もった。

翌日我が家に珍客があった。
冴木さんだ。
その日もうちには何人か父のお弟子さんが来ていたけれど芦原さんは居なかった。イベントの仕事が入って遠征していたのだ。
冴木さんは森下先生の用事でうちに来ただけだったのだけど、そのまま研究会に加わって少しだけボクと打った。こんなことは本当に珍しい。
「芦原居ないの?」
「仕事です」
「へえ、元気にしてるんだ」
石を片付けながらさりげなく言った彼の口調に含みを感じて、ボクは
「どうしてですか?」
と問い返した。
えっ、という顔を冴木さんは見せた。
「だって、芦原、ふられたんでしょ、彼女に」
「ああ」
ボクは笑った。
「そうなんですってね」
その場には他のひともいたので、その話題はそれで打ち切ったけれど、帰り道、駅の方向が分からないという冴木さんをおくって歩いているうちに、自然とまた芦原さんの彼女の話題へ戻った。
「病気なんだってね」
「え?」
「彼女」
「え、ああ、そうなんですか」
「知らなかったの、まずいな、オレから聞いたって芦原に言わないでよ」
「言いません。心配ですね、芦原さんの彼女さん」
「モト、な」
「あはは」
「モト彼女」
「ははは」
昨晩まで降っていた雪は、淡雪の言葉通り、地面に少しの湿り気を残すくらいで消えてしまっていた。それでも風は刺すように冷たい。
駅まで並んで歩きながら、冴木さんは芦原さんの彼女の話を聞かせてくれた。年齢が近いせいか、意外なことに、二人はそういう話も出来るような仲らしい。
彼によれば、芦原さんの彼女はむつかしい病気なのだそうだ。
命に別状あるわけではないが闘病には辛抱が必要で、まだまだ長い時間が必要なのだと冴木さんは教えてくれた。
「それで、芦原さんと別れたの?」
「そう」
「なんで?病気なら、なおのこと、支えになるようなひとが必要じゃない、芦原さんとか、頼りないけど、明るいし」
ボクは素直に思ったままを口にした。
「それが駄目だったんだろ」
冴木さんが肩をすくめた。
「頼りなくて、明るいとこがさ」
「…………」
冴木さんの言うことも、何となく分かるような気がした。
のうてんきな彼は、悲しむということに、むいていない。

芦原さんはうちのお父さんのお弟子さんなので、本当にしょっちゅうボクの家に来る。
クリスマス当日も彼はうちへ来て、鼻歌をうたいながら、ボクの部屋のパソコンで勝手にパソコンゲームをしていた。今日は手合いも無いし、どうせヒマなんだろう。まあ、ボクも同じだ。芦原さんはあんまり動きのあるゲームは得意ではない。ボクも同じだ。芦原さんと一緒なんてちょっとイヤだと思った。
迷路みたいな建物のなかを歩きながら色んなひとと話をする地味なゲームに勤しむ彼を眺め、畳の上へ寝そべりながら、
「芦原さんの彼女、年上だったんだって?」
と、ボクは意地悪なことを言った。
「なんだよ、それ、やけに詳しいなァ、アキラ君」
「週刊碁の編集長から聞いたんだよ」
「えー、いつからそういう雑誌になったの、週刊碁」
「ゴシップ満載だよ、来週記事になるよ、芦原さんの破局」
ボクの冗談に芦原さんはひとしきり笑う。ノンキだなあ、とボクは思う。
「いや、そういえば、自分で言ったな、編集長に、色々話したよ、オレ」
「うん、そうなんだってね」
「たまたま一緒に飲んでさあ、ふられたばっかの時だったから、ついね」
お喋りだな、あいつ!と芦原さんが言う。
「いいじゃないの、ボクは知ってるだろうって思ったんじゃない?編集長」
「そうかな?……まあいいか、アキラになら」
冴木さんからも聞いたけどね、とボクは心の中で付け添える。冴木さんからは口止めされたから、冴木さんと話したことは芦原さんには秘密だ。
「……オレじゃ、駄目なんだってさ」
大きくひとつ伸びをして、椅子から立ち上がって、彼は言う。
「しょうがないなあ」
自分でそう言って、芦原さんは微笑む。
「しょうがないなあ」
繰り返すと、ボクの部屋に置いてあるポットを使って勝手にコーヒーを淹れる。
「オレはいつも彼女を楽しませたかっただけなんだけど、それじゃ駄目だってさ。芦原君はいいひとだけど、ごめんなさいって言われちゃったよ」
芦原さんは馬鹿だ。
ボクの頭をくしゃくしゃに撫でるとボクの分のコーヒーを差し出す。そして自分は障子窓を開けて外を見ながら、寒いけど、降らないな、雪、クリスマスに降れば良かったのにねどうせなら、と言いながらカップに口を付ける。クリスマスに雪が降ろうと降るまいと、彼自身は予定もなくパソコンゲームをしているだけのくせに。芦原さんの作るコーヒーにはクリープが山盛り入ってるのでボクは顔を顰める。クリープは牛乳で出来てるからたくさん飲むと体に良いと彼は信じているのだ。自分の分だけならともかく、彼は他人のカップにも同じようにクリープを山盛りに入れる。やめてよ、と何度言っても、だって体に良いんだぜ、とまるで抗議するボクのほうが変みたいにあっけらかんとしてる。自分がして欲しいことを他人にもしてあげなさい、という教育を本気で正しいと信じてるひとなのだ。
芦原さんは、馬鹿だ。
クリープの甘い匂いの漂う部屋で、彼は相変わらず幸せな歌を鼻歌でうたう。夜中にサンタクロースが来たよ、ママはサンタのおじさんにキスしたよ、パパが見たらすごく驚くだろうね、というような内容の歌だった。
幸せな歌だけで生きてゆくことは難しい。
悲しむことも落ち込むことも、生きていくために必要なのだ。
けれど、悲しい時、辛い時、彼は共鳴してくれるようなひとではない。
それはとても残酷なことだと思う。
芦原さんの恋人は、彼のそんなところを好きになり、そしてまさしく彼のそんなところを嫌いになったのだろう。
その気持ちは分かると思った。

窓際に彼と並んで立ち、温度差で曇るガラスに耳を寄せ、彼にキスをした。
呆然とした彼は「何すんだよ」と驚いた声を出した。
「いいじゃない」
とボクは答えた。
「いいじゃない、慰めてあげただけだよ、芦原さんがふられたから」
彼はハラをたてたようだった。そんなことして欲しくない、と言い残し、ギクシャクしたまま帰った。バタンと扉が閉じたあと、ボクは幸せな歌をことさら選んで、いくつも歌った。知る限り、全て。
そして窓から行儀悪く甘い匂いのするコーヒーを庭に流した。
明日も明後日も、来年になっても。
ボクの生活は変わりなく、ボクはいつか揺らがぬ覚悟を身に付け、芦原さんは、彼はきっと、その時も今と変わらず、幸せな歌だけを好むだろう。
誰も、彼のように楽しい歌だけで生きていくことは難しい。
芦原さんのように、馬鹿で、のうてんきなひとは、他に居ない。
どこにも居ないのだ。



ボクは芦原さんを随分子供の頃から知ってはいるが、ボクと彼とが恋人同士になった時の、これが、なれそめ話だ。
彼は幸せの歌をうたう。
いつでも変わらず、ボクが病めるときも、健やかなるときも。


04/12/24






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