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顔に似合わない、と周囲から散々言われつつも、ゾロは今年無事音大を卒業する予定である。卒業したあとは、小さな頃から通っていた近所の小さなピアノ教室を手伝う約束になっている。近々故郷の田舎に帰るつもりの師匠は、生徒も設備も、小さな一軒家ごとそっくりゾロに譲ってくれるつもりらしい。これまで師匠の人柄だけで生徒を集めてきた個人教室だ。うまくいくかは分からないが、一から自分でやるよりはずっと楽なので有り難く譲られることにした。
まず手始めに、子供のレッスンを任された。
だが子供はなかなか思い通りにならないので、大人相手より難しい。
特に最近通いはじめたばかりだという、黄色い頭の眉毛のぐるぐる巻いた子供は、まるっきり手に負えなかった。
何が手に負えないって、全くレッスンをする気がない。毎週水曜日に欠かさず教室に顔を出すくせに、一度だって練習をしてきたことはないし、弾け、と言うと面倒くさそうにする。楽譜はいつもまでたってもピカピカのままで、譜面台の上に広げると、ページがすぐに閉じてしまう。
(まあ、まだガキだし)
今年小学校にあがったばかりの子供にレッスンを強制するのは良くないのかも知れない。
その気があるなら、そのうち自分で練習するようになるだろうし、その気がないなら、それも個人の勝手だ。
そう思ってゾロは好きにさせていた。
毎週水曜日には、それでも間違いなく時間通りに来るのだから、ピアノが嫌いなわけではないだろう。

教室に通い始めたばかりの子供は、レッスンの始めに楽譜の読み方の練習をする。そのあとはスケールだ。どれみふぁそ、と声に出しながら、不器用そうに指を運ぶ様子は、一生懸命で微笑ましい。
黄色い頭の子供は、名前をサンジと言って近所のレストランの子供だ。
彼の指には、よく切り傷や火傷の跡がある。料理をしてる、と時々話すので、多分その際に作った傷跡だろう。指を大切にしなさい、とゾロは言わない。手は、大切だ。だが何故大切なのかは、人それぞれだろう。あの子供にとっては、料理をする手が大切なのだ。
だが時折、ちらりと頭を過ぎる。
ああ、こんなに練習をさぼって、子供のうちでないと、指は動かなくなってしまうのに。
教室にはたくさんの子供が来る。
熱心な子供もいれば、そうでもない子もいる。
サンジはとりわけ熱心でない子供なのだ。だけど、その手のひらは、たくさんのことを知っている。
だから、怒らない。
火傷の跡の残る手で、甘い菓子を持ってくる黄色頭は、実際ちょっとくらい、かわいらしい。

サンジと同じ時間帯にレッスンに来ていた少女が引越しのため教室を辞めると言ってきた。ゾロが大学を卒業し、師匠も既に引き払ったあとの、秋頃のことだった。
「そうか。元気でな」
ゾロは少女の頭に手をのせる。
「先生、今までありがとう。外国へ行ってもピアノを続けるわ」
年頃より随分大人びた挨拶をする。だが自分がこれから行く国の名前すら知らない。まだ子供だ。
彼女が居なくなった翌日、レッスンの日でもないのに、サンジが来た。
「せんせい、ビビちゃん、もう引越しちまった」
「ああ、昨日だったんだってな」
「つまんねえよ」
サンジは唇を尖らせている。
そのままレッスン室に居座って、ソファーの上で足をぶらぶらさせている。今日は教室は休みの日だ。ゾロにだって自分の練習がある。
「飲め」
とりあえず、子供にはジュースだろうと思い、冷蔵庫からコーラを持ってきた。缶のまま目の前に置く。この家のなかに、子供の口に入りそうなものといったら、このくらいだ。あとは酒とか酒のつまみくらいしかない。
小さな手で、プルトップを捻るのを視認してから、ゾロはピアノに向かった。一度中断したので、気持ちを切りかえるつもりで一楽章まで戻る。
ゆっくり。
ゾロは手がはやくなりがちなので、弾きだす前に、いつも心のなかで唱える。子供の頃からのクセのようなものだ。そう、もうずっと、この黄色い頭の子供と同じくらいの年頃から。
静かな部屋に、ピアノの音が流れる。ゾロにとっては静かではない。鍵盤に手を触れた途端、小さな音まで鋭敏に聞き取れるようになる。鍵盤を指先が叩いた瞬間の音まで聞こえる。だが一方で、窓の外の緊急車両のサイレンや、部屋の中の足音、咳払い、話し声さえ聞こえない。すぐ間近で、退屈したサンジが
「ねえ、せんせい」
と、声をかけたのにも、気付くのが遅れたくらいだった。
ふ、と集中をといた。指だけ流して続きを追うが、既に散漫になっている。
「なんだ」
「せんせいって、いくつ」
「・・・・・・」
本当に、単に退屈したものらしい。
遊んでやるか、と溜め息をつき、
「隣のピアノ、蓋開けろよ」
「なんで」
「一緒に弾くか」
「ええ」
サンジは不満そうに口を曲げる。だが素直にピアノの前へ座ると、何弾くの、と聞いてくる。
鍵盤に手を載せると、きちんと手のひらを「たまごをもつかたち」に整える。さすがに、これだけは最初から上手だった。だが、もう一年以上習っているのに、まだバイエルの上巻が半分も終わらない。
ゆっくり。
なんとなく、胸の内で呟いた。
「連弾の練習ノート開けろよ」
「えー」
ピアノのすぐ横の棚から、師匠が作って置いていった子供向けの練習曲集を取り出す。
「もう弾きたくねえよ」
サンジはつまらなそうに言った。
「ピアノなんか、面倒くせえ。ビビちゃんが一緒に習うって言ったから、来てたんだ」
「へえ、そうか」
思ったより、きつい言い方になった。
相手は子供だ、と思いながらも何故かムカついて、ゾロはさっきの練習の続きをさっさと始めた。サンジは黙ってそれを見ていた。どっか行け、邪魔だ、と思った。集中出来ない。
区切りの良いところまで弾き、根負けして、サンジの方を向くと、青い目で、ずっと、こちらを見ていたことを知った。透き通った、不思議な目をしていた。

もう二度と来ないかと思ったが、次の週もサンジは教室に来た。相変わらず、ちっとも練習していない。
なんで来るんだろう、と思っていた。
それから三年くらいたって、サンジには両親がなく、レストランのオーナーだというじいさんと二人で暮らしていると聞いた。
懐かれていたのか、気付かなかった。
その頃にはもう、サンジは滅多に教室に顔を出さなくなっていた。

  ◇◇◇

ピアノの下で寝るのが好きだ。
上から見ると真っ黒に光るピアノも、腹側は無防備な白い木肌のままだ。
何の音もしない楽器からは、微かな、うなりが聞こえるような気がする。
この小さなピアノ教室を引き継いで、十年近くが経とうとしていた。今ではすっかり子供の扱いにも慣れた。おまけに最近では近所の奥様方が習いに来るようにもなった。
窓、閉めねえとちっと寒いな。
そう思ったが瞼が重くて開かない。そろそろ冬だ。
庭に出るためのサッシ戸が、からからからと開かれた。半分だけ開いたままになっていた。あの状態からなら猫でも開けるだろうが、猫でないことは分かっていた。
ぺたぺたと足音がする。
すぐ傍まで来て立ち止まる。こちらをじっと見ている気配を感じる。と、思う間もなく体温が近付く。
「・・・・・・」
顎のあたりに息がかかるのを感じたところで、ふいうちで手を伸ばし、丸い頭を捕まえてやる。
「わ・・・・・・っ、ん、んんっ」
慌てて退こうとする体を押さえつけ、強く唇を重ねる。咄嗟のことに無防備になる口内を舌で舐めまわす。それから、少しゆっくりと、下唇だけを吸う。
痺れたように動かないでいる両腕を、ゾロは手のひらで撫でてやる。暫く繰り返すと、ようやく力を抜いた。
瞼を開けると、深い、青い目に見下ろされていた。
白い頬は紅潮し、ゾロの手に掻きまわされて金糸の髪は乱れている。
はあ、と大きく溜め息をついた。その顔はどこか正気でなく、口許から唾液がつう、とこぼれた。慌ててそれを拭う。その瞬間にいつもの彼の表情に戻った。
「せんせい、いきなり過ぎっだろ」
生意気そうにそっぽを向くが、学校帰りの制服のままだ。これはまずい。こんな、見るからに子供のいでたちで。
まずい、と思ったのですばやくネクタイをとき、上着を脱がせ、シャツのボタンを外してしまった。ベルトを外されてもまだ、ちっとも抵抗しない。
またキスをする。今度は結ばれたままの唇に、覆うように吸い付いて、舌でなぞる。すると、すぐに緩む。歯列を確認するように舐めると、少し顎が仰のいて、おそるおそる、応えるように舌をからめてきた。
そのことに満足しながら、下着の中へ手を入れると、そこは期待でもう芯を持ち始めている。
まだ若いのだ。
喉の奥でこっそり笑うと、これだけ深く唇を合わせた状態では隠せなかったのだろう。不満そうに、唇を尖らせている。子供の頃、よく見せた仕草だ。
「てめえ、んなツラすんな」
「ああ?」
「ガキみてえだ」
「・・・・・・っ、ざけんなっ」
突き放すような動作は、実はポーズだけだ。
彼はゾロに子供扱いされることが大嫌いだが、少し好きだ。甘やかすように、握りこんだ性器をやわやわ触ると、強い刺激を与えたとき以上の反応を見せることがある。胸の中に顔を押し付け、足を絡めてきた。もがく二人分の足が、ペダルにぶつかる。
「ん・・・・・・ん、ん」
手を速めてやると、もう夢中だ。目を閉じて、快感を追っている。すぐ目の前にある額に、汗がにじんでいる。それを見ながら、彼の弱いところを弄り続ける。まだ丸みのある頬が、真っ赤になっている。眉がぎゅっと寄せられ、何かを我慢してるような顔になっている。実際我慢しているのだろう。まだだ、まだ、まだゆっくり、と自分に言い聞かせ、唇を震わせている。
「せんせ・・・・・・」
ぎゅう、と全身に力を入れ、ひくひく肩を揺らしたかと思ったら、射精した。何度かに分けて、手の中に青臭い精液が吐き出される。
荒く呼吸している。なかなか息が整わない。
休ませるつもりはない。すぐに両足を抱え上げ、後ろを濡れた手で解す。一本だけ、指を入れると、苦しそうに歯を食いしばる。
「力抜けよ」
「むり・・・・・・っ」
「じゃ、ここまでにするか?」
わざと。
長い指を優しく出し入れさせながら、返事を待つ。
実際、ここまででやめてやってもいい。嫌がることはさせない。ずっと、ガキのころからそうしてやっただろ、と思う。
中学にあがるころにはもう、レッスンには顔を出さなくなっていた。ピアノなんか好きじゃない、と言ったのは本心のようだ。確かに、似合わない。ゾロだって人のことは言えないが、この彼も相当だ。
それなのに、ゾロと彼との縁は切れなかった。
時々持ってきたお菓子が惣菜になり、やがては家にあがりこんで調理をするようになり。
中学を卒業した日、せつなそうに、好きだ、と言われた。せんせいが好きだ、としがみ付いてきた。
まだほんの子供だ。
ゾロから見たら2オクターブも年下だ。
適当にあしらって追い返そうとしたら、「嫌だ」と必死に全身を摺り寄せてきた。まるで猫の子のように。
嫌がることは出来ない。顔に似合わないと自分でも思うが、これだけ全身で懐いてくる子供を放り出すなんて出来ない。だから、これはほだされただけだ。

有り得ないだろうと思っているが、もしも、もっと大人になるまでこの子の気持ちが変わらなかったら。
「やめ・・・・・・やめんな、入れて」
「おー、いい声出すな」
半端な状態に耐えられなくなったか、無意識に腰を揺らす痩身を開かせる。気をつけないと、ピアノの腹に頭をぶつけるので慎重に身を屈める。これまで何度も失敗してこの子供に笑われているのだ。
「親父っ、ニヤニヤすんじゃねえよ、てめえ、生徒の奥様方にエロいことしてねえだろうな」
「アホか」
これだけは大真面目に答えてやる。
「そんなことしねェ」
ふ、と彼は表情を緩ませる。
安心したか、馬鹿め。
若いピアノ教師をたぶらかそうなんて奥様方に、最初から恐ろしくて手が出せるわけがない。だがそんなことは言わないでやる。
誤解は頑なだった下肢をやわらかく、ほぐしやすくした。
すぐに騙される。まだまだ若い。
その素直さは毒だ。
耳もとで、滅多に呼ばない彼の名前を呼んでやった。
「サンジ」
「・・・・・・」
目を細め、すがるように手を伸ばしてくる。
耳を澄ますと、並んで置かれた二台のピアノのうなる声だけが聞こえる。この子の名前を呼ぶのは好きではない。だが、彼は呼ばれるのが好きなようだ。感じているのが、震えになって伝わってくる。

ちゃんとピアノを覚えればよかったのに。
似合わないと知りつつも、そう思った。
そうしたら、あと十年経っても、ここに来てくれただろうか。
もしこの子がもっと大人になって分別を身につけて、それでもう一度あのせつない顔で好きだと言ったら。
「もっと名前呼べよ、せんせい」
上ずった声でせがまれた。だが答えなかった。黙っていた。可愛そうだと若干は思うのだが。

名前を呼ぶと、不思議と胸が痛むので、彼の名前はなるべく呼ばないようにしている。



おわり
printed、2006/10/29 up、2006/12/29 manai

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