もしも私の一部なら



目を覚ますと、寒くも熱くもない、静かな砂浜だった。
エースは頭を軽く振って立ち上がった。身体中が砂まみれだった。
健康や頑丈さにかけては自信があるが、今は身体の節々が痛む。
とぼとぼと何もない砂の上を歩いて、波打ち際でストライカーを見つけた。海水から引っ張りあげて点検する。駄目だ。エンジンのところが壊れていた。修繕しなくては海の上を走るのは無理だろう。
片手で木の葉のような小船を引き摺り、町を探す。砂の上に、舳先が残したひとすじの線が残る。
防風林を抜けると、小さいながらも小奇麗な町があった。地面はモザイクタイルが貼られており、何軒かある商店には木で出来た看板がぶら下がっていた。だが、そのいずれも古びて朽ちている。人のいる気配はなかった。まるでもう何年も人の住むことのなかった廃墟のようだ。
教会の横の噴水は緑色に濁ってすっかり溜池のようになっているし、植木は好き放題に枝を伸ばしていた。
通りの先を目指すほか思いつかず、エースはただまっすぐ歩いた。
暫く行くと大きな木があった。
見事な大樹だ……、と見上げたら、それは自然のままの木をどのようにしてか建築物として利用していたものらしい、不思議な建物だった。扉や窓がついている。
深く蔦に覆われ、扉は開きそうもなかった。
鉈でもあればな、とエースは思った。そしたら蔦を切ってなかに入れるだろう。それとも火で焼き切ろうか。
大樹の前には大きな池があった。深く、青い水を湛えていた。
池は地面に大きな穴を掘っただけのような大雑把なものに見えた。クローバーやはこべのような、蔓を伸ばす小さな草が、ぽっかりとあいた水面までの傾斜を彩っている。池の底だけ、何故か色とりどりのタイルを敷き詰めたように、臙脂、紺、深緑、こげ茶色、白、薄茶色の点々が沈んでいるのが見えた。こんな大雑把な池の底に、わざわざタイルを敷くだなんて奇妙だ。
崩れやすい斜面を慎重に下りて、エースは水際まで近寄った。
そこには小さな少女が居た。ごくシンプルな黒いワンピースを着て、艶で濡れたような黒髪をきちんと耳の下でまっすぐに切りそろえている。棒のようにまっすぐな腕を伸ばして、少女は水底から美しい色のタイルの一枚を掬い上げた。水から引き上げられると、タイルように見えていたそれは、一冊の本の表紙なのだと分かった。池には、無数の本が沈んでいるのだった。数えきれないほど。
「お嬢ちゃん、この島で人の住んでるとこって、どこかな」
膝を屈めてエースは話しかけた。
「居ないわ」
少女は振り向いた。深い瞳の色をしていた。子供とは思えない、不思議な、吸い込まれるような光がある。
「もう誰も居ないの、この島には」
「はあ?」
少女の突飛な発言にエースは呆れた。
「じゃあ、君はどうやって暮らしてんだ」
「私はここで本を読んでいるの、毎日」
「本ねえ……、それは偉いけど」
「本でおなかが膨れるわけないって?」
少女は笑った。
「そうでもないのよ、ほら、おいしそうな本でしょう」
ページを開いて示された本は、料理の本だった。細かく調理法が書き込まれた横に、丁寧な挿絵が入っている。挿絵のなかのシチューは湯気をたてていて、とてもうまそうだった。思わず手を伸ばしてページに触れた。すると、胃の奥が不思議と温かくなった。まるで、食事をしたあとのように満足な気持ちだ。
なんだこれ、と思って腹に手をあてると、少女は楽しそうにこちらを見上げる。
「ここでは、本だけあれば満足なの。私はここが好きよ」
少女はそう言って立ち上がった。池のなかの無数の本達が、その色とりどりの表紙を煌かせて、水面に美しいさざなみをたてた。



ストライカーを修理しないと島から出ることも出来ない。
と、いうことを少女に話したら、どこかに壊れた小船の修理法の本だって沈んでいるかも知れないわ、ここには世界中の本があるのだもの、と少女が言った。そんなわけで、エースは来る日も来る日も、池の底から本を引き上げては目当ての本が無いものか探すことになった。少女も毎日池から本を引き上げては、熱心にページを捲り、何かを探していた。
暖房器具の歴史について書かれた本を読めば夜でも暖かかった。医術の本をめくると、怪我は治った。だが小船の修理法の本はなかなか見つからなかった。
日増しに内心の焦りはつのった。はやくこの島を出なくてはならない。自分にはやることがある、こうしている間にも、あいつは遠くへ逃げてしまうかも知れないし、何か手に負えないような悪いことをするかも知れない……。
(あいつって誰だろう。手に負えないような悪いことって、なんだ)
自分の思いつきに、ぞっとして、エースは胸に手をあてた。そこにはまだ塞がりきらない傷跡があった。
ここにこんな傷をつけた相手、その相手は、何かとても悪いことを企んでいたような気がする。そもそも、何故自分はこの島に流れ着いていたのか。
小船で海を旅して、そいつを追っていたはずなのに。
思い出せない、と思いながらもエースは本を漁る手を止めなかった。ただひたすら苛立った。
「そのうち見つかるわ」
見透かしたように少女が言った。
「あなたが忘れてしまったことも、どこかの本には書いてあるし、あなたの小船のことだって、あの船がこの世にあるのだから、どこかしらの本には書いてあるでしょう」



謎かけのような言葉の意味は、しばらくして理解出来た。
エースは水底から、たっぷりと水を吸ってふやけた新聞を見つけた。本だけじゃないのか、新聞もあるのか、と思いながら拾いあげると、一面に見覚えのある写真があった。
黒ひげと呼ばれた男の写真だった。七武海の一員になったと記事にあった。
そうだ、こいつはおれの仲間を殺し、おれの弟の命を狙っていると言っていた、全く許せない男だ。思い出した。忘れていたが、この新聞に書いてあった。
はやく海に出て、黒ひげを倒す。どうして、いつの間にこの島に流れ着いたのか、あいつと闘ってヤミヤミの実の力とぶつかり、それから後の記憶がない。
その日から、池から本を引っ張り上げる作業も本気になって取り組み始めた。とにかくあいつを罪人として裁かなくてはならない、それが隊長してのおれの務めだ。そのためには、船の修理だ。海賊が海に出られなくては話にならない。
だが小船の修理の本はなかなか見つからない。帆船の組み立て方法、船の歴史、貿易の利益について書かれた本、海賊からの身の守り方を書いた本まである。それなのに、小船の修理についての本が無い。
工具の使い方を細かく記した本を見つけ、それを頼りに修理を試みることにした。破損箇所を補強しただけでも大分良くなったが、矢張り簡単には動かない。動力の火が内部を通るようにはなったが、それがモーターを回すまでには至らないのだ。
もしかしたら、とエースは考えた。
モーターの仕組みについての本を捜せば、それで補えるかも知れない。船についての本だけではなく、モーター関連の本も対象に含めて、本の引き上げ作業を続けた。



黒髪の少女は毎日エースの隣に並んで、自分も本を捜していた。
彼女はあまり急いではいないようだ。可愛い動物の本、珍しい外国の風景を描いた本を見つけては目を輝かせてエースに見せてくれる。それらの本のページを覗けば、確かに一時は楽しい気分になれた。まるで自分が実際にそれらの優れた風物を見てきたように。
だがエースの目的は、海に出て黒ひげを見つけることだ。寄り道している暇はない。本だけで腹の膨れる世界になど興味がない。



ある晩、世界の紅茶カタログと、美しいケーキの写真集を膝に乗せてうとうとしている彼女の隣で、なるべく寒くないよう火を焚いてやりながら(勿論薪は必要ない)、エースは尋ねた。
「ところでアンタは、何をさがしてんだ」
少女は微笑んだ。
「本よ」
「本ね、そりゃそうだろが」
「とても大切な本なの、だからさがしているの」
世界にたった一冊しかないの、と彼女は言った。
翌日も、その翌日も、彼女とエースは二人並んで本を捜した。
ある日、エースは日誌を見つけた。紺色の布張りの表紙で、この本は特別なものだと一目見て分かった。少し水の深いところに沈んでいた。足を踏み入れると、水紋がひろがる。一足ごとに水の輪はひろがり、静かだった池の表面を揺らしていった。
能力者のエースには、水のなかは思い通りにならない世界だ。ゆっくり、ゆっくり用心深く歩いて、腕を伸ばしてその一冊を掬い上げた。
これは大切な本だ。
エースにもそのことがよく分かった。じんわりとぬくもりが、表紙に触れた指先から滲んでくる。
この本のなかに、大切な物語が詰まっている。
自分の知らない物語だが、自分にとって大切な内容である。
ページを開く前に、それがはっきりと確信できるのだ。不思議な気持ちだった。
エースは本を持って、また岸辺へ向かって歩いた。水は青く透きとおって、足許の無数の本の表紙を、色とりどりのタイルのように美しく光らせていた。
岸辺の一群のはこべの上に立ち、少女は顔をあげてエースを待っていた。
彼女が捜し求めていた本はこれであると、その澄んだ表情で分かった。
エースは彼女に紺色の表紙の本を手渡した。
水を吸って重みがあったが、滴るしずくにさえも、にじむようなぬくもりがある。
「これよ、ずっと探していたの」
彼女は嬉しそうに受け取った。
やせっぽちの子供だとずっと思っていたが、よくよく見ればエースより年上の大人の女だった。先刻までは自分の腰ほどまでしか背丈もないように思っていたが、どうしてそんな思い違いをしたのか分からない。黒い瞳は知性で強く輝いていた。気の強そうな口許。肩の上で切りそろえられた髪。
どこかで見たことがあるな、とエースは思った。
恐らくいつだったか、手配書か何かで見た顔だ。手配書があるということは、彼女はならず者なのだろうか、名前が思い出せないが。
「探していたの」
彼女は繰り返した。
「これで彼らのところに帰れるわ、私」
幸せそうな仕草と、希望に満ちた表情に、エースの気分までが変わった。
なんでストライカーが無ければ海に出られないと思ったのだろう。何でもいい。ボートでも、なんなら樽でも海には出られる。
すぐにでも出航しよう、やるべきことがある、と胸が熱くなった。
他人の心まで動かすほどに、彼女の全身に情熱が満ちていた。
はこべやクローバーの、黄緑の蔓の上に立ち、涼やかな風に吹かれて彼女は呟いた。
池の上には、今しがたエースがつくった水紋が揺らいでいる。
「これは、小さな海賊団の物語よ。最初は小船で、たった一人、少年が船出するところから始まるの、私は、はじめて出会ったときから……」

はじめて出会ったときから、心奪われてしまったの。
ずっと願っていた。
どうかこの物語が、もしも、決して切り離せない私の一部なら。




「つかもうぜワンピース」企画様参加 091103

2009/12/06up ウォーターセブンのあたりのイメージで書きました。ワンピ世界に登場する場所を舞台にした、CP要素無しの作品、という参加条件でした。
VS!!ほんとに楽しかったです。ワンピだいすき!