まよなか図書館




ちびなすは、こぞろの姉のクラスメイトの妹であるナミさんから、古くなった着せ替え人形を貰った。子供の肌に触れるものだから……、という母親の心遣いが見えるような柔らかな木綿の人形で、大きなボタンのついた赤いスカート、黄色のブラウス、毛糸の髪はおさげに結って水玉のリボンがむすばれており、スカートの下からのぞく白いズロース、靴下も白、靴は脱がせられるようにゴムで留められて上品な焦げ茶色をしていた。頬がほんのりと赤く、まっ黒な瞳は優しげな表情を湛えている。人形本体はともかく服はあからさまに手作りで、高価ではなさそうだ。だが、温かみがある。
ちびなすは人形を可愛がった。人形遊びなど男の遊びではないと思っているが、そうではなく、年上の愛しい女性が与えてくれたものとして、人形を恭しく扱った。神棚に飾って拝みたおさんばかりの勢いだった。
こぞろから見れば、ナミは不要なものをちびなすに押し付け、恩を売ったに過ぎないと思えたが、ボロボロに薄汚れた人形を宝物のようにするちびなすを見れば、憐れでとてもそんな残酷なことは言いだせなかった。こぞろは慈悲の心を知る男であった。
ナミのくれた人形には、普通の洋服の他にバレエの衣装もついていて、着せ替えが出来るようになっていた。
「とっても素敵でしょう」
とナミに言われて
「うん、すごく綺麗だ、ナミさんに似合いそうだね」
笑顔でちびなすは答えた。ちびなすはナミを喜ばせたいのだ。こぞろはそんなちびなすを見守ることにした。
だが、男の世界にその浮ついた気持ちを持ちこんだことについては、許すことが出来なかった。
「続き読まねえのかよ」
こぞろは、冷たくちびなすを睨んだ。
「うん」
ちびなすはあっさりと頷く。こぞろの顔も見なかった。
「おれ、今日はこっちを読むんだ」
大判の絵本をちびなすは手にしていた。どこか物悲しい色彩で塗られた、古びた絵本だった。タイトルは「くるみ割り人形」。
「ナミさんの人形は、この絵本に出てくる踊り子の人形のイメージなんだって」
いそいそとページを開いている。
「ふざけんな、今日はてめえが読む順番だろ」
こぞろはちびなすの手から「くるみ割り人形」を取り上げる。
「えーっ」
「えー、じゃねえよ、それとももう降参かよ、怖いのか」
「怖くねえよ!」
ちびなすはこぞろの手から「くるみ割り人形」を取り返した。
「それなら続きを読め、交代で読む約束だろ」
こぞろは『ゾクゾクこわーい、こどもの怪談』を強引にサンジに押し付けた。二人は最近この本に収録された短編を交互に音読し、怖がらずに平気でいられるか、男の勝負を続けていた。勝負は自己申告制で行われており、「怖かったか」と音読した方が尋ね、聞き手は「全く怖くなかった」「少し怖かった」「大変怖いので一緒に帰ってほしい」などというふうに読後の自分の気持ちを報告することになっていた。聞き手が怖がれば読み手の勝ち、ただし読みながら自分も怖くなってしまったら、読み手の負けだ。現在シリーズの二作目に入ったところだが、今のところ、双方が「怖くない」「ちっとも怖くない」「少しも怖いと思っていない」と言い張るばかりなので、引き分けが続いている。
この勝負はちびなすが考え出したものであり、こぞろは飽くまでもちびなすの提案に乗ってやっただけのこと、本来こんなくだらない勝負には興味がなかった。それでも、男の勝負だとちびなすが言うから、これまで続けてきたものを。
今日のちびなすは勝負に応じなかった。
「面倒くせえよ、それにガキくせえ、お化けの話なんか」
つん、とそっぽを向いて図書館の床に座り込む。キッズコーナーの床は絨毯が貼られていて靴を脱いであがるようになっている。寝そべって本を読むことが出来るので、ちびなすとこぞろはここで本を読むのが好きだ。一般閲覧席の椅子も嫌いではないが、床に足が届かないので、少しだけ不便だ。
ちびなすが一心に「くるみ割り人形」を読んでいるので、こぞろはその横に腰掛け、わざと声を出して本を読みだした。
「むかし!あるところに!おいてけ堀と呼ばれている堀があった!」
「うるっせえな」
「ある晩、男が堀のそばを通りがかると……っ」
「うるせえよ!もう!」
「置いてけー、置いてけーとっ、恨めしげな声でっ」
「うるさい!」
ちびなすはこぞろの手から本を取り上げる。
こぞろはちびなすの手から本を取り返す。
ちびなすが取り上げる。
こぞろが奪い返す。
二人は睨みあった。
「なんだよ……」
ちびなすが唇を尖らせる。こぞろはちびなすの「なんだよ」の顔に弱い。このアヒル顔を見せられると、急に意地をはることが面倒くさくなり、勝手にさせればよいという大人のような感情が胸のなかに芽生える。
ちびなすが駄目押しのように、もう一度「なんだよ」と呟いたので、こぞろはちびなすに背を向けて床に座り込んだ。仕方がない。今日は引き分けである。
くるみ割り人形を十分ほどで読み終えると、ちびなすはもう本を読むことに飽きた。
「おい、おれんちで遊ぼう」
こぞろの手を掴んで無理に引っ張る。随分勝手である。こぞろは不機嫌にちびなすを見上げたが、その不機嫌そうな顔を見てちびなすがまた「なんだよ」と言いそうな顔をしたのですぐに本を閉じて書架に戻した。
外へ出ると、空気は湿っぽく、熱を孕んでいた。晴れてはいても、近頃雨続きなので、どこかからりとしきらない。ちびなすの家はここから歩いて五分もかからない場所にあるレストランだ。レストランの裏手に母屋があって、爺さんと二人きりで住んでいる。
ふと振り向くと、ちびなすは図書館の入り口で立ち止まっていた。自動ドアが何度も開いたり閉ったりを繰り返す。
「おい」
こぞろも立ち止まる。
ちびなすは自動ドアの手前に掲示されたポスターのうちの一枚に見入っていた。
そこには、こう書かれていた。


特別企画 お人形の大冒険!
真夜中の図書館は魔法の国
お人形に探検させてみませんか?
みんなのお友達のお人形さんも、きっと本が大好きだよ

おうちの方へ お子さんが大切にしている人形を図書館へ預けて下さい。
真夜中の図書館を人形が大冒険する様子を写真に撮影し、お子さんの思い出に残るようなアルバムに致します。
参加費:実費
毎週金曜日締め切り。土曜日の午後人形を返却致します。


「これだ!」
ちびなすは目を輝かせた。
「ナミさんのお人形のアルバムを作ろう!思い出に!」
なんの思い出だよ、とこぞろは思った。思ったが特に言うほどのことでもなかったので黙っていた。
「おい、てめえの人形も出せ」
「ああ?」
「てめえも一緒に図書館に人形を預けろよ」
「持ってねえよ」
「いいから、なんか出せよ」
ちびなすは、なんだよう、という顔でこぞろを睨んだ。
「おれひとりじゃ、恥ずかしいだろ、男が人形なんて」
こぞろは仕方なく、姉のくいなから人形を借りた。くいなは少しも女らしくないが、一応着せ替え遊びのできる人形を持っていた。だが長年押入れに放り出したまま忘れられていた人形は、どうしたらこうなるんだというくらい、やぶれかぶれの服を着て、顔も薄汚れ、「大切にしているお人形」にはとても見えないありさまだった。
二人は人形を図書館に預けた。
人形を預かると、カウンターにいた図書館員は「ちょうど良かったわね」と言った。優しそうなお姉さんで、こぞろの呪いのかかっていそうな人形にも、何も言わない。大切に預かって人形の首に名札を付けた。
「今日は預かるのなら、明日返せるわ。撮影日……いや、人形のパーティーは今夜だから、明日、土曜日の昼過ぎにはアルバムが出来てるので、取りに来てね」


図書館を出ると、もう夕方だった。
「楽しみだな」
なんだかんだで、ちびなすは興奮気味に足をじたばたさせた。人形が真夜中の図書館を冒険する……、なんだかとても面白そうだ。図書館は木々に囲まれ、古い本や、外国の本、冒険の本もあるし、魔法の本もある。当たり前のことだが、ちびなすの身のまわりの人間で、夜中の図書館がどんな様子であるか、知っている者などいないのだ。
「なあなあ、おい」
甘えるような声で、ちびなすはこぞろの顔をのぞく。
「おれらも冒険しねえ?」
「あ?」
こぞろは不機嫌に振りかえる。ちびなすの言い方は、こぞろを無理にでも誘いたそうだった。甘えるような言い方だが、こういう時は絶対駄々をこねて自分の意見を譲らないのだ。
聞くまい。
ちびなすが何か言いだす前に無視して帰ってしまおうと、こぞろは背中を向けた。
「おい、なんだよ、てめえ!」
ちびなすはこぞろに追いすがる。
「ひとの話を聞けえ!」
短いこぞろの緑の髪を、ちびなすはぎゅうっと無理やり引っ張った。







サンジの勤務先は図書館だ。本当は市役所の職員なのだが、今は配属先が市立図書館になっている。あまり本は読まない。
図書館では、最近子供向けの企画として、人形を預かって写真を撮るという企画を始めた。子供らにとって深夜の図書館は神秘の世界らしく、海外の図書館で流行しているらしいので見習って始めたのだが、宣伝の仕方が足りないのか、今一つ人気がふるわない。
「今週は、二つだけかー」
人形の保管場所になっている事務室内のケースを開き、サンジは念のため受付ノートを確認する。
「うーん……確かにこの二つだけだな」
古びた人形が二体、ガラスの展示ケースのなかにおさまっている。ケースは本来貴重書の展示などに利用されるものを、最近はそのような企画展示もないので、預かった人形の保管場所として流用している。ケースを開けるのにいちいちカギが必要なので少し面倒だが、ここなら絶対に人形がなくなったり、汚れたりする恐れがない。と、言っても、もともと汚れきったような人形が多いが。
とくに今日のはひどかった。
大きめの布製の人形の方、こちらはまだ良い。古いが大切にされているようで壊れてもいないし、きちんと服を着ている。だがもう一体は酷い。昔からある、リカちゃんだかミカちゃんだか言う柔らかいプラスチック製の定番着せ替え人形なのだが、髪はぐしゃぐしゃ、顔には擦りキズ、黒っぽい汚れが頬や手足についており、服はぼろぼろで破れている。何かの呪いでもかかっていそうな人形だ。
「これ、本当に大切にしてる人形なんかなあ」
「知るか、さっさと済ませろよ」
「偉そうにすんな!不法侵入のくせに」
サンジは振り向いて、ゾロを睨んだ。ゾロはサンジのデスクに勝手に腰掛け、置いてあった煎餅を勝手に食べている。よく来る利用者が旅行の土産だといってくれたものなのに。
「本当は夜は部外者入れたら駄目なんだぞ」
「てめえが迎えに来いって言ったから来てやったんだろ」
「む、迎えに来いなんて言ってねえだろ」
サンジはむっと唇を尖らせる。
「そっちこそ、なんでこんな早く帰って来てんだよ、今日は仕事遅くなる、十二時過ぎるかもって言ってたじゃねえか、だからおれは……、だったらついでだから自転車持って来いよって言っただけで」
「同じだろ。いいからとっとと写真撮っちまえよ」
ふあ、とあくびして、両腕を伸ばす。実際つい先刻まで仕事があって疲れている。ネクタイもベルトも、窮屈だ。はやく帰宅して脱いでしまいたい。
「眠くてかなわねえ」
「永遠に目覚めなくていいぞ、もう」
ゾロを無視することにして、サンジはデジカメを用意した。時計は十一時を指している。
今回は丁度仕事が溜まっていたので、残業ついでに人形の写真撮影役を買って出た。ただ人形を図書館内のあちこちに置いて撮影するだけの簡単な仕事だが、初めてのことなので少し緊張する。普段はカウンターの女の子ちゃんたちがしている仕事なのだ。カメラを預ける際に、ちょっと心配そうに「かわいく撮ってあげて下さいね」と言っていた女の子ちゃんのことを考えると、好い加減な写真を撮って、「サンジさんてセンス悪い」と思われてはいかんと気合が入ってしまう。
撮影対象の人形は二つだけで、今一つやりがいがないが、それでも子供たちが大切にしている、宝物の人形に違いないのだ。喜んで貰えるよう、頑張りたい。
人形とカメラを手に、サンジは事務室から真夜中の図書館閲覧室へ踏み出した。非常灯のあかりが、緑色にともっている。とても静かだ。
「おいゾロ」
サンジはゾロを呼んだ。
「一緒に行くぞ」
「はあ?」
ゾロは不機嫌な声をあげる。
「行くぞって言ってんだろ!」
サンジは声を荒げる。だが、ゾロは軽く肩を竦めて見せただけだった。
「てめえ、怖いんだろ、ガキかよ、一人で頑張れ」
手を振って、追い出そうとする。
「なんだよ……」
ぎゅっと唇を引き結んで、サンジはゾロを睨む。訴えるような、何か言いたそうな顔だ。
「…………」
クソッ、と舌打ちして、ゾロは立ちあがった。どうも、あの顔には弱い。


撮影は順調に進んだ。普段は「静かにしなければ」という意識のつよい図書館内で、大声を出したり、本棚の本を次々床に広げて見せたり、駆けまわるように元気よく書架の間を探索するのが、なんだか新鮮だ。真夜中らしい暗さを演出するため、照明はカウンターの一か所しかつけていない。薄暗いなかで撮影を進めた。普段は閉め切っている地下書庫のカギも開けて、そこに人形が忍び込むような様子を何枚か写真に撮る。これは喜ばれるかも知れない。何しろ一般の利用者は地下書庫の内部など見たことがないのだから。地下へ続く階段と、閉架書庫の写真も一枚ずつ撮影する。それからまた階段を上がって地上階に出る。屋上の写真も撮ろうかと思ったが、あそこは先日気味の悪い虫が出たので、やめることにした。図書館の周りは木が多く、林のようになっているのだ。サンジが苦手とする虫も多い。
風が吹くと木々がざわめいて、この辺りが住宅街だということを忘れてしまいそうなくらいだ。
「ゾロー、おい、そっちの人形も持ってこい」
一階の閲覧室に戻り、書架の隙間やカウンター、中庭のブランコなどでひとしきり撮影をしてから、サンジは児童書コーナーで絵本を広げ、ゾロを呼んだ。
「人形が絵本読んでるとこ撮るからさ」
「はいはい」
ゾロは不気味な方の人形をサンジに渡す。
「人形同士が友達になったことにしよう」
二つの人形を並べ、絵本の前に座らせる。並べると、ボロボロ人形のボロボロさが際立って見えてより憐れなのが少しだけ気になる。
「おい、なんかもうちっとカラフルな絵本ねえか、その辺の書架から適当にとってくれ」
「これか」
「ああ別になんでも……いや駄目だろ、なんだこれ、お化けの話じゃねえか、子供が怖がるかも知れねえから明るい話にしろ」
「注文が多いな」
ゾロは手近な棚からさらにもう一冊絵本を引きぬいた。
「ああそっちは良いな、色が明るくて写真にもちゃんと写りそうだ」
ぱらぱらと受け取った絵本のページを広げ、楽しげなページを探している。俯くと、金色の髪が流れる。それを煩げに指で払う。クールビズだとかで、サンジは紺色のポロシャツだけのラフなスタイルだ。まっすぐ平らな背中が絵本を覗き込むために丸められている。
「なんだこれ、あー、風呂に入る話か」
ははは、とサンジは小さく笑った。絵本のなかでは子供が次々に洋服を脱いで、最後は笑顔で風呂に飛び込んでいる。
「あ!いいこと考えた」
サンジは絵本の最後のページを広げると、人形の服を脱がせ始めた。
「何やってんだ」
「絵本の風呂に入れるんだよ」
いたずらを考えた子供のようにニヤニヤしている。絵本の最終ページは大きな風呂が見開きを使って描かれており、主人公の子供と動物たちが気持ちよさそうに湯につかっている。
「かたっぽだけボロボロの服だと人形が可愛そうだろ、裸にしちまえばわかんねえし」
ちょっと失礼しますよレディ、と呟きながら、ぽいぽいと人形を全裸にしてしまう。布製の人形のズロースは人形本体に縫い付けてあったので脱がせることが出来なかったが、およそ入浴スタイルが出来上がった。
「これをだなー、こうして並べて……腰ぐらいまでしかうつらないようにして撮ったら風呂入ってるようにまあまあ見えるんじゃねえか」
真剣な顔で人形を並べている。アホだ。
「おっ、いい感じだ」
何枚か撮影してデータを確認し、サンジは頷く。
「よし、じゃあ次は何の本にすっかな……おっ、くるみ割り人形なんていいんじゃねえの、女の子が喜びそうだ」
壁に固定された書架を、サンジは順々に覗いて、何冊かめぼしい本を取り出す。
キッズコーナーの書架には子供のために、可動式の梯子が取り付けられている。ステップのところが赤く塗られていて、可愛らしい梯子だ。本を取り出すためには邪魔だったので、サンジは梯子を動かした。一番上の棚に手を伸ばす、その手首をゾロが掴んだ。
「なんだよ」
「いつまでやってんだ、それ」
「いつまでって……終わるまでだろ」
答えたサンジの首を、いきなりゾロが噛んだ。いてっ、とサンジが叫ぶ。それから、ひゃっ、と変な声を出した。噛んだところを、舐められたのだ。
やめろよ、と押しのけたが書棚に押さえつけられて逃げられない。ひとしきり、耳や首を噛まれた。まるで動物だ。力が抜けそうになる足をごまかして、サンジは梯子に片足だけかけると、ぐい、と無理やりゾロを背中で押しやった。それから素早くすり抜けて、逃げる。
人形とカメラを置いたままの読書コーナーへ戻ると、ゾロものっそりついて来た。
「もういいだろ、その辺で終わりにしろよ」
「うるっせえマリモだな、もうちっと辛抱しろよ、こらえ性がねえぞ」
「もうずっとそれやってるじゃねえか、いつまで人形遊びしてやがんだ」
「遊んでんじゃねえよ!仕事だ仕事」
背中を向けて人形に服を着せなおそうと屈んだサンジの腕を、ゾロは掴む。
「おい、なんだよ」
「もう終わりにしろ」
「駄目だ、せっかくだから十二時の時計と一緒に記念撮影するんだから」
「ガキかよ」
強引に、腕を引いてサンジを持ち上げる。
「あっ」
驚いてサンジがもがく。だが体力馬鹿が本気で身体を締め上げているのだ。そう簡単には外れない。はずみで足があたり、書架に掛けた梯子が倒れた。
「ちょっと!」
慌てて、サンジは暴れた。だがゾロは離さなかった。のしのし歩く。
「おい、あっち行くぞ」
「あっちって……あっちは地下書庫だ!立ち入り禁止だ!」
「さっき入っただろ」
「さっきは助手として入れてやったんだ、勝手に入るな、進入禁止」
「うるせえな」
ゾロはやれやれというふうに、ため息をついた。
「ここじゃ外から見えるだろうが、入り口がガラスだし」
「みっ、見えたらなんだってんだよ、なにする気だ」
うっかり声が上擦ってしまう。そう言えば、最近忙しさにかまけてちっともゾロを構っていなかった。危険だ。サンジの手から、握り締めたままだった人形の服がはらはらと落ちた。
「ああ、だ、だめだっ、服が、人形の服が!預かりものなのに!ふざけんな!」
「あとで拾えばいいだろ、手伝ってやるから」
「だめだって……だ、だめだーっ」
「うるせえよ」
悲鳴をあげるサンジを肩に担いで、ゾロは地下書庫へ続くドアを開けた。

地下書庫は暗く、古い書物の湿った匂いがする。
歩きながらゾロはサンジの衣服を殆ど剥いでしまった。
「掴まれよ、そこ……」
書架と書架の間に放り込んで、サンジの手を書棚に引っ張り、掴まらせる。
「腰上げろ」
「や……、やだって言ってんだろ」
背後に手をまわして払いのけようとするが、その力はもうだいぶ弱い。
ゾロがまた首筋を噛んだ。それから背骨の上を舐める。動物の食事みたいだ。児童書コーナーにある「動物の秘密」「サバンナの動物たち」「動物園に行こう」などといった本のタイトルが次々と思いだされた。おれは小鹿だ、無力な小鹿だ、とサンジは絶望した。手足がぷるぷる震えてしまい、力が入らない。
こんな、勤務先の地下書庫で素っ裸にされてしまい、あられもないところを男に弄られているだなんて。そう思うと、ちょっぴりだけ、興奮した。
「お」
ゾロがとんでもない場所を握りながら、楽しそうな声をあげた。
「もうこんなじゃねえか……エロい奴だな」
そんな言葉を聞けば、かっと頭に血が上る。
「わーっ、馬鹿馬鹿、言うんじゃねえ」
「言わなくても、分かるだろ自分で」
ぎゅうっと乱暴なくらい強く握られて、息をのんだ。怖さと、認めたくないが気持ちよさで頭の芯までくらくらする。
「へえ、痛いほうが好きか、今ぴくってなったの自分で分かったか」
意地悪く言われると、腰の奥からじわじわと震えが込み上げてきた。熱が血管のどこかしらに詰まっているようになり、呼吸が苦しくなる。
大きなくちをあけて、背後の動物は思い切り肩に噛みついた。



 *



ちびなすはやる気満々で図書館の周囲をひとめぐりした。こぞろもそのあとについて歩く。木々は風にざわめき、昼間とは一転して誰もいない図書館は人の立ち入りを拒んでいるようにも見える。もう間もなく十二時になる。子供の二人からすれば、どんな不思議なことでも起こり得る、未知の時間帯だ。
図書館の裏手には職員用の自転車置き場があり、「関係者以外立ち入り禁止」とごく小さなプレートの出された控え目な通用口があった。開くわけがないと思ったのに、ちびなすが思いきってドアノブを引くと、扉が開いて図書館の中へ入れた。
「開いてた……」
足元から震えがくるような、なんとも言えない心持だった。まるで、図書館に棲む見えないなにかに招き入れられているようだ。暗い廊下の奥に、小さな明かりが見える。ちびなすはこぞろの手をしっかり握って進んだ。別に怖かったからではない、こぞろが迷子にならないか心配だから握ってやっているだけである、本当にそうなのである。
真夜中で、館内は人の気配がしない。静まり返っている。しょっちゅう遊びに来ている場所なのに、ここはこんな場所だっただろうか、と何度も立ち止まり、見渡してしまう。
カウンターに明かりがついていた。普段はここで本を借りたり返したりすることが出来る。アルバイトらしき優しいおねえさんが、読みたい本のタイトルを伝えると探してきてくれたりする。
明かりが点いているのは、カウンターの真上の電灯だけのようだった。
ちびなすは耳を澄ます。今日預けた人形を、明日返してくれると言われたのだ。だとしたら、撮影は今夜に違いない。今、この図書館内のどこかでまさに人形のパーティーが行われているのではないか。どこかで、遠く、小さな物音が聞こえたような気がした。ちびなすはますますこぞろの手をぎゅうっと掴む。小鹿のようにぷるぷるしながら、いや別にこれは怖いんじゃねえ、と自分に言い聞かせる。書架の長細い影が、床の上にのびて縞模様を作っていた。どの棚もぎっしりと背表紙が並んでいるが、たくさんの物語で埋め尽くされているはずの本達は、何も語らずじっとしている。古びて色の変わった本が、妙に恐ろしげに見えた。
「おっ」
だしぬけにこぞろが変な声を出したので、ちびなすは思わず飛び上がった。
「なっ、なっ、なっ、なんだよっ」
くちから出そうになる心臓をどうにかしずめてギリギリ平静を保ってみせたのに、こぞろは返事しなかった。しゃがみ込んで、何かを拾ってる。キッズコーナーは資料検索コーナーのすぐ近くなのだが、検索コーナーの横には銀色のスチール製の扉がある。重たそうな扉で、それが開いているところをちびなすもこぞろも見たことがない。普段使わない物置か何かなのだろうと気にもとめたことがなかった。今、その扉がほんの少し開いたままになっていた。
キッズコーナーからその開かずの扉へ向かって、ぽつぽつと、床の上には何か柔らかそうなものが落ちていた。こぞろはそれに気がついたのだ。
ひとつ目は茶色の、小さな靴だった。次に赤いスカートが落ちていた。だが人間のものにしては小さすぎる。生まれたばかりの赤ん坊だって、これよりは大きいだろう。
どこかで見たことがあるようだ、とちびなすは思った。すぐに思い当たる。床の上に落ちていたのは、ちびなすが大事にしている、あの人形の着ていた服だ。どうして人形の服が床に落ちているのだろう。人形の真夜中のパーティーと何か関係あるんだろうか。理由は分からないが、少なくとも、少し前までこの場に人形たちが居た、その気配を感じて、ちびなすは背筋が寒くなるのを感じた。ふと見ると絨毯の敷かれたコーナーに絵本が数冊散らばっている。ここで人形が本を読んだのか。ちびなすは後ずさりした。
くいなの人形が来ていたボロの服も床の上に落ちていた。こぞろが順々に小さな落し物を拾っていく。
「ほら」
拾い集めてちびなすに渡す。
こぞろは銀色のスチール扉まで辿りついた。いつもロックされている扉が、何故きちんと閉りきらずに開いているのか。近寄るとすぐにその理由が分かった。白い布のようなものが挟まっている。あれも人形の服だろうか。一体どのくらいの数の人形が預けられているのか分からないが、証拠の衣服がここに落ちているのだから、彼らがこの場に集まっていたことはもはや疑いようもない。拾い上げて広げると、少し大きめのポロシャツだった。こんなに大きな人形もいるのか、まるで人間の大人と同じくらいの大きさではないか……どこにいるんだろう。ちびなすは思わずこぞろの後ろに隠れ、こぞろのよれよれになったシャツの裾を掴んだ。
スチール扉の向こうには、階段が続いていた。
「もっ、もうやめようよ……帰ろうぜ」
「おっ」
こぞろがまた何かを見つけて、階段を下り始める。
「これ、てめえのとこのだろ」
地下へ伸びる階段の中ほどでこぞろは立ち止まり、黄色い布切れを振りかざして見せた。暗いし、遠くてよく見えない。ちびなすは勇気を振り絞って、こぞろの傍まで行く。怖がっていると思われたくない。
「ほ、ほんとだ」
布切れは、ナミから貰った人形のブラウスだった。
階段には、まだ他にもぽつぽつと布切れが落ちていた。こぞろはそれを拾いながらどんどん下へ下へと降りていった。ベルト、ズボン、にぎやかなハート柄の布はハンカチかと思ったらパンツだった。ちびなすに渡そうとしたら断られたので、仕方なくこぞろが持ったまま進む。
階段を降り切ると、そこにはもう一枚扉があった。
「地下にこんな場所があったなんて」
ちびなすは茫然と呟いた。ここにはなにか、秘密の本でも隠されているのだろうか。
「おい……、もう帰ろうぜ」
ちびなすはこぞろの手をぐいぐい引っ張った。
「静かに」
こぞろはちびなすを制止する。
「中から、ひとの声がする」
「うそ」
ざわっと全身の毛が逆立つような気がした。
様子を探るように動きを止めると、かすかに、聞こえた。人間のうめき声のような、低いうなりが。
聞き違えだ、とちびなすは自分に言い聞かせようとした。だがそれはますますはっきりと、人のすすり泣く声のように感じられた。階段の空間に反響して、響き渡るようだ。
おもむろに、こぞろが目の前のドアに手を掛けた。そして開けた。
「ばっ、ばか!何しやがる……」
「服がここに落ちてたんだから、人形がいるとしたらこの奥だろ」
こぞろは、こぞろのくせに冷静なことを言った。
「やだーっ、やだっ、ばか!ばかこぞろ!ちび!はげ!」
「ハゲてねえよ」
こぞろは両腕を振り回して暴れるちびなすを押さえて、中を覗いた。中は、真っ暗闇だった。窓すらないのだから当然だ。扉の真上にある非常口の緑の電灯だけが、ごく狭い範囲を弱弱しく照らしていた。だがその頼りない光で、二人は見た。入り口を入ってすぐのところにある物置台のようなテーブルに、人形が二体置かれ、こちらを向いていた。見覚えがあった。二人が昼間図書館に預けた人形だ。服を脱がされ全裸で横たわっている。こぞろの持ち込んだ人形が、闇のなかで一層禍々しく見える。
ちびなすは足がすくみ、もう動けもしなかった。
地下にも地上階と同じように書架が並んでいた。地上階よりも、書架と書架の間隔が狭く、天井までぎっしりと本が積まれている。
その書架が、ギシギシと揺れ出した。
小刻みに、一定でない動き方をする。ギシギシと強く揺れたかと思うと少し休み、それからまた揺れる。誰か、人間のものだと分かる泣き声がはっきりと聞き取れた。苦しげに、もう嫌だ、もう嫌だ、助けて、とすすり泣いている。
ちびなすとこぞろはぎゅっとお互いの手を握り、立ちすくんだ。
突然、ぴたりと声や、棚の振動が止まった。
鋭い、大人の声がした。
「誰だ!」
ヒッ、とちびなすが変なしゃっくりをした。それが合図だった。
「わあああ、お化けー!お化け、お化けー!」
大声で叫んで、ちびなすが階段を駆け上って逃げる。こぞろもそれに続こうとした。だが、足首を何かに掴まれた。見下ろすと、それは非常灯の緑の明かりのなかで、青ざめて、真っ白に見える、人間の手だった。ほかは暗くて見えない。
「どこのガキだ……それ……置いてけ……」
低く、恐ろしげな声だった。じたばたと足踏みして振り払おうとしたが、物凄い力で掴まれていて離れない。
「置いてけ……置いてけえ」
声は繰り返した。こぞろは、自分が抱えているシャツやズボンやベルトやパンツのことを思い出した。声の主が言うのは、これのことか。放りだすように、落し物の衣服を床に投げた。するとようやく解放された。
暗闇のなか、こぞろも走った。まるで脱兎だ。全力で二人は逃げた。閲覧室を抜けて、廊下を通り、裏口から外に出た。
 *

翌日、ちびなすとこぞろは人形を受け取りに行く気になれず、ジジイに取りに行ってもらうことになり、子供二人の預かり知らぬところで、ゾロは一週間ほど顔に殴られたようなあとをつけて暮らした。





ツイッターで「図書館に子供の大切にしている人形を預けると真夜中の図書館を冒険する写真を撮影してくれる」という企画があるのを紹介して下さってる方がいて、「かわいいなー」って呟いたら別の方に「こぞろとちびなすで書いて」と言われたので書きました。楽しかったです!         2011/06/26 
コピー本発行前からお知らせしてありましたとおり、サイトに全文をアップさせて頂きました。 20110817