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みかんばたけ
この村はとても小さい。
半分は海に面していて、もう半分は山に接している、囲いの中の土地だ。
外へ出るための交通手段は単線の鉄道一本だけで、道路はあるにはあるがあまり活用されていない。山道が険しいので、運転が面倒なのだ。それでも今はまだ良くなったほうだと年寄りは言う。昔は船でしか他所へは行けなかったから、今は道路もあるし列車もあるし、ずっと良くなったのだと。どうかしてると思う。島でもあるまいし、何故船でしか行き来できないような場所にこの村はあるのか。こんな場所に最初に住み着いた人間は、どうかしているのだ。
だけど、ここが私の生まれた場所で、育った場所だ。
村を横断して、砂浜から山のほうへと上がってゆくと、林があって、民家があって、僅かばかりの田んぼがあって、それから斜面へかかり、段々畑がどこまでも続く。
私は段々畑が好きだ。
この狭い村は嫌いだし、いつか出ていってやると思うけれど、段々畑の段差の縁に、柔らかい草が生えるのを見るのが好きだ。スギナやオオバコの、どこにでも育つ生命力が好きだ。
随分山を上ったあたり、みかん畑の真中にゾロは居た。
「ゾロ、これ、おばさんが」
「おー」
水筒を受け取って、ゾロは「すまねえな」と言う。
「あんたは水筒持たせないと、そこらへんの川の水でも平気で飲むから心配だってさ」
「ああ、飲むな」
「心底馬鹿ね」
「……うるせェ」
ぐいっと半そでシャツの袖で顔を拭って、ゾロは水筒の口をあけた。
中蓋を乱暴に外してしまうと、直接口をつけて、中の麦茶を飲む。
その顔は、日焼けして、泥だらけになっている。
今日は一日畑の手伝いをするつもりらしい。
さっき朝イチで回覧版をまわしに行ったら、ゾロのお母さんに
「たった今ゾロが畑へ行ったんだけど、水筒を渡し忘れてねえ」
と困ったふうに言われた。
こんなに朝早くからコイツが働くなんて、なんだか信じられない。
学校へも遅刻ばかりしてくるのに。
ゾロと私は家が隣り同士だ。
私はゾロの小さい頃から知っている。
でもそれはゾロ相手に限ったことではなく、この村に住む全員が、子供の頃からお互いに見知られている。
私は小さい頃から
「ナミちゃんはえらいねえ」
と良く言われた。
「ナミちゃんはえらいねえ、頭もいいし、美人だし」
そんなふうに誉められれば悪い気はしないが、この村には18人しか子供がいないので、18人の中で誉められても、仕方がないという気がする。
中3になって、学校で模擬試験を受けるようになったから、私の成績がこの村の中だけでなしに良いほうであることは知っているし、読者モデルを募っている雑誌を読んだりすれば、私はこの村の中だけでなしに綺麗なほうであることも分かるが、この村の中にいる限り、私は18人のなかの1番に過ぎない。
私は東京に行きたい。
もっとたくさんのひとに会いたい。
ゾロはこの頃変わったと思う。
どこがどう変わったとは、はっきり言えないが、とにかく変わった。
どっしり地に足がついている人間のように見える。それは私たちのような年齢には似つかわしくない。
中2の終わり頃から、ゾロは東京に通っている。
そのことで散々周りの子供たちから噂され、からかわれ、やっかまれた。
だが、その頃から、彼が落ち着いた、柔らかな表情を見せるようになったことに、一体何人が気付いただろう。
「ともだちに会いにいってる」
とだけ説明したけれど、彼は彼の両親が呆れ顔で言うように、遊びに行っているのでは、ないと思う。
「カノジョか?」
何人かがからかうと、
「ちげえよ」
と、彼は答えた。
彼が「ちげえよ」と答えたことで、周りの子供らは安心して
「カノジョだ、カノジョだ」
とはやしたてた。
違うわ、と私は思った。
何がどう違うとは、はっきり言えないが、とにかく違うと思うのだ。
周りのガキどもは、ホンモノのガキで、馬鹿だと思う。
ゾロ以外の17人のなかでは、私だけが、それは違うと知っている。
違うわ、違うわ、と私は思う。
そして、ゾロの顔つきが、以前とは全く違って見えることを、寂しいことのように思う。
ゾロは家の手伝いをよくするようになった。
東京へ行かせてもらうための条件なのだと言う。
日焼けした手が伸ばされ、咲いたばかりのみかんの花を、手際良くハサミで摘んでゆく。適当なように見えて、あれはなかなか難しい仕事らしい。どれが不要な花かを見極めなくてはならない。
白い、細長い花弁が、はらはらと散る。
切り取られたみかんの枝からは、青臭い木の汁の匂いとともに、みかんの匂いがする。
みかんの花も、枝も、みかんの実になる前から、みかんはみかんの匂いがするのだと教えてくれる。
傾斜に逆らうように、ぐんと踵に力を入れて立ち上がると、ゾロが静かに声をかけてきた。
「動くなよ」
「え?」
「ハチ、髪にとまってる」
「え、やだ、わ、わ」
言われた通り、私はじっとして、ハチがどこかへ飛び去るのを待った。
こんな時の物言いも、ゾロは以前と違っている。
鋭い言い方でなしに、私が驚かない速度で彼が声をかけたから、私はじっとしていられたのだろう。
何でもないことのように、海のほうを見ながら、ゾロは私の隣りへ腰掛ける。
「ありがとな、水筒」
「……どういたしまして」
じ、と微かな羽音が耳のすぐ横を掠め、茶色いハチの背中が見えた。そして飛んで行った。
ふう、と私は息を吐く。
「今日は叔父さんが、下のほうの畑でハチ放してるってゆってたから、こっちにまで来たのかも」
「叔父さん、ハチ飼ってるの」
「ああ、最近」
「へえ」
「みかんの匂いするんだってさ」
「え?」
「蜂蜜。みかんの花からとった蜂蜜は、みかんの匂いがするんだってさ」
「蜂蜜も、みかんの匂いなの」
「ああ」
ぐい、と彼はまたシャツの袖で額の汗を拭った。
彼は他の男子のように、女の子が話し掛けてもムキになったり、意地を張ったりしない。
自分ばっかり、と私は思う。
自分ばっかり、ゾロはずるい。
私もはやく、ここを出て行きたい。この村で生まれ、一生この村に住む人間だってたくさんいる。うちの両親がそうであるように。けれど、私には、無理だ。そんな生き方は無理だ。
「ねえ、ともだちのこと少しは教えなさいよ」
「あ?」
「とうきょうの」
「…………」
ゾロは迷惑そうな顔を見せるが、私には大してこたえない。
正直言って、私は、最近のゾロをあまり好きではない。
ねたましいのだ。
嫉妬だって、とても人間らしい感情だから、ゾロは自分がどんなふうに思われてるか、思い知ればいいと思う。
「みかんの蜂蜜、持ってってやろうと思って」
迷惑そうにしながら、それだけ、ゾロは話した。
ゾロの口から、そのひとの存在を聞くとき、そのひとは本当にこの世にいるのだ、という実感が湧いてくる。東京にそのひとは居て、このゾロと会ったり話したり、みかんの蜂蜜を食べたりするのだと思うと、うまく言えない、もどかしい、恐れのような感慨が湧いてくる。
そこは私には遠い場所だ。
はやく、もっとたくさんの人と出会いたい。
ゾロは変に落ち着いている。
山を背にし、海に向かって、狭苦しいこの村の中で。
この村が嫌いなんじゃない。
この村が嫌いなわけじゃない。
みかんの白い花を、ゾロはどんどん摘んでゆく。
白い花弁は、はらはらと散る。
私が羨ましいのは、都会に行けることではないのだと、私は知っている。
04/09/30
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