人生の一時期、仲良くしたことがあった。
それ以上にいがみあう時間のほうがながかった。喧嘩ばっかりで、目の前にいる時には憎たらしくて、いなくなると寂しくてたまらなくなる。
優しい気持ちは、今朝ひらいたばかりの白い花みたいに、夕方くらいには、しぼんで、死ぬ。


Drops



薄暗い船室に佇んで、おれはじっとりと壁にあいた小さな穴を眺めていた。足は張り付いたみたいに動かなかった。まるで靴の底が床板のふしのひとつにでもなったみたいだ。乾いた板の目はふしのある箇所ごとにいがんでいたが、それでも船の床板は、ぴったりと寄り沿い合って一部の隙間もなかった。
床板の板目のつきあたりに、ぽっかりあいた、穴の奥は真っ暗だった。
今にして思えば、壁の向こう側は、またどこか別の船室だったはずだ。いつでも穴の奥は真っ暗けだったから、きっと普段はひとがいない、物置か、そうでなければ機械室かなにかだったんだろう。一匹のねずみがそこにすみついていた。
ねずみは、金ボタンみたいにふたつの目を穴の奥で光らせていた。そういうところしか覚えていない。どんな姿をしていたのか、見たような記憶がない。
船乗りにとってねずみは複雑な存在だ。
伝染病をもっているかもしれないし、食料を荒らすし、ろくでもない。
だけどねずみのいない船は沈むというし、幸運をもたらすとも言われている。
複雑だ。追い払いたいが、居てほしい。
金ボタンが、ぴかぴかと光を反射して、おれを誘っていた。
おれはまだ小さくて、客船に乗り込んで荷物を運んだり、ウエイターみたいなことをしたりして、小遣いを稼いで暮らしていた。客船っていうのはつまり移動するものなので、船に乗るたびにおれはどこともつかない港へ運ばれていった。たまに見覚えのある港に戻ってくることもあったが、たいていは見たこともない場所へ移動することになった。どこへ行くのか、きちんと船乗りたちはおれに説明していたはずだが、まああれだ、よく分からなかった。最初にどこから来たのか自分でもよく分からなかったので、それで良いと思っていた。
チビだった頃は、ノースブルーから外に出たことはあんまりなかったな、遠出する船に乗り込むようになったのはそこそこでっかくなってからだ。
おれはすげえ可愛かったから、ウエイターの仕事でもてはやされたもんだ。本当だって、もてはやされたんだ、可愛い可愛いって、レディたちに。
料理を運ぶ仕事をしてるうちに、おれは自分で料理を作りたいと考えるようになっていった。
その頃はちょうど、コックになりたいって気持ちと、実際にはコックの仕事をもらえないっていう、なんていうか、ぼんやりした時期だったな。本当にガキで、ぼんやりしてて、記憶が。うん、記憶が。
とにかく、板目のつきあたりの穴ぐらの、真っ暗闇のなかの金ボタンの目しか、覚えてないんだ。
料理がしたい、ひとに食べさせたい、って思ってたからおれは、ときどき、野菜くずをまるで料理するみたいにそこいらの空っぽの缶でかきまぜては、魔術師が作ったみたいな不思議な練り物になった食料のくずを、ねずみに、食わせていた。
他の船員たちは当然気づいてただろうな、不衛生だし、もしかしたら眉をひそめてたかもな。けどねずみは、そうだよ、複雑な存在だから、追い出したら良いものか、居てもらったら良いものか……
真っ暗闇の底の、金ボタンふたつ、おれには魔物のように思えていた。魔物のように特別な、なにか、影みたいなものがその壁の向こうにすみついていて、おれの料理を欲しがっているんだって、おれは思っていた。
夜中に壁の奥の魔物がそこから抜け出してくることを想像しては何度も怖くてうなされたのに、朝になると、やっぱり、そいつにおれの作った食物を食わせる遊びが楽しくてたまらなかった。やめられなかった。
それを、思い出すんだよね。
なんのはなしって、ほらこれさ、金ボタンのスーツ、これ見るたびにさ、ねずみの穴のこと、思い出すんだよね。あの時の、魔法使いになったみたいな気持ちがさあ、ほんときらきらした楽しかった気持ちがよみがえるんだよね。
えっ、そうさ、楽しかった子供時代の思い出だよ。
ナミさんだってこないだ聞かせてくれたじゃない、子供のころ、白いイチゴの実に赤い色をつける小人の話にあこがれて、青いみかんをオレンジの絵の具で塗って、ベルメールさんに叱られた話。



痩せた、みすぼらしい鳥で、いつも船べりにとまってたんだ。
普通、うみねこって群れでひとかたまりになってるものじゃねえか、でもそいつは一羽きりだった。他の仲間とはぐれたのか、毎日船べりに来て、日向ぼっこだけして、しばらくすると近くの島のどこかに飛んで帰る。
その頃乗ってた船はなかなか豪華な客船で、とある港に長期停泊中だった。
船客のたいくつをしのぐために、デッキの上にはカフェテラスが設けられていた。カフェのあるあたりは壁や床板も真っ白にペンキで塗られて綺麗になってた。白いパラソルの下に真っ白なクロスのかかったテーブル、背もたれに革のはられた猫脚の椅子。
そういう場所だったので、うみねこは困った存在だった。鳥は、フンとかするからな。
それがもし立派な羽をしたうつくしい鳥だったら、みんなの意見も違ったんだろう。だけどそいつはみすぼらしくて、たぶん年寄りで、これといってお客を喜ばせるようなことはなにひとつ出来なかった。
だから、やってはいけないと分かっていた。
あのうみねこを、船に居着かせてはいけないって、分かっていた。だけどおれは、どうしてもやりたくて、えさを。
どうしてもどうしても、あのうみねこを餌付けしたくてたまらなかった。
当時はまだコック見習いで、ろくに包丁に触らせちゃもらえなかったさ。けどそのかわり、食料庫の整理やキッチンへの食材の運搬は、おれの仕事だった。つまり、少しくらいの食料なら、おれの自由にできたというわけだ。それがまた、いけなかった。食べ物を自分の好きなように扱って良いだなんて、そんな権利、それまでは与えられていなかったわけだから。
残りものや野菜くずなんかじゃない、たくさんのたくさんの食物を、おれは任されていた。
贅沢な客船の上では、食べ物は、いつでも余っていた。その頃おれは自分自身の飢えについて考えたことがなかった。
うみねこに何かしら、なんでもいい、目の前でおれの手から与えたものを食べさせて、食べてるところを見たい。
おれの頭はそればっかりでいっぱいだった。
毎日うみねこは船にくるのに、船の上にいる人間は、一度もあいつを楽しませたことがなかった。なにしに来るのか分からない、変な鳥だったよ。
それでもおれは餌をやりたかった。
わかるだろう、目の前の動物に餌をやりたい気持ちに、理由なんか、ない。全然ない。
その日もな、餌やりたい、餌やりたいって思って、うずうずしながらおれは甲板を歩いてたよ。
キッチンに豆の袋を運ぶ途中だったんだけど、完全に横目でうみねこしか見てなくて、うみねこはその時もいつも通りに白いペンキ塗りの船べりに、水かきのある足でとまってた。
おれが近づいても逃げもしなかった。
目つきが案外するどくて、瞳は灰色をしていた。
ますますおれは息苦しくなった。
うみねこは、飛ばない。
全然身動ぎしなくって、簡単に触らせてもらえそうなくらいだった。
カフェテラスに並んだ大きな日傘が、うみかぜでバタバタ音をたてていた。やだあ、と女性客の声がして、風で食器が倒れたみたいだった。それでもうみねこは、風に毛並みをそばだてて、お天気の様子でも探っているようだった。慎重に、静かに、船べりの手すりみたいになってるところの上でずっと、つったっていた。
餌やりたい、餌やりたいって思いつめたおれは、そのとき、決行したんだ。
よろけたふりをして日傘のひとつにぶつかると、豆の袋のくちを、ほんの少しゆるめた。
うみねこがいる、ちょうどその目の前で。
少しだけのつもりだったのに、スコールみたいな音をたてて豆が転がった。
ざあ、ざああ、って、そんなにたくさんじゃなかったと思うんだけどな、でも記憶では、ものすごい音がしたみたいに覚えてる。
ぶつかった日傘がころがって、白い花でも散ったみたいだったよ。
うみねこは驚いて飛び立って、豆は食べなかった。
おれはとてもがっかりした。
あいつに豆、食わせたかったから。
どうして今そんな話をするかって。しかも海賊同盟だかなんだか分からないけどついこないだまで敵同士だった、おまえを目の前にしてな。
それはおれが今、おまえにこのおにぎりを食わせたいからさ。




まああれだ、あいつとは喧嘩ばかりだったよ。本当に喧嘩ばかりだったんだ。ずっと喧嘩してて、たいてい喧嘩してた。嫌いだった。
だからあの晩、たまたまのことだ。
あいつは昼間、さんざん迷子になって、葉っぱとか、頭につけて帰ってきた。
夜遅いというよりも明け方に近い時間で、他の仲間は全員寝ていた。
あの日、あいつがなかなか船に帰ってこなくても、どうせ迷子だろ、ほうっておけば帰って来るだろってみんな心得たもんで誰も心配してもいなかった。
そうだな、そのへんの草むらとかで寝てんじゃねえか、とおれは言った。
「いくらゾロでも」
と皆は笑った。
「自力で宿くらい見つけるでしょう、この島は秋で肌寒いし」
みんな適当に肩をすくめていた。
そうだな、寒いからそのへんに潜り込んでいるかな、暖炉のあるレストランや酒場、もしかしたら他人の家の馬小屋や、干した藁の上で寝るかな、馬車が止めっぱなしになってたらその幌の下で寝るかも。ああでもやっぱり、草むらかも。
おれは色々話したが、みんなは聞き流してあんまり返事をしなかった。
どこで寝ても、寝ないで歩いてても、たいしたことじゃないと思ってたんだろう。実際、たいしたことじゃない、あいつは男だし、体力は人間のレベルを超えている。病気になるとことか、想像もつかねえし。
けどおれは何故か、あいつがどこで寝るのかにこだわって、みんなのために酒をついだり、つまみをつくったりしながら、あいつがどんな場所で寝るのかについての冗談を何度も繰り返し話した。
みんなが寝たあとになってゾロが船に戻ってきたとき、まっさきにあいつの身体をあちこち見たのは、どこで眠っていたのか、と気になったからだ。
「ずっと歩いてたのか、それともどこかで昼寝でもしてたのかよ」
冗談めかして言いながら、白いシャツのあちこちをまさぐって、おれは確かめた。
あいつの頭には枯葉がついてて、背中には草の種みたいなものがたくさんついてた。
「そのへんの草むらで」
とあいつは言った。
「なんだよ、ほんとに草むらで寝てたのかよ」
おれは変な気がして笑いそうな、笑えないような、複雑な気分になった。
「昼寝しようと思って寝そべったら、そのまま夜になってた」
「なんだそれ」
肩や、脇腹をまさぐると、いくつもトゲのついた草の実がへばりついていた。オナモミじゃん、とおれが言うと、へえ、久しぶりに見た、と、とぼけたことを言う。
でっけえ図体して、草むらで寝て、オナモミくっつけて、迷子になって帰ってきたの、おまえ、とおれが言うと、
「うん」
とあいつがうなづいた。「うん」と言ったあと、笑った。
ガキみてえで、突き放していいか、そうしないほうがいいか、複雑だった。
明け方だったけど、まだ暗くて、星は降ってきそうだった。
星空は降って、落ちてきそうだった。
オナモミだらけのあいつと、甲板の芝生の上で寝そべった。
キスした。
人生のたいていはあいつと喧嘩してる、けどあのとき本当にたまたま、なんか、まぐれで、キスした。
だからあれだ……いつもしてたわけじゃねえんだよ。
いつも、してる、わけじゃないよ。
あのう、さっきのキッチンのもね、たまたまだから。本当はおれら、喧嘩ばっかりだから。



朝に咲いた白い花も、金ピカの太陽にあたって、しぼんで、枯れる。
同じように、たいてい喧嘩して、嫌いだって思って、朝咲いた花なんか、どんなに大事に胸に抱いても、まだ見飽きる前に、枯れて死ぬ。




なんか急に目が冴えちゃったので起きて書きました。よし寝直す…