夏のはなし






急斜面を蔦のように這う道の先に、そのホテルはあった。名称はホテルとなっているが、規模からしてペンションと言った方が良いかも知れない。一軒家風であり、部屋数は十にも満たない。黒い屋根に、装飾的な格子模様のある白い壁。重たいドアに鎖で吊るされたランプ。まるでバイキングの建てた教会のように重厚な建物だったが、その管理をしている宿主は、シャツにハーフパンツだけの、いたって簡単な服装をした若者一人きりである。小さな宿であり宿泊客も少ないので、今のところ繁忙期に近所のおばちゃんに手伝いを頼む他は、一人で充分事足りた。
宿主はまだ二十五歳で大変に体力が有り余っている。
「エース」と呼ばれて、宿主は振り向いた。玄関口ならいざ知らず、裏手の炊事場にまで回ってくる人間は多くはない。
「なんだよ」
暑いなか、大きなガス焜炉で湯を沸かしていたエースは、迷惑そうに振り向いた。
「なんだい、不機嫌に人を向かえやがって。おれは言われたものを持って来ただけだよい」
「ああマルコ」
手ぬぐいで汗を拭ってから、弁明する。
「暑くて機嫌が悪いんだよ、気にするなそのくらい。お、見事なとうもろこしだな、持って来てくれて有難う」
「うちの畑でとれたやつだ、最高のもんに決まってる」
「この頭のてっぺんからもさもさ黄色いのが出てるとことか、おまえにそっくりじゃねえか」
「それが挨拶かい」
「気にするなって、そのくらい」
エースは笑って野菜の入ったダンボールを受け取る。今日から客が来るのだ。食事の支度が忙しい。
午後三時、チェックインの時間ぴったりにその客は訪れた。
「今日からしばらくコイツを頼む」
鼻をほじりながら、爺さんが言う。爺さんと言ってもか弱い印象はなく、もしかするとエースより腕っ節が強い。
「ジジイ、人の迷惑考えずにガキ預けやがって」
エースがひらひらと手を振ると、爺さんは気にも留めずに、「ワシだって遊びに行きたいんじゃ」と言い切った。町内会の仲間とハワイに行くそうだ。更にハワイのあと、北海道に行くそうだ。その間、孫を頼むと預けられた。
長いつきあいであり、世話になった相手なので断り辛い。
未成年者の単独宿泊は本来お断りだが、今回ばかりは特例として、この「ホテルかちかち山」で預かることになった。ホテルの名前をつけたのは、この頑固でひょうきんな爺さんだ。何年か前のある日突然やって来て、名前の無かったこの宿に、勝手に看板を作った。
爺さんは人に孫を預けるくせに、
「ちゃんと宿題させろよ、おまえんとこなら安心だと思って預けるんだからな」
と、しつこく念を押してから出かけた。ガキの勉強のことまで知るものか。
「よろしく」
と、まっすぐな眉毛をきりりと上げて見上げてくる少年を、エースはひとまず部屋へ案内した。まだ手足が細い。高校一年生と聞いているが、見た感じは中学生みたいだ。丁度十歳程度年下のはずだが、もっとずっと、離れているような気がした。
「かっこいい部屋だな」
「そうか?気に入ったなら、良かった」
適当に言ってやると、うん、気に入った、と素直に頷く。
「すげえかっこいい、だってあれ、そげキングじゃねえか」
「家族向けの部屋なんだ」
真剣な顔で壁紙を指差しているので、思わずエースは笑った。
「布団も、カーテンもそろえてある。ほら、クローゼットのなかには人形があるんだ」
「すっげえ!でかい人形だな」
「だろ、おれがゲーセンの射撃であてた景品だ」
「すっげえ!おまえすっげえな!」
あまりのはしゃぎように、子供を預かるなんて面倒くさい、と思っていた気持ちが解けていく。
「おまえじゃねえよ、エースだ。エースおにいちゃんって呼べよ」
「分かった、エースだな」
「呼び捨てかよ」
「おれはルフィ、よろしく」
少年は日焼けした手を差し出した。見るからに宿題をしなさそうな、元気いっぱいの手のひらだった。音がするほど力を込めて、その手に手をぶつけて握手する。
「あんまり、他の奴に言いふらすなよ。販売元には秘密でやってるファミリープランだからな」
「分かった、秘密な」
ルフィは真剣な顔だ。
「ああ、秘密だ。海賊版みたいなもんだからな」
「海賊!」
憧れるような目で、ルフィはエースを見る。
「いや、海賊版。無許可だから」
「分かった、誰にも言わない」
分かっているのか分かっていないのか分からないが、約束してくれた。
それから、擦り寄るようにエースに身を寄せた。
「本当はおれ」
ルフィは声をひそめ、内緒話をするように打ち明けた。
「ここには、カブトムシをとりに来たんだ」
それが、どんな秘密だよ。
エースは何度か瞬きして、素直な黒髪の頭のてっぺんを見下ろす。うんと身体が近寄ると、子供の汗の匂いがした。やっぱりまだ、ガキなのだ。
「ジジイには内緒な」と言ってから、ルフィはししし、と笑った。


ルフィは騒がしい。
エースが他の宿泊客のために布団を干していると、まとわりついて手伝うよ、と言い出す。じゃあ頼むと任せると、五分後には飽きて別のことをしている。布団は半分だけ干されて、あとは通用口に置かれたままだ。
「なあ、あれなんだ」
エースが台所で食器を洗っていると、ルフィが駆けて来て、しきりに外の物置を指差す。
「あれって、どれだよ」
「倉庫のなかの、風船」
「風船だって分かってるんじゃねえか」
エプロンで手を拭いて、エースは顔を上げる。
「あれはな、五月の連休に親子連れにプレゼントしていた残りだな。なんだおまえ、風船好きなのか」
「そりゃ好きだろ!」
当然のことのようにルフィは訴える。誰だって風船が好きに決まっているという確信が、その表情から窺える。
エースは風船を好きだと思ったことはなかったが、それこそ小さな子供だった頃を思い出しても、格別好きだと思っていなかったはずだが、ルフィのその顔を見ていると、風船というのはとても素晴らしく、誰もに愛される魅力のあるおもちゃだという思いがしてきた。
「そうか」
炊事場から外に出て、うん、と伸びをした。
ルフィは期待に満ちた目でエースを見る。
「よし、風船で遊ぶか」
「本当か」
嬉しそうな声だ。良いことをしたな、という気分に人をさせるに充分だ。
「どうせ余ってるし、来年は新しいのを買えばいいんだから、いいんだ。ガスボンベもあるから、好きなだけ膨らませたらいいよ」
エースは物置から風船セット一式を取り出した。最初のうちだけつきあって、風船にガスを入れるのを手伝う。ルフィがコツを覚えたら、あとは本人の気が済むようにさせて、エースは炊事場にまた戻った。窓の外に、いくつもの風船が並べられているのが見える。崖のきわに立てられた策に結び付けているのだ。いくつも、いくつも。
青、赤、黄色、ピンク。
単純な色のものばかりだ。風船は子供にあげるものなのだから、単純な色が相応しい。
いくつもの風船が風にそよぎ、やがてそれらが一つにまとめられ、窓の外を移動していくのが見えた。
いや、ちょっと待てよ、とエースは顎に手をあてる。
今、窓の向こうを移動していった風船の数は、尋常ではなかった。一体いくつ膨らませたんだ。
炊事場の出入り口から外に出て様子を見ると、丁度崖の上から、急斜面の芝生に向かって、ルフィがジャンプするところだった。
「馬鹿か!」
エースは走った。
ルフィはたくさんの風船を抱え、一瞬、空を飛んだ。
そして、落下した。
芝生の上を物凄い勢いで滑り落ち、随分下で止まった。
エースは柵の上から身を乗り出して下を覗く。
「大丈夫か、ルフィ」
呼ぶ声に、ルフィはよろよろと手を振った。
「いってえ、肘すりむいた!」
大きな声で応える。エースはほっと息を緩める。
「馬鹿かおまえは」
思わず怒鳴る。
「まさか、風船で空が飛べると思ったんじゃないだろうな!」
「思った」
遠くから、ルフィが大声で返事した。
空に、ルフィの手から離れた風船が、いくつもいくつも、舞い上がっていった。
とんでもないガキを預かったものだ。





ルフィが来てから一週間ほどが経った。他の宿泊客もちらほらあったが、大体の時間、ルフィはホテルのまわりを探検することで過ごしていたので、エースは自分の仕事に集中していた。勿論、宿題は見てやっていない。
ところがある晩、問題がおこった。ルフィがその日宿泊していた、よその家族の子供を殴ったというのだ。身内でもないが、ルフィは自分が預かった子供だ。エースはすぐにルフィを連れて謝りに行った。子供の両親は、いいんです、うちの子が悪いんです、と言ってくれたので事なきを得たが、エースは自分の部屋にルフィの耳を引っ張って連れて行き、説明しろ、と厳しく言った。
「どうして、よそんちの子を叩いたりしたんだ、それもまだ、小学校にもあがらないような子供だぞ」
「だってエース」
ルフィは唇を尖らせた。
「あいつ、自分の兄ちゃんのこと、嫌いだ、兄ちゃんなんて要らないって駄々こねてたんだぞ」
「……は?」
エースは驚いて目を丸くする。そんな理由かよ。
そう言えば確かに、宿泊客の子供は幼い兄弟で、ここに来るまでの車のなかで喧嘩でもしたのか、弟のほうはチェックインの間もずっと不貞腐れて母親に宥められていたが。
「よそんちの子の兄弟喧嘩で、おまえが怒るのかよ」
「だってエース」
ルフィはきりりと眉毛を上げる。
「自分の兄ちゃんだぞ」
要らないわけ、あるか、とぽつりと言う。
エースは言葉に詰まった。そう言われると、叱り辛い。
「なあ、それよりさ、ここ、エースの部屋なんだな」
ルフィは悪びれずに、室内を見渡した。
なんの装飾もない部屋だ。ルフィを泊めた部屋のように、子供の喜ぶ仕掛けは何一つない。ベッドとテレビ、箪笥、床の上に雑誌が散らばっている。カーテンだけ他の部屋と統一して、クリーム色の織目模様のある布地だった。
「おれ、エースの部屋に初めて入った……」
目を伏せ、それから見上げてエースの目を捉える。
まっすぐな黒い目だ。どうして今までこの部屋に入れてやらなかったんだろう、とエースは不思議に思った。
ルフィはエースの胸に額をくっつけて、エースのシャツで顔を擦った。
「おれ、エースが好きだな」
溜め息のような言い方に、エースは驚いてルフィを突き放した。
「馬鹿か」
何故か耳朶が熱くなる。
なんで、とルフィが首を傾げる。じわっと頬も熱くなる。照れくさいのだ、とエースは思った。ルフィが素直過ぎて、照れくさいだけだ。まだこんな、ほんの子供なのに。





「カブトムシをとりに行こう」
エースはルフィを誘った。
「夕べ、裏の木に蜜を塗っておいたんだ、きっとたくさん来てるぞ」
朝早く起こされて始めは眠たそうにしていたルフィも、エースの言葉に目を輝かせる。
「本当に?オレすげえ嬉しいよ」
パジャマのままで飛び出そうとする。ちゃんと着替えろよ、とシャツとズボンを放ってやる。ビーチサンダルを履くと、すぐに準備が済む。いつでも被っている麦わら帽子を被り、ルフィは外へ走り出す。ホテルの裏手を走る道を暫く歩くと、深い森に辿り着く。目指すクヌギの木は、森に入って幾らも歩かない場所にある。
簡単に虫がとれる仕掛けをしても良かったが、それではルフィは満足しないだろうと分かっていた。
蜜をたっぷりと塗って、ただおびき寄せた。
オスがいればいいな、とエースは思った。カブトムシと言えば、オスがいいだろう。そのほうがルフィは喜ぶだろう。
この子を喜ばせたい、という気持ちで不安にさえなる。
くぬぎの梢が張り出すのが他の木々の間から見えた時には、心臓が鳴った。まるで小さな、子供の頃に戻ったようだった。息を潜めて近寄ると、黒っぽい木肌の上に、艶々光る、二匹のカブトムシが居た。両方ともオスだった。
朝陽はまだ弱い。うっすらと霧が出て、森の奥からは鳥の声がする。
ルフィは、わあ、と感嘆する。エースは嬉しくて、声も出なかった。神様はいるな、と考えた。二匹のカブトムシを今日このくぬぎに呼び寄せてくれただけでも、よく祈って御礼をしたい。何の神だかは分からないが。
宝物のように、カブトムシを一匹だけ捕まえて、ルフィは虫かごに入れた。
二匹いると喧嘩するかも知れないから、と真面目に言う。
「しないさ」
エースは言った。
「したとしても、本当は仲良しだから喧嘩するんじゃねえか」
「そうかな」
ルフィは少し考えたが、矢張り、一匹だけを大事に連れて帰ることに決めたようだ。
「もう一匹はエースの分だ」と言ってくれたのだが、エースが自分は要らないと言ったら、それなら置いていくよ、とまるで未練もなく、引き返した。
小さな虫の、黒い、丸い背中がこんなに可愛く見えたことがあるだろうか。
風船も、カブトムシも、とりたてて好きだと思ったことはなかった。これからは好きになるだろう。





夜になり、ホテルの玄関前で花火をした。
玄関前は車寄せがあって、少し広くなっている。山の下へ向かって蛇行する道が、月明かりで白く光る。
ルフィにぶたれた子供にルフィは謝って、全員で夏の夜を楽しんだ。
ねずみ花火ばかりやりたがるので、ルフィはエースにどやされた。好きなもんばっかりやるんじゃねえ、と叱られて、
「エース、食い物じゃねえんだから」
とルフィが珍しく大人びた言い方をすると、親子も笑った。
親子連れが引き上げて、二人きりで花火の後片付けをした。煙の匂いが、なんだか寂しい。
夏が終わらなければいいのに、とバケツの水を捨てながら思った。もうすぐ、ジジイが旅行から帰ってくる。
「エース」
ルフィはふざける素振りで、エースの身体にぶつかる。力は強いが、細い手足だ。まだ子供なのだ。高校一年ということは、十五か、十六か。
二十五歳のエースには、まっすぐな黒い目が、なんだか気まずい。
昼間のように、シャツに顔を擦り寄せてきたルフィの肩を掴み、エースは自分より背丈の低い、その頭のてっぺんに唇をつけた。ルフィが「何だよ」と身動ぎするのを押さえつけて、もう一度、髪のなかに鼻先を埋める。
背中が薄いな、と撫でながら思った。
腕を擦り、促して上向かせると、子供のような顔をしているくせに、どこか色気のある仕草で首を振った。
「エース、好きだ」
ルフィは何も隠さない。すぐにそんなことを言う。
エースはルフィの頭を撫でて、
「馬鹿だな、おまえ」
と言った。
「おれら、本当は血の繋がった兄弟だって言ったら、どうするおまえ」
客室の窓は全て玄関側を向いている。少しだけ、もしも誰かに見られたら、と思う気持ちがあったが、小さな、押し殺した声も、暗闇のなかの姿も、見えないだろう、あの明るい窓の向こうからは、と思いなおす。
「ジジイがおれにおまえを預けたのは、おれらが兄弟だからだ」
「それ本当か」
ルフィはエースと向き合う。
エースは返事しない。ずっと返事しなかった。
ルフィはよく考えてから、言った。
「もし本当に、エースがおれの兄ちゃんだったら、嬉しい」
素直な声に、エースは目を瞑って深呼吸した。
「もし本当じゃなかったら」
重ねてエースは尋ねた。
「兄ちゃんじゃなかったら?それでも勿論、エースが好きだし、一緒に居られて嬉しい」
何も変わらねえよ、なあ、すげえ好きだ、とルフィはエースの手を握った。
エースはルフィの頭を撫でて、仕方ねえな、と笑った。
「残念だな、初恋だったかな」
肩を竦めてそう言うと、ルフィは違うぞ、と慌てて答えた。
自分の初恋は幼稚園の時で、相手はよく世話をしてくれた保母さんだったらしい。ルフィはそれを祖父から聞いていた。エースのことは大好きだが、その保母さんのことを無かったことにするのは、よく世話を焼いてもらっていたのに、それでは悪い気がした。
「そうじゃねえよ」
エースは取り合わなかった。軽く手を振り、ルフィの肩を押して、少しだけ離れた。
「おれのさ」
山の夜は涼しくて、虫の声で耳が痛むくらいだった。
エースは身を翻しバケツを物置に仕舞いに行った。ルフィは振り向いてその背中を眺めた。思っていたより頼りない。
「なあ」
ルフィはエースに歩み寄り、背中を指でつついた。
「本当に、兄ちゃんなのか」
「兄ちゃんだったら、嬉しいか」
エースはまた同じことを尋ねる。
「うん」
正直に答えた。
エースは少し怒ったようだった。返事もしないで、部屋へ戻った。
ルフィはそのあとを追った。





二十五歳のエースには、十五か十六の子供の考えることなど、手に負えなかった。
眩しい、というのはこういう感じか、と思いながら目を細めて、まっすぐな髪や、ぴんと伸びた眉毛を見る。
はやく大人になって、来年も、再来年も、遊びに来たらいい。
カブトムシをつかまえに来たんだ、と言ったそのくちで、エースに会いに来たんだと言ってくれたら、その時、本当のことをなんでも、教えてやるだろう。





20090813発行 0930up
夏コミ無料配布本。