真水の泡





悪習の始まった最初の日を、ゾロはまだ覚えている。
あれは仲間になったばかりのコックと昼間散々に喧嘩をした日の晩だった。
不寝番だったゾロは見張り台に上り水平線をやけに真面目に凝視していた。新月だったのか曇っていたのか、とにかく暗い夜だった。僅か船のラウンジから漏れる明かりが波の上を光らせていた。そればかりであとは物音も無い。ぎっ、ぎっ、と規則正しく船の軋む音と船体を打つ波の深みのある音だけが聞こえていた。
こんな夜には魚も寝ているのだろうか。
生憎ゾロは夜中に海の中を見たことがないので知らない。
暫くそうして影のように暗く遠く見えもしない水平線を監視していたら下方からロープを揺らしてコックが上ってきた。夜闇に慣れた目には金糸の髪やら白いシャツやらの輪郭が浮き立つように見えた。コックが手にした籠の中では金属製品が擦れあいカチカチと控えめに鳴っていた。
「よお」
柵の向こうから顔を出したコックは籠の中へ手を入れて冷やりとした陶器をゾロの手に握らせた。
これは、カップか。
何の装飾も無い白いカップはその丸い縁をやはり浮き立つように視界に辿らせ、カチカチと鳴る金属製品の正体はポットとそのフタであることが暖かな湯気がカップへ注がれたことで理解された。
「寒ィ」
と言いながらコックはゾロの被った毛布の中でもぐりこんで来た。
ゾロはカップの縁に唇をつけて、ああ、これはコーヒーか、と思った。どうせなら酒がいい。
「酒じゃねえのかよ、とか思ったんだろ、大方」
まるでさとりの化け物みたいにサンジが、ニィ、と笑った。
「うっせ」
ゾロはサンジのアタマを小突いた。
それからお互い一つの毛布に体を潜りこませたまま多少の小突き合いを続けたが、それが昼間のような本気の喧嘩にまで発展せずに、じゃれあうような親密さがあったことが、多分、いけなかった。
いつの間にか両脇を押さえられ、くすぐられ、シャツの襟をひらき、素肌をいたずらのように探り。
そのうちに、勝負を挑むようにあやうげなオトナの動きで相手をまさぐっていた。
まるきり冗談のようだった。
それ以来サンジとゾロは半ば習慣のように時折二人きりになる時間を見つけては性的な接触を持つことを続けている。
船の上では単調な生活が続くことも多い。そんな循環する生活にその習慣は滑り込んだ。
悪習だ、とゾロは思っている。
それ以外の何であろう。



おかしい、と思い始めたのは割とすぐのことだった。
昼間には相変わらず悪態をついてくるコックが夜になると大人しくなって、翌日の食事の仕込みをしながらゾロへ酒を出し肴を出し、仕込みの合間に隣りに腰掛けて来たりするようになった。昼間には目が合えば絡んで来るところが、二人きりのそんな時間には、目が合えば困ったように笑う。柔らかな色づく横顔。こんなツラもすんのか、とゾロは思った。彼のそんな表情は何か見てはいけないもののようにも思えた。
やがて日に日にサンジからゾロへの誘いの言葉は乱雑でありながらも甘い気配を含むようになっていった。
決定的にこれはまずい、と思った日のこともゾロははっきり覚えている。
ことの終わった後、慣れてきたじゃねえか、と一回の挿入で二度も出して幾分ぐったりした風情のサンジをからかったら拗ねたふうに
「もう結構日が経つからな」
と答えた。
「オレとオマエがこういうふうになってから」
面映いとばかりに目を細めてサンジはへへへと笑った。
(マジかよ……)
どうやら大問題が発生したらしいと察知して、ゾロは眉間のシワをますます深くした。
幸せそうに仰臥するサンジは、今にも
「オレら恋人じゃん」
とか真顔で言い出しそうに見えた。
違う、と思ったが、違うと答える勇気はどこにもなかった。それ以上サンジがまずい話を続けないように、ゾロはすかさず寝たふりをしてやり過ごした。
同じ毛布に潜り込んだサンジの体温が伝わって身動ぎするにも不自由を感じるほどその晩は寝苦しかった。



そもそも奴だって悪いのだ。
ゾロはそう思った。
当初から彼はまるきりの無抵抗で性に関するモラルが緩そうな印象を与えたし、発端から言って自分達の関係は冗談や喧嘩の延長線上のようなものではなかったか。
最初の晩、あの見張り台の上で彼はおかしくてたまらないというふうにゾロのズボンに手を突っ込んできた。あんなの、悪ふざけだ。仕返しにゾロもサンジの股間を握ってやった。サンジは驚いてへんたい、と叫んだ。そりゃてめえだろ、と言いながらゾロはキスした。
「なんだそりゃ」
サンジは笑い出す。
それから唇を突き出して、んー、と言いながらゾロの額に唇を押し当てた。
とにかく暗い晩で何も見えなかった。ただ彼の髪が頬が首筋がシャツの襟が袖がそこから伸びた手が。
ぼんやりとした輪郭を僅かな光を受けて浮かび上がらせていた。
ゾロは今度は随分乱暴にサンジの唇へ噛み付いた。
サンジはやはり笑っていた。
れろれろと互いに悪ノリして舌を思い切り絡めあった。品性の欠片もないようなキスをしながら吹き出して笑って握りしめた股間のモノを揉んでやったら
「うぁ」
と情けない声を聞かされた。
嫌がらせに身体中をまさぐりあい、そのうちにサンジはとうとう無言になってしまった。
中途半端に脱がせた腿のあたりへゾロは自分の固くなった性器を押し付けた。
「おい……」
声を掛けたがサンジは溜め息をついただけだった。
「やめんな、ちゃんとイかせろよ、ほら」
ぼんやりと輪郭だけが見える白い手にモノを握らせると無言のまま彼は何度も頷いた。
「……ゾロ」
低い声で名前を呼ばれたのを覚えている。
絶対自分より先にイかせて悔しがらせてやろうとゾロが努力しても、サンジはなかなかイかなかった。歯を食いしばって我慢していた。何度目かに口付けた時にそのことに気付いた。ゾロはそれをサンジが負けず嫌いであるためだと解釈していた。どっちが先にイくかの勝負のように思って全てを冗談に片付けてしまったのだ。



(やべえな……)
ヤバイヤバイと思いながらも今日もまたサンジの誘いにのってしまった。
触りっこだけだった最初のうちと違い、今は本格的なセックスをする仲だ。それだってサンジのほうから持ちかけてきたことだった。
「なあ入れねえの」
とまるで挿入するのが当たり前のことであるかのようにサンジは尋ねてきた。
「いいぜ、オレが女役のほうで」
僅か仰け反らせた喉はゾロが食いついてくることを当然の成り行きとして待っていた。
その日から、船の上では夜半の格納庫やキッチンで、陸の上では宿屋の一室で、ゾロは何度もサンジを抱いた。悪習は今や日常に違和感無く組み込まれていて切り離すには相応のエネルギーを必要とするだろう。
まるで恋愛関係の終わりと同じように。
気楽な冗談と思って始めたことであったのにその代価の高いことに驚かされる。



夜更けて、メリー号の船内で目を覚ましているのは不寝番の船医と不規則な生活の剣士、明日の仕込みに余念の無いコックだけになった。船医はマストの上の見張り台で水平線を果てしなく真剣に監視しているだろう。今日は少し寒いから、と先刻気の回るコックが暖かいコーヒーを差し入れに行った。
他愛も無いことで昼間散々に言い争った料理人は、今は大人しくシンクに向かって最後の洗い物を片付けている。
その背中はいじらしいほどしおらしく、有無を言わせず強引に要求する。
抱け、と。
こんなのナシだ、もうてめえとはヤらねえ、と言ったとしたらどうなるだろう。ゾロは考える。しかしそんなことはとても言えないのでゾロは今夜もコックをどこか適当な場所へ誘う他無いのだ。



夜闇の中で、ぼんやりと浮かぶ細い体の輪郭を辿る。
サンジは少しだけ声を出す。
言おうか、とゾロは思う。
体の関係だけのつもりだった、とサンジにはっきり言ったほうが良いだろうかと。
けれど、何故言う必要があるだろう。
サンジが体だけのつもりだろうと気持ちのこもったセックスを求めているのだろうと、ヤること自体に変化があるわけではない。ただゾロはサンジの身体を探り、気持ち良くしてやり自分も溜まったものを出す。キスだってサンジがしたいならするしこだわりはない。白い滑らかな背中を抱いて眠ることも、ねだられて名前を呼ぶこともイヤではない。今のままで何も不都合などない。
狭い船の中だ。
ゾロがサンジに恋愛感情を抱いていようがいるまいがこれからもサンジとは毎日顔を合わせるし話もするだろう。一緒に笑い、泣き、喧嘩もするだろう。
好きではないと言っても、好きではないと言わなくても、好きだと言っても、結果は同じことなのだ。何も変わらない。


好きだと言っても、同じなのだ。


悪習は日常に組み込まれ、嫌気の差すほどゾロの手つきはサンジの身体を辿ることに慣れてゆく。彼のために何をしたら良いのかが習慣として染み付いている。手先だけではなく、胸の奥まで染みている。
キスをしながら下の方では指を深く差し入れ、ゾロはサンジの顔を見る。間近すぎる表情は暗がりの中で然程も目視出来ないというのに、彼がまつげを震わせ薄目を開けているのが分かる。舌を口のなかに入れて口蓋や上の歯をなぞると何か呟くように喉の奥の柔らかい部分が動いた。声にならない。けれど何と言ったのか分かる。きっと、名前を呼んだのだ。
ゾロ、とサンジが呼ぶ。
喉の奥で転がすように。
たまらない気分になってゾロは困惑し、そんなつもりではなかったと言いそうになる。だが一旦唇を離し、唾液を飲んでから口を開くと、考えたこととは無関係にただ「サンジ」と名前を呼び、また唇を重ね、言う必要がないことを何故、今、言おうと思ったのかと考える。もしも正直に話したら。これは身体だけの関係だとサンジに話したら、結果は変わらないかも知れない、けれどサンジの心の中は変わってしまうだろう。
毎日顔を合わせ、笑い、泣き、喧嘩をし、時には悪ふざけのようにセックスをして、同じ船で生きていっても、夜闇の中でいつまでも彼の頼りない輪郭を目にするのだとしても。
二人きりの夜、目が合う時に困ったように笑ったりはしなくなるのだろう。
それを思うとゾロはサンジの誤解をとくことがひどく億劫になる。
そして好きではない、と言おうとした口で、好きだ、とウソをついてしまいそうになる。





end


05/04/05

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蒸留水って泡が消えないんだよ、と教わったので、ほんとなのかな、と思いつつ。