2014 ゾロ誕
彼の秘密



山奥の、湖のほとりの小さな町に、ある日唐突によそものが棲みついた。
風光明媚であるほかにはこれと言った産業もない町なので、縁もゆかりもない人間が移住してくることは稀だ。町の人々は取り立てて騒ぐことも、彼らに関わることもせず、そっと距離をとっていたが、内心は興味津々で「なぜこの町に引っ越してきたのか」「どのような目的があるのか」「悪い人間なのではないか」「町の秩序を乱そうとしているのではないか」など数多くの疑問を彼らに対して抱いていた。
よそものが棲みついた家は、昼間ぴったりとカーテンを閉ざしている。
静まり返り、ろくに他人と関わろうともしない。
どうやら住んでいるのは長身の男のようであった。夕方、暗くなると彼は家を出て、ゆったりと湖の周りを散歩してから夜まで営業している食料品店でいくらかの買い物をする。
青ざめた、端正な顔立ちをしており、目が合えば微笑む。
あやしい、と町の人々はしきりに噂しあった。
何かあやしいし、危険そうである。信用できない。
身を隠すようにこんな田舎に転居してきたこともあやしいし、人目をはばかるように夜に出歩くこともあやしい。見慣れない金髪もあやしいし、青いガラス玉のような目をしていることもあやしい。
吸血鬼ではないか、と町の人々は噂した。
つい最近、どこかそう遠くない町に吸血鬼が出没して、若い娘を襲ったらしい。
昨今は、国中がその話題でもちきりである。
具体的にどことは分からないが、とにかくそう遠くない町、この町と同じように田舎で、ひっそりと静かで、風光明媚である以外にはこれと言った取り柄もないような町、そういう町に吸血鬼が出たらしいのだ、この町の住民にとってもそれは他人事ではない。
人々は転居してきたばかりのよそものに警戒心を持つようになった。
食料品店の店主は、金髪のよそものが牛乳ばかり買っていることを井戸端会議で報告した。雑貨屋の店主は、彼が転居してきたその日にペアのカップを買ったことを報告した。女たちは彼が若い娘をじっくりと観察していたことを不信感いっぱいの様子で話した。何人かのあけすけな主婦は、彼がハンサムであることをつぶさに語った。だけどきもちわるいわ、と若い娘は言った。
なにかあやしいし、きもちがわるい。
彼は一見すると紳士風であるが、ふと目を離した隙にこちらを見てあやしくぐねぐねしていたりする……目をハート型にしていたりする……
不気味だ。
そういった不気味な点もすべて、彼が吸血鬼だからなのではないかと人々は考えた。
あの家から目を離さないようにしよう、少なくとも彼の素性が知れるまでは。
人々はそのように相談しあった。
ところが、ある時期を境に、町の人々は彼に対して警戒することをやめた。
カーテンをかたく閉ざした家から、十かそこらの年頃の少年かちょろちょろ出入りするようになったからだ。
少年は芝生のような髪の色をしており、目つきは悪く、ぶっきらぼう。だが化け物や幽霊には全く見えない健康的な雰囲気を持っていた。おまけによく道に迷って、そこいらの家に「湖はどっちだ」と訊きに来る。
「湖?湖なら向こうにあるが、どうしてそんなことを訊くんだね、まさかこんな狭い町で迷子か」
不思議に思いながらそう尋ねると、彼は決まって
「迷子じゃねえ」
と答えた。
「迷子じゃねえが、湖の方角がちょっと分からなくなった、出かけてる間に道が変わったのかも」
「道が変わるわけねえだろ、湖って言っても広いが、湖のどっち側に出たいんだ」
「うちのある方」
「うち?おまえの家のことか」
「そうだ」
「おまえ、自分の家が分からなくなったのか、こんな狭い町で……迷子か」
あきれ果てて肩を竦めると、少年は面白くもおかしくも、なんともなさそうな普通の調子で答える。
「迷子じゃねえ」
自分が迷子ではないと確信している者の答え方をする。
自信満々の迷子は、次第に町の人々の緊張をほぐしていった。
こんな腕白そうな子供がいる化け物など、あり得ない。だとすれば、あの家に住む金髪の男は、不気味なだけで普通の人間なのだ。
「坊主、親父はどうして昼間は家に閉じこもりきりなんだ」
彼がこの町に越してきてから、一月近くものあいだ疑問に思っていたことを町の人は尋ねた。本人にはとても恐ろしくて尋ねられないが、子供になら堂々と訊ける。
「朝寝坊だからだ」
少年ははきはきと答えた。
「どうしてこんな田舎町に引っ越してきたんだ」
これも根本的な、ずっと疑問に思われてきたことだった。
少年は鬱陶しそうな顔で大人たちを見上げると、溜息をついてこう説明した。
「おんなにふられたからだ」
女にふられた。それでこの少年と二人きりでひっそり暮らしている理由が良く分かった。
彼は妻に逃げられて、子供を押し付けられ、傷心のままにこの田舎町に転居してきた。ひっそり暮らしたくてカーテンを閉め切っている。元々生活態度のだらしない男なのかも知れない。朝寝坊で、夜に出歩いて、妻に愛想をつかされた。
町の娘たちをやたらと眺めていたのは、彼が娘を狙う吸血鬼だからではなく、単に、さびしかったせいだ。それとももしかしたら、女好きなのかも知れない。そこがまた、妻に愛想をつかされる原因の一部になったのかも。
そうだと思えば、気の毒なだけだった。
彼が牛乳ばかり買っていたのは、この元気いっぱいの子供に飲ませてやるためか。
あっという間に人々は、彼に対する警戒心を失ってしまった。
娘たちは面白がって、芝生頭の少年に食べ物をやったり、手伝いを頼んだりするようになった。夜に金髪の男が買い物に出ると、食料品店の親父は
「気の毒になあ、奥さんと連絡はとれたのかい」
と質問するようになった。
男は目をぱちぱちさせて、
「おれ、あいつの親父に見えるの?」
と、親父に訊いた。
思いがけない質問に店主は一瞬言葉に詰まったが、大きく頷いて見せた。
「ああ、ちゃんと親子に見えてるよ、心配するな」
背中を叩いて金髪を勇気づけ、店から送り出したあと、店主はすぐさま妻を呼んでこう話した。
「あの少年は、ひょっとしたらあの男の息子じゃないのかも知れない、親子扱いしたら本人は不思議そうにしていた……奥さんの浮気相手の子なのかも知れない」
店主の妻は大変なおしゃべりであったため、その話は尾ひれをつけて町中に広まった。ますます金髪に対する人々の同情心は煽られた。
移住してきて二月も経つ頃には、男はすっかり町の一員になっていた。殆ど他の誰かと話をすることもなく。
夕暮れを過ぎてから、少年の手を引いてぶらぶらと町中を歩き、なんの不自由もなく買い物を済ませ、静かな夜の散歩を楽しみながら、
「おまえ、すげえな」
と、金髪は芝生頭の少年に、感心しきった様子で言った。
「誰もおれを吸血鬼だと思ってねえ。夜しか出歩かねえのに」
少年は、当たりまえだというふうに頷いて、胸を張った。
「おれが信頼されている証拠だな。おまえは疑われてしかいねえ」
かわいくねえガキだな、と金髪は舌打ちしたが、芝生頭のまだ小さな手のひらをぎゅっと握って、のんびりと湖畔を散歩した。
「帰ったら、おにぎり作ってやるからな」
金髪はおだやかそうに芝生頭に話す。
面倒がりもせず、彼はよく色々な料理を作ってくれるが、彼自身は何ひとつ口にしないのだった。
「おまえな」
芝生頭は金髪を睨んだ。
青ざめた白い肌、目の色も薄い。手のひらは冷たくて、まるで死んでいるようだ。目を伏せると睫毛の影がくまのように彼の顔を暗くする。
「ろくに飯も食わずに、血ばっかり飲んでるから吸血鬼になんかなるんだ」
「なに言ってんだ」
迷惑そうに金髪は芝生頭を見下ろした。
「逆だろ、どうしておまえの発想はそういうふうになるんだ、逆向き過ぎる、迷子か」
少年は憮然として答えた。
「迷子じゃねえ」



町には一軒しか酒場がない。
暗めの照明が、屋内のあちこちに影を作り出していた。
金髪の青年が一人で酒を飲んでいたが、誰も彼に注意を払わなかった。
若い女がからかうように彼に話しかけた。
「奥さん帰ってきたの」
青年は困ったようにグラスをカウンターテーブルに置いて、顔をあげた。
「奥さんなんかいねえよ、あいつはおれの子じゃねえし」
「また……、そんなこと言って」
女は気遣いに満ちたまなざしを向けると、彼のすぐ隣の椅子に腰かけた。
「あの子が可愛そうよ、あんなにあなたを慕っているのに」
「あいつがおれを慕ってる?」
面倒そうな、もっと言えば迷惑そうな男の態度に、女は困惑し、心配を募らせた。
「あなた、そんな言い方したら、あの子に罪はないのに」
可愛そうよ、という言葉を、女は飲み込んだ。可愛そう、と言うなら目の前のこの青年も気の毒なのかも知れない、何しろ、浮気した奥さんの子供を押し付けられその上離婚されたという噂だ。噂と言うか、殆ど確定事項であるかのように町の人々は話すので、きっと本当にそうであるのだろう。皆がそう言っているから、そうに違いない。
彼には地に足着いた落ち着きや、貫禄がまるで備わっておらず、まだ子供がいるような年頃にはいまいち見えない。それももしかしたら、あの子の面倒を見てはいても、責任ある本当の自分の子と彼自身が考えていないことが、少なからず影響しているのかも知れない。
「ねえ……」
女は男の本心を知ろうと、ぐっと身体を近寄せた。
「あの子のこと、可愛く思わないの?」
憂いを帯びた目線はしっかりと男を見据え、摺り寄せた身体からは甘い、柑橘系の良い香りがした。
「いや、可愛いとか、可愛くないとか、別におれは」
「可愛がってないの?」
じっ……、と見つめる女の目の底は、男からすれば魅惑の海の底のようであった。オレンジ色の髪、そばかすの浮いた鼻先。
すごく素敵だ。
「可愛がってます!真剣に毎日可愛がっている」
男は女の手をとって、ぎゅっと握りしめた。
「本当?」
女はようやく笑った。
「優しいのね、あなたって」
見直したわ、と女は言った。
「優しい?」
男は聞き返した。それからすぐに「ま、まあね」と頬を指先で引っ掻きながら答えた。
「それで、今日はどうしたの」
女は男に親しみを感じたのか、細く、肌のなめらかな腕を男の肘のあたりに絡めてきた。
「どうしたって?」
「男の子よ、あなたの家にいる」
「あー、あいつね、うん、適当な奴だから、その辺ほっつき歩いてんじゃねえのか」
男の返事は、いかにも好い加減なものであり、女はそれを聞いて、呆れた。
「あなたって、好い加減なのね、酷いわ、子供を夜にほったらかしにするなんて。私、前からそう思っていたの、あなたはあの子をほったらかしにし過ぎよ」
むっと唇をまげてそっぽを向いてしまった女に、男は慌てた。どうにか取り繕おうとあれこれ言いつのる。
「待って、待って、違うんだ、今日はあいつの誕生日だからわざわざこうして街中までケーキを準備するために来たんだよォー、おれ、すごいかわいがってる、世話してるって、あいつの」
「それ、本当に?」
女は疑わしそうに男の顔を眺めた。
信頼を失いかけている。
今ここで対応を間違えると、この美女は自分のことを嫌いになってしまうだろう、と男は直感した。
「本当、本当。ほら、今日、いつもよりはやい時間に店に来てるだろ、あいつのケーキのために、こんなにはやい時間に来たんだ、ほら、見て、証拠のケーキ」
慌てて、男は酒場の冷蔵ケースから勝手に皿ごとのケーキを取り出した。
「おれが!作ったんだ!でも上に乗っけるチョコのプレートだけ材料がなかったからさあ、ここのマスターにお願いして、用意してもらって……そのお礼にここで一杯飲んでたらたまたま君が来たんだよホー、でもたまたまた来てくれた記念に、このケーキ、君にあげようかな」
「駄目よ、そんな大切なもの頂けないわ、馬鹿なひとね」
女は手を振って断った。
「あの子に持って行ってあげてよ、知らなかったわ、今日があの子のお誕生日だったなんて……でも、本当に?」
女のなかに芽生えた不信感は、そう簡単には拭えないものであるようだった。男は冷や汗を隠しながら、本当だよ、と力強く言った。
「本当だけど、でも、せめてお酒をあともう一杯どうかな、それにこんなに大きなケーキたべきれないし、半分だけでも……」
「駄目よ、せっかくこんなに綺麗に出来てるんだもの……女の子が喜びそうな可愛いケーキね、あの子、フルーツが好きなの?私も好きよ、あの子と趣味があいそう、さあはやく、プレートに名前を書いてあげてよ」
じっ、と女の目は、男の行動と、その表情を読み取ろうとまっすぐに据えられた。
男はやけになったように、マスター、チョコペン寄越せよ、と大声を出した。
マスターと呼ばれた店主は、肩を竦め、溜息をついて、チョコペンを手渡した。
「アンタ、このケーキ、女の子にあげるとかってさっき」
言いかけた店主の言葉を遮るように、男は腕まくりして、ようし、書くぞ、と大声を出した。
「よし、書くぞ、あのクソガキの名前を書くぞ……」
男は視線を巡らし、うーん、名前……と呟いた。
「名前?あの子の名前、そう言えば知らないわ、なんていうの」
女は男にぴったりと身体を寄せた。ケーキの上へ乗せられた、花模様のかわいいチョコレートプレートに書き落とされる、子供の名前を知ろうとして。
それからちらりとついでのようにカウンターへ置かれた卓上カレンダーへ目をやって、
「十一月……十一日、ゾロ目の日ね。なんだか縁起の良い日に生まれたのね、あの子」
まるで疑いを晴らしてほしいと言うように、じっくり、男の反応を見ながら女は日付を口にした。
「うん……」
男は曖昧に頷いてから、もう一度、「うん」と独り言をして、チョコレートプレートの上へ名前を書こうとして、うーん、と唸った。
「うーん、なんだっけ……」
腕組みして、思案している。女にしてみれば、何を思案する必要があるのか分からない。自分の養育している子供の名前だ、まさか分からないわけでもないだろう。
「なによ……、あの子の名前、そんなに難しい綴りなの?私が教えてあげるから、ほら、言ってごらんなさいよ」
「うーん、それが」
「それが?なに?」
「いや、なんでもない」
「なんでもなくないでしょ、書きなさいよ、あの子の名前、あなたまさか」
「いや、まさかってなに」
「まさか、育ててる子供の名前もろくに知らないなんてことないわよね、可愛がってるって言ってたものね。あなたは少し変わっているし、あの子のことも一見放置しているようだけど、それでもあなたは良い父親としてあの子を育てているって、私たちみんな、あなたを信じているのよ」
「うん」
いかりに満ちた女の態度に、男はたじろぎ、いやまさか、と答えた。
「まさか、自分の面倒みてる子の名前が書けないなんてことはねえよ、綴りも大丈夫……たぶん」
「たぶん?」
「いや……なんだっけな、ほら、なんて言ってたっけ、あいつの」
「あいつの?」
「いや、欲しいプレゼントの話だよ?」
「名前!書きなさいよ」
女の目は猫のように吊り上り、厳しく男を見据えている。
「ああ、もう面倒くせえな、あのクソガキのせいで」
男は頭を掻いてから、卓上カレンダーをちらりと見て、
ハッピーバースデー ゾロ
と、書いた。
なによそれ、信じられない、と女は立ち上がった。
「嘘ばっかり!今考えたんでしょう、そんな名前、好い加減な男、最低」
あの子とまともに会話をしたことがあるの?あの子がいったい何を考えているか、あなたは知っているの?
女は男の頬を叩いて、店を出て行った。
「ええー」
男は茫然として、店主の顔を見た。
店主も、呆れた、という顔をして、取り合ってもくれない。
「もう、なんだってんだ、あいつはおれの召使いみてえなもんだ、なんでおれがあいつの名前なんか」
帽子を投げ捨てて、もういい、家で飲む、と男は店を出て行った。
店主はすぐに、おかみさんを呼んだ。男の、悪い噂を聞かせるために。



「いいか、おまえはおれの召使いだ、ガキを連れてたほうが何かと信頼されやすいからな、命だけは助けてやる。だがそれもてめえがガキのうちだけだ、でかくなって、可愛げがなくなったら殺してやる。今すぐ殺さないだけでもありがたく思え」
男は、繰り返しそう言って子供を脅す。
子供の方は、慣れたものだ、へえそうか、と応じる。
おまえに自由なんてやるもんか、とサンジが言うと、子供はやはり「そうか」とこたえる。
子供は、彼によって、名前も出自も奪われた。それを教えないことで彼は子供を呪いで縛っている。子供が両親から貰った本当の名前は、今やあの魔物だけが知っており、他に誰にも知らせていない。
子供は魔物から名前を呼ばれることはない。おまえ、とか、おい、とか、適当に呼ばれる。
いつ自分が生まれ、今何歳であるのかも知らされていない。
尋ねても、
「知りたきゃおれに勝ってみろよ」
と鼻で笑われるだけだ。
「おまえは大人になる前に、おれが殺してやる……、色男に育ちそうなのに、勿体ねえな、おれには関係ねえけど」
顎を掴まれて馬鹿にされても、今は抵抗する力もない。抵抗する力をつける前に、殺してやると言われている。それでも子供は鍛錬を欠かさない。
子供は、知っているのだ。
だからこそ、鍛錬し、強くなり、機会をうかがっている。
屋敷の扉が叩かれた。
この家に客なんて、今まで来たことがない。子供は戸口からひょっこり外を覗いた。あの魔物が帰って来たのだろうかと思ったが、違った。玄関の外には、何度か食料品店で見かけたことのある、バーのおかみさんが立っていた。
おかみさんは、優しさと、それからなにか、偵察でもするような注意深そうな視線を、たっぷりと、戸口の隙間の子供にむかって浴びせかけてきた。
「あなた……あいつは今日は留守なの」
「まだ帰ってねえ」
「ああそう、あれからまだ戻ってないのね、最低ね」
おかみさんは、何かに腹でも立てているのか、ぷりぷりと左手を腰にあて、唇を曲げていた。右手には、皿を持っていた。皿の上へはガラスの覆いが掛けられて、そのなかに、白い生クリームがたっぷり乗った、フルーツのケーキが据えられていた。
ケーキは大きくて、見事だった。
こんな気取った飾り付けは、この田舎町の他のどこの店でも見られない。
あの男が作ったものだ、と子供にはすぐに分かった。
チョコレートプレートがケーキの中央にななめに飾られ、そこにはあまり上手ではない文字で
ハッピーバースデー ゾロ
と、書かれていた。
「このケーキね、あの野郎が置いていったのよ、また取りに来るかも知れないけどさあ、ろくでなしだから、取りに来ないかも知れないし、私が持ってきてあげたの」
おかみさんは、太った身体を揺すって胸を張った。
「あいつはろくでもないけど、でも、このケーキはおいしそうだわ、あなた……今日、別に、お誕生日ではないんでしょう」
両手を差し出して、ケーキ皿を受け取った子供に、おかみさんは猫でも甘やかすくらいに優しい声で告げた。
「でも、仕方ないじゃない、ああいう男だけど、あなたにとっては大切な父親、父親ではないかもしれないけど、そうあるべき人間だわ」
今日のことは許してあげて、ケーキはきっとおいしいわよ、とおかみさんは子供の頭を撫でた。
子供は黙ってケーキを受け取った。
おかみさんは、明日も明後日も、きっと様子を見に来るからね、と子供に約束した。
子供は黙って、ケーキを賞状のように高く持って運び、居間のテーブルの上へ置いた。
居間は広く、天井も高い。暖炉に火の気はないが、ランプの明かりひとつだけでも、子供は寒くはなかった。
寒さには、弱くない。
子供は知っていた。
生まれた村は、夏は暑くて冬は寒い、そのくせどこの家にもろくな暖房器具がないような貧しい村だった。覚えている。
ケーキのプレートに指を伸ばした。
自分の名前はゾロで、今日は誕生日だ。今朝から、あの魔物はそわそわとゾロに隠してキッチンにこもりきりになっていた。彼らの種族にとって、朝に起きることは大変なのだと、散々言っていたのに。
魔物は馬鹿だし、人間の子供がどういうものか良くわかっていない。ゾロがあの魔物に村から連れ出された時、もう七つになっていた。自分の名前や出自を、誰から教えてもらわないとしても忘れたりはしないのだ。
村が、あの男のせいでほろんだわけではないことも、分かっていた。一人だけ生き残った子供の手を引いて、面倒くさい、召使いとして連れて行くだけだからな、いつか殺してやる、と繰り返し言った。もう何年もたったので、その当時のことは子供の記憶から消えているだろうと信じている。
ゾロも、忘れたふりをしていた。
忘れたふりをして、時折魔物が
「ゾロ」
と呼ぶのを聞いていた。
「これは本当の名前じゃない、適当につけた嘘の名前だ、だが本当に困った時に、この名前を言えばおまえは助かる」
魔物はゾロの頭を撫でて、寝る前に、たまに、キスをしてくれる。
ゾロはずっと忘れたふりをしている。
心と身体を鍛えて、今はまだ、忘れたふりをしている。




すべりこみ!!!
20141130up