マーブルフルーツ





近頃図書館の仕事と並行して、別部署の仕事も手伝っているので忙しかった。
忙しかった結果として全くこいつに構っていなかったな、とサンジが気付いたのは、仕事中だから駄目だと言ったのに無理やり廊下の暗がりに引っ張りこまれてキスをされている最中だった。
ゾロは図々しくていつでも自分勝手だが、こういう余裕のない態度は珍しい。耳朶を引っ張るようにぎゅっとつままれて、顔を動かせないようにしてから唇を吸われた。口の端の方から舐めるように舌を這わせ、真ん中あたりまで擽られると、どうしても噛みしめていたはずの歯がゆるんでしまう。声が出てしまうのを堪えるために、ふうふうわざと息を漏らして我慢していたら、そこに挟み込むようにゾロの舌が潜り込んできた。少し上を向かされる。喉の奥が、くくくっと変な音をたてる。ゾロは必死な犬のように、短い呼吸を繰り返している。もっと奥、もっと奥と求めるように舌を入れられて、足が震えてきた。
サンジは後ろ手にドアノブを探す。もうこれ以上は立っていられないかも知れない。資料室の鍵はあいてるだろうか、もしあいてたら、いっそそこで、いい。腰が砕ける前に身を隠したかった。ここは図書館で、職場で、まだ勤務中なのだ。利用者に身体をゆだねきって、抱きかかえられているところを見られるなんてことは避けたい。もしそんなことになったら社会的に致命傷である。もうこの町では生きていけない。むしろこの国では生きていけない。
ゾロの手は、ベルトを探ってぐい、と引っ張った。
それはいくらなんでも駄目だ……馬鹿かてめえ。
払いのけようとする手と、ますます調子に乗って悪さをしようとする手の間で軽い攻防がある。
それどころじゃない、今はドアノブを探さなくちゃいけねえのに、分かってんのかこのマリモは。
好い加減にしろ、と怒鳴ろうとした口から、「ふあ……」と最早我慢出来ない声が漏れたちょうどどの時、サンジの尻ポケットで、携帯が鳴った。
「ひゃっ」
びっくりして、飛び上がってしまった。
画面が明滅し、着メロが流れる。サンジが日ごろ可愛い可愛いと言っている女性アイドルの曲だ。ゾロが舌打ちする。
乱れたシャツを直しながら、サンジは電話に応答する。
「はい、はい……えっ、ごめん、今ちょっと仕事中で」
小声で返事しながらあたりを見渡す。
ゾロの方をちらっと見る。慌てて背中を向けると、非常口から外へ出る。外の非常階段から、明るい光が入りこみ、薄暗かった通路を照らした。
ゾロに聞かれたくない、という態度を露骨に見せてサンジは慌てて外から非常口の扉をがちゃんと閉めた。
最後にゾロと目を合わせることもしなかった。
だが動物みたいなあの男は大変耳が良いので、電話の相手の華やかで高い声をきっと少しは聞きとっただろう。
まずかったかな、とサンジは思った。
別にやましいことがあるわけではないが、恋人の目の前で女性からの電話に出て、しかもコソコソしてるだなんて、良くなかったかも知れない。
まあ夜にでも謝ればいいだろう、とすぐに気を取り直して時計をちらりと見た。
もうすぐ午後一時。
早番のサンジは仕事終了の時刻だった。



ゾロは基本的にタイミングの悪い男である。
サンジはコンビニの横を軽トラで通り過ぎながらつくづくとそう思った。
横断歩道の向こうにはゾロがいて、車内のサンジとばっちり目が合ってしまった。ゾロは一瞬何か言いたそうにしたが、こっちは車で移動しているのだ。すぐに通り過ぎてしまう。
みるみるうちにゾロは小さな豆粒のようになり、それも道がカーブすると物影に見えなくなった。
軽トラを運転していたのはたいそうな美女で、名前はナミと言う。美人ながらにまもなく地域振興の一環として開催される「ふれあい市民まつり」の実行委員を務めている美人で、商店街の美人代表としてよく働いてくれている美人である。とにかく美人である。サンジの目から見て、とても好ましいタイプの容姿をしている。目はぱっちりと色白で、足はすらりと長く、ウエストはキュッ、胸はボンッとしている。
サンジが彼女の車に乗っていたのは、市民まつりの買い出しの荷物運び役として指名されてのことであった。
彼女は大変素晴らしい女性だが、まつりの実行委員に決まってからというもの、サンジを頻繁に呼びつけては遠慮なく荷物運びや力仕事の助力を求め、時にはそれは個人的な用事ではないのかと思われるような電球の交換やドブ掃除にもかりだす。先刻、サンジを電話で呼び出したのも彼女である。
「サンジくん、これから農家の方のところへ伺って野菜の買い付けの件でお話をするから、後ろで凄んどいてくれるぅ?」
甘えるような声で言われると、弱い。
お役に立てるのなら喜んで、と折角の早番だったのに仕事が終わるなり彼女の元へ馳せ参じてしまった。ゾロと午後から一緒に出掛ける約束をしていたが、それを無しにしてまで出てきてしまった。冬眠あけのクマのようにのっそりと館内でサンジの仕事終了を待っていたゾロは、当然機嫌を悪くしたはずである。あまり感情を顔に出さない男だが、機嫌が悪くなったに間違いないのである。何しろ、サンジとゾロは恋人同士なのだから、一緒に出掛けられないなんてことは、残念極まりないことであるはずなのだ。
それに、あんな……、待ちきれないふうに、キスまでされて。
それなのにである。
自分とのデートを断った恋人が、別の人間(しかも美人)と仲良く車に乗っているところをゾロは目撃してしまったことになるのである。
サンジはナミを迎えに一旦商店街まで行き、そこから彼女の運転する軽トラに乗って目的地へ向かう途中だった。
ゾロは仏頂面をしてコンビニの前で横断歩道の信号待ちをしていた。サンジに構って貰えなくなったので、気の毒にもコンビニでビールを買い込んでいたようだ。レジ袋をぶら下げている。
休日だからって昼間っから酒飲んでんじゃねえよ、と言ってやりたかったが、あっという間に軽トラはスピードを上げて彼から遠ざかった。
あいつはとんでもなく目が良い。気付かなかったはずがないだろう。運転席のナミにもちらっと目線をやっていた。美人と二人っきりで狭い車内で仲良くしているだなんて、何か誤解されたかも知れない。



ちゃんと昼間のことをゾロに釈明しないと……
と、思いながらサンジは風呂からあがった。秋も深まり、足元が冷える。身体が温かいうちにと思って布団に潜り込むと先に寝ていたゾロがすぐに手を伸ばしてくる。
ナミのこと抜きでも、若手職員であるサンジは最近市民まつりのことで残業続きだ。夜遅くに帰ってきて、すぐに寝てしまう生活だったので、久しぶりだ。
「ん……」
喉を仰のかせて熱っぽい唇に応える。
いやいや、こんなことしている場合ではなくて昼間のことをきちんと説明しねえと……、あんな美人と色々あったんなら本当にやぶさかでないというか望むところなのだが、残念ながら自分にはゾロだけであることを一応言っといてやらねえと、と思うのだが、どういうわけか昔からゾロはキスが上手いのである。段々抵抗する気がなくなってきた。奥まで舌を差し込んだかと思うと、すっと離れていきそうになりながら、唇の端を吸う。下唇に噛みついて、痛いくらいに引っ張る。サンジが少し怖くなってきたあたりで歯をゆるめ、今度は犬の子のようにぺろぺろ舐めてくれる。また深く食らいつく。
背中に手が回され、あー、もういいや、これが終わってから話そう、気持ちいいし、とサンジはくったりした気持ちになりつつあった。
身を任せ、好きにさせることが心地よい。
むさ苦しいマリモ男なんだけど、ナミさんみたいな美人が本当はいいんだけど、胸板とか厚くて嫌になっちゃうんだけど、でも気持ちいい……
とろーっとした頭の隅っこで、
「いやでも待てよ」
という冷静な思考が急に働きだした。
このままえっちして寝ちまいたいけど、明日の予定って、どんなだったっけ。
(明日……明日は……)

「あっ」

サンジはがばりと飛び起きた。
駄目だ、明日はナミさんとまつり会場の下準備をするのだった。これは役所の仕事の一環というか、正式な業務なので、朝からハードにこき使われることを覚悟しなくてはならない。
「だ、だめだ」
ぐいぐいとゾロを押しのける。クマが、不機嫌な唸り声をあげる。
「だめ……、ちょ、駄目だって言ってんだろ」
強引にパジャマのズボンを下げようとした手を振り払って脛を蹴飛ばす。
「いってえな!」
さすがにこれにはゾロも怒ったらしい。
「いてえように蹴ったんだから当たり前だろ」
サンジも必死だ。
「触るな、馬鹿!今日は無し!」
「はあ?ふざけんな、昼間といい、今といい、何なんだてめえは」
かなりご立腹の様子だ。やばい。サンジはくるっと背を向けて、絶対やらないからな、という意思表示をした。こうして背中を向けると、ゾロはどんなに自分がアレな時でも我慢してくれるのだ。サンジが殆ど自宅に戻らなくなり、ゾロのアパートに泊まることが当たり前になってからも、このへんのルールはおつきあいのはじまったばかりの頃から変わらない。
忌々しそうな溜め息をついて、ゾロがごろっと横になった気配を感じた。
すまねえ、ゾロよ。
サンジは寝たふりでやり過ごした。
最近のゾロは、サンジがどんなに抗議しても中出しばっかりなのだ。
慣れているので普段ならどうということもないが、時々体調の加減なのか、翌日腹の調子が悪いことがある。明日は屋外で力仕事なのに、腹が下ってるとか、駄目なのである。
ナミに、「サンジくんたくさん働いてくれてありがとう」「素敵」って言われたいのである。
ゾロには申し訳ないが、サンジははりきり気味に、そのまま早寝した。



どうもそれ以降も、タイミングが合わず、サンジはゾロをかまってやることが出来ないまま市民まつり当日になってしまった。
外は快晴で気持ちの良い朝だった。早起きしていそいそと弁当を作る。
ナミを中心とした、まつり実行委員会の皆さまのための弁当である。最近ゾロの弁当を作っていないので、こまごまと容器に惣菜を詰めていく作業も久々で新鮮に感じられた。
「うまそうだな」
寝起きのゾロがいつの間にか背後に立っていて、ひょい、と弁当箱を覗いた。
いつもならサンジが出勤する時刻ぎりぎりくらいまで寝ているくせに、タイミングが悪い。本当にタイミングが悪い。
サンジは慌てて、なんとなく弁当を隠すようにしてしまった。先月からゾロは業務の都合上現場の食堂で昼食をとっているので、弁当は要らないと言われている。
だからゾロの分がないのは、別に悪気があったりゾロを粗末にしたりしているからではない。
けど。
けどなんか、ゾロの顔が見られない。
ここ暫くまるでかまってやらなかった上、美人と仲良くし、夜も断りっぱなし。
その上、楽しそうに他人のための弁当をつくり、ゾロの分は無い。なんだか冷たいような気がした。
「こ、これはその……」
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、サンジはもじもじする。小分けに皿に並べてある料理を背中で隠し、ゾロをキッチンから遠ざけようと動いてしまう。
機嫌を損ねるかと思っていたが、ゾロはサンジの仕草に気付いて、「ああ、なるほど」というような顔をした。
「そうだな、すまねえ」
やけにあっさり引き下がる。
サンジはどぎまぎする。今日が市民まつりだということは以前にゾロに話したが、あんまり真剣に聞いてないようだったし、絶対覚えていないと思う。まるっきりサンジの方を見ようともせず、素っ気ない。
すっと台所からいなくなり、洗面所で顔を洗っているようだ。
ゾロが馬鹿で動物でも、内心傷ついてるのかも知れない。
色々な思いがどっと押し寄せてきたが、たまご焼きが焦げそうになっていたので、手が離せなかった。手が離せないでいるうちに、ゾロは身支度を整えて朝食もとらずに出掛けてしまった。
何か朝早い仕事でもあったのかも知れない、そうだ、そうに違いない……と、考えることにして、とにかく自分が出掛けるための支度に専念することにした。
朝は忙しい。



まつりは、盛況だった。
帰宅すると全身が泥のように重たく、サンジはもう何をする気にもならなかった。
辛うじてスーツの上下だけハンガーにかけると、ワイシャツ一枚でだらしなくリビングで伸びてしまう。
ゾロが仕事から帰って来たが、こたつに突っ伏したまま、顔を上げるのも億劫だった。
「ゾロか……」
いかにも面倒くさそうにサンジはのろのろテーブルを指差した。
「今日、市民まつりだったんだ……それで……それ……」
弁当。
昼食を食べる暇もなかったので、自分用の弁当が手つかずのままテーブルの上に乗っている。今夜はそれで勘弁してもらいたかった。もうおれは何もいらん、とにかく寝たい、と思っていた。
朝の申し訳ないと思っていた気持ちや、ゾロのために弁明をしたいと考えていた気持ちは、疲労の前には無力だ。
マリモの世話をする余力などない、とっとと一人で寝てくれ、邪魔。
目をつぶってゾロが諦めてどっかに行くのを待つ。
うろうろしてる気配だけ感じる。
こっちはもう、シャツのボタンを外すのも面倒なのだ。出来ればボタンを外してパジャマを着せて頂けると有難いというくらい何もしたくないありさまなのだ。勿論そんなことを実際に頼んだりはしないが。
粗末にあつかってしまってすまないけれど、とにかく疲れてる。
ところが、機嫌を悪くするかと思ったのに、ゾロは感心したように弁当のふたをあけた。
「てめえ、ここんとこ忙しかったのに、弁当つくったんだな」
「え、うん……」
ゾロの声が優しい気がする。しおらしくされると焦る。
ゾロには全然構ってやらなかったのに、ナミのためには弁当をつくった。正直相手が美人だったので、ついつい気に入られようとしてしまった。
それなのに、怒りもしないなんて。
「てめえがいりゃ、それでたくさんだ」
男らしく宣言される。
「な……」
なんだよ、そりゃ。
サンジは面食らう。最近放置しすぎたので、不安にさせてたんだろうか。そう言えばナミとのことで、誤解をといていない。浮気してると思われてるかも。
なんだか急にゾロが憐れになってきた。
かわいい、おれの動物。
そのまま上に乗っかられた。
疲れ果てていたが、気分がのってきたのでサンジは久しぶりにゾロを押しのけることをしなかった。
せわしなくお互いの衣服を脱がせ合う。
もう慣れたけど、それでも心臓が煩い。
裸になると、ああやっとだ、という気分になる。随分長く、こういうことをしていなかった。
「可愛いとこあんなァ、弁当かよ、今年は」
ゾロは変ににやにやしている。
ナミさんと二人きりで出掛けたけど浮気じゃねえよ、とサンジは言おうとしたがタイミングがつかめない。美人のためにはりきって弁当つくったりしちゃったけど、浮気じゃねえよ。
ごめんな、謝ろうとしたが、どうやらゾロが弁当を自分のために準備したのだと思い込んでるらしきことに、途中でサンジは気付いた。
なんてのんきな男だ。
なんでおれがてめえのために弁当なんかつくるんだよ、と思ったが、そのうち熱っぽく大事な場所をこちょこちょされだしたので、何も考えられなくなった。
あまりにもまつりの準備が忙し過ぎて、サンジはすっかり忘れていたのだ。
11月11日。
去年に引き続き、今年も「プレゼントはおれ」の状態になってしまっていることに、サンジはまだ気付いていない。




20101111 up! 久しぶりの市役所サンジシリーズです。 ゾロおめでとー!