優しい背中



ほんの一ヶ月程前の話だ。
オレは夜中に目を覚まし、やけに静かだと気付いた。
何だか人の気配がしない。ひっそりと船室が静まり返っている。
僅かな明かりのなかで辺りを見渡すと、オレの他にはチョッパーしか居なかった。チョッパーだけが規則的な寝息をたてている。
今日の見張りはルフィだ。だからあいつがいないのは当然だ。
じゃあ、ゾロとサンジは。
断じて言うが、別にわざわざ確認しようと思ったわけではない。
ただ喉が渇いていた。
水でも飲もうとハンモックから起きだし、ここに居ない二人は多分ラウンジでも居るんじゃねえかな、と予測した。それだけのことだった。
ハッチを開き、甲板に出る。
三日月の晩だった。見張り台からルフィがちらりとこちらを見た。だがこんなとき、声をかけ合うことは少ない。何か異常でもあったのなら別だが、見張り台まで届くような大声を出して、今眠っている者まで起こしてしまうことを避けるためだ。とくにうちの航海士は安眠を妨げられると機嫌が悪くなるのだ。
階段を上がり、明かりなど点いていなくとも身体で覚えている道筋でラウンジへ向かう。
おかしいなと思った。
ラウンジに明かりがないと言うことは、ゾロとサンジはどこに行ったんだろう。
変だ、と思いはしたが、それでもまだ、まあそのへんに居るだろ、くらいの気持ちで別段気にかけてはいなかった。
だが暗闇のなか、そのドアに手をかけようとした時、オレは聞いた。
すすりなくような、か細い声。
普段の声音ではない。
本能的に、オレは動きを止め、耳を澄ました。
それは危機を知らせるような声ではなかった。だが、驚いた。
(あれは多分・・・・・・)
極力物音をたてないように、オレは後退った。
水は、もう要らない。
あれは多分、快楽におぼれた人間のもらす声だ。オレだって、そのくらい分かる。
船室に戻り、毛布をかぶって目を瞑った。
何であんな現場に行き合わせてしまったんだろう。まるで不運だ。知らなきゃ良かった。
なかなか眠れなかった。
しばらくするとゾロが下りてきた。
オレのすぐ横を通り、自分の寝床に潜り込む。
わざとではない。本当に、わざとではない。
だが、微かな湿り気を帯びた、性的な匂いをゾロの身体から感じた。
オレはせいいっぱい気配を消して寝たふりを続ける他なかった。
サンジは朝まで戻って来なかった。
そうだ、あの声は、普段とは全然違うがそれでもサンジのものだとオレには分かっていた。



丁度その頃だ。
サンジのゾロに対する態度が変わったのは。
大きな変化ではなかったが、それでもこんな狭い船内で暮らしていれば嫌でも気がつく。
サンジはゾロに親切になった。そして、喧嘩が随分減った。
喧嘩が減ったのは良い傾向だと誰もが思うだろう。二人の関係が良い方へ向いたのだと。
オレもはじめはそう思った。
あいつらが、その、そういう関係をもっている理由がどうあれ、親密になったことでうまくいくようになったのかなと、そう単純に考えていた。
それなのに、日を追うごとに、ゾロはサンジと目を合わさなくなった。
ある日、後方甲板でゾロがいつも通り鍛錬していると、おやつを持ってきたサンジと肩が触れた。オレもたまたまその場所で木材をのこびきしていたので、トレイの上には二人分のタルトと紅茶が載っていた。ほんのちょっとだけ、ゾロにぶつかったサンジがよろけた。そして、これもやっぱりほんのちょっとだけ、冷えた紅茶がグラスから零れた。
確かに大した出来事ではない。
だけど今までなら必ず喧嘩がおきてた場面だ。
サンジはゾロを罵り、ゾロもそれに応じたはずの状況だった。
オレはとばっちりをくらうまいと、さっと自分の工具を隅っこに避難させた。
しかし、サンジは困ったように笑っただけだった。
そんな表情も出来るのか。
そう思うほど、やわらかな笑みだった。
やわらかくて、甘ったるくて、寂しそうな。
「ここ置いとくから、てめえら氷がとける前に食っちまえよ」
トレイをそのまま床に置いてサンジはまた階段を下ってゆく。
ゾロに触れた方の腕を、反対側の手でそっと押さえている。表情は見えない。
「あいつ腹でもこわしてんじゃねえの」
オレはことさら軽口を叩いた。
「そうじゃねえだろ」
ゾロは今までふりまわしてた錘を置いて、汗を拭いていた。
「そうじゃねえ」
もう一度繰り返し、こちらを向いた。
おいゾロどうしておまえそんなに不機嫌なんだ、と思ったけれど、口には出せなかった。オレが口をはさむことではないんだろう、多分。



その晩、たまたまオレとゾロと二人で酒を飲んだ。
サンジはつまみを作ってくれた。
その背中を見ながら、
「おい、モディリアーニってのは何だ」
ゾロの口から出るはずも無さそうな単語が出てきた。
「そりゃ、画家の名前だ」
と言いかけて、そうだ、その名前を以前ゾロに教えたのはオレだったなと思い出した。
あの日もやっぱりこんなふうに、オレとゾロとサンジでラウンジに残っていた。あの時はサンジも会話に加わっていた。
サンジは背が高い、という話題になり、ゾロとサンジは実は殆ど背丈が一緒であることが判明した。それなのに、不思議とサンジの方が長身の印象を受ける。
ひょろながい背中が、そう見せるのだろうと思った。
「モディリアーニの絵みたいだ」
オレは言い出した。
あの話をまだ覚えていたのか。
オレはゾロの顔をまじまじと見た。
「そうだな・・・・・・有名な画家だから、いつか見る機会もあるかも知れねえ」
「そうか」
およそ絵画に興味のなさそうな剣士が、珍しく頷いた。
彼がその絵を見たら、何と言うだろうか。
余計な詮索はしてはならないと思うが、そのくらいは知りたいと思っていいだろう。
似てる、と言うだろうか。
全然違うと言うだろうか。



思ったよりはやく、その機会は訪れた。
次の目的地の名前を聞いて、どこかで聞いたことがあると思い出した。
そうだ、ナミのとってる新聞に、小さく記事が出ていた。
観光地化が進むその島では、一方で昔からの教会に信者が集まらなくなったのだそうだ。これまでの生活形態が変わり、農業中心から商業中心へと移行した結果らしい。
そこで、いくつかの教会は歴史的建造物やら手持ちの美術品やらを観光客に見せて、来館料をとり、苦しいやりくりをしているそうだ。
宗教施設が博物館化し本来の厳かさを失った、と嘆く意見でその記事は締めくくられていた。
その中に小さな教会の名前が例としてあげられていた。
篤信の市民が亡夫のコレクションをそっくりそのまま寄付したとあった。コレクションの中には有名な画家の絵もある、と幾つか名前が挙げられていた。そのなかに、確かにあった。
モディリアーニの絵。
こんなグランドラインの辺境で、この機会を逃したらいつ巡りあえるか分からない。
オレはゾロを誘ってその教会を訪れることにした。



想像していたよりは広い建物だったが、それでも美術品を並べるには質素な造りをしていた。
カーテンにさえぎられて外の光はあまり届かない。
天井が随分高いが、それでもガラスケースがたくさん並んでいるためにどこか閉塞感があった。おまけに人っ子一人いない。すごく寂れている。
彫刻や絵画は価値のありそうなものも陳列されていた。
オレはもともと、そういうものを見るのが好きだ。
だがすぐ隣のこの男となると。
「なんだ」
「いや、似合わねぇなと思って」
馬鹿にしたわけでもないが、ちょっと笑うとゾロは不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
ここではでかい図体が邪魔そうだ。
こんな場所に似合うのは、メリー号の男連中ではオレかサンジくらいのものだろう。実際にはサンジは絵なんか見そうにないが。
目当ての作品は、展示室のなかでも一番奥まった場所にあった。
ガラスケースが光を反射して色彩が見えにくい。
オレは目を細める。
ひょろながい人物画。あたたかい色味。
その時、ちりちりと教会の入り口のベルが鳴るのが聞こえた。こんな寂れた場所に、礼拝の日でもないのに、誰が来るのだろう。観光客か、教会の関係者か。
「な、似てるだろ」
オレはゾロに話しかけた。
コツコツと革靴の足音がした。
「ああ」
ゾロの声は穏やかだった。
その顔は、見慣れぬ表情を浮かべていた。
オレが口をはさむことじゃねえだろうが、こんな顔するんだぞこいつ、と思った。
足音が近付いてくる。
なあ、こんな顔するんだぞ、こいつ。
「そうだな、似てるかも知んねえ」
ふと振り向いて、神様はいるかも知れねえなあ、とオレは思った。



なあサンジ、こいつ、こんな顔してんだぞ。



モディリアーニの絵のような、少し寂しい背中を抱きながら。
彼はこんな顔をして、あちらの彼にあんな顔をさせている。



06/11/15




「背中の目」のウソップ視点です。