snow paradise
マヨヒガ
辺りは一面雪に覆い尽くされていた。
深い雪は足を強く引き込むようで、一歩先へ進むだけでも随分な体力を必要とした。
ここがどこかすら分からなかった。
とにかく酷い吹雪で、前も見えない。
ガキの頃からよく道には迷ったが。
と、ゾロは思った。
さすがに今回はやべえかも知れねえ。
気が付くと、ゆらゆらと揺れる炎が見えた。
暖かい、そう思って炎をぼんやり眺めた。瞬きすることも忘れるほど呆けて、瞼が熱く乾いてきた。
「目が覚めたか」
低いけれど澄んだ、男の声がした。
目線をあげると、囲炉裏の上でぐつぐつ煮立つ鉄鍋が見えた。男の姿はゾロからは見えない。囲炉裏を挟んで、あの鍋の向こう側に座っているのだろう。
「どこだ……」
自分でも驚くほどかすれた声が出た。
喉が渇いていた。ゾロは軽く咳き込んだ。喉は渇いているのに、咳の音は湿り気を帯びていた。
「ここはどこだ、か?」
男が聞き返す。
「ああ……」
すう、と横たわるゾロの上へ影が落ちた。
影は炎に煽られてゆらゆらと揺れていた。
男はゾロを見下ろしながら
「これ、飲め」
水を渡してくれた。
「ここがどこか、知らねえのか」
手渡された水は、真冬なのに不自然なほど青々とした竹筒に入っており、鼻腔へその生命力ある香りが広がった。
男は見たことのない、美しい髪の色をしていた。
竹筒を放った手は白かった。
顔色は蒼褪めるように透き通り、その目は片側しか見えず暗く沈むほどの青だった。
名前を尋ねると、男は厭う顔をした。
重ねて尋ねると
「サンジ」
と答えた。
「おまえ、オレの名前を聞いたな」
深く呟く声は、全体脅しているかのようだった。
「…………」
竹筒の水を飲みながら、ゾロは辺りを見渡した。
どうやら然程広くはない小屋の中だった。
茅葺の屋根へ、白く細い煙がまっすぐと上がってゆき、その萱の筋目に吸い込まれ、消えてゆく。長い年月を燻されたように、天上も柱も、黒く光っている。室内には細細した日常の道具が置いてあるのに、部屋を取り囲む土間には何も無い。ゾロが履いてきた藁沓だけがそこにそろえて置いてあった。それだけだった。
「何で土間には何もねえんだ」
何気なくゾロは尋ねた。
「皆、やって来た奴らが持ってった」
「持ってった?」
「ああ。ここに来る奴なんて滅多にいねえが、まあ、長い年月にはぽつぽつと。奴ら、部屋へはあがりたくねえもんだから、土間にあるもんだけ、持ってきやがる」
サンジは火箸を取り、薪の位置を動かした。
火の粉が白い手の上で撥ねる。神経質にサンジはそれを避けた。ぐつぐつ煮え立つ鍋からは、何とも言われぬ良い匂いがする。
思わずゾロの腹が鳴った。
「腹が減ったか」
サンジが尋ねた。サンジは引き攣れたように片頬だけで唇を動かす。見る者に不快感を与える表情をしている。まるで人ではないような。
ゾロは正直に頷いた。
「そうか、でも、食うなよ」
そう言いながら、サンジは鍋を掻き回す。いっそう、暖かな湯気が部屋へ流れ、空腹を刺激する。
ごくり、とゾロは喉を鳴らした。
「食いてえか」
サンジがまた尋ねる。
箸をとる手は青白く、生きていないものの手にも似て、動くことが不自然だった。
「ああ」
正直に、ゾロは答えた。
「そうか……」
サンジは考えこむように、暫し黙した。
「なら、食え」
「……いいのか?」
「いいぜ、けど、言うな」
ここでモノを食ったことを誰にも秘密にするんだ、約束できるか、とサンジが言った。
ゾロはこくりと頷いた。
ゾロは約束を破ったことなど一度も無い。
淡雪がほどけるようにサンジは微笑んで、手許に引き寄せた箱の中から椀を取ると、そこへ鍋の中身をよそってくれた。味噌や野菜の旨そうな匂いがした。
暖かい食事は冷えきった身体を芯から温めた。
「旨ェ」
思わずゾロは感心を口から出した。
「そうか、旨ェかよ」
サンジが嬉しそうに笑う。
「おら、もっと食え」
椀をゾロから奪い、もう一杯の馳走をしてくれる。
不思議なことに、生気の無いと思っていたサンジの表情が、彼の差し出す飯を一口食うごとに、身近な親しみやすいもののように思えてきた。
生意気そうな目許をしている、唇を尖らすクセがある、眉がくるくる巻き上がっている。
良く良く見れば、自分と同じ年頃の、気の良さそうな男ではないか。
鍋が空になり、腹がいっぱいになる頃には、あたかも親しく交わった親戚が何かのようにさえ、彼のことを感じられたのであった。
「ああ、もう食えねえ」
どさり、とゾロは身体を投げ出した。
「食ったらすぐ寝んのかよ、ケモノだなてめえは」
「うっせ」
けらけらと彼は笑った。
薪がはぜる僅かな音が、部屋の隅まで滑るように響き渡る。
外は吹雪ではなかっただろうか。
この家の中は、驚くほど静かだった。
「なあ寒くねえのか」
心配してゾロは声をかけた。
サンジはそれだけは上等そうな、白い羽二重の単を着て、他には何も、袴も足袋もはいていなかった。
血の気の無い肌色は、寒さのためではないかと思った。
「いや、オレは寒くねえ」
サンジは頭を振る。
「けど、少し、薪でも増やさねえか」
戸口には、薪がたくさん積んであった。それなのに囲炉裏の火は細く頼りなかった。
ゾロは親切心から薪を運んで来てやろうとした。
「いい!余計なことすんな!」
鋭い声が飛んだ。
サンジが、怒りに燃える目で、ゾロを見ていた。
黙って外へ出ていったサンジが、暫くして戻ってきた。
「風呂を沸かした。寒いなら、入って来いよ」
「風呂、あるのか?」
「ああ」
「てめえは?」
青白いサンジの頬が気がかりだった。
「オレはいい」
サンジは頑なだった。
ゾロはサンジの言葉に従い、風呂を使うために外へ出た。
一歩外へ出ると、そこは何も無い、雪原だった。
どこまでも、どこまでも、草も木も何も無く、ただ雪に埋もれた景色だけが平坦に続いている。大きな月がぞっとするほど明るく景色を照らし、小さな一軒家をぽっかり浮かび上がらせていた。絶えず地鳴りが低く轟いていたが、それはどこか遠くから届くもののようであった。風は強かったが、全くの無風のようにも感じた。空の雲が凄まじい速さで流れている。
風呂は母屋のすぐ隣りにあった。
息を吸う喉が痛むほどに空気が冷たかった。
湯は温かだった。
一度だけサンジが様子を見に来て、湯加減はどうだと尋ねて行った。
丁度だ、と答えると、サンジは沈黙していたが、ほっと息を緩めるのが気配で伝わってきた。
母屋へ戻ると、囲炉裏の傍へ布団が敷かれていた。
幾分火が落ちて暗くなった部屋の端へ、疲れた顔をしたサンジが蹲っていた。
行李に身を凭せ、ガラクタのような、籠やら、屏風やら、団扇やら、蝋燭やら、灰だけがたくさん入った火鉢やら、雑多な物の散乱する一角で、じっとしていた。
彼はゾロの顔を見ると、布団で寝ろというふうに、顎でしゃくって見せた。その尻の下にはぞんざいに女物の反物が蟠りくしゃくしゃに踏みつけられていた。
とにかく寒くてやりきれない。
布団の傍へ寄りながら
「てめえは、寝ないのか」
ゾロは聞いた。
「オレはいい」
サンジは答えた。
「寒くねえか」
重ねてゾロは尋ねた。
サンジは首を横へ振った。
「……ひょっとして、布団、これしか無ェのか?」
はたと思い当たり、ゾロは手を打った。
「へ?」
「だったら、てめえもこっち来いよ」
「…………」
サンジはこの家の主で、ゾロに飯を食わせ、湯を用意し、火を焚いて、寝床まで使わせてくれようとしている。それを一人で冷たい床の上へ座らせて、自分が眠るわけにはいかなかった。
「アホか、てめえは」
サンジは心底弱ったというふうに苦りきった顔をした。
「いいから、もう寝ろ。明日には送ってやる」
「送る?」
「てめえ、迷子だろ、どこへ行こうとしてたんだよ」
言われて、ゾロは思い出した。
そういえば自分は隣り村へ行こうとする中途であった。
どうしてこんな場所へ辿り着いたものか。
こんな、見たこともない場所へ。
「オレは、くいなのところへ行くとこだった」
囲炉裏の火がはぜた。
「くいな?女の子か。なんだよ、なかなかやるな、むさ苦しい緑頭のくせに」
「そんなんじゃねえよ、女だけど、親友なんだ」
「ふうん」
「くいなは、昨日死んだ」
オレは、葬儀へ行く途中だった。
ゾロはそう答えた。
髪を撫ぜるサンジの手は、思った通りひんやりと冷えて、そして途方も無く優しかった。いつの間にか二人は寄添って囲炉裏の端へ座っていた。ずっと以前からこうであったかのように、身を寄せ合うと寛いだ気分になった。
白い肌が細い炎に照らされ、水底のような複雑な陰影を作り出していた。
おまえが行かねえと、そのコがかわいそうだ、そう言ってサンジはゾロの髪を撫ぜた。
「明日、必ず送ってやろう……」
「ここは、どこだ?」
漸く気が付いたというように、ゾロが尋ねた。
ゾロの住んでいる村は山間だ。
くいなの住んでいる村はそこよりは海に近い平地だ。
どちらにせよ、こんな広い雪原など、この辺りにはないはずだ。
どうやってここへ辿り着いたものかゾロには分からない。先刻ここの囲炉裏の傍で目覚めたが、そもそも、眠くなった覚えも倒れた気もしないのに、何故眠っていたのだろう。
「ケッ、里心がつきやがったか。心配すんじゃねえよ、オレはそんな、里心付いた奴を誑かしたりはしねェ」
……帰してやるよ、そう言ってんだろ?
囁く声を聞くと、どうしてか、胸が騒ぎ、サンジの冷たい白い手を、離しがたいと思った。
顔をあげ、彼の白面を見る。
蒼褪めた頬は、孤独に倦み疲れているようだった。
「オレが恐ろしいか、ここがどこだか分からねえで不安か」
サンジは言った。
ゾロはそんなことを考えてはいなかった。
「てめえも、一緒に来いよ」
「…………」
「オレんちに、来い」
くいなはもう死んだのだ。
葬儀に間に合わぬのは親族に悪いが、どちらにせよ、ゾロに出来ることなど、くいなに関してはもう何一つ無いのだ。
それよりこの目の前の男が心配だった。
親切に宿を貸し、飯を食わせ、暖めてくれようとする、冷えきった手をしたサンジ。
「てめえは、ここがどこだか知らねえんだ」
サンジは何とも言われぬ、突き放すような、縋るような手のひらでゾロの着物の襟を掴んだ。
「ここは、マヨイガだ。明日、ここを離れる時に、てめえは何か一つ、ここにある物を持って行っていい。何を選ぶとしても、それは一生に渡って役に立つ。普通の道具にはねえ、不思議な力を持ってるんだ……そんで、てめえはきっと、ここを一度離れれば、二度と来たいと思わねえだろう」
「何も要らねえ」
ゾロは即答した。
これまでの生活で、ゾロは不足を感じたことなど無かった。
この場所から何か一つでも持ち出せば、その分この家の中から物が無くなる。例えそれがガラクタのような物でも、ほんの僅かでも、たった一人で暮らすサンジの家がその空間を増やすことは、ゾロにとっても耐えがたいことのように思った。明日の朝ゾロが居なくなれば、今夜ゾロの居た分の空間が、またぽっかりと寄る辺を失い、サンジへ圧し掛かるだろう。
サンジを一人にしたくなかった。
暖かな寝床、暖かな囲炉裏の脇、熱いほどの体温にサンジを包み、ゾロは夢中で口付けをしていた。
唇を合わせると、突然降って湧いたようにこの男が何より愛しいと強く感じた。最初から惚れていたんじゃないかと思った。もとより、この場所にはサンジに会いに来たのではなかったかと思った。そうだ、オレはずっとサンジを好きで、今日は思いを遂げるためにこの場所へ来たのだ。サンジとオレは、幼いころから睦び合って育った。片時も離れたことなどなかった。慕わしい、懐かしい、この冷たい体。
「馬鹿だな、そんなわけがない」
浮されたように白い単の紐を解く男の手を、やんわりとサンジは咎めた。
瞬時、ひやりとした空気を感じ、広々と何も無い土間へ、恐ろしげな影が伸びて揺れるのをゾロは見遣った。
「そんなわけがない、おまえがオレを好きだなんて」
「ウソじゃねえ、ほんとだ」
「おまえ……」
物言いたげなサンジの喉へ吸い付くと、サンジは言葉を失って、ただただ高い声をあげた。
ずっとこんなふうにしたかったのだ、という思いが湧いてきた。
サンジ、サンジ、とゾロは彼の名前を呼んだ。
サンジは困惑したように目を逸らした。
そんなふうに視線を逸らされるのは堪らなかった。いつものように名前を呼んで欲しい。そう思ったが、サンジはゾロの名前を呼ばない。彼は自分の名前を知らぬのだと思い当たり、違和感にぞっと全身が泡立った。そうだ、この男とは、今日出会ったばかりなのだ。それなのに何故そのことを忘れていたのか。
ここは何処だろう。
サンジはどうしてこんな風変わりな家屋に住んでいるのだろう。
だが、サンジの着ているものを全て脱がせ、自らも着衣をくつろげると、ゾロはまたその違和感について忘れた。ただそこには慕わしい白い肌があるだけだった。
「おい、呼べよ、サンジ」
「……あ?……あ、あ、は……」
ゾロの指が胸の上を彷徨うと、サンジが目を細めた。
「サンジ」
「ん……ん……」
「オレの名前、言ってなかったか、オレは」
「言うな」
ぴしゃりと撥ね付けられた言葉の続きは、冷えた床の上を滑るようにどこかへ消えた。
「オレに名前を知らせるな」
「……サンジ」
広々とした室内にはあらゆる用途不明の物どもが散乱している。
けれど土間にだけは何も無く、ゾロのはいてきた藁沓だけが揃えて置かれている。
サンジの履物はどこにも無い。
「何で土間には何もねえんだ」
サンジの上に跨ったまま、ゾロは尋ねた。
「皆、やって来た奴らが持ってった」
「持ってった?」
「そうだ。ここに来る奴なんて滅多にいねえが、まあ、長い年月にはぽつぽつと。奴ら、部屋へはあがりたくねえもんだから、土間にあるもんだけ、持ってきやがる」
サンジは両手で顔を覆った。
ゾロはサンジを強く抱いた。
「あったけえ……」
耳許で、震えるような溜め息が聞こえた。
「もしも今、好きだって、言われたら」
冷たい身体を温めようと、ゾロは必死でその肌をなぞった。
「溶けちまいそう」
あったかいな、あったかいな、と抱かれている最中ずっと、サンジは繰り返していた。
「好きだ」
と、夢中で肌に吸い付きながら告げるゾロへ、サンジは
「溶けちまいそう」
と答えた。
何でそんなこと言ってくれんだ、おまえ、と言うから、ますますゾロの中にある愛しいと思う気持ちは膨れ上がった。ここが何処でも、彼が誰でも、もうどうでも良かった。
サンジの肩も背中もどこもかしこもとても冷たい。暖めてやりたかった。
幸せだ、ありがとう、と呟いて、淡雪がほどけるように、サンジは溶けて消えてしまった。
強く抱いた腕のなか、冷えきって蒼褪めていたサンジの身体は温く春の小川のように、疲れた白面は木漏れ日のように生半な微笑みに生まれ変わった。
目覚めると、殆ど灰になった囲炉裏の薪が、からり、と音をたてて崩れるところだった。
煙は細々と茅葺の屋根へ吸い込まれている。
戸口の隙間から陽光が差し込んでいた。
部屋へあがれば無為なガラクタが散乱しているが、土間には何も無い。ゾロの履いてきた藁沓だけが揃えて置いてあった。
ゾロは藁沓を履いて、外へ出た。
ギュッ、ギュッ、と雪を踏む。
吹雪は止み、昨晩思ったほど積雪も深くはないようだった。家の戸口からずっと先へ向かって、雪の中にケモノ道のような道筋が伸びている。
ゾロは歩き出した。
肩が凝った、と思って首を回すと、まるで耳に水が入ったときのような音が頭の中でする。
鳩尾のあたりに、ぬるま湯を飲んだあとのような、水の落ちる感触がある。
不思議なことに、両手をぎゅっと合わせると、その掌から水が零れた。とても暖かな水だった。唇を寄せると、甘いような気がした。
以来二度とゾロは道に迷ったことがない。
そして一生に渡って、寂しく悲しいような、幸せで満ち足りたような、あたたかい恋心を胸に持て余して、生きた。
end
04/11/25
迷家、迷処、どっちの字か分からないんですが、まよひがの話と雪女の話をくっつけたりしてみました。何か変な話です……わー。