わるい果実 サンプル
子供の頃住んでいた村に、はずれの方へ向かって歩けば森が深くなり、やがて深い山々へ続く細い道があった。古道であり、今はあまり使われていない。
いよいよここから先は本格的な山道に入るという境目のあたりに、大人の腰ほどの高さの石が二つ並んで転がっている。二つ並んでいるという他には、これといって特徴のない灰色の石だ。
石にはいくつかの呼び名があった。
最も一般的なのは「兄弟石」という呼び名で、これは村の外から来た人間には必ずと言って良いほど、まずはその名で紹介された。同じほどの大きさの石が二つ並んで転がっているから兄弟石。なんの説明も必要としないくらい単純だ。次によく知られている別名は「置いてけ石」で、その名の由来を説明するには、この二つの石の秘密について話さねばならない。
初めて「弟」をこの石のある場所まで連れて来たとき、エースはイタズラ心をおこしてからかった。
「おいルフィ、この石持ってみろ」
意地っ張りの弟は、すぐに頷くと、ようし、と腕まくりした。小さなくせに威勢が良い。
「おれはこっちを持つ。こっちの石のほうが少し大きいけど、おれは兄貴だからな」
笑顔でそう言ってやると、ルフィは、うん、と元気良く頷いた。
石は切り立った崖のすぐ下に転がっている。二人は崖の方を向いて、乾いて白っぽい岩に顔を押し付けそうになりながら屈んだ。
「よいしょ!」
掛け声をかけて苔むした石に腕をまわす。石についた細かな土が、ぱらぱら落ちる。小さな虫が慌てて這い出す。
エースのほうの石は、随分重いがぐらぐら揺れて、やがて僅かに持ち上がった。弟に良いところを見せたい意地ようなものが湧いてきて、もう少し、更にもう少しと持ち上げた。地面から三十センチも持ち上げて、ここまで持ち上げれば良いだろうと思ってどすんと落とす。足元に地響きのような重い振動が起こる。腕が痺れた。身体の内側に、どっ、どっ、どっ、と心臓の音が響いている。それからエースは真横をちらりと見る。
ルフィは顔を真っ赤にしてまだ石と格闘していた。びくとも動かない。
「エース!すっげえなあ!」
ぷは、と息をついてとうとう諦めてから、ルフィは心からエースの腕力に感心していた。
エースは笑った。
確かに並の者ではこの石は持ち上がるまい。
だが、ルフィの石なら、たとえエースでも持ち上げることは出来ないのだ。
兄弟石より先に踏み入ると、森の奥に小さな滝がある。滝つぼから流れる冷たい水に足を浸して、充分に焦らしてからエースはルフィに石の秘密を教えてやった。水は透き通っているが流れが速く複雑な渦を作っていて、滝つぼの底はどうなっているのか見えない。ただ薄青い影の底に、時折小枝や木の葉が流れるのだろう、もしかしたら魚もいるのかも知れない、そういう小さな物影が過ぎるのだけが見えた。
あの石には伝説がある。
ある時、力自慢の男が二つ並んだあの石のうちのやや小さく見えるほう、つまりルフィが持ち上げようとして果たせなかったほうの石を持ち上げようとしたところ、ほんの一寸も持ち上がらぬうちに、もう片方の石が、
「置いてけ!」
と恐ろしい声で怒鳴ったのだそうだ。男は驚き、石を転がして逃げた。
以来、あの石はびくとも動かないようになった。大きい石が、小さい石を絶えず見守っているのである。そんな伝説だ。
「実際、おまえが持ち上げようとしたほうの石は、元から持ち上がるわけがないんだ」
エースはルフィの頭をぐりぐり撫でた。素直な髪はするする流れて、撫でられた方向に偏って艶々している。子供の汗の甘いようなにおいがする。
「あれな、かたっぽ……つまり、おれが持ち上げた方は本当に転がってる石だけど、おまえが持ち上げようとして出来なかったほうの石はな、ありゃ、岩の一部なんだ。地面で繋がってる。あの岩のすぐ前の崖や、足元の道の岩盤と全部一体なんだ」
えっ、そうだったのか、とルフィは目を丸くした。
きらきら輝く目は、博識のエースをますます尊敬したと語っていた。
くすぐったいくらい、素直で、馬鹿な弟だ。
石には他にも俗称がある。
二つ並んでるので、村の若い連中は「おっぱい石」とも呼んでいた。
若者同士で集まって遊ぶくらいの年齢になると、そんな名前を教えられ、皆その名で呼ぶようになる。金玉石と呼ぶ者もある。同じ理由からである。
性的な知識を交換しあうその時期に、おっぱい石と並んで決まって話題にされる本があった。
村長の家にある、「宝の地図」である。
随分古いものらしく、もとは巻物であったものを、切本にしてある。古びた文字で表紙に「宝の地図」と書かれており、村長の家の蔵に眠っている。
門外不出であるはずのこの本の存在を何故村の若い連中が知っているかと言えば、この本はしばしば秘密裏に持ち出され、勝手に閲覧されている。
本の中身は、房事の指南書なのだ。
その題書きが「宝の地図」であるというのは、意味不明のようでありながら、なんとなく頷けるような気もして若い連中を惹きつける。
代々伝わる古書であり、あの真面目くさった村長が蔵に隠している本。中身はエロ。
多感な若者に魅力を感じさせるに充分だ。
背が低く、いつまでたっても子供みたいだった弟も、近頃まるで男のような体つきになった、と思っていた矢先、ルフィが夕飯どきに、
「おっぱい岩に村長のとこの宝の地図が置いてあったんだけど、あれって村長の宝だろ」
と言い出したのでエースはスープを噴き出しそうになった。
「だからおれ、そのままじゃいけないと思って村長に返してやったんだ」
ルフィは大真面目だ。
「けど、落し物持ってきたぞって言ったのに、殴られた」
ひでえんだ、あの馬鹿村長、とぼやいている。
「あー……なるほどねえ」
ルフィはまだ十三だ。あの本についてどの程度理解して言っているものか量りかね、エースは曖昧に腕を組む。
だがルフィは唇を尖らせて、こう続けた。
「大事なエロ本だと思って返してやったのに、馬鹿村長。きっとおれに見られて恥ずかしいから怒ってんだ、おれが盗ったんじゃないのに。……読んだけど」
「よ……読んだのか」
「ああ読んだ」
大きくルフィは頷いた。
「とてもいやらしかった」
「そうか……」
これは困った話題だ。
他の村の連中となら平気でそんな話も出来るが、相手が弟だと話が別だ。どうも……気まずい。ルフィの方では気まずいとは思っていないようだ。暫く黙って飯を口に運んでいたが、再びエースの方を向くと、今度は、なあエース、と、ねだるような声を出した。
「エースはしたことあるのか、ああいうこと……」
自分より年長で、なんでも知っている兄貴だ。
そんな純粋な尊敬がその視線にはあった。
途端にエースはかっと頭に血が上ってなにも考えられなくなった。頬が熱い。どうしようもなく恥ずかしくなった。
「アホか!」
声が上ずってしまいそうだ。
「そんなことより、風呂はいって寝ろよ、もう遅ェだろ。近頃夜遅くまで出歩いてばっかで、どうかしてる」
顔を覆いたい。変な汗が額に滲んでくる。
「なんだよ、エースの怒りんぼ」
ケチ、と言い捨ててルフィは食器を流しに下げ、風呂へ行った。
エースは暫くテーブルから離れられなかった。嫌な気分だった。ルフィと同じ年齢の時に初体験を済ませた。相手は年上の女だった。軽い興味でしてしまったのだ、意味などなかった。ルフィの顔を見ると、何故かそのことがとても恥ずかしく思われた。弟に知られて良いようなことではない。
その晩、いつものように布団を並べて寝ているとルフィがエースの寝床に潜り込んできた。何かねだることがあるときに、彼はいつもそうする。エースは身構えた。
「なあエース……」
ルフィが声を忍ばせる。
ああ、夕飯のときの、あの話題に触れるつもりじゃないだろうか。
そう思うとエースは気が気ではなかった。背中を向け、無視して寝ようとする。
「なあエース……」
ルフィが手を伸ばしてエースの肩を揺さぶった。その甘えた仕草に苛立って、エースはますます頑なに背を向けた。
「エースは来年、海に出ちまうの」
ルフィの質問は、エースが思っていたのとは違うことだった。まっすぐな、ぽつりとした声だった。
「おれもすぐ海賊になりたい」
「駄目だ」
背中を向けたまま、答えた。
「十七になるまで、駄目だ」
「なんで」
「なんでも」
「なんでだよ」
「なんでもだ。ガキだからだ」
「ガキじゃねえよもう」
「ガキだ」
エースはもそりと起き上がり、振り向いてルフィを見た。夜闇のなか、黒い瞳がつるりと窓からの明かりを反射して光る。
ガキだ、おまえなんか、と言ってから、エースは再び布団に潜って目を閉じた。ルフィの体温で温かい。密着した二つの身体の間で、ふくらはぎに小ぶりな膝頭があたると、身体の奥から、溜め息のような震えが湧いた。ルフィの膝は大抵すりむけて、かさぶたでザラザラしている。体温の高いその身体からは、今でも子供のような甘い汗の匂いがする。
しばらく取り替えていない自分の寝床のシーツから、男の体の匂いがするような気がして、急にいたたまれなくなった。弟はどう感じているのだろう。背中に鼻先を埋めるくらいくっついて、犬の子に似た仕草で額を摺り寄せている。
首の骨の付け根に、あの素直で艶々とした髪がちくちくささり、今少しでも身動ぎしたら、おかしな震えが肌の上を這い出しそうで、エースは息を潜めてルフィが眠るのを待った。
何かが喉元までせりあがり、唇をひらけば叫びになって溢れ出しそうだ。
どうしてこの子をおれに預けた、どうしてこの子をおれに会わせた、と、叫んでしまいそうだった。
・・・これが(私の個人的判断では)一番アレな場面かなーと思ってサンプルに選びました。ご参考までに。