グレイゾーン



こんな何でもない道端で、再会するとは思っても見なかった。もっと劇的に巡り合うか、あるいは二度と会わず、永遠に美しい思い出となって胸に輝くのだろうと思っていた。
サンジは足を止め、立ち尽くした。見慣れた顔だが、もう十年以上も会っていなかった。濃いグレーのスーツなんかを着て、最後に見た時と寸分変わらぬ仏頂面で目の前に立っている男に、どう声を掛けようか、一瞬だけ悩んだ。
年末の街中は、慌しい人の流れでごったがえしている。立ち止まったままの二人は実際随分通行の邪魔になっていた。今にも押されて、流されそうだ。
「おいゾロ」
声が喉に絡むようだった。久しぶりに名前を呼んだ。なのにゾロは眉ひとつ動かさない。
「ちょっと……、つきあえよ」
「あ?」
返ってきた声は思いのほか呆けた感じで、そうか、こいつも驚いて無表情になってただけかと、昔、毎日のようにつるんでた頃を思い出して少しほっとした。
そうだ、人相は悪いが、そうおっかない奴でもない。
無口なのは馬鹿なだけだし、無表情なのも気が利かないだけだ。
サンジは一瞬だけぎゅっと目を瞑って身をすくめたが、次の瞬間勢いよくゾロの腕を掴んで強引に歩き出した。なぜか笑いがもれる。
「つきあえよ、ちょうどよかった、お前の力が必要だよ」
「あ……、おい、なんなんだよ、てめえは」
引き摺られるように後ろ歩きで歩き出しながら、ゾロが質問か抗議か、単に状況についていけないだけか、何か文句のようなことを言おうとしていたが、聞いちゃいない。
だって、昔っからおれらはこうだったじゃねえか、とサンジは思った。まだ今よりうんとガキで、いっつも一緒に居た頃、何の説明もなくサンジがゾロの腕を掴んで歩き出したとしても不思議に思ったりなどしなかった。それが日常茶飯事で、当たり前のことだった。
駅前のちゃちな商店街には本屋が二軒とカラオケが一軒とボーリング場が一軒と、あとはヨーカドーしか遊べそうな場所はなかったけど、それだけで一日中遊んでいられた。雨の日も、雪の日も。



ゾロとサンジは家が近所同士だったこともあって、幼馴染だった。最初に出会ったのがいつだったのか思い出せないくらい昔からお互いの家を行き来していた。大抵は喧嘩ばかりしていた。腐れ縁だ、全然気が合わないと思っていたが、頭の程度は意気投合していたようでうっかり高校まで一緒だった。
一生このまま普通に友達で居るのだとサンジは思っていた。時々喧嘩をして、はりあって、たまに一緒に登下校する。
だが高校卒業と同時にゾロは遠くの大学に推薦が決まり、サンジは実家のレストランで本格的に料理人を目指すことになった。
大学の夏休みくらいは戻って来るだろうが。
これから先は、少しずつ疎遠になっていくのだなとサンジは理解した。そんなことは人生に何度でも起こる出来事だ。
別にだからどうということでもなかった。たまにしか会わないからと言って、急に他人になるわけでもない。少しぐらいは寂しいと感じていたかも知れないが、耐え難い別れだなんて、思ったこともなかった。なんともなかったのだ。
卒業式のために二人でヨーカドーでスーツを選んだ。ベルトが二本ついてセット価格でこのお値段、というような雰囲気のありふれたスーツだった。確かサンジが淡いグレーを、ゾロが濃いグレーを選んだ。フレッシュマン用のスーツ売り場には、黒かグレーのスーツしかなかったのだ。
卒業式で散々女の子たちとの別れを惜しんで、友達とも騒いで、浮き足立った気分のまま家へ帰った。偶々ゾロも一緒になった。約束したわけではない。偶然同時に校門を出たので並んで帰っただけだった。
田舎道はアスファルトだけ毎年理由の分からない工事で新調されるので、黒々と真新しかった。道路の脇は雑草が茂り、それが全て枯れて荒れ野のように寂しい風景が続いている。
自転車を引いて歩いていると、ゾロの背中が他人のように見えた。
二人で選んだスーツだったが、まるでゾロの印象に馴染まない。
サンジの家のほうが学校から近い。家の前で立ち止まると、ピンと角のとがった襟が目に入った。しつけ糸をほどいたばかりの袖のタックや、薄く縦横に織られた格子模様が、どうしても、ゾロに似合わないような気がしてたまらない気分になった。
他人になってしまう、とそのとき突然思った。
ゾロともう他人になってしまう。
サンジはゾロの腕を掴んで自宅の玄関へ引っ張り込んだ。ゾロは驚いた顔をしたが、そうかと思うとすぐにサンジの腕を引っ張り返し、玄関ホールの石畳の上を足をもつれさせながら歩く頃にはゾロの方がまるでサンジを強引に引っ張りこんでいるようだった。
ジジイはレストランの仕事中で、家のなかには誰もいないと分かっていた。
そのまま廊下でキスをした。
艶のないボタンの、冷たい手触りまでまだ覚えている。
他人を手に入れることや、抱き合う意味に、まだ不慣れだった。
多分、スーツを脱がせたかっただけだ。
それっきり、二度と会わなかった。わざとではない。たまたま、会うような機会がどこにもなかった。



「まさかてめえまでこっちに出てきてるとは思わなかった」
ビルのエレベーターに乗りこむと、ゾロは肩を竦めて見せた。
「実家のレストランはどうしたんだよ、あ、それとも遊びに来てるだけか。観光か」
「観光ってなんだよ!どこのおのぼりさんだよ!」
ゾロは最後に別れたときと似たような濃いグレーのスーツ姿なのに、あの頃とは違ってすっかりサマになっている。それで人を馬鹿にしたようなしぐさをされると、大変腹立たしい。
「実家は……、別にいいんだよ。今はちっせえ出版社で働いてる」
「へえ、てめえが会社勤めか」
「ばっ、ばかにすんな、おれだって普通に働けんだぞ、てめえなんかより有能だし!」
「別に馬鹿になんかしてねえだろ。おい、ついたぞ、この階で降りんのか」
「ああ、うん」
促されて、サンジは慌ててエレベーターを降りた。ゾロがそれに続く。
廊下にはクリーム色の絨毯が敷かれ、壁際に赤や緑、オレンジ、ピンクのライトが据えられて異次元みたいに足元を照らしていた。
甘ったるい果物の匂いがした。
「今は出版社で料理の本とか特集とかの本を出してるんだよ」
「へえ」
席に腰かけて、ゾロは隣の椅子にカバンを投げ出す。茶色の革のカバンだ。昔は年中色のあせた紺のリュックを背負っていたくせに、まるでいっぱしの社会人みたいだ。
サンジも仕事帰りなのでスーツだが、こちらはラフに、スリーピースのベストの変わりに、薄茶のセーターを中に着ていた。寒がりなのだ。
「今日は取材の下見でこの店に来たんだけど、助かったよ、男一人でフルーツバイキングとか人目につきすぎるじゃねえか」
脱いだコートを椅子の背にかけて、サンジはソワソワとあたりを見渡す。基本的に、彼はレストランやカフェに行くといつでも楽しそうにしている。
「スーツ姿の男二人の方が目立つだろ」
ゾロが肩を竦めると、
「そう言うなよ、ほら、リンゴとってきてやるよ今」
「なんでリンゴだよ」
「だって、おまえ好きだったじゃねえか、リンゴ。おまえが水疱瘡で休んだとき、給食のリンゴを持って行ってやったら、すげえ嬉しそうにしてただろ」
「何年前の話だ」
「あ、なんかあれ、リンゴのケーキなんじゃねえか、よし、あれも持ってきてやるからてめえおれのカバン見てろ」
「勝手にしろよ」
ゾロが背もたれに背を預けると、サンジは席を立って皿を取りに行った。しばらくすると、いっぱいに果物や料理の載った皿を持って戻ってくる。どれも女の好みそうな色合いのメニューばかりだった。その皿をゾロの前に置き、似合わねえ、とサンジは笑い転げる。
「ゾロが、いちごムース、ありえねえ」
肩を震わして笑う。
ゾロはフォークを手に取った。
「てめえ、こういうのも上手いな」
「は?」
サンジはまた笑いながら目線だけ上げた。
「皿の上に食い物盛るの、こういう場所だと、もっとごちゃっとするもんだろ。でもてめえは載せるの上手いな。なんか、美味そうだ。ずっとレストランとかで働いてると誰でもこんな上手くなんのか」
「…………」
サンジは複雑そうに唇をゆがめた。
「なんだよ」
ぷい、と顔を背ける。
「どうでもいいだろ、そんなこと」



卒業式で後輩から貰った花束は、二人の身体の下でくしゃくしゃに潰れてしまった。
着慣れない、真っ白なシャツの袖の、糊のきいたふちが憎らしかった。
手首の内側は、全身ムキムキのゾロでも皮膚が柔らかかった。サンジはそこへ指を這わせた。まっすぐ伸びる腱を辿って、青い血管を押しつぶすように、何度もなぞった。袖のなかに指を入れたとき、はっきりとゾロの呼吸が熱くなっているのを感じた。サンジだって似たようなものだった。
廊下の板目の上に身を投げ出して、足をばたつかせる。偶然のように膝と膝をぶつけていたが、そのうち露骨に足をからめ、身体を揺さぶって、今自分がどんな状態か、お互い相手に訴えた。
もうどうせ離れてしまうんだから、とサンジは考えた。
どうせ離れてしまうんだから、キスを百回してもいいし、二度と顔をあわせたくなくなるくらい酷い言葉を投げつけてやってもいい。
だが結局、キスは何度かしただけで心臓がドキドキしてもう駄目だと思ったし、酷い言葉なんか思いつかずに、「そのスーツ似合ってねえよ」と言うだけで精一杯だった。
「てめえが選んだろ」
とゾロは言った。
二人で、ヨーカドー五階の特設フレッシュマンコーナーで選んだのだ。似合うも似合わないもない。



「いやー、でも本当、十年も会わなかったなんて変な感じだな」
夜道を歩きながら、サンジはうんと伸びをした。
裏道に入ると、途端に人通りが少なくなる。電気屋の搬入口で、ダンボールに躓きそうになって、おっと、とよろける。
「なあ覚えてるか、まだ小学校あがるかあがらないかくらいだったかな、てめえが、よそんちの木になってる赤い実を、リンゴだって言い張って。全然ちげえのに」
「そんなことあったか」
「あったよ。てめえはほんと、リンゴとバナナが好きな男だったよ」
「変な言いがかりはよせ」
「言いがかりじゃねえよ」
サンジはくつくつ笑う。そしてまた、ダンボールにぶつかってよろける。笑いすぎだ。
「でもさ、てめえがリンゴだってあんまり真面目に言い張るから、おれもあれがリンゴのように思えてきて、二人して、木に登ってもいだよな、赤い実」
「おぼえてねえよ」
「おぼえてねえのかよ!驚いたな」
「覚えてるほうが驚く」
息が白くなるほど、空気は冷えていた。裏路地は細く、曲がりくねっているのでゾロには現在地が分からなくなった。だがサンジは自信ありげに歩くので、ついて行けばどこかの駅に着くのだろう。
「なんで、あの実をリンゴだって信じたんだろうな。果物とか、おれ、詳しかったのに」
マフラーでぐるぐる巻きに首から顎までを隠して、サンジはカバンから手袋を取り出した。寒いんだろう。
「おい、てめえんちのレストランはどうしたんだよ。コックになるって言ってたじゃねえか」
ゾロはまた尋ねた。サンジは嫌そうに唇を尖らせる。
「うるせえな……、いいんだよ。ジジイがおれを追い出したんだ。二十歳になったら出て行けって急に言い出して。仕方ねえだろ、おれ元々養子だし」
「てめえんちのジジイが?なんで」
「知らねえよ、おれはあのレストランを継ぐつもりだったんだ、ちゃんと」
それなのに、急にジジイがさあ、と言いづらそうにしている。
「それで、てめえはどうしたんだ」
「出て来たよ。それで、しばらく海外でコックの修行してたんだけど、こっちに戻ってきて、ジジイのとこ以外で働く気になれなかったから、普通に就職した」
「え、なんでだよ、戻れよ、アホか」
ゾロが、突然心底馬鹿にした顔で言う。
「戻れねえだろ」
サンジは言い返す。
「おれは追い出されたんだぞ」
「そりゃそうだろ、てめえが爺さんとこのレストランを足枷みたく考えてたら困るからだろ」
おまえ、知らなかったのかよ、おまえんとこのジジイは、おまえのことを猫っかわいがりしてて、それはもう周りがあきれ返るほどだったんだぞ。
ゾロは生意気にも眉を片側だけ顰めて、偉そうに腕を組んだ。
「なんだそれ」
サンジはますますふてくされて、そっぽを向いた。
それから二人はまた並んで歩いた。
昔は二人ともスニーカーばっかり履いていた。今は革靴の足音が、重い音をたてて夜道に響く。
時折建物が途切れると、路地の向こうに表通りのネオンが瞬いて見えた。
急に、サンジが笑い出した。
「あのさ、おれもそう思ってた」
「ああ?」
振り向いたゾロの顔は、うんと威圧的だったがサンジにとっては慣れたものだ。
「同じこと、考えてたよ。そのうち戻るよ、実家に。今ちょっとごちゃごちゃしてるから、様子見てるけど、そのうち」
「へえ」
見慣れないスーツを着ても、ゾロの手はあの頃と同じように、ごつごつしている。関節が太く、爪のかたちが四角い。いつでも深爪をしていた。今でも変わらない。
手首の内側の皮膚は、今でもやわらかいのだろうか。うす青い血管は、今でもサンジの身体に触ると、強く脈打つのが指で触れて分かるだろうか。
ずっと好きだった、こいつは何も知らないだろうけど、とサンジは目をそらす。
おかしくて、奇妙な夜だった。
このまま駅について、そこで別れてしまえば、また十年も会わないだろうか。



別れ際の改札で、携帯の番号を教えろと何度も言おうとして言い出せないまま、サンジは不機嫌に、
「てめえ、卒業式のときとちっとも変わりばえしないスーツだな」
と憎まれ口を叩くだけで精一杯だった。
ゾロは頷いた。
「てめえと一緒に選んだじゃねえか、あのとき」
てめえが赤い実をリンゴと思い込んだのと似てんのかも知れないな、と言って目を細めた。
「あの時、てめえがこの色のスーツを選んだから、スーツっていったら、これが普通のような気がするんだ」
「…………」
サンジは落ち着きなく何度も手の指を擦り合わせて躊躇して、携帯の番号ではなく、今夜これからうちに遊びに来ないか、と切り出すタイミングをはかりはじめた。
今でもまだ、誰かを失うことはたやすく、手に入れることは難しい。





2010 1月大阪用ペーパーより転載