境界線





秋、木の葉を襲った厄災は、オレから帰る家を奪った。
中忍試験に絡んで行われた侵略は至る所に爪あとを残し、壊れた建物、抉れた地面、どこまでも薙ぎ倒された森林が復旧の順番待ちをしていた。
しがない中忍用共同住宅など、後回しになるのが道理だった。
親兄弟や親戚の家がある者はいいが、無い者も居る。
こんな里に住んでいれば、縁故者が全く無いというのは、珍しいことでもなかった。
そんなわけで、オレは住居割り当ての担当部署へ相談へ行った。と言っても特別な機関があるわけではなく、任務受付の一部に窓口が仮設されただけに過ぎない。以前は火影様が一括してそういった雑事を処理していたのだが、今、あのひとは、どこにもいない。オレが以前住んでいたアパートを割り当ててくれたのもあのひとだったのに。
「困りましたね、どこにも縁故がないんですか……」
「はあ、無いですね。同僚を頼るにしても、連中の部屋も同じアパートだったわけでして、全壊してます」
「うーん、子供用の大部屋ならあいてますけどね」
「え、子供達と一緒ですか……いいですけど、困ったな」
「あと一ヶ月くらいの辛抱ですから、そのくらいで新しい居住棟も完成しますから」
仕方ないなあ、とにがりきって了承しようとした矢先、背後から声がかけられた。
「それならオレんちに来たらどうです?うちもアパートだから寝室一つしかないけど、まあ壊れてはないし、それで良ければ」
振り向くと、カカシ先生がいた。
僅かに覗く片方の目は細められ、飄々と彼はオレの肩へ気安く手を掛ける。
夕方の時間帯の為に、多くの人間が受け付けに並んで報告書を提出するための順番待ちをしていた。彼も恐らくその中の一人だったのだろう。そして目ざとくオレを見つけた。
「え……そんなの」
悪いですよ、と断ろうとしたのに、何故かオレより先に住居割り当ての担当者がぱっと顔を輝かせた。
「いいんですか?助かります、そうか、イルカ先生は、カカシ上忍とご親交がおありだったんですね、いいなあ、こういうとき、頼りになるひとがいて」
冗談ではない。
実際オレと彼とはそんなに親しい間柄でもない。同居を申し出られるなんて、本当に案外のことで、却って困惑するばかりだ。
それなのに
「良かった良かった」
とやたら力強く言う担当者(恐らく厄介払い出来るとでも思ったのだろう)と、にこにこ人懐こそうに微笑むカカシ先生を前に、断ることなんて、オレには出来なかった。
こういう時、相手をがっかりさせるということが、オレには出来ない。



「ここがオレの部屋」
カカシ先生はにこにこしながら鍵を開けた。
案内された室内は質素で、中忍用の住宅とそうは違わない。
玄関を入るとすぐにリビングがあって、リビングと繋がってキッチンがある。風呂場やトイレ、洗面所もリビングから繋がっているようだ。そして、キッチンがあるのと反対側に寝室への扉があった。
部屋へあがるとすぐに、カカシ先生はまず懐から赤いマジックを取り出し、床へ線を引き出した。
「カカシ先生?」
不審に思ったオレの問いかけに、彼はにこにこと笑顔だけで答える。
玄関の床から、リビングへ。
リビングを通過して寝室へ。
寝室の中へ入ってベットのシーツの上へも。
丁度部屋を二等分するように赤い線が引かれた。
「はい、出来た」
まるでテストの点を誉めてもらいにくる子供のように、彼は無邪気だった。
「この線からこっちがイルカ先生の領土。こっちはオレの領土」
「…………」
何が領土だか。
彼の行動はまるで小さな子供と変わらず、そして小さな子供ではありえないほど、タチが悪かった。
「ここから、はみ出ないで下さい」
彼は機嫌良く目を細めたまま、宣告した。



その日から奇妙な同居生活がスタートした。
部屋の中は真っ二つに割られ、赤い線から互いの領分を侵犯することは厳しく禁止された。
風呂場とトイレのある洗面所の入り口から先だけ、線がない。ここだけはさすがに共有にしてくれるらしい。
台所の水道の、水が出るほうがオレに割り当てられ、お湯しか出ない給湯機が彼の持分だ。だから彼は朝から水ではなくてお湯を飲む。もともとあまり台所は使っていないものらしく、然程の不自由は感じないらしい。ガスコンロはオレの領分にすっかり入ってしまっている。不要物扱いだと思った。彼は滅多なことでは自炊しない。
食卓の上も二等分されている。
彼はしょっちゅう食事のあとの食器を片付けないで放置するから、オレは気になって仕方ないのだが、境界線で区切られた向こう側のことなので、勝手に片付けることも出来ない。
赤い線の向こうで、カカシ先生は、まるでオレのことなんか、目にはいっていないかのように振舞う。話し掛けてもこない。寝っ転がって本を読んだりケツを掻いたりしている。
一緒に住む、と言われた時にオレが危惧したこととは、正反対の結末になった。オレは、彼がオレをどんなふうに思っているかぐらい知っていた。



境界線の向こう側と会話をするためには一つのルールのようなものがあった。
「イルカ先生」
「はい、なんですかカカシ先生」
と、互いに呼びかけ、返答があったときにのみ、会話が繋がる。
彼は殆ど話し掛けてこないが、偶に食事の時間帯が一致したりすると、食卓の向こう側から声を掛けてくることもあった。
「ねえ、イルカ先生」
「はい、なんですか、カカシ先生」
オレは作り置きの煮物を、彼は惣菜屋の弁当を食べながら、あまりお互いの顔を見ずに話した。
「アンタ、よく子供らと一緒に住もうなんて考えましたね」
「え?」
「だってアンタはオレが靴下を脱ぎっぱなしにしてるだけで気になったりしてるじゃない。子供なんか居たら、もう、部屋ん中なんかぐっちゃぐちゃだよ、それに煩いし」
「…………」
「まあ、イルカ先生は子供らと仲がいいですもんね、うまくやっていけたのかもね」
余計なことしちゃいましたね、と彼は言う。
「そんなことないです、助かります」
それ以外になんて返事が出来ただろう。
「カカシ先生の部屋は静かですね」
言ってしまったあと、少しイヤミだっただろうか、と心配したが、彼は気を悪くしたようでもなく
「ええ、いつも一人ですし、隣りに住んでた奴ももう2ヶ月くらい帰って来てないんでね、物音もしない」
ニコニコと答えてくれた。
「上忍に一人一部屋は贅沢かもしれませんねえ、あんまり家に居ない奴も多いんだから」
彼の話は、オレには少しぞっとするようなことも多かった。
「ねえ、どうしてイルカ先生は誰にでも優しいんですか?」
食事を終えた彼に、オレはお茶を淹れて差し出した。
ことり、と食卓の境界線上に湯のみを置くと、それを彼が引き取って、熱そうにふうふう吹きながら、啜った。
彼の言い方は、からかう風でもなく、ただ不思議だというようであった。
「そんなことないですよ」
オレは困って、そう答えた。
「だって子供らと一緒に暮らせるなんて……」
「そんなの」
オレは教師なんだから、普段通りのことなのだ。
「だって煩いよ、子供」
「平気ですよ、嫌いじゃありませんから、賑やかなのも」
「ほら」
カカシ先生は目を細めた。
「そういうとこが、優しいです」
オレは何とも言えず、俯いた。
イルカ先生は、と彼は続けた。
イルカ先生は、誰にでも優しい。
そう言って笑って見せるが、その言い方は、まるで静かな毒を含んでいるように思われた。



夜になると、彼とオレは同じベットで眠った。
けれど、赤い線の向こうは、まるで別の国のように遠い。
眠りについてなお、彼がそのシーツ上の稜線からこちらへ踏み入ることはなかった。さすが里の誇る上忍だ。
他人の居る寝床に、オレはなかなか寝付けず、何度も寝返りをうった。
暗闇のなかで目を開けると、彼はこちらに背を向けて横たわってた。
ふと、その背中が不自然に揺れることにオレは気付いた。
しかもあろうことか、「うん」とか「んふ」とか、悩ましげな溜め息まで聞こえてくる。
何をしているのかはにぶいオレでも分かった。
カーッと頭に血が上るのを感じた。
オレはここに居ないのか。
ここに居ないものとみてるのか。
「か……カカシ先生」
ふりしぼるようにしてだした声に、返事は無かった。
会話は繋がらない。
今、この部屋のなかで、境界線の向こう側は、繋がらない別世界だ。
彼はオレを無視している。不愉快が根を張ってゆく。この二等分された部屋の底に。



翌日、あまり眠れなかったオレはあくびばかりしていた。
なんだか身体が重い。
幸いにもアカデミーの仕事だけであがれたので、夕方には帰路につくことができた。
だが、それはカカシ先生の家への帰路だ。
はやく自分の家でのびのびしたいものだ、と思いながら、夕飯の材料を買い込む。今日は何か簡単につくれるものにしようと献立を思案する。魚屋の店先を通った。切り身を買った。漬け物がまだ残ってるはずだし、あとはありあわせで適当に。
彼から手渡されている合鍵でドアを開け、赤い線の引かれた室内へ帰る。
寸断された部屋の、切り取られた向こう側で、彼は惣菜屋で買ったものらしい弁当に箸をつけていた。
「随分早いですね」
オレは彼に声をかけた。
返事はなかった。
ああそうか、と思い当たり、胸の奥で不愉快が芽吹くのを感じた。
ここでは、彼のルールに従わなくてはいけないのだ。オレが望んでここにいるというわけでもないのに。
「カカシ先生」
オレは言い直した。今度は返事があった。
「はい、なんですか、イルカ先生」
「今日は……」
早いんですね、と言おうとして、オレはやめた。
まるで彼の帰宅が早いことを厭うように聞こえるのではないかと心配したからだ。
「……弁当ばかりじゃ飽きませんか?今日はオレが作りますよ」
「いえ、いいですよ、そんなこと」
「ありあわせだし、大したものは作れませんけど」

間借りしてますしね、せめてもの御礼です。

そう続けたオレの言葉に彼は目の縁をさっと赤くした。
「そんなの」
と、彼は呟いた。そして俯いた。
余計なことを言った、とオレは後悔した。
彼に借りを作りたくない、というのは、実際オレの本心であった。
だがそればかりでなく、どうしようもない世話焼きの性分が胸を突いて、黙っては居られなかったのも事実だ。
赤い、細い、一筋の心許ない断絶の向こうで、彼は冷え切った食事をしている。
見てはいけない構ってはいけない、と知りつつも、オレは結局それを放っては置けないのだ。
この世話焼きの性分について、後悔することもしばしばなのに、どうしてか、これだけは決して手から離れることのない習い性のようなものだった。



アカデミーの校舎は真っ先に復旧工事が済み、一部損壊箇所を残してはいるものの、昨日から通常の授業が開始された。もうすぐオレにも新しい居所が割り当てられるだろう。
廊下で久し振りにナルトと会った。
任務受付に向かう途中なのだろうか。
「せんせー」
嬉しそうにナルトは駆けてきた。小さな身体は生き生きとはずみ、生命力が溢れている。
「せんせー、辛気臭い顔して、どうしたんだってばよ」
「そうか?」
暫くずっと、よく眠れていなかった。
あんな不自然な同居を続けているんだから、気疲れするのも道理だ。
「オマエは元気だなあ」
「おうッ!鍛えてるからな!忍者は鍛錬あるのみーッ!」
「ははは」
アカデミーの廊下は長く真っ直ぐで、実用的で素っ気無い。
ナルトと二人並んで歩きながら、近況を聞いた。あの子は近頃、誰かカカシ先生以外のひとについて忍術を習っているらしい。彼に隔てなく接してくれるひとが増えたということが嬉しかった。
良い師を持てば、きっとあの子は伸びるだろう。



あの子に親切にすることを訝るひとも多いのだが、最初、手を伸ばしてきたのはあの子のほうだった。
オレは普段から子供たちと遊んだりすることを楽しむほうなのだが、それを見て、あの子のほうから近付いて来た。
窺うようなあの子の目に、このひとなら、という期待がひしひしと感じられて、オレには放って置けなかった。
大したことは、してやっていない。
それでもあの子は喜んで、いつでも一緒に居たがるようになった。
ただオレは、流されて、放っておけなかっただけだ。
ああいうのは、見ていられない。
そういう性分なのだ。



年の瀬も押し迫った頃、新しい中忍用の宿舎が完成した。
カカシ先生の部屋へ同居することが決まったときと同様、任務受付の脇へ設けられた臨時の窓口へ赴き、今度こそ部屋の割り当て票を受け取った。
これでようやく、これまで通りの生活に戻れる。
妙にほっとして、オレは葉書くらいの大きさの紙片を大事にベストの胸ポケットに入れた。
「もう出てっちゃうんですか」
唐突に背後から声が掛けられた。
振り向かずとも分かる。あの人だ。あの奇妙な同居が始まったときも、同じく彼がこうやって声をかけてきたのだった。
「もうちょっと居ればいいじゃない」
「いえ、オレは……」
遠慮のように口当たりの良い否定の言葉を用意しながら、オレはゆっくり彼のほうを向きなおった。
「あと少しだけ。あとちょっとで、クリスマスも、お正月もあるし」
同居と言ってもあの境界線を越えることすら許さないくせに、彼は、思いの他傷ついたような顔をしていた。
オレが断ることを知りながらも縋るような、弱者の顔をしていた。
「急がなくても大丈夫ですよ、今すぐ入居しなくてはいけない決まりもないし、イルカ先生の部屋はもう割り当てが決まっているんですから」
受け付け担当がまた余計な口をきいた。
まったく悪意ともとれるような助言を、善意に満ちた様子で投げかけてくれるのだから、オレにはもう、どうしようもない。
どうしようもないのだ。
あの赤い線で区切られた、真っ二つの部屋へ帰る他ない。



もうここに来て2ヶ月近くが経つ。
その間にこの部屋の、オレの「領土」には生活に必要な細細とした物が増えてゆき、生活しやすいように配備された。
こういうのが生活感というものだろう。
ところが彼の生活スペースは、生活感が薄い。
雑然としていながら、生活することを目的としない配置でとり散らかり、まるで廃屋のように静まり返っている。ただ無秩序に投げ出された本や、着替えや、食器が、オレを寛いだ気分から遠ざける。そして執拗に境界線を守りつづける彼の行動逐一に疲労する。
だが、その気詰まりから、ある日あっさりと解放された。
彼が長期、遠方への任務に出た。
クリスマスもお正月もあるし、と言ったくせに、クリスマスの数日前にはふらりと居なくなってしまった。いつぐらいに帰るのかは聞いていないので分からない。近頃帰って来ないなあ、と訝って同僚に尋ねたら、どうやら長期の任務らしいことだけが分かったのだ。
そして、通常の任務受付を通さないことから、危険な仕事であることだけが理解出来た。



空っぽの部屋の中で、オレは律儀に境界線を守って、半分だけの生活を続けている。



何故この部屋を出て行かないのか、分からない。
オレのための部屋は、とうに準備されているのに。
ただ、ここへ帰って来たときに誰もいないことを知り、がっかりするあの人の様子を想像すると、駄目なのだ。
この線から入らないで下さい、と言いながら、もう出てっちゃうんですか、と引き止めた、彼の顔がちらついて離れない。
あの人はオレのことを好きなのだ。
もうずっと前から知っていた。
あの人はオレにキスされたり、抱きしめられたり、甘い言葉を囁かれたり、抱かれたり、そういうことがしたいのだ。
知っていた。
境界線に安堵したのはオレなんだ。
もしもあの人が寂しい顔をして、ねえこっちへ来て下さい、と言ったとしたら、きっとオレは断れなかっただろう。放っておけないのだ。オレはそういうのに弱いのだ。救いようのないほどに。
オレは周囲から思われているほど親切な男ではない。要求された以上のことは決して相手に与えようとしない偏屈だ。
彼のまるまった頑なな背中を思い出す。
どうして彼にもっと優しくしなかったのだろう。



クリスマスが過ぎ、形ばかりの仕事納めが過ぎ、オレは休日を利用して部屋の大掃除をした。半分だけ。
それから腕まくりをし、雑巾を持ち、箒を構え、大きく、赤く引かれた一本線の向こうへ踏み出した。
この性分のことで後悔することはしばしばある。
廃墟のように無垢であったその世界を、踏み荒らしてしまったのだと思った。
誰も居ない部屋は静まりかえり、ひっそりと、塵が積もってゆく音さえ聞こえそうだった。
冬の陽光は真昼でありながらも部屋の隅までは届かず、ある種の感銘を与える清浄さを持っていた。
ここで、もう暫く彼を待とうと思う。
彼が戻ればまた、疲れるだけの生活が繰り返されると分かりきっているのに、放ってはおけない。
ただ当たり前のことだけを願う。それ以上は願わない。
境界線の向こう側へも、等しく、新しい歳が訪れますように。



05/01/29

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大好きだったフジイさんのサイトが閉鎖されてしまうとのことで、私には出来ることも何もなくて残念なのですが、本当に拙いSSではありますが、心のなかで、これはフジイさんに捧げさせて頂きたいです。
フジイさんと出会えたことは、イルカカやっててとても楽しくて幸せだったことのひとつです。
これからも大好きです。
お疲れ様でした!*