上映作品:股旅三人やくざ 2004.08.29-09.04 修三は、新宿から中野方面の電車に乗っていた。 この日、夕方5時半をゆうに回っていただろうか、新宿から事務所に戻る予定で帰宅ラッシュに溢れるJR新宿駅の改札口を入った。 池袋方面電車に乗るつもりだったが、突如反対側停車中の電車に飛び乗ってしまった。 直ぐにドアが閉り電車が走り出すと、間際まで躊躇していた気持ちも吹っ切れた。 これから電車が向かう先へ我が身を委ねるだけだった。 「賽は投げられた」そんな気持ちだった。 先日のお台場『御用金』、昨日の横浜『商魂一代 天下の暴れん坊』と、錦之助映画を立て続けに観て、今日は阿佐ヶ谷の『股旅三人やくざ』に向かおうとしているのである。 錦之助映画めぐりに明け暮れた若い頃の思い出がよぎった。 それに、今日も退社時間を過ぎたし寄り道しても別に問題があるわけでもなかった。 ラピュタ阿佐ヶ谷『股旅三人やくざ』 上映開始時間が6時50分からであり、映画が終わって帰宅する時間が夜の10時をゆうに回ってしまうため、翌朝の仕事もあり映画を観るのは無理だと諦めていた。 それが改札口を通過して駅構内に入ったとたん、突如、修三の足は思いとは別の方へ向いてしまった。それでもまだ気持ちは迷っていた。 電車のドアが閉り、池袋とは反対の方面に電車が動き出してから「仕方ないなあ」と自分に言い聞かせた。「もう後戻りできないんだから・・」 映画館の観客は10人もいなかった。 しかし、こういう空間は修三にとって特に違和感はなかった。 あるとすれば背広にネクタイとカバン。 見るからに勤め人風な自分の風体であることかも知れない。 『股旅三人やくざ』この作品は昭和40年に公開された。 秋の章、冬の章、春の章 三部に分けたオムニバス映画である。 【哀愁と友情とお笑いと・・股旅もののサワリのエッセンスを三部に分け、拡大して見せた沢島忠監督の野心作】と映画評では述べられていた。 兇状持ちやくざ千太郎(仲代達矢)と宿場女郎おいね(桜町弘子)の哀愁を描いた第一話の秋の章。仲代のやくざはまさに正調派やくざ映画の定番メニューといった処。懸賞金のかかった自分の命を代償においねを自由にしてやろうという話だった。東映お姫様の桜町弘子が汚れ役で体当たり演技、美嚢柿(みのうがき)が木に成ったまま萎んでしまうのを見て「あんな風にしぼんでしまうのはいやだ」その言葉が印象的だった。 たとえ女郎に身を落としていても女としてのその気持ちが哀れでいじらしい。 なお、個人的には浪花千栄子扮する飯炊き老婆とのやり取りが唯一好きな場面である。大きなカマドと火。火の温もりと老婆が勧める一杯の煮物汁。兇状旅の千太郎にとっては虚ろな人生ただの一時の温もりに過ぎないだろうが。 第二話の冬の章は、老いたやくざ(志村喬)と若いやくざ(松方弘樹)の奇妙な友情を描いたもの。老やくざが寄る年波で捨てた女房と娘の処へ戻ってゆくがその娘(藤純子)に受け入れて貰えないでとぼとぼと立ち去る姿に自業自得とはいえ老いの共感を呼ぶ。しかし、話としては多少こじつけ気味で消化不良。親が子を子が親を思う心情は普遍ということを伝えたかったのかも知れない。なお、藤純子はこの後、東映やくざ映画でブレイクするのだがここではまだ花開く前である。 第三話の春の章は、話としては断然面白い。 錦之助ファンとしての贔屓目を割り引いても秀逸さが光る。 しかし、錦ちゃんファンとして、強くてかっこいい錦之助像を求めるファン心理としては多少当てハズレかも知れない。いわばカッコわるいやくざである。 かつて加藤泰監督の『風と女と旅鴉』で、それまでの綺麗な錦ちゃんイメージが損なわれるとファンから抗議が殺到したとのことであるが、それよりもっとカッコわるいやくざである。というより、錦之助映画作品の中で三本の指に数えられる「みっともない役柄」である。 だからこそ、そういった笑いの中で見事"やくざ否定"といったことを描いている作品ともいえるのである。 この映画が公開されたのは昭和40年5月。 『冷飯とおさんとちゃん』『宮本武蔵・完結篇』の力作の合間に力を抜いて撮った作品である。徐々に、金のかかる時代劇の製作が難しくなって行く頃だった。 そして東映やくざ映画の隆盛が始まり錦之助も沢島監督もやがては東映を離れることになるがそれはもう少し後の話となる。 さて、この面白可笑しい"カッコわるいやくざ"について少し触れてみよう。 秋の章と冬の章の暗い話が終わって、春の菜の花畑の牧歌的な風景と歌。 そしてすっぴんに近い扮装の錦之助扮する風の久太郎(きゅうたろうと聞いただけで強そうではない)が大根をかじりながら歩いている。 本当に大根をかじっている(おそらく辛そうだなと観ているだけでそう思う)久太郎は大根かじって口の中が辛いのだろう。小さな川の水を手のひらですくって飲む。一度、二度、そして三度、ふと顔を上げるとすぐ近く川上の橋の上から子供が久太郎の方を向いて川に立ち小便している。 「こら、この馬鹿野郎!この俺が見えねえのか」子供は黙って逃げる。 「きたねえ野郎だ!」子供相手にこのセリフ。 この笑いで春の章は幕開け。 これだけですっかり観客はとけ込んで行く。 子供が置き去りにした籠に川魚がありそれを焼いて食べている処へ、子供が村人を連れてくる。久太郎、焼いた魚をほおばりながら「何だ、おめえ達に文句いわれる筋合いはないぜ。俺は小便飲まされたんだ。子供の小便は毒がないといっても小便は小便だ」 村人は久太郎に腹が減っていないかと聞く。 「腹が減ってたらどうだってんだい」 「おめえ様に一献ご馳走差し上げてえと思ってよ」と村人。 「俺はねえ、おめえ達にゴチになる覚えはねえよ。こう見えたって風の久太郎といって、れっきとした男稼業だ」と突っ張って見せる久太郎。 村人は寄ってたかって「ぜひ親分さんの世間話を聞きたい」とか「親分さん」「親分さん」と久太郎をおだて上げた。 人の好い久太郎はすっかりその気に「俺らねえ、頼まれると嫌といえねえ性分で・・じゃ善は急げってことで早いとこ行きましょうか・・」と自分で腰を上げ催促する始末。 場面は変わって久太郎がむさぼるように飯にありついている姿。 子供が脇から「おじちゃんうめえか狸汁」「おらの捕ってきた狸だ」 「そうか偉いなあ」と子供の頭を撫でながらも汁椀にがつがつ食べ続ける久太郎。 村娘おふみ(入江若葉)に酒を勧めさせながら、村人は頃合を見計って久太郎に話しかける。 「親分さんは人を何人斬りなさったか」「5人かえ、10人かえ」と。 「そんなこと、てめえの口からひと様にいえるもんじゃねえ」と濁す久太郎。 「親分さん、本当に人を斬ったことがお有りなさるんか?」 そんな質問に 「何を。そもそもだな、無宿渡世は腕が立たなきゃ男が立たねーんだよ。その、男とは何だ。任侠渡世の道、義理の道、一宿一飯恩義の道、男涙のイバラの道、つんだ。イバラの道を行く限り斬ったはったは覚悟のうえだ。この道十年だてに飯食ってきたわけじゃないんだ。 おめえ達も困ったことがあれば何でも言ってくれよ。 風の久太郎きっと力になって見せるぜ」 と威勢良く格好つけまくし立てたのが運のつき・・ 一宿一飯の恩義をたてに人を斬って欲しいと頼まれうろたえる久太郎。 「ところで相手は何て人?」 「鬼の半兵衛(加藤武)って御領見廻りのお役人だ・・」 口先だけで腕のほうはからっきし駄目な久太郎。 この辺りの絶妙な演技、例えば渥美清のような役者が演じるならともかく、錦之助がこんな役を演じる処に、可笑しみと滑稽さとそしてペーソスがある。 錦ちゃんカッコわるいけどリアリティと共感がある。最高に可笑しい場面だ。 何とか逃げ出そうとするが、夜伽に差し出されたおふみの体に手を出すこともせず、結局、翌朝半兵衛と対峙することになる。 が、村人が見守る中、鬼の半兵衛を前に手も足も出ない惨めな結果に終わる。 久太郎に失望した村人は、通りすがりの渡世人木枯らしの仙三(江原真二郎)にすがるが、この仙三とんだ食わせ者で村人から金をせしめ姿を消す。半兵衛殺しの企み失敗で村長はしょっ引かれ処刑されることになる。久太郎この半兵衛に捨て身の勝負を挑むも絶体絶命の窮地に・・ 予想外の結末と相成ったが、これは観てのお楽しみかな。 おふみが名前を呼びながら久太郎を探すラストシーンは『瞼の母』『関の弥太ッペ』のラストシーンを彷彿させる。 菜の花畑の陰に隠れおふみをやりすごした久太郎。 「好い娘(こ)だなあ」 「堅気の娘にゃ手は出さねえ、男涙のイバラの道か、チェッ!くだらねえ」 「おふみちゃん・・」 久太郎は合羽に刀そして笠を高く放り投げ、立ち去って行った。 この村人の、義理人情を利用した役人殺しの強要と役に立たなかった久太郎への風当たりは所詮やくざ者への蔑視以外なにものでもない。 「汚いのはてめえ達だ」そんな久太郎の言葉にむしろ真実味を感じる。よくある話だ。 例えば、黒澤明『七人の侍』の百姓達の姿にも似ている。 弱虫で、こすずるくて、そして逞しい。 所詮、よそ者・風来坊は、一瞬つかの間に吹いた"一筋の風"のようなものということである。 こう立て続けに錦之助映画が上映されると、映画館通いが、やみつき・癖になりそう。 また電車でふらっと反対方向へ向かってしまいそうなこの頃である。 |
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