上映作品:宮本武蔵/宮本武蔵 般若坂の決斗 2003.08.30-09.05 8月30日(土) 今年の2月、品川プリンスシネマ"想い出の錦之介映画展"で完結篇を除いた『宮本武蔵四部作』を観て以来の"武蔵映画"である。 当初は、品川プリンスシネマで観られなかった『宮本武蔵 巌流島の決斗』『真剣勝負』の二本を観るつもりだったが、いつしか足が中野の方へ向いてしまった。 『宮本武蔵』 昭和36年のこの作品は、円熟機に差しかかった錦之助にとってまさに運命的な出会いだった。まさに「天・地・時の運」である。 決して偶然「武蔵作品」が転がり込んで来たわけではなかった。 この作品は錦之助にとってこれより早くても遅くても、こう(代表作)にはならなかった。まさに幸運の巡り合わせだった。そう思う。 少し前後を振り返って見よう。 昭和32年の『大菩薩峠』で宇津木兵馬役で内田吐夢監督と初めて出会う。翌33年『大菩薩峠 第二部』翌々34年『大菩薩峠 完結篇』と、この作品も年一作の公開だった。 錦之助にとって、この映画では今ひとつ燃焼しきれなかったようだが、同年秋の『浪花の恋の物語』で内田吐夢監督とガップリのガチンコ勝負で新境地を開くことになった。 おまけに共演した有馬稲子と結婚という私生活の環境変化も錦之助を一回り大きくした。 そして翌年の昭和35年「吉川英治作品」に挑むこととなった。『親鸞』である。 『親鸞』二部作で東映初作品となる田坂具隆監督との出会いが、また錦之助を内面の葛藤を演じる演技者としてチャンバラスターからの脱皮を促した。 これらの出会いとそれに応えてきた錦之助の評価が、内田吐夢監督と共に吉川英治作品の最高峰『宮本武蔵』に挑むことになったように思う。 荒々しく無知で粗野な人間"タケゾウ"の成長物語であり、併せて錦之助の演技者としての成長記録でもあった。 同年"武蔵"に次いで伊藤大輔監督との『反逆児』でも役者としてたちまち大輪の花を開花させた。 それこそ「演技開眼」と呼ぶべきものであった。 更に翌年の昭和37年『宮本武蔵 般若坂の決斗』が公開されたが、この年、山本周五郎作品『ちいさこべ』でまた田坂具隆監督と組むこととなった。 巨匠と呼ばれる内田吐夢・田坂具隆・伊藤大輔の各監督が、次々と錦之助とのタグマッチを競い合った。錦之助!これを"役者冥利"と言わず何と言う。 さて、宮本武蔵・第一部のクライマックスは"千年杉"だ。 沢庵と武蔵、二人のシーンは何度観ても胸を打つ。 このシーン観たさに映画館通いをしているようなものかも知れない。 「武蔵っ、武蔵っ」 「沢庵、なんだッ外道、くそ坊主!」 「ホ…その声なら五、六日は持ちそうじゃな」 「くそ坊主、はやく俺の首を刎ねろ」 「いやいや、うかつに首は斬られんぞ。お主のような我武者らは、首だけになっても飛びついて来る 恐れがある」 「エエ!今に、この縄を摺り切って、貴様を蹴殺してやるから、待っておれ」 「ホホ−頼もしいな。あ−よしよし待っているぞ。しかし、お主の生命が摺り切れてしまいはせぬか」 「何を!畜生!」 「おう、えらい力じゃ、木が動くは。しかし、大地はびくともせぬではないか。何の天地はおろか、単なる無知では杉の葉一枚地に降りこぼすこともできぬは」 「畜生!」 「武蔵、何故それだけの力を、若さを身の内に蓄えようとしてこなかった。折角、人の子と生まれながら、猪、狼にひとしい野生のままで、叡智の光にもこの世で会えず、ああ、その紅顔も、可惜(あたら)ここで終わろうとするのか」 「やかましいッ−!」 「まあ聞けよ!武蔵。お主、思い上がってこの世に、俺ほど強い人間はないと若さに慢じていたろうが。それがどうじゃ、その態(ざま)は」 「俺は恥じない。腕で貴さまに負けたんじゃない」 「策で負けようが、口先で負けようが、負けは負けだ。その証拠には、わしは勝者となってこの石の床机に腰をかけ、おぬしは敗者のみじめさを、それ、樹上に曝しておるではないか。−これは一体、何の差だ」 「説教か、恥知らず」 「野獣はな、どう強くても野獣にすぎん。人間以下のものでしかない。哀れな奴、智慧の光を知らぬ奴。人間の真の強さとはそんなものじゃない」 「武蔵、もう一晩よーく考えておけ。首は何時でも刎ねてやるぞ」 「待ってくれ!待ってくれ」 「何じゃ」 「頼む!頼む降ろしてくれ!」 「何じゃと」 「もう一遍生きてみたい。生きて出直してみたくなったんだ!俺こんな処で死ぬのは嫌だ!後生だ助けてくれ!」 「いかん!やり直しの出きぬのが人生だ。だが、人並みに悔悟の念が湧いてきたか。ならば、せめて死に顔の見苦しくないよう、念仏でも唱えて、よーく生死の境を噛み締めておくがよい。ギャーテーハラ、ギャーテーハラ」 「ああっ!助けてくれ!!嗚呼うう!」 原作では、このシーンの部分を「樹石問答」の章とある。 …石もいわず、樹も語らず、闇は寂としたままの闇であった。 そしてややしばらくの沈黙がつづいていた。 −と。やがてやおら沢庵は石の上から腰をあげて、「武蔵、もう一晩考えてみなさい。その上で首を刎ねてやろう」… 原作では、沢庵の言葉はかなり説明的で長く理屈っぽくなっているが、その言葉を端的に削ぎ落とした映画のセリフはむしろ自然的な響きがする。 まあ、これ以上、武蔵作品をあれこれ論ずるまでもないだろう。 人それぞれの「武蔵」がいるからだ。 ただ、私は、一体どんな人が、どんな思いで錦ちゃん映画を観て、どんな感想を持って映画館を後にするのだろうか。 いつもそんな思いに駈られることがある。できるものなら突撃レポーター宜しく一人ひとり聞いて廻りたいぐらいの思いである。映画が終わったら皆で集まって感想を述べ合う、かつてそんな錦ちゃん映画鑑賞クラブを夢見てきたが、それは現実に有り得ないことだった。映画が終わると一人ひとり各々の世界へ戻って行くのだった。 スクリーンでは同じ時間を共有していた人々が、映画館を一歩表に出た途端、全く見知らぬ他人でそれぞれが喧騒の中に紛れ消えて行った。 この日も、私は一人しばしの余韻を胸に中野サンモール・アーケードの雑踏の中を駅に向かっていた。 その時、後ろから、突然「松木修三さんではないですか?」と声をかけられた。 振り向くと映画館でいつも姿を見かける方だった。「はい、そうですが」「どうしてお判りになりましたか?」 突然、正体を見抜かれた驚きとどうして判ったのだろうと不思議な気がした。 その方は「何となくそんな感じがした」と言った。 "銀幕の錦之助"の日誌を読んでいただいている方で、時々ボードにメッセージをいただいている熱心な錦ちゃんファンのお一人だった。 相手の感の鋭さに脱帽すると共に、一度聞いた名前さえすぐに忘れてしまう愚鈍な自分とはえらく違うなと敬服してしまった。 また一方では、例えるなら、プロレス出身のサスケ議員の「マスク」が剥がされ、素顔を衆目に晒してしまったような感じでもあった。 「日誌楽しみにしています」と言われ、嬉しくもあり稚拙な独り善がりな内容に気恥ずかしさも感じた。何と答えていいか曖昧な笑いで誤魔化した。中野駅の切符売場の前で、その方は「それではここで」と言った。 その日の錦之助映画祭はこうして終わった。 以下は割愛 次回分のネタ集一部 そして38年に今井正監督『武士道残酷物語』で役者として前代未聞の七役に挑戦、錦之助この辺りから少し肩に力が入ってくる。『鮫』『仇討』『徳川家康』『冷飯とおさんとちゃん』次々と巨匠とのコンビで意欲作を撮り続ける間、錦之助を取り巻く環境は次第に変化してきた。 有馬稲子との家庭生活にも微妙な隙間風が錦之助の人生にも大きな転機が訪れることになる。武蔵・完結篇の昭和40年に入ると『宮本武蔵 巌流島の決斗』の製作そのものが危ぶまれたとの噂も聞いた。 |
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