 新・錦之助誕生 まえおき
2007年4月6日(金)
東京、桜満開のころになるといつも“花冷え”の寒さが戻ってくる。それは桜の花びらを儚く散らすかのような季節のいたずらを感じる。
しかも今年は四月に入って初めて東京にも降雪があった。
東京の内陸部では雪化粧をしたそうである。
今朝はそんな寒波のゆり戻しが通り抜け少し穏やかな朝であった。しかし抜けるような澄み切った青空は放射冷却で凛とした肌寒さを感じる。
今日は病院の診察日である。そして病院から戻ったその足で歌舞伎座の芝居見物としゃれ込む。
病院帰りの歌舞伎見物。まあ、そんな一日を過ごす者もまれであろう。
これも成り行き。たまたま運よくこの日の切符が手に入ったからである。
午前中に行った病院では医師から注意された。
過日の右足太股の打撲で痛みも抜けないまま半月。次第に青あざが下へ広がっている。
「肉離れで一週間は“絶対安静”すべきものを無理に動かしたため内出血が広がった」
「大体、無理しちゃ駄目だよ。君は血が止まらない薬を飲んでいるんだから」
右足を診察した担当医師は苦笑いしながらそういった。
血液が固まらない薬を常用しているため、怪我や出血はタブーだそうである。
そういわれてみれば、歩行困難、次々と広がる青あざと膝の痛み、横になっても膝を曲げられない状態と、確かに右足は異様な姿である。かなりの“重症”だったということか。
今更ながらの実感である。完治にはしばし時間が必要なようで、ただ見守るだけである。
さて、いつもの調子で前置きが続いたがそろそろ本題に入るとしよう。
こうした前置きや情景を綴ることでその日の出来事を関連付けして自分の脳裏に留めおく私の常套手段である。
後年になって、二代目錦之助襲名披露の想い出は“確かこの日は病院帰りに歌舞伎座に行った筈だ”として記憶のヒダに刻み込まれるという次第である。
歌舞伎座に到着したのは夜の部・開演の1時間前だった。
地下鉄銀座線で降りた私は、三越の交差点を上がってぶらぶらと築地方面に向かった。
ここに降り立つと、三越前辺りの乗り場から「歌舞伎座まで」とタクシーに乗ったことをいつも思い出す。
歩いて眼と鼻の先の距離なのに、上京したばかりの私に分かる筈もない。
運転手の不機嫌そうな様子とタクシー代の無駄をしたという当時の思い出が蘇えってくる。
途中の昭和通り手前にある映画館もいまだ健在だ。
そして昭和通り交差点、信号待ちの間ざっと周囲を見渡すと建物が目新しくなっていた。
ただ“大野屋”(すらいどしょー画像番号19.20)の建物だけが以前の面影を留めていたのはどこかほっとする。大野屋の屋根と看板、周りをすっかり高いビルに取り囲まれてどこか窮屈そうだ。
歌舞伎座の正面入り口。開演1時間前のためかまだ人影は少なかった。私はこれ幸いとしてパチリパチリとデジカメ撮影。
すっかり観光客気分である。周りの建物は変わってもこの歌舞伎座の光景はほとんど変わっていない。
まだ時間があるので歌舞伎座近くで時間待ちすることにした。
昭和通り沿いの角にはプロンプトがあったがここまできてプロンプトでもあるまい。
足は自然と築地寄りの歌舞伎座と道路を隔てたビルに向かった。
一階が喫茶店になっている。カフェと呼ぶより喫茶店である。
店の奥にはケーキ等の販売コーナーがあった。お店の名前は“文明堂”である。
このビルの二階であっただろうか。
私が初舞台を踏ませていただいた折、師匠の賀津雄さんに同行してここでお贔屓筋の方にご挨拶したことを思い出す。
師匠に引き合わされ「この度初舞台を踏むことになりました」そんなご挨拶をした。
このとき、その方より初舞台の「お祝儀」をいただいたことを覚えている。
もう30年以上も昔のことだった。
このお店は、歌舞伎座の隣でずっとその時の移り行くを見てきたに違いない。
アイスコーヒー一杯が700円。この界隈ではこんなものだろう。
入替わり立ち代りお客の出入りは途切れないが、どことなく落ち着いているのが銀座らしい。
開演の時間が近くなって、私は店を出て歌舞伎座に向かった。
歌舞伎座の前は、先ほどと打って変わって開場待ちの人の群れが入り口に溢れていた。
和服姿の女性も目立つ。流石に男性の和服姿には目をやった。粋な奴。ちと羨ましい。
ここでは一見無秩序に入り口に人が群がっていた。
それでも特に入場整列を求めなくても自然と何の混乱もなく入場が進む。
こういった無秩序のような秩序。
過日読んだ“江戸しぐさ”として培われた庶民の日本的マナーのような気がする。
尤もこれはお得意の自我流こじつけだ。
開場。私は何十年ぶりに歌舞伎座の建物の中に吸い込まれて行った。
新・錦之助誕生 2 歌舞伎芝居
歌舞伎座の劇場内に入った私はそのまま座席に向かう。
前列より6列目、やや東桟敷席寄りであった。
花道から少しばかり離れているが贅沢はいえない。
ここからなら舞台の役者の表情も分かるちょうどいい席であろう。
隣の席には和服の女性がおられた。和服姿とその背筋がきりっとしているのは素敵だ。
和服姿もこうした場所ならではのこと。芝居見物の雰囲気に浸る。
座席の最前列には外国人の二人がいて、彼らのリアクションが興味を引いた。
言葉は分らなくてもそのしぐさや様式美に感動したのか身振り手振り笑ったり拍手したりその喜怒哀楽がはっきり読み取れる。
そうした感情をそのまま表に現すのが西洋人の特徴か。
でも外国人でなくとも歌舞伎舞踊の所作事や芝居のセリフなど理解できるのはほんの一握りの観客に過ぎない。かくいう私も、所作も義太夫の唸りもとんと理解できていない。
でも解説のガイドホンは一度も聞いたことはない。
意味はよく分からなくても、それでも楽しめるのは歌舞伎の伝統美というか、その様式美につきると思われる。その様式美をどう言い現せばいいのだろう。
様式美、演じる役者と鳴物の二重奏(duet)とでも申そうか。
むしろ様式美ということからすれば衣装、舞台装置も含め、三重奏(trio)。
更には、観客を含めた四重奏(quartet)である。そんなふうに思う。
歌舞伎の様式美は、写実主義(realism)と対極をなす。
人間の喜怒哀楽を誇張表現(overstatement)し、デフォルメ(deform)したものだ。
因みにデフォルメの語源は、もとの形を変形させるとか、醜くする、美観を台無しにするといった意味のようである。
写楽の浮世絵に描かれる誇張した人物画などに通じるものといえようか。
歌舞伎の特徴をひと言で申せばあの「大見得(おおみえ)」につきる。
「見得」とは
劇の進行中に役の心理的盛り上がりを現すため、役者が動作を一時停止し絵画的なポーズをとることをいう。多くは附(ツケ)や鳴物を入れ効果をあげる。とある。
絵画的ポーズとはいい得て妙なりである。
今では歌舞伎は伝統芸と呼ばれるが、もともとは歌舞伎者(カブキモノ)として、伝統とは無縁の異様な風体をして大道を横行する者をさす。
語源の“カブク”とは、頭を傾ける。勝手なふるまい、自由奔放にふるまう。異様な身なりをする。汚いかっこうをする。といった意味のようだ。
それが阿国歌舞伎に端を発して、江戸時代に歌舞伎踊り歌舞伎芝居として発展した。
歌舞伎音楽や歌舞伎狂言の傑出した脚本家達がそれを支えたは申すまでもない。
ここでは開場してから開演までそう時間がない。昼の部との入れ替えのためか4時開場予定が10分遅れだった。よって4時30分の開演まで、僅か20分程度しかないことになる。
入場してロビーをうろついているとすぐ開演5分前のアナウンスが入る。
女性客など、まだトイレの前で順番を待っている人もいるのに慌ただしく芝居の「杵(き)」が入る。杵とは分かりやすくは拍子木のこととでも申そうか。
昔懐かしい“火の用心”カチカチの、あの拍子木である。
歌舞伎座での開演告知は5分前のアナウンスだけである。
あとは客席のざわめきの中で音楽と杵打ち、そしてお馴染みの歌舞伎縦縞の幕が下手より上手に引かれ開演となる。
まだ客席に着いていない観客もいるが何の斟酌もなく勝手に芝居が始まるという次第だ。
観客の静寂した中で厳かに緞帳が上がるのではなく、ざわざわとしたざわめきの治まらない中で幕が開く。
舞台の三味線伴奏音楽に促されるように観客は次第に静かに舞台に見入って行く。
それがまた風情あるものだと申そうか。
さもありなん、歌舞伎の原点はオペラではなく“芝居小屋”である。
歌舞伎について講釈できるものではないが、少し触れておこう。
客席から舞台に向かって右側が「上手(かみて)」左側が「下手(しもて)」となる。
舞台下手の黒御簾(くろみす)の中は「鳴物部屋」となっている。
いわゆるお囃子であるが、太鼓や笛などこの御簾のすだれ越しから芝居の進行に合わせ演奏する。
歌舞伎に音楽は切り離せない。
音楽と舞台そして役者の三位一体が歌舞伎芝居である。
そして更には観客席からの掛け声や拍手が交じり合っての盛り上がりである。
歌舞伎の音楽は二通りあるといわれる。歌舞伎音楽は所作事の伴奏にあたる「所作(しょさ)音楽」と、舞台の音楽効果のための「下座(げざ)音楽」とに分かれるようだ。
「所作事」とは…
一般に所作とは、振る舞いや身のこなしをいうが、ここでいう所作とは「おどり」のことである。
所作事は分かりやすくは歌舞伎舞踊のこと、つまり「長唄」をさす。
厳密には所作事という言葉は「長唄」伴奏のものだけをさし、常磐津節や清元節などの伴奏は「浄瑠璃」と呼ぶが、一般には特に区別しないで所作事と呼んでいるようだ。
歌舞伎の伴奏音楽の主役は三味線である。
「三味線」そしてその他の「鳴物」といった具合で、三味線は別格の扱いである。
現在の歌舞伎音楽では「長唄」と「三味線」以外の鳴物の演奏者を「囃子方(はやしかた)」というそうだ。
ここでは「唄い方、三味線方、囃子方」と呼ぶことにしよう。
「長唄」
長唄は三味線を伴奏に用いる唄い物である。
謡曲や浄瑠璃などの要素を取り入れ、江戸の歌舞伎舞踊の伴奏音楽として起こり歌舞伎と密接な関係をもって発展した。
ついでに申せば「長唄」の三味線は「細棹(ほそざお)」で、綺麗な撥(ばち)さばきを特徴とする。京鹿子娘道成寺、越後獅子など、一般に知られた曲が数多い。
長唄では三味線の撥さばきで観客の拍手を執る場面が何処かにある。
いわゆる三味線演奏の見せ場である。
歌舞伎舞踊所作事は、舞台正面奥に三味線方を中心に小鼓・大鼓・笛・太鼓などの囃子方が並ぶ。
参考までに四種楽器(小鼓・大鼓・笛、太鼓)の総称を『四拍子(しびょうし)』とも呼ぶようだ。
私は所作事では大鼓(おおつづみ)の音(ね)が好きだ。
私にはカーンとかターンといったように聞こえるが、腹に響く(沁みる)音色とでも申そうか。ポン、ポンという、小鼓との掛け合いがいい。
鼓の皮を締めている紐[これを調緒(しらべお)と呼ぶそうだが]を左手で握り、大鼓を左の膝の上に乗せて右手で打つ。
右手の指に指サックのようなもの(指皮と呼ぶ)をはめ、手のひらに当てる。
私はいつもその音色を聞きながら、演奏者の指が腱鞘炎になるのではと余計な心配したりする。
また鼓は演奏中でもしきりと調緒を解いたり締めたりと調整に余念がない。
小鼓の奏者は口元に鼓を持ってくるしぐさが舞台上でも見受けられるが、あれは皮に息を吹きかけたり、また(鼓の皮の部分に小さな和紙の紙片を貼ってあることがある)その紙片を濡らして皮の調整をしている様である。湿度や温度の変化で鼓の音色が変わるからであろう。
「浄瑠璃」
浄瑠璃も三味線を伴奏とする語り物音楽の一種と呼ばれる。
もともと浄瑠璃は、琵琶法師によって扇拍子、琵琶の伴奏で語られていたものが、江戸時代に三味線伴奏するようになってから人形劇と結びつき「人形浄瑠璃」として発展したものである。
そして人形浄瑠璃の語り物が、近松門左衛門や竹本義太夫などの出現により、新しい創作物として飛躍的に発展した。
その人形浄瑠璃が歌舞伎に取り入れられ、江戸時代には浄瑠璃のうちの一派が、常磐津節、富本節、清元節など、歌舞伎と結びついて飛躍的に発展し今日に繋がっている。
これらは次第に語り物から唄い物としての性格が強くなった。
なお浄瑠璃という言葉は、浄瑠璃の“三味線方(伴奏者)”に対する“唄い方(太夫)”個人をさす言葉ともいわれるようだ。
因みに、筋書きにも、浄瑠璃○○○○、三味線○○○○、と演奏者の名前が記載されているのはこれに当たる。
参考までに浄瑠璃の流派の特徴は次の通り。
◆常磐津節:浄瑠璃の一派で温和で重厚、発生法も自然である。
三味線は中棹(ちゅうざお)を使用する。
◆富本節:常磐津節から独立した一派。
常磐津と清元の中間派に位置し次第に衰え。現在の歌舞伎ではあまり聞かない。
◆清元節:富本節から独立し浄瑠璃の中で一番新しい流派。
発生法は人為的・技巧的な面が強く、かん高い声を裏声で聞かせる。
三味線は中棹(ちゅうざお)だが常磐津よりやや細身を使用している。
関西地方では、浄瑠璃といえば「義太夫節のみ」をさすことが多いそうだ。
◆義太夫節:浄瑠璃の流派で竹本義太夫が創始した。人形劇と結びついて発展。
大阪の竹本座を本拠に近松門左衛門と提携して人形浄瑠璃は芸術的に極められた。
浄瑠璃=義太夫節。
まさに関西歌舞伎の誇りとこだわりである。
演奏は義太夫語り一人に三味線方一人の、二人で行なわれるのが普通。
だから二人きりで舞台に出てきたら「義太夫節」と覚えておけばいい。
三味線は太棹(ふとざお)を用いる。
ちなみに、筋書きには、夜の部の「源平布引滝・実盛物語」について“丸本歌舞伎の名作”と書かれている。
筋書き(パンフ)をお持ちの方はご覧いただきたい。
丸本(まるほん)歌舞伎とは、人形浄瑠璃から台本を移入した作品系列をさし、人形浄瑠璃と同じように“義太夫節”を使うのが特色で、別名「義太夫狂言」とも呼ぶそうだ。
また三味線は太棹のため大きく音が低い。
そのため「デンデン物」ともいうそうだが、三味線の重量感のある音色が特色だ。
浄瑠璃伴奏のルーツ琵琶の音に近いものだ。
浄瑠璃の義太夫語りと三味線方。
これは人形浄瑠璃が歌舞伎に取り入れられた本家と理解すれば分かりやすいだろう。
浄瑠璃の語りに合わせ、生身の役者がその人形の動作を演じているという次第だ。
さて、歌舞伎に欠かせない音楽として、もう一つは「効果音」としての音楽である。
舞台に姿は見せない処で鳴る音楽で、お囃子とか擬音などである。
これは一般に伴奏音楽としての『所作』に対して『下座(げざ)』と呼ぶそうだ。
幕の開閉、役者のセリフやしぐさに合わせ、舞台効果をあげるために演奏する。
三味線を主に唄や囃子を入れる。
当初は舞台上手にあり「外座」と呼んでいたそうだが、現在では下手の黒御簾の中で演奏されるのが一般的である。
黒板で囲み黒い御簾が掛かっているので黒御簾と呼ぶ。この御簾から芝居の進行に合わせ演奏する。ここを一般に鳴物部屋と呼んでいたような気もする。
特に、ときたま舞台上手(かみて)にすっと現れて、バシッツ・バシッツと「ツケ板」を叩く「附(ツケ)打ち」は特筆すべきである。
立ち回り、歩行や駆け足などの音も、二本の「杵(き)」でツケ板を叩く。
杵(き)とはいわゆる拍子木のようなものである。
附打ちのタイミングとこの独特の効果音が歌舞伎をいっそう盛り上げる。
役者の演技を誇張して表現する歌舞伎ならではのものだ。
私はついつい役者の動きよりこの舞台上手の附打ちに見入ってしまう。
役者の大見得(おおみえ)勧進帳の弁慶の飛六方(とびろっぽう)なども、附打ちあってこそのものである。
因みに、筋書きには次のような「区分け」で誰それと演奏者名が載っている。
・長唄
・三味線
・鳴物
・竹本連中(浄瑠璃、三味線)
・附打ほか
と知ったかぶりの(自我流の)勝手な講釈を述べているうちに、どうやら舞台に「杵(き)」が入ったようだ。
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