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銀幕の中の錦之助(錦之介)を偲ぶ -略伝-
中村錦之助(萬屋錦之介)は、歌舞伎俳優の三代目中村時蔵の四男として生まれる。四歳で初舞台を踏み、名門「播磨屋」の父の芸風を受け継ぐ。 1953年、歌舞伎座での公演で美空ひばり母子の目にとまり、彼女の所属する新芸プロから声がかかる。元々映画が大好きだった彼は、因習的な歌舞伎の世界を離れ映画界入りを決意、『ひよどり草紙』でひばりの相手役としてデビューする。

彼の名を一躍高めたのは、NHKラジオ人気ドラマの映画化である『笛吹童子』(1954)で、続いて翌年『紅孔雀』が大ヒット、中篇・娯楽時代劇に次々と出演して、たちまち全国の若者のアイドルとなり“錦ちゃんブーム”を巻き起こした。当時、アイドルという言葉はなかったが、映画界にアイドル現象の口火を切ったのは錦之助である。その人気は凄まじく野外ロケとなると現場にはファンの群集、木の上も鈴なりになってカメラはどこへ向けても野次馬が写り、暫し撮影を中止したこともあった。
デビュー当初は子供向けのヒーロー、美剣士でしかない印象が強かったが 『紅顔の若武者 織田信長』(1955)あたりから力強さが加わり一般的評価も高まる。以来、硬軟両道、純二枚目から三枚目まで、あらゆる役柄に取り組み、驚異的なスピードで演技力を伸ばし東映城を担う大スターへと成長して活躍を繰り広げた。

以後、加藤泰監督『風と女と旅鴉』(1958)、マキノ雅弘監督『若き日の次郎長』シリーズ(1960〜)、伊藤大輔監督『反逆児』(1961)、今井正監督『武士道残酷物語』(1963・ベルリン国際映画祭グランプリ受賞)、山下耕作監督『関の彌太ッペ』(1963)など、股旅もの、戦国武将ものと数々の名作を残す。またシリーズものでは沢島忠監督と組んだ『殿さま弥次喜多』(1958〜)や『一心太助』(1958〜)は大衆に受け、錦之助の近代的な明快な人間性と行動力がプラスされ、将軍と市井の魚屋、殿様と町人の変わり身を器用に演じその間に巧まぬユーモアを滲み出していた。内田吐夢の『浪花の恋の物語』(1959)では上方和事風の柔らかな味を出し、一転して『宮本武蔵』五部作(1961〜)では、剣に一途に生きる武芸者のエネルギーを噴出させ、気力体力の充実さに円熟味が加わる。武蔵は彼でなければ出せない魅力とパワーを感嘆させらる役であった。因みに宮本武蔵は東映での五部作に続いて『真剣勝負』(1971)が東宝にて制作されたが、監督の内田吐夢はこの映画のロケ中に倒れ、いったんは再起して撮影を続行したが、心不全のため歿する(1970年8月7日・享年72歳)。 遺作となった『真剣勝負』は内田吐夢の執念と五部作で培ってきた錦之助の完璧な名演技により高い評価を得た。60年代に入り、やがて日本の映画界は斜陽の時期を迎え、娯楽作品の大量生産がなくなるが、幸運にも彼は映画界を代表する巨匠、名匠の内田吐夢、伊藤大輔、田坂具隆、今井正、加藤泰、そして生涯の友、沢島正継と言う名監督との出会いによって映画史に残る傑作を残すことが出来、脱アイドルから重厚な演技力を持つ時代劇の第一人者として君臨した。

しかし、年と共にその芸域も広がり、まさに円熟に達したと思われた頃、時勢の変化で時代劇は衰退、余儀無くされた東映は路線を変え仁侠映画へと方向転換を図るが、時代劇に拘りがあった彼は移行には反対、専属を解きフリーへ。『丹下左膳・飛燕居合斬り』(1966)は 東映“中村錦之助”の名としては最後の作品となった。
独立後は苦難が多かったが、彼が再び東映のスクリーンに帰って来たのは12年後である。時代劇復興を旗印に中村錦之助改め萬屋錦之介主演、深作欣二監督『柳生一族の陰謀』(1978)が公開され大ヒット、巨大なスケールと超豪華キャストによる東映時代劇巨編で彼は堂々たる演技で“錦之介健在”を披露した。この映画の撮影においては、こんな感動的なエピソードがある。 久々に古巣の東映京都撮影所に戻って来た彼は正門の前に並んだスタッフや俳優達全員に温かく迎えられ、お互いに泣きながら喜んで再会を祝ったという。

その後は8本の映画に出演、最後はベネチア映画祭銀獅子賞を受賞した熊井啓監督『千利休・本覺坊遺文』(1989)にて織田有楽斎役を演じ、骨太の迫真な演技を印象付けてくれたが、まだ50代にしてこの作品が遺作となったのは非常に惜しい。
舞台裏の彼は仕事、私生活面において順風満帆とはいえない起伏が激しい人生であった。度重なる不幸と長い試練に耐え64歳で病没、帰らぬ人となる。全盛期を築き上げた黄金期最後の巨星だけに日本の映画界にとっても衝撃は大きかった。夭逝を悼むその二年前、 彼は「いい時代にいい監督と映画の仕事が出来たことは本当に幸せだったと思います」(1997.3産経新聞)と語っていたという。もう一花、二花も咲かせて21世紀のスクリーンで老練の活躍を夢見ていたのは ファンのみあらず、芸道一筋に懸けて来た本人もそう願っていたはずなのに誠に残念でならない。だが、たとえこの世に身はなくてもフィルムの中の彼はいつまでも健在であり、あの名演は永遠に語り継がれてゆく。日本映画に生涯忘れられない夢と希望、素晴らしい想い出を与えてくれた錦之助(錦之介)に心から感謝したい。そして、願いは時代が変わっても永久に彼を慕うファンが絶えることなく、憧れのスーパーヒーローであってほしい。いつまでも・・・。
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スーパーヒーローの時代は“若さの爆発”だった(1978)
●紅顔の若武者誕生

―デビュー時代を振り返ってみて映画界に入る切っ掛けは。
やっぱり映画が好きだから。歌舞伎で全然“役”がつきませんでしょ。一生懸命お稽古事なんかしてても、報われるものがないというか、そういうものがあって何かやりたかったんですね。映画に入ったのは“若さの爆発”ですね。(笑) 松竹と新東宝で一本ずつやって入りましたね。

―少年少女が夢中になったヒーローを演じられた時期はどんな感じでしたか?
もう、この時は無我夢中でしたね。もちろん、もう歌舞伎には帰れないし、自分の道はこれしかないと思いましたしね。父に反対されたんですが、「行くんだったら帰って来ないつもりでやれ」と言われたし、映画で失敗し、また歌舞伎へ帰って来るという気持ちではダメだということで、この道しかないと・・・・。その当時は、一週間で番組が替わるもんですから、次から次に撮影に入ってましたね。封切りが間に合わないと、ほとんど毎日が徹夜だったですね。自分の時間もほとんどなかったですし、体力的にもシンドかったですね。若さと気力で保っていたみたいですね。

―それがみんなヒットしましたね。
そうですね。それで撮影で忙殺されていたのが私にとってよかったのかも知れませんけど。休みが殆どなくって、考える暇もなく、ただ、早くキャメラに慣れようと思ってやりましたね。キャメラマンに色々聞いたり、ライトの当たる所で止まる演技とか立て続けにやってたから早く覚えられたんでしょうね。

―映画的演技を意識したのは?
やっぱり、一本一本、その時にフッとわかったりするんですね。はじめはとにかくキャメラを覚えることでしたね。

―殺陣の方は?
自分で好きでしたから、そんなに苦労しませんでしたね。時には美しい立ち回りだとか、時には乱暴な立ち回りなど、いろいろ研究して…だから今でもテレビで「破れシリーズ」をやってますが、ラストの立ち回りだけは何とか見せるようにやってるんですけど。

―大友柳太朗、東千代之介さんらと共演されてて、あの当時の雰囲気、また仲間意識などどんな感じでしたか?
みんな連帯意識がありましたね。特に千代ちゃんとは仲が良かったし、学校の先輩でもあるんですよ。彼は私の兄と同級生だったし、私が一年生の時、千代ちゃんが教練をやってましたよ。先生が足りなくて。“一ツ軍人ハ忠誠ヲ尽スヲ本分トスベシ”とかね。優しかったけどね、あの人は(笑)。だから撮影所のときは、いつも一緒に飲んだりしてましたね。撮影が終わるのが深夜の二時、三時ですからね、ちょっと寝てはまたロケーションに行ったら、バスの中で寝るみたいな位の繰り返しでしたけど、たまに早く終わると千代ちゃんと飲みに行きましたね。若かったから。撮影の中をぬって遊ぶんですから大変でしたけど(笑)。

●巨匠・名匠・その出逢い―

―少年少女のヒーローから割と早く脱皮して、演技派スターとして転身するのが昭和32年頃(1957)ですね。この年、加藤泰、内田吐夢という監督さんに出会うわけで。
加藤泰の『風と女と旅鴉』では、はじめて僕が素顔で出たんですよね。会社では色々問題になって、もっとメーキャップしろということだったらしいですね。私には言わなかったですけど、言ってもきかないということを知ってるから(笑)。

―その頃からガンとして譲らなかったわけですか?
やっぱり、戦いですよ!もうこの撮影所は。戦いがなきゃ、またしょうがないでしょう。ノーメーキャップも私が決めてやりましたね。

―昭和33年(1958)にはマキノ雅弘、沢島忠と出会いますね。
僕は沢島忠に会えたのがすごく嬉しかったですね。それに伊藤大輔先生、内田吐夢先生、田坂具隆先生など、この四人の人は忘れられないですね。ええ。今でも沢島忠に映画を撮ってもらいたい。忠さんに撮ってもらいたいですね。やっぱり、上手いですよ。今度、忠さんはテレビ映画はガンとしてやらない人だったけど、新番組の「破れ新九郎」の第二話を撮ってもらったんです。忠さんを引っ張り出して、それの試写を見てうまいと思ったですね。ちょっとそこらの監督と違いますよ。そこらって、いないけど(笑)…。

―『一心太助』などの二枚目半的な粋のいい錦之介さんの演技は爽快でしたが。
あれはやっぱり、沢島忠と私が作ったもんですね、ええ。

―マキノ監督の『森の石松』もそうでしたが。
目の開いちゃう石松ですね。

―テレビで放映される旧作は見ますか?
あんまり昔のは見たくないんですよね。恥ずかしいですよ。

―監督さんに恵まれましたですね。
ええ。内田吐夢先生、『反逆児』の伊藤大輔先生、田坂具隆先生たちと沢山仕事が出来たということは、僕は役者として大変に幸福だったと思いますね。

―オールスター映画の『水戸黄門』(1960)で大友柳太朗さんと錦之介さんの友情を扱った傑作なシーンなど強烈に覚えてますが。
大友さんがズーズー弁の浪人でボクがトビのやつでしょう。喧嘩してるもんだから一緒に飲めなくてね、そういうのがありましたね。

―粋な啖呵を切るときの錦之介さんのセリフの言い回しの流ちょうさにビックリするし、スカッとするんですが、
やはり、啖呵というのは語呂がよくなくちゃダメだし、自分でセルフを直して言いやすくするんですね。見てる人がスカッとしないとね。

―スカッとする啖呵をしゃべるコツみたいなものは?
自分でカーッとなると出てくるんですよね。

―錦之介さんの作品のなかで代表作(好きな作品)はというと…。
何が好きかといっても答えられないですね。伊藤大輔先生の『反逆児』は好きだったし、すごい映画ですね。切腹のシーンなんていうのはすごいですからね。(このインタビューの日の3日前、彼は京都の伊藤大輔監督の自宅を訪ね、映画や芝居の話をしてこられたそうである。)

―内田吐夢監督は亡くなられましたが。
よくやりましたね。僕は内田先生と。最後の『真剣勝負』もそうですし、この時一緒に食事したんですが、先生は飲めなくなっていまして、悪いから僕も飲まなかったんですが「飲めよ」と言われました。この作品を東宝でやるということにノッてなかったですね。先生は。はじめ中村プロでやってくれないかという話だったので、それじゃ、僕も是非やりたいから、内田吐夢プロを作って一緒にやろうということだったんですが、結局は東宝に決まりましたが・・・。東宝ではやりにくかったらしいですね。最後のシーンでもう少し火をバァーッと使いたかったらしいですね。撮影が終ってから亡くなられたんですが、御殿場のロケの時には相当に疲れられてましたね。

―内田吐夢監督といえば、錦之介(錦之助)さんと組んだ『宮本武蔵』がありますが。
あれはやっぱり、製作態度というんですかね、年に一本という、あれは先生の凄いところですね。一作目が出て当たったわけで、会社からは同じ年にもう一本という話が持ち上がったけど、先生は「ダメだ。約束が違うじゃないか」と。「年に一本、錦之助の成長と共に武蔵の成長を撮りたいんだ」と。今考えると大変な企画ですよね。武蔵をやっていて僕も「なるほど」と思いましたね。やってよかったですね。映画っていうのは、その時にやってることがわからなくても、次に作品に出てきたら、ここで叩かれたのがここで出なくても、次の作品に出てきたりすることがあるんですよね、役者っていうのは。例えば、大石内蔵助でも、また次の時に内蔵助をやる時は違うでしょうし、あの時やったのはここがいけなかったのだとか、そういうことがあるでしょうね。今、宮本武蔵をやれと言われれば、年齢的には出来ないかもわからないけど、違ったものがやれるという具合にね。だから、いい監督につかなくちゃいけないというのはそこなんですよ。
やっぱり、自分の才能というのは、自分の“うぬぼれ”の中にないんですね。例えば、立ち回りをやれば人に負けないとか、記者の人だったら文章は誰にも負けないとか、誰にでもあるでしょう。ところが、本当に自分の持っている“味”とか“才能”というのは自分の才能の中にはないということなんです。そういうものをいい監督がピーッと引き出してくれるんですよね。「ああ、僕にはこういう面もあったのか!」と気が付く時があるんですよね。田坂先生と一緒にやった時にそれをすごく感じましたね。今までのも間違いじゃないけれども、こういう芝居もしなくちゃいけないとか・・・。それは口ではなく、完成した写真(作品)を見て教えられましたね。そういう意味で本当にいい監督さんに恵まれましたね。だから、役者はいい監督につかなくちゃダメですね。今の若い俳優さんは可哀想ですね。
もう指導できる監督さんがいないんじゃないですか。フィルムをつなぐのが精一杯という位で。はっきり言ってね。田坂先生の『冷飯とおさんとちゃん』なんか大好きですね。当たらなかったんですよね。あの時は先生と二人で悔しがってね。でも、あれは題名もそうだったかも知れませんが、宣伝が悪かったですよね。出来上がってすぐに封切だったですからね。皆さんに見ていただく時間がなかったし、ああいう地味な作品は皆さんに見ていただかなくては。

―股旅もののジャンルも錦之介さんの代表作が多いですね。
山下耕作の『関の彌太ッペ』なんかね。ああいうのをもう一度やりたいですね。だいたい長谷川伸先生が大好きですし。

―『真田風雲録』というユニークな作品がありましたね。
あれは、ボクがたまたま芝居(舞台)を見に行きましてね、これは面白いっていうんで、すぐに福田善之の原作をボクがとったんですが、映画の方はちょっと失敗だったですね。これは芝居の方が面白かったですね。加藤泰がやったんですけどね。

―沢島監督の『股旅 三人やくざ』の錦之介さんのキャラクターも面白かった。
ああ、弘樹(松方)ちゃんと仲代(達矢)とボクがやったやつね。小心なやくざでね、カッコつけちゃって、実は弱くてね。いやー、思い出しますね。人間的でね。面白いですね、ああいうのは。

―五社英雄監督の『丹下左膳 飛燕居合斬り』があって、これは大河伝次郎さんのほか何人もやっておられるヒーローですが。
あの人(五社監督)が調子のいい時だったし、面白かったですね。明るさと暗さの裏表を出せればと思って左膳を演じましたね。

●錦之介・男一匹道中記

―これが東映で最後の仕事となって。あとは中村プロを作られたわけですね。
中村プロを作ってから13年目ですかね。映画では『祇園祭』と『幕末』を作り、あとは芝居とテレビですね。

―スタープロでは三船プロ、石原プロ、勝プロなどがあって…。
そうですね。三船さんに協力して『風林火山』などをやりましたね。

―『風林火山』のようなスケールの大きい作品はもう出来ませんか?
いや、金をかければ出来るんじゃないですか。馬も相馬の馬追いに行けば集まりますからね。あれは土地の人がみんな馬に乗ってるんですからね。

―錦之介さんの役者哲学は?
別にないんですよね。ボクは…。

―演技開眼は、今ふり返ってみてどの辺にありましたか?
いや、いまだに開眼してないのかも知れませんし…(笑)。ただ、私は何をやっても同じというのは嫌いなの。例えば、現代劇やっても袴を着ても同じ芝居をするっていう役者にはなりたくない。但馬守(柳生一族の陰謀)をやっても同じようなのは、自分がつまらないですから、役者なんだから、当然違うと思うんですよね。同じ人がよくいるんですよね。あの人たちの芝居はひとつも面白くないですよね。役になりきるというのもなかなか難しいけれども、違う気持ちでいれば違う芝居が出てくるはずですよね。

―高倉健さんとの出会いは『宮本武蔵』からですか?
そうですね。そのあと『日本侠客伝』ですね。丁度芝居の方がだぶっていたものですから、それでボクが高倉健を推薦したわけです。ボクはお付き合いで出るからということを会社に頼んだという経緯(いきさつ)があるんです。日数的にとても出れなかったもんですから。

―健さんを推薦された理由は?
やはり、いいなと私は思ったし、ああいうものに似合うなと思ったから。そういう意味では私も“眼”があったと思います。

―東映を去られたのは、やはり路線の違いからですか?
そうですね。勘違いされて書かれるのは嫌なんですが、ああいうものを“イカン”と言ったことは一回もないんですよ。任侠路線でも、ギャング映画でもいいんですよ。ただ、“時代劇も残しない”って言ったのが私の主張だったんですよ。そしたら、“作らない”というから、じゃ、“サヨナラ”という話なんですよ。

―『柳生一族の陰謀』で12年ぶりに東映に戻られたわけですが、その間、いろいろ映画のこと考えられたでしょ?
そりゃ、映画をやっぱり撮りたかったですね。

―錦之介さんの野球好きは有名な話ですが。
前はよくやりましたね。錦ちゃんチームというのがあって、強かったですよ。運転手でもね、野球の練習をしなさいって言ってましたからね(笑)。アナはボクぐらいなもので、弱いチームのときはボクがピッチャーしたり、ファーストもやりました。たいがい勝ちましたよ。負けるのが大嫌いだったから…。最近は名古屋の中日球場でやるんですよ。萬屋チームというのがあって、嘉葎雄や弟子たちと、ボクが監督で。

―ところで、時代劇の伝統を守る若手の役者さんが少ないように思うのですが。
そうですね。『柳生一族の陰謀』を見たら、やっぱり松方弘樹ですね。あの人は心得てますね。「日本の首領・野望篇」も見ましたが、家光とは違う芝居をやってますし、同じ芝居を家光でやられると但馬守は命をかけられませんから。それがボクは役者だと思いますね。同じような芝居をする人を見ると情けなくなっちゃってね。ただセリフを覚えてパーッとやったらいいってもんじゃないから。武蔵と又八が一緒じゃ困っちゃうしね。

―スーパーヒーローでこれまで錦之介さんが演じてないのは近藤勇ぐらいですか?
近藤勇はやってないですね。いま大石内蔵助(赤穂城断絶)をやっていると他のことは考えられないですけど、信長はよかったですね。
「東映京都撮影所・俳優会館」萬屋錦之介の部屋にて('78発行「シネマにっぽん」より抄録)
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