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 ◆人間存在を考えるコラム Page3

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■Page3の表題一覧
人間意識の解明について
その8 13・自力と他力・・・「生かす力」と「生かされる力」

創造について考える

因果律について考える・・・原因と結果の法則

宗教と科学について考える

平衡原理について考える

神秘世界について考える(その1)

神秘世界について考える(その2)

その9 14・慈悲と慈愛を考える・・・崇高な自己の発見
その10 15・幸福論・・・幸福と苦しみについて考える

 13・自力と他力・・・「生かす力」と「生かされる力」

 このコラムでは自力と他力について考えてみたいと思います。私たち人は父母から命を授かり、人として育まれます。別の観点から見れば私たち人は社会という環境の中で育まれ生きてゆく存在でもあります。その社会には文化とか文明と呼ばれている成果が存在します。そして、その成果を家族や教育を通して、あるいは直接、社会から授かる機会が与えられます。

 別の観点から見てみますと、私たち人には身体があります。その身体には命が宿っています。この身体も命も人には造れません。全ては自然により創造されたものです。その意味で人智を超えた創造物と呼んでも過言ではないと思います。故に、この身体も命も自然から授かったものであることが理解できるところです。

 更に観察してみますと自然界から授けられたものの中には酸素と水があります。酸素と水がなければ、私たち人は一秒たりとも生きてゆくことができません。人の身体の70%は水でできています。酸素と水に生かされているわけです。食物も自然から採取したり、あるいは自然の力を借りながら作ったりしたものです。この食物がなければ人の寿命は残りわずか数週間程度となります。

 私たちの日常生活を見てみましても、衣食住を始めあらゆるものが、他の存在から与えられたものであることがわかります。他の存在とは自分以外の存在つまり、自然とか社会とか他人、先人と呼んでいる人々のことです。あらゆるものとはもちろん環境や物やサービスだけではありません。言葉や文字も含みます。知識もあります。道徳もあります。芸術もあります。何でもそうです。

 この様に見てゆきますと私たち人とは自分で生きている存在ではなく、生かされている存在であることが明らかになってきます。

 それでは、人とは生かされる力(他力)により、生きている存在なのであれば、この「生かされる力」だけが充分あれば人も社会も成り立ってゆくのかと言えばそうもゆきません。生かされる力は与える側(他の存在)から見れば生かす力(自力)だからです。この「生かす力」と「生かされる力」、つまり「自力」と「他力」の両方がなければ人も社会も成り立ちません。成り立たないとは存在できないという意味です。

 では次にこの「生かす力」、「自力」について考えてみたいと思います。自力とはつまり自分以外の存在から見れば他力なわけですが、この自力とは具体的に言えば、その人の行動そのもののことです。以前のコラムで行動も広い意味で「自己表現」の内であると定義いたしました。人は自分の持っている主観世界の表現者であり、日頃の行動も、その主観が主たる動機になっていることを見れば、主観世界の表現にともなう行動とは、自己表現そのもののことであると言って良いと思います。

 生活する、学習する、働く、活動する、全て自己表現の内に入ります。即ちこれが全て自力です。自己表現とは表現者であるその人が、今までの自分の人生の中で得た様々な体験を更に自分なりに創意工夫し、新たな表現や行動へと結びつけることで確実に自分の力にしてゆく、その過程だと思います。この自分の力とは個性(一人一人に備わる固有の認識能力、意識レベル)のことです。然るに個性の豊かさとはその人固有の体験と行動と表現の豊かさそのものを現わすことにもなると思います。

 でありますので豊かな体験が豊かな表現につながってゆく。豊かな自己表現のできる人は即ち豊かな人生体験の持ち主であるとも言えてくるわけです。そして表現したことが、あるいはその表現という行為そのものが、また新たな体験となって表現者自身にフィードバックし新たな力(新たな個性)として自分に加わってくるわけです。

 逆に創意も工夫も充分できないとなれば、人生体験を充分生かしていないことになります。今まで授かった生かされる力(他力)を生かす力(自力)へと充分、発揮することに至っていない。努力が足りない。つまり創意なり工夫に労することを怠っているわけです。

 本人がどの程度自覚しているかどうかは別にして、豊かな自己表現のできる人は他の存在から見れば豊かな他を生かす力(他力)の持ち主であることになります。でありますので豊かな人生体験ができる機会が多い社会ほど、豊かな表現者、他を生かす力の多い社会ということになってくると思います。それは文化や文明の発展にとっても欠かせない条件です。

 禅に「自利利他」という言葉があります。自利と利他ではありません。自利利他で一つの意味を現します。自利即ち利他、自利は利他に通ずるということです。自分のためと思って努力していたことが、知らず知らずに社会や他人のためになっている。そう考えますと自分を大切にすることが社会や他人を大切にすることにもつながっていることが理解できてくるところです。

 (以上、人間意識の解明について その8)


 創造について考える

 常に人とは苦あるところに楽を求める存在でありますが、苦の感情を楽で埋め合わせしてゆこうとする意志が動機となって創意とか工夫とかが出てくるように思われます。もとより何が苦であり何が苦でないかは、人それぞれの主観に帰する問題ですが、「苦あるところに楽を求める」とは全ての人が共有している感情ではないでしょうか。

 楽をするとは、文字通り楽をすることだと言う意味にもなりますが、安心を得る、問題を解決する、目標に近づく、現実を理想に近づける、あるいは自己実現をするなど、その言葉の意味するところは深く広いと思います。

 人生の上で創意なり工夫をするとは必要の用としてあるものであり、人生に真向きに生きるとは、生きることに努力することですが、その努力とはまさに創意工夫に労を惜しまない、労することを怠らないことを意味するのだと思います。

 創意工夫とは知恵の働きのことです。今まで生きてきた中で得た知識や体験の果実が知恵というもので、その知恵を働かすことが創意工夫そのものである。創意とは何か心理的な壁に当たったと自覚した時、その壁を破ろうとする意志のことだと思います。その創意を現実化し具体化することを工夫という。

 その心理の壁とは自分の認識を超えたところの、自分の力の及ばない領域との境界線と言いますか、その境界を突破し領域を広げようとする意志、これを創意と呼びたいと思います。

 この際、創意工夫の大小は問わない、その意志(創意)とその行為(工夫)あることが大事である。他人(ひと)に頼るのでなく自分に頼るとはこれを大事にすることである。即ちこれを自力一番と言う。

 自己実現をする、豊かに自己表現をするとは、この実があって始めて言えることだと思います。創造的意志と創造的行為、これがまさに創意工夫でありますが、創造とは何か非日常的な意志でも行為でもなく、日々の生活の中に身近にあり、豊かに生きるうえで常に私たちが必要としているものではないでしょうか。

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 因果律について考える・・・原因と結果の法則

 自然現象や人間活動など私たちが目にすることのできるあらゆる現象や事象の背景には原因となるものがかならず存在します。これを原因と結果の法則、因果律と呼びます。具体的に自然災害の例をとりまして、この因果律について観察してみたいと思います。

 自然災害は自然現象に人為的要素が関係することで発生します。自然現象そのものは本来、人の活動とは無関係で在ることは自明の理ですが、その自然現象が人間社会に人的、物的被害を及ぼした時、人はこれを「現象」ではなく「災害」と呼ぶことになります。

 この自然現象と人間社会の間にある因果律(原因と結果の法則)を観察してみますと、経済的に豊かで、教育レベルも高く、情報化が進んだ社会では、低い社会に比べ防災意識が高く、日頃から防災にそなえた法整備や社会インフラの蓄積に努力している傾向が見られます。結果として文明度の高い社会は低い社会に比べ自然現象の影響を負の要因として受けるレベルが必然的に低下していることが理解できるところです。この「社会」を「時代」に置き換えても同じことが言えます。

 比喩的な表現になりますが自然現象には自然を支配する因果律が働き、人間社会には社会を支配する因果律が働いていると言っても良いでしょう。

 では次に人、一人々と社会の間の因果律を観察してみますと、人には各々生活事情や経歴というものがありますし、自由意思もあります。人は社会との関わりの中で自分の人生の多くを形成してゆく存在であることを考えれば、過去から現在にいたる社会との関わり方が原因となって現在の生活が存在することがわかります。これらも当然、因果律(原因と結果の法則)の支配を受けてます。もちろん当該の自然災害発生とは無関係にですが。

 以上観察してみますと各段階(自然、社会、時代、個人)での因果律が時間的、空間的に重なり合うことで自然災害が発生していることが理解できるところです。この因果律の重なり合いは決して偶然なものではありません。何故なら重なり合いも当然現象の一つである以上、因果律(原因と結果の法則)の働きによるものになるからです。

 私たちが眼前で起きている現象や事象を見て、「これは偶然である」とか、あるいは「運命的である」とか呼ぶのは、あくまで見た目の印象を感情で表現しているに過ぎません。感情と現実を混同すべきではありません。これを迷い、迷信の因果律と呼んでも差し支えないと思います。

 確かに一口に因果律の働きと呼んでも、観察の対象となる現象や事象の背景にある法則や摂理は複雑で解析困難な例も多いと思います。然しだからこそ、冷静に真偽を見分けることのできる科学的合理性が求められているのではないでしょうか。

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 宗教と科学について考える

 宗教も科学も、私たち人の精神活動の所産です。花や草木などの自然物のように人と関係なく存在できるものではありません。手で触ることも直に見ることもできません。純粋に意識上の産物だからです。宗教建築も儀式も宗教感情を目に見える形で表現したものですが、宗教そのものではありません。教典もしかりです。その宗教が唱えている教えを文字で表現したものに過ぎません。

 科学について言及すれば、その研究成果とされている様々なデーターベースは文字、図表、画像、数式の集まりで、それ以上のものではありません。科学は私たち人の脳の中に実在するものであり、データーベースはあくまでも情報の蓄積と伝達の手段に過ぎません。

 精神活動とは意識の働き、つまり心の働きそのものであると解釈すればよいと思います。一般には宗教と科学とは互いに対立する関係にあるとみられているようですが、同じ人の心という幹から育った枝葉であることが分かれば、その様な見方は偏見であることが理解できるところです。

 同じ幹から育ったのであれば、その果実は枝が違っても同じでなければなりません。同じでないのは宗教も科学もまだまだ発展途上にあるからではないでしょうか。宗教も科学も真理を究明することを究極の命題としていることを考えれば、なおさら確信がもてるところです。

 宗教※が理性や感情そして心理に重きをおいているのに対して、科学は知性に重きをおいている。ついでに言えば芸術は感性に重きをおいている。意識の重心が違うだけでそこに優劣はないと思います。宗教は神秘世界を対象としますが、科学は現実世界を対象としています。

 昔、火星という惑星は神秘世界そのものでしたが、現在、完全ではないにしても神秘のベールがはがされ現実世界の一部になりつつあります。宗教が対象としている神秘世界に探査機を飛ばすわけにはまいりませんが、遠い未来、神秘のベールが少しずつはがされる日が来るかもしれません。

 宗教と科学は少しずつ歩み寄るべき時が来ているのかもしれません。特に宗教は知的傾向を強めるべきのように思えます。信仰者の人としての尊厳を毀損したり、心の自由に干渉するようなことは本来の宗教の在り方から逸脱していると思います。また科学のように必要に応じて変化を受け入れる柔軟性も求められるところです。

 科学もその成果を人のため社会のために活用できないのであれば、もたらされるのは弊害ばかりとなります。もっともこれは科学のと言うよりは科学者の理性の問題と言うべきでしょう。その意味で科学研究に携わる人々は宗教が説くところの慈悲、慈愛の心を必要としているように思えます。(もちろん科学者だけではありませんが)知性だけでは英知は得られません。傲慢はやはり信仰があって少しずつ解消されてゆくものなのかもしれません。

 ご承知のとおり本来、宗教も科学も人の幸福のためにあるべきもののはずですし、そうあらねばなりません。私たちが真理と呼んでいる摂理に背くようでは最早それは宗教でも科学でもないと思います。

 人の能力に限界があるように、その精神活動の所産である宗教と科学にも限界があると思います。然しその限界には到達することは永遠にないかもしれません。真理はどこまでも深いからです。

 ※本来の宗教の在り方を端的に定義できるのであれば、それは理性に適う生き方を自覚する(悟る)ことではないかと思います。愛*はその理性が行動となって現れたものです。このことから導かれることは人生とは信仰の有る無しに関わらず宗教的であらねばならないものなのではないかということだと思います。
 *トルストイの「人生論」p120参照「愛とは、人間の唯一の理性的な活動である。」

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 平衡原理について考える

 自然界をよく観察してみますと自然現象とは何らかの平衡の破れ(バランスの崩れ)が原因となって生じていることが理解できます。例えば、水は高きから低きに流れると言いますし、風とは気圧の高い大気から低い大気への空気の流れそのものです。平衡原理※とはバランス作用のことですが、このバランスが崩れたところに様々な現象が表ずるわけです。

 自然現象とは宇宙から生命、そして私たち人の意識まで全てを含むと理解して良いと思いますので、当然これらは平衡原理の支配を受けていることになります。

 宇宙誕生(ビッグバン)は何らかの平衡の破れが原因となっていると思います。宇宙はけっして無からたまたま偶然に誕生したものではないはずです。宇宙空間の拡大も平衡原理そのものだと思います。つまり何らかのバランス、平衡状態が実現するまでこの宇宙は拡大し続けることになります。

 人類がここまで進化した背景にも平衡原理が働いていると思います。つまり進化とはバランス作用そのものであるということになります。バランス作用とは調和に向かう統一作用と理解すればよいと思いますので、進化しているものほど調和に近づいていることになります。外観上、人と類人猿の身体を比較してみましても、明らかに人体の方が洗練されていることがわかります。

 人の意識もしかりです。自己実現とは個性の充実、つまり高い意識レベル(認識レベル)を実現することを意味しますが、これも進化そのものであると言って良いと思います。調和ある人格とは意識レベルの高さ、つまり心の豊かさの指標となるべきものです。

 人が花を見て美しいと感じることができるのも、そこにある種の調和を実感しているからだと思います。人が幸福を実感できるのも、幸福が調和そのものであるからではないでしょうか。然るに幸福を求めることとは調和を求めることと同じになります。

 私たちの人生が自然界と同様、平衡原理の支配を受けているということであれば、人が幸福に求めることとは摂理そのものであると言って良いと思います。つまり人は幸福になるべき存在であると言うことになります。そこに人が人として存在する故の真理があるようにも見えてきます。

 不完全で調和に遠い人格ほど、調和への道程は長くなります。私たち人はこれまでの生活体験からその道程がけっして容易なものでないことを良く理解していることと思います。時には強い意志と忍耐を必要とする時もありましょう。調和とはそれとは正反対の体験、つまり悲しみや無念などを通して始めて実感できるものなのかもしれません。

 古来より神と呼ばれている存在は完全な調和のことかもしれません。そう考えますと人とは完全を求めて進化する存在であるとも言えてくるのではないでしょうか。

 ※学術用語の「平衡の原理」のことではありません。一般語としてご理解ください。

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 神秘世界について考える(その1)

 神秘世界とは、具体的には人の認識を超えた世界、人智の及ばない世界と理解すればよいと思います。それが現在の科学技術レベルでは到達不可能な世界を意味しているのであれば、神秘世界も現実世界の一部であることには変わりなく、神秘か現実かはあくまで人の主観の問題になると思います。つまり心の中の印象、その印象にともなう感情の問題になるわけです。

 「神秘」という言葉は本来、感情表現そのものであると思います。「不思議」、「感動」、「畏怖」などこれらの印象にともなう感情の総体が神秘という言葉になるわけで、特に畏怖感情は宗教信仰の主たる動機となり、感情面において宗教がよって立つところの礎となるものだと思います。

 ここで神秘世界と呼んでいる対象はいまだ未踏の真理がある領域のことであると解釈すればよいと思います。

 はたして、私たち人が現在、神秘であると認識する領域の全てが遠い未来、科学の力により明らかにされる日が来るのでしょうか。それは不可能なように思えます。何故なら、科学は観察する対象の全てを言語、あるいは数式を用いて記述することで成立するものだからです。神秘世界とはこの現実世界と同様、言語や数式だけでは表現不可能なものも広く含むはずですから、科学の力のみでは解明することはできないと思います。

 例えば芸術の領域である音楽や美術を言語や数式に置き換えることができるでしょうか、不可能であるとともに全く無意味と言えましょう。人の感情や感覚もしかりです。人の心自体も言語で記述するには限界があると思います。何故なら、その心の働きが言語では表現不可能な感情や感覚そのものであり、芸術を創造する働きそのものであるからです。

 宗教も同じことが言えます。宗教は知的方面では哲学によるところが大きいと思いますが、それだけでは宗教とは呼べません。やはり畏怖感情をともなう神秘体験などに象徴される心理的方面がとても大事になってくるはずです。

 科学がよって立つところの知性とは言語を用いることにより、観察する対象を分別し記憶する心の働きのことです。具体的に言えば対象を観察し分析し評価したうえで知識として記憶する働きをするわけです。そうであれば言語で表現不可能な領域は科学の対象にはなり得ないことがわかります。

 これまで述べさせていただいたことから、神秘世界にあるところの真理を解明するためには、知性だけでなく、感性とか理性などをかなり高いレベルで働かすことができなければならないことが分かってきました。

 そうなりますと真理を解明することとは、極めて個人的な研究行為になるかと思います。何故ならレベルの高い心の働き、つまり高い意識レベルとは個々人の心の豊かさの程度そのものを現すからです。その程度の如何が研究の成否を左右することになるわけです。

 過去の科学研究の成果を見てみましても、その多くは科学者一人一人の個人的体験と創意工夫の努力の結果であることがわかります。科学研究による成果は言語や数式により記述し、広く伝達することができますし、そのまま知的財産として多くの人々の間で共有することも比較的容易にできます。しかし真理は言語のみでは表現が不可能である以上、この様なことは望めません。

 真理を解明するためには、科学だけでなく、宗教や芸術など私たち人が手にすることができるおよそ全ての精神活動の所産を総動員し融合する必要がでてきます。しかも、これを全て限られた人生の個人的体験の中で実現しなければなりません。

 しかしよく考えれば、私たち人は何も神秘世界を解明するためにこの世界に生まれてきたわけではありません。ただ言えることは、「人は幸福を求めるがゆえに真理を必要とする」ということです。つまり私たち人にとって真理とは解明する対象ではなく、幸福になるために必要とする対象であるということになると思います。

 これまでの論から言えば、レオナルド・ダ・ビンチもアインシュタインも空海も影が薄くなるような、それこそ科学も、芸術も、宗教も極めている大天才でもない限り真理を悟ることは永遠に不可能であることになってしまいます。はたしてそうなのでしょうか。どうも違うような気がいたします。

 どうやらいつのまにか道を外れてしまったようです。次のコラムでもう一度、神秘世界について考えてみなければならなくなってしまいました。

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 神秘世界について考える(その2)

 人生の答はあらかじめ用意されているのかもしれません。ただ私たちはそれが目の前にあることを悟れない(自覚できない)でいるだけなのかもしれません。

 科学も芸術も宗教も、本来、人が幸福を求めるがゆえの精神活動の所産であることを考えれば、人が幸福を求めるがゆえに科学も芸術も宗教も存在すると言えてくるのではないでしょうか。そこに真実があるような気がいたします。

 科学が、芸術が、そして宗教が人生に豊かな体験と表現の機会を約束してくれている。これが一番大事になってくるのだと思います。

 いつの日かこの自然界の究極の真理を解明できるかどうかも、宇宙誕生の謎も、天国の世界の風景も、それはそれで魅力のあるお話ですが、一人一人、興味のあるところをお楽しみとしてとっておけばよいだけのことだと思います。

 以前のコラムで人とは現実世界に生きながら、心の中の主観世界に生きる存在であると述べさせていただきましたが、神秘世界にある真理の究明が個々人の心の豊かさに深く関わる課題であるとみれば、神秘世界とは主観世界に存在する純粋に意識上の対象であるのかもしれません。そう考えますと神秘世界とは花や草木などの自然物のように人の意識とは無関係に在るものではないことになります。

 つまり神秘世界とは一人一人の心の中にある風景そのものであるということになります。そうなりますと真理究明とは自分の心の究明、自己究明に他ならないと言うことになると思います。真理は何も宇宙の彼方や未来の彼方にあったのでなく、私たちの心の内にあったというわけです。

 言い換えれば私たちの心が真理そのものである。それが人生の答である。その心を悟る(自覚する)ことこそが人生の命題である。その悟りの程度が心の豊かさを現すわけです。悟るとか自覚するとかの言葉の意味は知識として理解するというだけでなく、感覚的に理解することを含みます。つまり真理を悟るとは言葉にならない感覚的なものを含めて自覚することを意味するわけです。日常的な言葉を用いれば実感するがこれにあたると思います。

 「心とは何か、人とは何か、自然とは何か」と悟ろうとする意志が、科学と芸術と宗教を創造したと言えるのではないでしょうか。どうやら道を外れた原因は精神活動の所産であるはずの科学、芸術、宗教の成果を真理と見なしてしまったところにあったようです。真理の成果が科学、芸術、宗教であったのです。


 14・慈悲と慈愛を考える・・・崇高な自己の発見

 このコラムでは慈悲と慈愛について考えてゆきたいと思います。慈悲慈愛の慈とは友情を意味します。慈悲を他の言葉で表現すれば同情にあたります。それは自分と他の存在(自他)との間の境界を超えて相手の悲しみや無念の思いに共感できた時に湧いてくる意志のことだと思います。

 自他の境界を超えてとは、人と人との関係だけでなく、動物から花や草木などおよそ命あるもの全て、それだけでなく大地から大気にいたるまであらゆる対象を差別なく扱うことを意味します。私たち人はこの現実世界に生きながら心の中の主観世界に生きる存在です。主観世界と呼ばれる心象風景に写る景色、そこには人も動物も花も草木も自然風景も存在します。

 その心象風景に彩りを添えるのが感情です。散りゆく桜の花に切なさを覚え、切り倒された故郷の森に言葉にはならない無念の感情を覚えるのが私たち人という存在です。その無念の感情から湧いてくる意志が慈悲のことだと思います。心の中に写る景色は私たちの心そのものです。言い換えれば自己そのものです。そこに最早、自他の差別はありません。心象風景の中では、この私が桜の花であり、故郷の美しい森であるのです。

 例えれば心は鏡のようなものだと思います。その鏡に磨きをかければ、真実が明瞭に映し出されてきます。その映し出された真実が慈悲を呼び覚ますわけです。

 慈愛は愛するという行為そのもの。苦しむ者に希望という光を与える。道に迷いし者に導きを与える。保護を必要とする者に守護と生きる糧を与える。ただ与えるだけの行為のことです。

 慈悲と慈愛は愛という感情が意志と行為というかたちで現れたものだと思います。また愛が幸福と深く関わる感情であるとすれば、幸福とは調和そのものであると思いますので、愛は調和と深く関わる感情であると言えてくるわけです。

 しかし感情とは何なのでしょうか。他の言葉に置き換えるとすれば律動(リズム)が最も適当なように思われます。私たち人は音楽に同調して感情を左右させます。音楽には心を静めるもの、躍動感を与えるもの、切なさを感じさせるもの、神秘的感情を呼び起こさせるものなど様々ですが、そしてこのことから音楽表現が感情表現そのものであることに気がつきます。

 感情とは生命そのものなのかもしれません。最も精妙で協和的な律動が幸福と呼ばれる感情であり、そして愛とか美と呼ばれる感情も同じものを意味しているのかもしれません。美とは幸福を視覚化したものかもしれません。つまり調和そのものを目に見える対象にしたものが美そのものであるとなるわけです。

 愛とは幸福と呼ばれる最も精妙で協和的な律動が、ある機会をきっかけに慈悲と慈愛の動機となった時に自覚される感情かもしれません。私たちの心の中に不調和(不幸)な存在を調和(幸福)へと導きたい、導かなければならないという意志が湧いた時、幸福の感情が愛へと変わって自覚されるのかもしれません。

 このことから導かれることは愛と美こそ幸福そのものであるということです。これが即ち真理です。私たち人はともすれば、本能的欲求を満たすことこそ人生の幸福であると認識してしまう存在でもありますが、それらは身体の健康と生存を保障する上で必要な欲求ではあっても、一過性のものであることにも気がつかなければなりません。それらの欲求は満たされたとたんに消滅してしまう感情そのものであり、然るにそこに普遍的な価値など見いだせるわけがないわけです。

 本能的欲求を満たすことを中心にした人生は、あたかも幸福の幻影を追うがごときの様相を露呈いたします。最後に待っているのは老いと病と死のみです。こんな人生に希望の光など見いだせるわけがありません。欲求が満たされないことからくる苦しみと焦り、そしてその苦しみと焦りが呼び覚ます様々な否定的な感情にさいなまれながら、さまよい歩く一生をたどることになってしまうかもしれません。

 故に私たち人は、やはり常に自省的であるべきであると思います。自省とか内省の言葉の意味は自己を省みるということですが、省みるとは今ある自己を一度否定したうえで、新たな自己を創造し肯定してゆく、新たな心境を開拓してゆこうとする意志のことだと思います。

 この自省があって、はじめて人は真実の幸福を自覚できる存在になれるのではないかと思います。自己を創造するとは心を豊かにしてゆくことですが、この創造的意志により心の認識の領域を拡大して心の視界を広げてゆく、そこに真実の幸福の輪郭が明瞭に現れてくるわけです。

 私たち人の心とは例えてみれば楽器のようなものだと思います。楽器のできが悪ければ良い音は期待できません。幸福と呼ばれる最も精妙で協和的な律動(リズム)を表現するには、優れた楽器が必要になります。私たち人は、この授けられた人生の中で豊かな体験を積むことにより優れた楽器を作る術を学ばなければならない存在であるのかもしれません。

 (以上、人間意識の解明について その9)

 15・幸福論・・・幸福と苦しみについて考える

 このコラムでは人生の幸福と苦しみにつて考えてみたいと思います。

 苦しみの感情とは何でしょうか、この鈍く重たい感覚を覚えますと強い不安感や、時には恐怖感さえ感じるようになってきます。この不安感や恐怖感を克服することがきっかけとなって、人は様々な行動を選択することになるわけです。

 例えば病気の苦しみを克服するために過去から現在に至るまで人々は様々な努力を傾け、多くの成果を上げてきました。同様、多くの人間活動は様々な苦難や困難、不自由を克服することが動機となって始まるようにみえます。そう考えますと苦難は文明の母とも言えてくるのかもしれません。

 苦難に遭遇した時にその人の本当の価値が分かると言いますが、その言葉は真実を表していると思います。その苦難にどう向き合えるかどうかで、その人の心の豊かさとか意識レベルの高さが明らかになってくるからです。

 人は苦しみの感情が持てるからこそ、心の豊かさと文明の豊かさを享受できる機会が約束されている存在であるのかもしれません。苦しみの感情があるお陰で幸福とは何か、愛とは何か、美とは何かを実感できるとともに創造がもたらす豊かさが何であるかも理解できてくるのではないでしょうか。苦難がなければ真実の豊かさを手に入れることはますます遠くなると思います。

 苦難にともなう苦しみの感情とは各々の主観から生ずるものであり、花や草木のように一つの客観的事実として存在するものではなく純粋に意識上の出来事としてあるわけですが、故に何が苦しみで何が苦しみでないかの判断は一人一人の主観によることになってきます。つまり苦難とはあくまで心の中の主観的事実として存在するわけです。

 人は誰でも過去の幸福体験がもととなって心の中に自分なりの幸福観を持っていることと思います。この幸福観から遠ざかった感覚が苦しみを初め悲しみ、孤独感など様々な否定的感情になるのではないかと思います。更に豊かな人生体験を積む機会が得られれば、自分の持っている幸福感の幅と深さを拡大することができることと思います。その分、否定的感情に陥るようなことも少なくなってくるのではないでしょうか。

 心を豊かにするとは、即ち意識を広く深くすることを意味してきます。つまり認識という心の視界を広げてゆくことが心を豊かにしてゆくことにつながってくるわけです。心の豊かな人は例え自分が不遇な状況におかれるようなことになったとしても、心の視界が広いだけ、どこかに幸福を見いだしていることと思います。

 心の視界から見いだせた幸福が例えわずかなものであっても、その体験の積み重ねこそが大切になるのだと思います。確かにかえりみますと私たち人が日常の中で幸福感を実感できるのは些細な出来事からくる例の方がずっと多いような気がいたします。道ばたの名も知らない雑草の花に、今日出会った人の何気ない笑顔や親切に、ささやかな買い物に、澄み切った青空に、時には久々の雨に、夜空の星々に、そのささやかですが一つ一つが幸福の体験であると実感できることが大事になってくるのではないでしょうか。

 それだけでなく人生の幸福は探せば目の前にいくらでもあります。ただそれに気が付かないでいるがゆえに、幸福を実感できないでいるだけのことのようです。例えば、自分の足で何不自由なく歩けることとか、その足が不自由だとしても自分の手を使って何不自由なく食事ができることとか、この当たり前と思っていることも、一旦その不自由を体験すれば幸福そのものであることが実感できることと思います。

 また、人はこの社会で育まれ様々な教育や訓練、体験の機会を与えられます。科学や芸術、宗教は多くの豊かな体験と表現の可能性を一人一人の人生に約束してくれています。これも幸福そのものです。

 慈悲の心も苦しみや悲しみの感情から生ずるものですが、自他の境界を超えて幸福感が失われる機会に遭遇した時、わたし達は慈悲の心を自覚することができます。この慈悲とは自分以外の存在に向けられているものです。このことから慈悲とは自他の境界を超えて働く意志であることがわかります。人は慈悲や慈愛の心で他に接することができた時も幸福感を覚えます。

 人生の中には他にも多くの幸福が存在します。それは一人一人が心を豊かにしてゆくことで次第に発見できてくるものではないでしょうか。そう考えますと、私たち人は幸福になるために自分の人生に多くを望んだり期待する必要はないことになります。何故なら心を豊かにできれば、多くの幸福を手にできることが約束されているからです。一番大切なことは感謝できる心を持つことではないでしょうか。人とは皆、生かされている存在なのです。誰一人として一人だけで生きれる人などはいないはずです。この事に気が付くことができれば自分は決して孤独な存在でないことにも気付かれることと思います。

 心の豊かな人は心の広い人でもあるわけです。その広さとは自他の境界を超えることができるだけの意識の高さのことです。また、心の豊かな人は心の深い人でもありますが、その深さとは愛情の深さのことであり、幸福や美を実感できる感度の深さのことでもあります。心の豊かな人は他の存在の幸福も自分の幸福のように実感できる機会が多いことと思います。

 例え苦しみの思い出の多い人生であっても、それによって、これまで体験した幸福が消えてしまうようなことはありません。苦しみに関係なくあくまで幸福は幸福であるからです。

 苦しみという感情はその人の心境次第で生じもすれば消えもします。しかし、幸福という感情は心の中に普遍的に存在するものであると思います。私たち人は例えどんな苦難に遭遇したとしても愛と美を感ずる心を完全に失うことはありません。愛と美は幸福の感情そのものです。

 心の中にある幸福、愛、美と呼ばれる感情から遠ざかった感覚がした時、それを喪失感として感じるのが苦しみや悲しみの感情の始まりですが、喪失といっても自分の心の中にある幸福を実感できなくなっただけのことで消えてしまうことはないわけです。しかし苦しみの感情は幸福が実感できるようになれば次第に消えていってしまいます。

 人は人生を過ごしてゆく中で耐えがたい苦難に遭遇することがしばしばあるかもしれません。人格を踏みにじられるような体験も少なくないはずです。幸福などはるか遠くに行ってしまったような心境は誰でも体験していることと思います。

 禅に「自他不二」(じたふに)という言葉があります。桜の花を美しいと感ずる心に、自分とか他人とかの違いはありません。悲しい出来事に対しても同じことが言えると思います。区別のしすぎがかえって苦しむ自分を更に苦しみの中へと追い込んでしまうことも多いのではないでしょうか。

 「私は苦しい」、「私は悲しい」、この心の嘆きを「私も苦しい」、「私も悲しい」と心の中で置き換えることができれば、あるいはそこに真実に近い心境が見えてくるかもしれません。苦しいのはけっして自分一人だけではないのですから。幸福と愛から遠ざかった思いが一時的な孤独感となって現れているだけのことなのです。永遠に続くようなことはないはずです。

 人は耐え難い苦難の最中にいる時、「死にたい」と思わず心の中で叫ぶことがあるかもしれません。しかし同時に、人は容易に死ねるものでないことも良く理解していることと思います。この「死にたい」の言葉は「このままでは生ききれない」、「このままでは人生を全うできるわけがない」の言葉の裏返しなのかもしれません。それは耐え難い苦難の最中にあっても自分の人生を真剣に生き通したいという、その人の誠実な願いが言葉を換えて現れたものにすぎないのかもしれません。

 自分の人生への責任意識である理性の高い人ほど危機に瀕した時、立ちはだかる壁に真向きになろうとして返って苦悩の中に身を沈めてしまうことも多いのかもしれません。この様な心境の中、理性を保障してくれるのは信仰だと思います。信仰も真理の現れそのものです。各々の自由意思をもとに理性にかなう信仰を選択することができれば、どんな苦しみの中にも幸福と愛と美を発見できる機会が訪れるかもしれません。信仰が希望の光へと導いてくれることを確信したいと思います。

 (以上、人間意識の解明について その10)

 ※幸福とは求めるものではなく、今ここにあることに気づくことです。様々な困難の中にいる方々も多くいらっしゃることでしょう。幸せなど見つける心の余裕すら失っている方々も少なくないはずです。どうか、何はともあれ、ご自分を大切になさってください。ご自分の心と身体をおいたわりください。人生は休むことも大切です。歩みはゆっくりでいいはずです。あせることもないでしょう。真の意味でご自分を大切にできるようになれば、周囲の人たちにも社会にも環境にも同じようにできるようになってきます。そうすれば人生はかならず良い方向に向かってゆくものです。遅かれ早かれ道は必ず開かれます。皆さまには等しく、それを証明するお力がそなわっているはずです。

 (2005.10.26 増補乃至改訂)

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