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◆人間存在を考えるコラム Page2 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 9・時間を考える・・・過去も未来も存在しない ご承知のとおり暦(太陽暦)は太陽を周回する地球の惑星運動と自転運動をもとにつくられています。時間の単位はその暦をもとにつくられました。 物体が運動する時、必ず時間的経過をたどります。例えば新幹線が東京から大阪まで移動するのには所要の時間を必要とします。暦や時間は地球と呼ぶ天体の運動により生じた時間的経過をもとにつくられているということになります。 運動だけでなく物質の変化にも時間を必要とします。水が氷に変化する時も同じく時間的経過をたどります。私たちが日常、生活したり労働したりする時も当然時間的経過をたどります。このように時間というものは物、物質、空間と同じように客観的に認識できる存在であるわけです。 では次に、私たちの心(意識)の中の時間のあり方について考えてみたいと思います。人は時間的経過を認識する場合、必然的に過去、現在、未来と分類したりしますが、これには少し問題があると思います。なぜなら前述したように時間とは物と同じように現実世界に実在するものです。しかしあたりまえですが現実世界のどこを見渡しても過去も未来も実在しません。 人は心の中で実在するものとそうでないものとを、混同して扱ってしまっていることがこれでよく理解できます。つまり過去や未来と呼ばれているものはあくまで心象風景の中の景色の一つにすぎないということです。言葉に言及すれば「過去」という語は「記憶」とか「体験内容」と呼ぶ語の置き換えになります。「未来」は「期待」、「予想」、「想像」と呼ぶ語の置き換えです。 タイムマシーンの時間旅行は夢があって楽しいお話ですが、残念ながら実在しない目的地は旅の対象にはなり得ません。 では次に「現在」について考えてゆきたいと思います。一般には「現在」という語は「直覚」を表すと言われています。直覚とは今、この瞬間を感覚、知覚するという解釈でよろしいと思いますが、しかしこれでは時間的経過を認識することはできません。なぜなら経過とは瞬間ではとらえることのできないものだからです。静止画を見ても情報は限られていますそれと同じことです。 「現在」とは端的に言えば、私たちの眼前で繰り広げられている「現実世界」そのもののことだと思います。現在進行形の世界、私たち自己が今、在るところの世界です。そこにはもちろん、過去も未来も存在しません。ただ現在あるのみです。前述したように過去も未来も私たちの心の中の景色、つまり心象風景のことです。現実世界はそれとは無関係に存在しています。この現実世界とは私たちが消滅したとしてもそれとは無関係に存在し続ける世界です。(消滅しても意識は残ってどこか別の現実世界に行くかもしれません) 第8のコラムで人とは心象風景の中に生きる存在であると述べさせていただきました。故に人とは現実世界に在りながら心象風景の中に生きている存在であるとも言えてくるわけです。心象風景の中をよく観察しますと今、現在進行しているところの景色、つまり今、視覚しているところの景色と、記憶(過去)と想像(未来)による景色がオーバーラップしているのがわかります。故に記憶と想像は心の景色に時間的奥行きを与えているとも言えます。 心象風景とは主観的世界そのものであるとも述べさせていただきました。風景に時間的奥行きを与えることは、ものごとの実相を理解するうえでも大事な役割をしています。主観だけでは偏りがどうしてもでてきます。記憶と想像がものごとを客観的に見るうえで大事な助けになっているわけです。 認識レベルを高めるということは記憶の内容を豊かにするとともに想像力を豊かにすることにもつながります。また以上のことから心を豊かにするとは認識レベルを高めることと同義であると導けますので、過去の体験を豊かに生かし、未来を豊かに想像する(希望を創造する)ことが人生を豊かに生きることの大切な条件になることがこれで充分理解できるところです。 (以上、人間意識の解明について その4) ◆60年代アメリカSFドラマ「インベーダー」に見る心象風景(休題閑話) SFドラマ「インベーダー」をご存じでしょうか。数年前に再放送もされました。偶然にもインベーダーの陰謀を知った主人公の若き建築家、デビッド・ビンセントは一人、真相を暴かんと孤独な戦いを続けるのですが、ある日、インベーダーの方から和解を持ちかけられ宇宙船(UFO)に招待されるシーンがあります。 ビンセントの乗った宇宙船は信じられないような速度で上昇しやがて地球の外に到達します。大きな座席に一人座らされたビンセントの眼前には青い地球が浮かんでいます。 ここからが問題のシーンに入ります。ビンセントの目から見ると宇宙船は急降下しアメリカのどこかの地に着陸するのですが、そこではインベーダーと地球人類が仲良く暮らし地球圏外の高度な文明が人類に大きな恩恵を与えている光景がここかしこに見えてきます。やがて同じ職場の同僚が姿を現します。車椅子だったのですが自分の足でしっかり歩いているではありませんか。驚いていると今度はビンセントの婚約者が目の前に現れました。「デビッドあなたは間違っている。彼らはとても友好的よ。お願いだから私の言っていることを信じて」彼女の言葉にショックを受けたビンセントは目を覚ましてしまいます。・・・全ては虚像だったのです。 他人が脳の中の心象風景を自在にコントロールできるようになればこんなこともできるのかもしれません。怖いお話ですが現実には似たようなことも行われているようです。精神療法の名のもとに催眠術を利用した前世療法などと呼ばれているものが一部で行われています。断定的な物言いは避けたいところですがこれも一種の虚像のようにみえます。 今後、人間意識の研究を目的とする心理学が発展するにつれて更に意識の解明が進むことが期待されます。 しかし、疑似科学に陥らないだけの見識は保ち続けたいと思います。ビンセントの二の舞はごめんですから。 10・人の自由性を考える・・・文明の原動力 人の自由について考えてゆきたいと思います。この地球環境上で人間ほど自由に行動している生命体は他に存在しません。植物にはもちろん自由意思などありませんが、動物なども下等になればなるほど自由意思のレベルは低くなってほとんど本能だけで機能本意に行動しているようにみえます。 「人間と動物の違いを一つだけ示せ」と言われれば、「それは自由意思の程度にあり」と答えるのも正解の一つと言えましょう。自由意思の程度が人としての存在を示す一つのバロメーターになりうるわけです。 高度な自由意思には必ず責任意識がともなわなければなりません。責任意識とは理性のことですが、理非曲直を認識できる能力が充分ともなわないのであれば自由意思は自ずと制限されるのが自然の摂理であると思います。人間がここまで進化して相当な自由意思を働かすことができるようになった背景にはかならず理性の発達がなければならないはずです。 天秤に例えれば右の秤に自由意思、左の秤に理性ということになります。天秤の機能が摂理の役割を現します。 では次に自由意思そのものについて考えてゆきたいと思います。まず自由意思とは何かですが、この場合、意思という語は精神作用とか心の働きと解釈すればよろしいと思います。ですから自由意思とは自由な心の働きとか自由な精神活動と理解すればよいと思います。以前のコラムで「心の働き」とは即ち理性、知性、感性、感情などの働きのことをいうと定義いたしました。(総称して個性と呼ぶ) 心の働きとは具体性のある言葉で言えば認識のことですが、認識の程度、即ち認識レベルが自由意思の程度をそのまま意味することになります。故に認識レベルの高い人(心の豊かな人、意識レベルの高い人)ほど「自由意思を行使できる機会」(自由性)が拡大するということになるわけです。 例えば優れた芸術家や建築家の表現を観ますと深さとか広がりが感じられます。それは表現者がそなえている自由性そのものを現しているといっても良いでしょう。音楽家は音楽に対する認識がかなり高いレベルにあるわけですから音楽表現に関しては多様で深みのある表現が自由にできるわけです。 文化や文明の発展の原動力にも、この自由性は重要な役割をはたしているはずです。表現の自由性が保障されていることが高度文明社会の最低必要条件であると言っても過言ではないと思います。逆に自由性も個々人の多様性も保障されていないような社会は人間社会としての条件を著しく欠いていると判断してよいと思います。 次に人生の中での自由性について考えてゆきたいと思います。以前のコラムで心の豊かな人は表現も豊かであると述べさせていただきましたが、前述の説明でこのことがさらに深く理解できることと思います。言い換えれば心の豊かな人は自由な心の持ち主であるとも言えてくるわけです。 ものごとがよく見えるようになればそれだけ自由性の高い認識や表現ができるようになる。絵画を観ても、音楽を聴いても、映画を観てもあるいは文学に親しんでも狭い見識にとらわれない理解ができるようになる。幅と深みのある理解もできるようになる。それだけでなく、その豊かな感覚的、知覚的体験内容をもとにより自由な発想ができるようになる。それが豊かな創造と表現につながってゆくわけです。 しかし残念なことに人とは自ら自由性を放棄してしまうようなことも時にはしてしまいます。偏狭な思想にとらわれたり、カルト的な宗教や占いを妄信したり、あるいは疑似科学を過信したりとおよそ非文明的なこれらの所産は人々の自由性を奪うだけでなく心を貧しくし、人としての尊厳すら毀損する対象であると言えると思います。 それだけでなく物やお金に執着するようなことも同じ行為だと思います。本来これらは必要の用としてあるべきものですが、いつの間にかそれ自体を生きる目的としてしまうようなことは人生を貧しくすることになるのではないでしょうか。 人に生まれながらにして高度な自由意思がそなわっている事実は一つの摂理と理解すべきだと思います。高度な自由意思には理性が必要です。理性が人の自由性を保障するのです。幸福な人生を望まない人はいません。それと同じように自由を望まない人はいないはずです。心の自由を放棄するようなことだけは人の行いとしてすべきことではないと思います。 (以上、人間意識の解明について その5) 11・運命について考える 「運命」という言葉を他の語に置き換えるとすれば、「不自由」が一番、適当なように思えます。つまり「幸運」とは不自由がもたらす幸福で、「不運」とは不自由がもたらす不幸ということになるわけです。なぜ運命が不自由と同じ意味なのかと申しますと、よく「運命には逆らえない」、「これも運命と思って諦めよ」などとよく言いますが、このように運命という言葉自体、否定的な語、ネガティブな言葉として扱われる例が多くみうけられるからです。 確かに冷静に見てゆけば人とは生まれながらにして不自由な存在であると思います。自由意思による選択の幅はおのずと限られています。生まれる場所も、育つ環境も、生きる時代も社会も自由には選択できません。身体がある以上、様々な不自由がともないます。病気や老いは避けられません。才能に恵まれている人もいればいない人もいます。 この様に見てゆくと人が生きる環境そのものが不自由であるとともに、人そのものもが不自由という語で象徴できるような存在にもみえます。 しかし、ここでもう一度、運命というものについて考え直してゆきたいと思います。そもそも人はなぜ不自由という感覚をもつのか、もつことができるのかというこです。この問いが重要になると思います。それは人が自由意思を高度なレベルで働かすことができるからだと思います。 自由意思とは自由な心の働き、自由な精神活動という理解でよいと思いますが、つまり人とは生まれながらにして自由な心の持ち主であるが故に不自由を実感し、自分の裁量や力では扱うのが困難な対象を「運命」と呼んでいるのではないでしょうか。 ですので自由な心の持ち主ほど不自由を実感し、それがさらに、自らの自由意思を働かす機会を拡大しようとする動機づけにもなっているように思えます。然るに不自由とは心の成長の源と言うことにもなります。才能のある芸術家ほどかかえる苦悩も多いのかもしれません。それがさらなる創作活動に結びつくことになるわけです。 しかし、これまでの説明でもやはり自分の不運については納得できないものがあると実感されている方も多いと思います。これについて考えてゆきたいと思います。 もともと何を不自由と感じるかは各々違うわけですが、これは不自由という感覚が主観からくるものだからです。人はそれぞれ自分の主観の世界で生きる存在であると既に述べさせていただきましたが、主観という自由意思が何が自分にとって不自由でそうでないかを決めていることになります。 同じ境遇におかれても何が不自由でそうでないかは各々の自由意思次第となります。自由意思の働きにはかならず理性がともないます。理性とは簡単に言えば何が真で何が偽であるかを判断する認識のことですが、理性が自由意思をコントロールしているわけです。 理性のレベルが高ければ何が自分にとって真の不自由で何がそうでないかの判断ができるようになります。心の豊かな人は自分が不幸な境遇におかれたとしても、それほど不運を実感していないのかもしれません。それより災い転じて福となすというように自らの自由意思をプラスの方向に働かそうと努力すると思います。 人は体験を必要とする存在だと思います。悲しみの体験がなければ、他人(ひと)の悲しみの感情は理解できません。理解できないより理解できるほうが幸せです。いつまでも愚鈍のままではかえって惨めになります。失うものが多い人ほど心を豊かにできる機会が多く訪れるのではないでしょうか。幸せを呼ぶ青い鳥は心の内にあるわけです。 (以上、人間意識の解明について その6) 12・信仰と合理性について考える まず、信仰とは何かについて考えてゆきたいと思います。一般に「信仰」という語で連想されてくるものは宗教ですが、広く解釈すればそうでもないことが良く分かります。信仰の語義をあらためて解釈すれば”個人の認識を超えた存在を信じる”(信仰とは個人的な動機の発現であるが故に)という理解が最も適当ではないかと思います。この認識を超えた存在とは神とか先祖霊など一般に宗教信仰の対象となっているものだけではありません。 例えば、未知の真理が対象であれば科学になりますし、倫理が対象であれば武士道や儒教などになります。思想であれば社会主義や民主主義などを土台にした政治活動となりますし、国家や民族であれば国家主義や民族主義などの国民感情や民族感情を土台にした政治活動や社会活動、文化活動へとつながります。地球環境であれば自然保護活動というかたちで現れます。 この様に信仰と一口に言っても対象は多様なわけです。(信仰を広く解釈すれば)では、次に個人の認識を超えるとは何かですが、これが単に個人の認識レベルが低いことに由来するのであれば、それはその人の知性や感性が足りないからだとか、低いからだとかいう理解にもなりますが、それだけでなく例えば科学がこれだけ発達しても研究対象となる未知の領域というのは多く存在します。それらは人の認識を超えた領域でもあるわけですが、そこに必ず真理ありと予見すれば何らかの科学が成立するということにもまたなるわけです。(偏った予見では疑似科学に陥るおそれもあるわけですが) この様に人の認識を超える領域とは他にも多く存在するわけです。 信ずるとはそこに信をおく、つまり理性の働きによりこれは確かに真であり偽ではないと判断するところのことですが、その結果よく解らないが(よく認識できないが)とにかく信じようという自由意思が働くのがそもそも信仰ではないかと思います。(広い意味での信仰 = 理念の創造) しかし今までの記述だけではこと宗教信仰に関しては説明が不充分であると思いますので、このことについて更に考えてゆきたいと思います。 一般に宗教信仰には神秘体験がともなわないことには、やはり信仰心は充分に働かないのではないかと思います。神秘体験といっても大げさなものではないのですが、例えば死別の悲しみを無事乗り越えることができたとか、その結果、他人の悲しみの感情がよく解るようになり、慈悲の心が持てるようになったとか、以前より何か落ち着いた心持ちで日々暮らせるようになったとか、悲しみの感情が深ければ深いほど何かこういうことをありがたく思えてくる人は多いと思います。 それが例えばきっと神仏の御加護があったからに違いないというふうにもなるわけです。あるいは不思議な夢などを見て、その体験から目に見えない世界が現実にあるのかもしれないあるに違いないなどと妙に確信してしまうようなこともあるわけです。 そういう心の働きはかならず精神を安定させる作用がともないますから、なおさら確信が深まることにもなるわけです。別の現実世界が存在する感覚や知覚を四次元的空間認識とでも呼んでおこうと思います。つまり三次元空間に目に見えない奥行き、深さ、広がりを感覚ないし知覚する認識とでも定義しておけばよいと思います。 いずれにしても、この様に神秘体験というものがやはり宗教信仰にとっては大事な動機になるだろうということが充分想像できるところです。 次に合理性について考えてゆきたいと思います。一見すると信仰と合理性には何の関わりもないあるいは相反するものであるという判断も出てきましょうが、合理性が信仰の大きな支えになっている事実をここで見てゆきたいと思います。 一般に合理性といえば法治社会の法的合理性とか経済社会の経済的合理性、学術分野の科学的合理性を連想したりしますが、それだけではありません。 例えば人が何かを信ずるとは、そこに理性の働きがあるからです。何が真で何が偽であるかを判断する認識、それが理性ですが理性が働いた結果、真と出ればそれは、その人にとっては理にかなう判断であり合理性をそなえている対象であるということになるわけです。言い換えれば理性レベルの高い人はそれだけ合理性の高い判断や行動がとれるようになるということになります。 故に信仰の対象も信仰する本人の視点から見ればそれなりに合理性をそなえているということがわかってきます。人は信ずるところに行動するとはまさにこのことだと思います。合理性とは理性にかなうとか真理にそうとでも理解しておけばよいと思います。 人生をより合理性の高いものにすることを望むのであれば、真偽を見分ける鑑識眼をそなえる必要がでてきます。この鑑識眼が理性のことですが、高い理性を身につけるには豊かな人生体験が必要になってきます。豊かな人生体験とは豊かな知性(知覚的体験内容=知識)と豊かな感性(感覚的体験内容)を身につけることを意味します。 体験内容の豊かな人生が理性を育み、合理性の高い人生への導きとなることがこれで良く理解できるところです。 (以上、人間意識の解明について その7) ◆著者の自己弁護的コメントのいくつか(休題閑話) 半ば反省を込めて自己への語りかけのつもりで書いているのが正直です。 市井の片隅で生きる者が声にならない声を綴る機会あることが安心です。 風流に生きたいのですが、風流の意味がよくわかりません。 青空に雲の近くを感じる日和は何よりです。 風、水、火、土のどれになりたいかと問われれば、迷わず風を選びます。 太陽、月、星のどれになりたいかと問われれば星になります。 花が咲かなくても良いから大きな樹木になりたいと思うことがあります。 一人では生きれません。雑草もホコリも必要です。 悲しい時に良い人になれます。 待てば海路の日和ありが、いちばん心になじみます。 ・・・・・ ◆人の身体を考える 人の身体には高い表現能力がそなわっています。声帯と舌で様々な言葉を話したり、歌うことができます。顔の表情はとても豊かです。優れた運動能力もそなえています。スポーツ、舞踊、演劇、武芸、作法など多様な動作表現ができます。器用な指があります。楽器を奏で、絵筆や様々な道具を使い芸術作品を創ります。工芸品を造ります。本を書きます。設計図を描きます。巨大な船や飛行機そしてロケットを作ります。様々な観測機器を作り操作します。そして自然や宇宙を観察します。 この類い希と言える高い表現性をそなえた身体があるお陰で、人は高度な文化や文明を形あるものとしてこの世界に実現することができるわけです。こう見てゆくと人の身体は究極の文明の利器と言えるのかもしれません。 人の身体が豊かな表現の可能性を私たちの人生に約束してくれていることがこれで良くわかってきます。豊かな表現の可能性はそのまま豊かな人生の可能性となり、そして豊かな表現は豊かな体験へとつながります。人が生きてゆくうえで表現と体験が一番大事であると思えば心の豊かさと身体の表現性が人の幸福の条件になることも理解できてきます。 然るに自分の身体を粗末に扱ったり、傷つけたりすることはもとより、他人(ひと)の心や身体を傷つけるようなことも人の行いとして最低限やってはいけないことであることもまた理解できてきます。人は自分に対しても他人に対しても責任を負う存在であるのかもしれません。同様に命あるもの全てと環境に対しても責任を負っているのかもしれません。そして責任を負うからこそ人は豊かな体験を必要とする存在と言えてくるのかもしれません。 ・・・・・ ◆超常現象を考える 広辞苑では、超常現象を「常識を超えた現象、科学では説明できないようなこと」と記しています。この科学では説明できないようなことの語義には言外に「客観的に誰にでも認識できる事象ではあるが」が前提条件として含まれていると思います。つまり客観的事象として誰にでも認識できることが超常現象と呼ばれるための必要条件になってくるわけです。でなければそれは現象でなく単なる幻想、虚像、虚言になってしまうと思います。 超常現象を広く解釈すれば、私たちの生活のまわりにも多く確認できます。鍼灸や気功など東洋医学で一般に行われている療法などはその一つの良い例だと思います。予知夢(よちむ)など夢の内容が実際起きたりするようなことも事実として既に心理学で認知されています。 臨死体験と呼ばれている一時的な脳死状態下での意識についても事例研究の対象となっています。これには否定的な意見もあるようですが。テレビでお馴染みの超能力現象なども一部では科学研究の対象とされています。 もちろん超常現象に対しては否定的な見解を示す学識経験者が少なくないのも事実です。今現在、超常現象と呼ばれているものの中には科学の進歩により将来解明されるものもあるかもしれません。昔はオーロラやすい星も超常現象でしたから。 精神世界と呼ばれている分野における超常現象にも著名な科学者により認知されているものが含まれています。だからと言って世間に広く認められているわけではありませんが。 いずれにして超常現象の多くが仮に事実であったとしても自分の目で客観的に認識できるか、科学的に解明できる日が来るまでは充分に信をおくことは難しいと思います。このあたりは冷静な見識が求められるところです。 ・・・・・ ◆死後の世界を考える ご存じのように死後世界観は神の存在と同様、信仰と深く関わるテーマとなっています。人がこの現実世界に生きてゆくうえでなぜ苦しみがあるのか、なぜ悲しみがあるのか、なぜ善と悪があるのか、その答を見いだそうとする意志が死後世界観を信仰の対象とする主な動機となってきたように思えます。 およそこの現実世界に存在するあらゆる不公平や矛盾、これに答を見いだすにはどうすればよいのかという問いかけ、答となる真理は必ず用意されているはずだという信念、、これら理性的な思考が死後世界の実在の確信へと人々を導いてゆく、その意味で死後世界観とは理想主義の所産とも言えるのかもしれません。 古くから死後世界観は神の存在とともに芸術、文学、哲学の主要なテーマともなってきました。神とは何か、人とは何か、生命とは何か、死とは何か、真理とは何か、その探究の途上で人は神と死後世界(天国と地獄)を避けて通ることはできませんでした。 翻りまして今日、科学技術文明の世界に生きる私たちとしてはこの問題をどう受け止め、どう理解してゆけばよいのでしょうか。科学の進歩により生命や人間意識という対象をより客観的な事象として扱うことができるようになってきました。今まで狭い主観の中でしか扱われることのなかった心、命、死の問題についてもより広い視野で探求できる機会が増えてきました。 そうは言っても答を見つけるのは難解を極めることでしょう。将来、意識が死後も存続することが概念的に説明できるようになったとしても、それは机上の論理を超えるものにはなりえないと思います。ましてや死後の意識の主観的状態やおかれる環境については推測のしようもないことでしょう。 そう考えますと私たちにとって死後世界観とは神の存在とともにこれまで同様、信仰や文化の対象としてあり続けてゆくべきものなのかもしれません。 □ 「人生論」(О жизни)(新潮社 トルストイ著)より 「人間の真の生命とは、空間と時間の中で生ずるものとは異なる。」(p85) ※著者補足説明、「空間的、時間的な力」とは物質を構成する力やそれらが働くことによって生ずる現象を意味しています。「空間と時間の中で生ずるもの」も同じと理解して良いと思います。 (2005.11.3 増補乃至改訂) |