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◆人間存在を考えるコラム ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■ 6・対象と自己・・・この関係性の不思議 対象と対象、対象と自己との間にはかならず、ある種の関係性が存在します。分かりやすいように桜の花の例で説明させていただきますと人は桜の花を観ることで何かを感じます。この感覚が関係性を現します。「桜の花の色はきれいだ」「桜の花の形は美しい」「桜の花のもっている雰囲気が好ましい」となります。この感覚表現を更に「何故桜の花をそのように感ずるのか?」と問いますと誰も良く分からないわけです。 「相対的に観て美しいから」と答えても「では、何故そう観ると美しいのか?」と何やら禅問答になってしまいます。この様に関係性には感覚では理解できても言葉として説明できないものがあるようです。 ”対象の本質”とは自然法則と同じように唯一無二といえるが、関係性となると多様であります。対象は一つでもAさんとBさんでは感じ方が違う。両人とも”対象の本質”を同じレベルで理解※できてたとしても感覚までは同じにならない。 AとBという二つの関係性が存在することになるわけです。 逆に関係性を否定すれば対象も自己も存在しないくらいなことも言える。対象は一つでも自己の数だけ関係性は存在する。10人の建築家に場と条件を示す。場と条件が対象になるわけですが、建築家との関係性は10あるから、結果ここに10の表現が自然的に現れる。まさに表現とは多様であるべきなわけです。 故に建築と社会、建築と環境、建築と時代、建築と自己との間には多様な表現が自然的に存在する。例え未来、急速に建築の生産合理化が進展したとしても言語解釈不能、デジタル化不能な関係性という領域までは浸食できないであろうと想像してます。 この様に対象との関係性、関係性の多様性に気付きますと、逆に多様性の否定が自己の否定と関係性の否定、関係性の否定が自己と対象の否定という、はなはだおぞましい結果になることも理解できてくるわけです。多様性の否定が全ての否定につながる。それは文化、文明、歴史の否定をも含みます。 然るに多様性を否定した全体主義的な社会(あるいは集団)はかならず文明的にも衰微してゆく。多様性を尊重する社会とは競合はおろか共生すら難しいだろうと容易に想像できるわけです。これらは歴史を鑑みれば明らかなことであります。 前段で感覚が関係性を現すと述べてきましたが、この場合の感覚とは感性と同義ととらえてよいでしょう。感覚とは単純には五感の機能を示すのですから「自己の感性が関係性を現す」あるいは「自己の感性が対象との間に関係性をつくる」と定義した方が分かりやすいわけです。 建築コラムの第4で対象の本質の理解のためには知性と感性という資質の訓練が大事であると説明させていただきましたが、そうなれば対象の高度な理解には高度な関係性が必要条件になってきましょう。また知性と感性は互いに影響し合っている。知性を高めれば感性も同じように高まるとは単純にはゆかないでしょうが、より高い関係性を創造するにはやはり知性の働きもあると理解できてくるわけです。 また感性とは様々な外部的なもの、外部とは自己の外側にあるものという意味ですが(客観世界)、その影響を受けて高まる場合もありましょうし、低められ歪められてしまう場合もありましょう。自己が置かれた環境、時代、文化、社会条件などなど様々ですが、それらが自己の内なる体験を形成してゆく働きとなる。 然るに自己とは遺伝的相違はもとより、まさに多様であるべき存在なわけなのですが、故に多様な自己が多様な関係性をつくり、故に多様な表現が生ずると定義できてくるといえるのではないでしょうか。 ※”対象の本質”を同じレベルで理解するという表現は、あくまで仮定です。多様である自己が対象を同じレベルで理解することは厳密には稀であると思います。 (以上、人間意識の解明について その1) ◆言葉の整理 そもそも私たちが心とか精神、意識と認識するものは何であるかなのですが、これは端的に定義できるとするならば「関係性」のことではないかと思います。自己と対象との関係性。この対象には自分以外の存在(例えば人、社会、環境、自然現象)だけでなく自分という存在も含みます。 「関係性」とは「存在の表現」であると言えると思います。この「存在」とは「自己」のことです。故に「存在の表現」とは「自己表現」と同義であるということになります。 直接的には「関係性」とは心の働き、精神活動、意識のことですが、その働き、活動、表象については、その受ける印象と経験的認識によって「知性的」、「感性的」、「感情的」、「理性的」などと修飾して分けたりすることができます。 以下に広辞苑掲載の語義なども多少参考にしながら言葉の意味を記述してみました。これらは多様な語義解釈の一つを示したものと理解していただくのが適当です。 <知性> <感性> [感性(感覚)と情性(感情)に分けることもある] <理性> 英知:真理を悟りうる才能と知恵……霊性の覚醒、具体的には創造性※(真理を悟りうる)として発現される。(それが英知と呼ばれるもの)霊性とは内省的自覚そのもののこと。 ※この「創造性」とは個人だけでなく、その時代、国、社会、地域、あるいは民族などの科学技術、学問、芸術、文化の発展の傾向の源泉としても定義できるようだ。 <諸々の自然現象について> 桜の花を美しいと感ずる感覚も一つの現象と言えましょう。であるなら、そこにも何らかの法則が働いていることも仮定できるはずです。 はたして、物的な法則のみが法則と言えるのか。生命現象や私たちの感覚的体験の背景にある自然法則とは何なのか。我々、人類にとって深遠な課題であることは確かなようです。 7・個人的存在から個性的実在へ・・・幸福への道程 既にお気づきになられた方もいると思いますが、前段の説明から導かれることは理性、知性、感性とは認識レベルの問題であることが分かってきました。認識レベルとは深いか浅いか、広いか狭いかということですが、それらは意識と心の深みと広がりを拡大することに直接通ずるものがあるようにみえます。心を自己の本質と観れば意識(顕在)とはその一部が顕現したもの、つまり自覚されている心、そして認識とは心の作用(心の動き、働き)、精神作用と理解すれば良いと思います。(このあたりは専門家の助言があればなおよろしいのですが、私的コラムなので、この程度でご勘弁ください) 自己の本質が心ということになりますと、前段で自己という存在は生命現象という事象が顕現したものと定義いたしましたので、心とは生命現象そのものであると言えることになります。つまり心の有り様も一つの事象であり、何らかの自然法則の働きによるものであると理解できてくるわけです。 推測するにこの自然法則とは認識レベルをより深く、より広くする方向で働いている※ことは確かなようです。 視点を変えまして、理性、知性、感性を総称するとすれば個性という呼び方がよろしいと思います。つまり認識レベルがより深く、より広くなることは、自己をより個性的な実在感のある存在へと導く作用があるということになってくるのではないでしょうか。もとより私たち自己という存在は個別性を持つがゆえに個人的存在ではあります。しかし個性的実在感をともなうかどうかはあくまで個々人の資質の問題ということになってきましょう。 自己実現の程度が幸福の指標ということであれば、個性に深みと広がりを与えることこそ幸福への道程を示すものであるようにみえてきます。すなわち自己を実現するとは個性のレベルの問題であると定義できてくるわけです。 ともすると私たちは人生上の経験内容とか感情がどの程度満たされたか報われたかなどを幸福の指標としてしまう傾向が強いわけですが、これらはむしろ個性に実在感を与える触媒としての役割をするものであり、例えてみれば車窓からの流れゆく景色、記憶の中の過ぎ去りし日々のようなもので実体があるようでないようなものだとも言えるのではないでしょうか。然るに唯物的な思考や経験あるいは本能に由来する感動には自ずと限界があり、おろそかにはできないにしても人生の中心に置くべきほどの価値はないように思えてきます。 直接に個性の実在感を実感したいのであれば、巨匠達の足跡をたどればよいと思います。ライト、コルビジェ、ミース、彼らのもつ個性的実在には重量感すら感じます。この力をなんと呼べばよいのでしょう。さしあたって法則のもつ力、法則から顕現されているところの力、まさに個性という内在された力が建築という表現媒体を通して外部化されたそのものであるといえます。今現在もわたし達の認識レベルの向上に影響力を放ち続けています。これからも個性的実在には時間を超越した生命力があることが実感できるところです。 いささか込み入ってきましたので整理いたしますと自己という存在は生命現象という自然法則からくる事象が顕現したものと定義できること。そして自己の本質とは心であること。理性、知性、感性とは心の作用であり総称して個性と呼べること。そして自然法則がこれらをより深くより広いレベルで展開できるような方向で働いている※と推測できるという以上のことが、わたくし一個人の一見解であります。 ※これも一つの進化の法則と言えると思います。認識レベルでの進化は意識そして心の進化と一体的なものでしょうから、これを社会事象の観察に応用いたしますと犯罪など諸々の反社会的行為、非理性的行為は進化レベルの低さを示しているようにみえてきます。 (以上、人間意識の解明について その2) ◆言語(言葉)での表現の限界について 音楽や絵画を言語に替えて表現することはできません。故に言語(言葉)による表現には自ずと限界があることが分かります。人間の心についても同じことが言えるのではないでしょうか。※ 言語での説明の必要性から、その働きについて知性、感性、理性と分類はしましたが、便宜上そうしたということであり、本来、分けるべき対象ではないのかもしれません。 人の心というものも言語(言葉)だけでは語り尽くすことができない対象ではないかと思います。もちろん他に表現手段があればまた違ってきましょうが、なかなか難しいようです。 哲学などは対象を言語(言葉)で語り尽くそうというところに、そもそも限界があるのではないかと思います。もちろん言語表現の奥深さを否定しているわけではありません。 哲学と信仰の相違点は語り尽くすのでなく「分からないことも分からないこととして信ずる」というところにあるようです。もちろんこのあたりは理性の働きが充分ともなわなければ危険が伴うことはご承知のとおりです。 ※芸術作品はその創作者の心象世界を投影したものだといえると思います。鑑賞者はその投影されたものを観ているわけです。 ・・・・・ ◆意識と心の関係について 前段で自覚されている心が顕在意識であると説明させていただきましたが、自覚されていない心を心理学では無意識と呼びます。ユング心理学では無意識には個人的無意識だけでなく普遍的無意識がありそれは個人を超えたものであると定義しています。どうやら人の心とはわたし達が自覚している以上に、遙かに深く広い存在であるようです。 ・・・・・ ◆感情の問題について ・・・・・ ◆喜怒哀楽の表現・・・感性を磨くことの意味 感性を磨くとは、美しいものを見た時に素直に美しいと感じることのできる素質を磨くこと。その素直さ感度の良さを体得することだと思います。優れたもの、美しいものを眼前にした時に素直に喜びの感情が持てる。楽しめる感度。他人(ひと)の悲しみに接した時、素直に悲しみの感情が持てる。悲しみや苦しみの一部でも共有できる感度。怒るべき時に怒れる。怒れる人になれる。怒ることで誠実さや愛情を表現できる感度。喜怒哀楽を表現することで人生を豊かにできるだけの感度。こう理解できれば感性を磨くことの大切さが実感できることと思います。(感度=センス) ・・・・・ ◆感性を磨くノウハウ 律動(リズム)を体得する。感性を磨くとはこれに尽きると思います。感覚や感情を具体性ある表現に言い換えれば律動(リズム)とか波動が適当であるように思われます。よく人は音や色彩、光に同調して感情を左右します。それは感情の本質がリズムとか波動と呼ばれるものにあるからではないでしょうか。 心の本質もリズムとか波動かもしれません。特定の色彩をある心の在り方の象徴として使用されている(シンボライズ)機会が多く見られます。例えば赤は情熱、青は理性、白は純潔などです。ご存じのとおり色彩は可視光線と呼ばれる波動そのものです。 ・・・・・ ◆再び人生の命題について 言い換えれば、人生の真の命題とは意識の拡大(深みと広がり)にあるということになると思います。例えば今までとは違う視野、視点でものごとが観れるようになれば、今まで見えてなかったものが見えてくる認識できるようになってくるということです。これはとても大事なことではないでしょうか、意識の狭い人はやはり不幸だと思います。認識する能力が低ければ、真に価値あるものとそうでないものとの区別もつかないことになります。感情のコントロールも拙いままでしょう。然るに、わたし達の日々の営みや経験が自己の意識の拡大にどの程度深く関わることができるか否かで人生の価値が決定づけられてくるようにみえてきます。これはまさに不幸な境遇がそのまま不幸な人生を意味するものではないことを証明していることにもなるのではないでしょうか。このことからもあらためて人の尊厳とは何かを考えさせられます。 ・・・・・ ◆再び生命現象について 生命現象が物的実在である脳が司る現象であるのであれば生命とはこの宇宙に多くある物的現象の一つに過ぎないことになります。将来、脳を解剖学的に精細に観察して遺伝的差異と後天的体験内容のみが個々人の意識レベルを決定するものであると証明されれば、以上のことが生命に関する究極の真理であるということになってくるのですが。 しかし、証明が成り立たないとなれば、脳は媒体であり、何らかの自然法則が脳という媒体を介して顕現したものが生命現象であるという定義も成り立ってくると思います。つまり身体が滅んでも法則は何らかの媒体を得る機会があれば再び顕現することが可能であるということになります。(あるいはその可能性がある)その媒体とは必ずしも物的なものとは限らないでしょうが。 後者の論理の方が、わたし達に希望と勇気をもたらしてくれると思います。何故なら生命(意識)とは不滅であるばかりでなく時空を超えて進化する永遠の実在であることを意味することになるからです。 8・心象風景の中に生きる・・・幸福を創造できる世界 このコラムでは「心象風景」の定義を拡大して述べさせていただきますので、予めご理解ください。一般に風景といえば私たちの目に映じる景色のことを呼びますが、心象ということになりますとそれは文字通り心の中の景色を呼んでいることになります。しかし目に映じる景色を正しく解析すれば、網膜という感覚器官を通して脳で景色を見ていることがわかります。大脳の視覚を担当する部分である視覚野に損傷があれば、眼球がいくら正常であっても私たち人間は失明してしまいます。つまり人の目に映る景色とは脳の中で再現された像であるということになります。 私たち人間は景色を見るとき、それは人でも物でもあるいは自然風景でも何でもそうですが色や形だけを単に写実的に見ているわけではありません。例えば「美を鑑賞する」、「美を発見する」などの言い方は良くされますが、これは別に比喩的な物言いではなく、人は自分の目で実際に美を見ているわけです。美とはもちろん感情表現そのものですから、目で感情を見るというのも不思議な感じがしますが実際そうしているわけです。 故に脳の中で再現された像には感覚や感情、知識がともなっていることがわかります。桜の花を見て、「花が咲いているのが見える」(視覚)「花の香りがする」(臭覚)、「美しい」(感情)、「これはソメイヨシノの花である」(知識)となるわけですが、感覚、感情、知識は心の働きでありますので、これは単なる「像」ではなく「心象」、「心象風景」と言い換えた方が適切だと思います。 再び、心象風景の中に何が見えるかを観察してゆきますと、色、形、物の表面の状態など表相(相とはすがたの意)が見えてきます。そして桜の花の例で分かりますように感覚、感情、知識がともないます。視覚以外の感覚、感情、知識は実際見えるものではありませんので、「観る」「観える」という言葉の表現のほうが正しいと思います。心象風景とは見るものでなく観るものであり、見えるものでなく観えるものであるということになるわけです。 普段、人が見ている景色、視界に写る風景が、実は心象風景であり、心の中の景色そのものであるということが、これで理解できてくると思います。心象風景が心の働きをともなった風景であるということは、心の働きとは既に述べさせていただきましたように個性即ち認識能力のことですので、個々人の個性、認識能力の程度(認識レベル)が各々の心象風景に大きな影響を与えていることが、これで充分理解できるところです。 さらに心象風景をよく観察いたしますと目に入る様々な表相(風景、景色)に心の働き(個性)を投影したものであることが分かってきます。即ち自分の個性を投影した景色が心象風景であると定義できてくるわけです。人とは生まれてから死ぬまで自らの心象風景の中で成長し老いを経験してゆく存在である。人生を豊かにするとは心の風景を豊かにすることであると言えてくるわけです。そしてこれもまた、既に述べさせていただいたことですが、個性のレベルが人生の幸福の程度を決定するという意味がこのことで更に深く理解できてくるところです。 心の風景を豊かにするとは、心象風景を自ら創造するということにつながります。つまり幸福とは自ら創造できるもので、他から与えられるものではないということです。私たちは幸福を創造できる世界の住人であるということになります。 (以上、人間意識の解明について その3) ◆再び自己とは何か 人とは心象風景の中に生きる存在であるということが分かってきました。心象風景が脳の中の景色であるということは即ち心象風景そのものが自己であると定義できてくると思います。その心象風景の中心点にいるのが自分であるということになり、然るに自分とは身体そのものであることになります。つまり物的実在である身体が自分で、その身体に宿る心が自己ということです。第7のコラムで自己の本質とは心で、心は生命現象そのものであると定義いたしましたが、この説明で自己というものに対する理解が更に深まると思います。 ・・・・・ ◆主観から客観性を帯びた主観へ・・・心の偏りを無くすことの意味 心象風景そのものが自己であるということは、自己の内面、自己の実相を顕しているのが心象風景であると、また言えてきます。自己の内面とはまさに主観のことですが、つまり心象風景とは主観的世界そのものであるということになります。主観のみでは偏りがありますので、自己の内面を充実させるためにはものごとをできるだけ客観的に観れる認識能力を持つ必要がでてきます。認識レベルを深めることで表相から実相面をより深く認識することができるようになってくるわけです。このことは心象風景に客観性を持たせることにより、心の偏りが修正できることを意味します。世の中に蔓延する、偏見、差別、誤解、妄信、敵愾心など凡そあらゆる誤謬、倒覚、傲慢は心の偏りからくるものだと思います。 ・・・・・ ◆自己と自我の間で・・・人間性とは何か 身体そのものが「自分」ということは、私たちが体内に感覚する本能的欲求とは身体の働き、即ち自分の働きによるものであるということになります。本能的欲求とは端的に言えば身体の健康、生存を保障するための働きと言うことになると思います。一般に「自我」と呼ばれているものがこれにあたります。よく自我に捕らわれるな執着(しゅうじゃく)するななどと言われますが、※ 然し、私たちが本当に自我の執着を捨ててしまったら自分の健康も生存もまともに保障できないことになります。人類がここまで進化したのも自我に執着したが故だと思います。でなければ、この厳しい地球環境の中で絶滅していたかもしれません。 自己を豊かにすること即ち心を豊かにすることとは人生の命題であり真の幸福を創造することを意味しますが、自我もおろそかにしないことが人間性というものではないでしょうか。 ※執着しないの本来の意味は一つのことに偏らないということだと思います。 ・・・・・ ◆理性的苦しみと自我の苦しみ 苦しみの感情というものを冷静に観察すれば、強い不安感や恐怖感ということになると思います。自我を満たされない状況から不安や恐怖の感情が感覚される。自我の苦しみとはまさにこのことだと思います。私たちが日常よく経験する苦しみです。様々な人間的活動の動機やきっかけはこの苦しみの感情によるものが多いと思います。 では自己の苦しみ、心の苦しみとは何かということになりますが、これは自我の苦しみとは分けて考える必要があると思います。確かに自我の苦しみを通じて心を豊かにできることは、しばしば私たちが経験することですが、これは自我の苦しみの経験を触媒として心を豊かにできたということであって、同じ精神作用(脳内活動)であっても本来の自己の苦しみ、心の苦しみとは違うものだと思います。 心の苦しみとは「慈悲」とか「慈愛」と呼ばれるものだと思います。「慈」とは友情を意味するそうです。友としての情けとはおよそ命あるもの全て、命なきもの全て、この世に存在する万物への親しき情けを表しているのだと思います。あらゆるものへの親しき情け、悲しみと愛、愛とは与えるだけの心、これらの感情を感覚できるだけの感性、これが心の苦しみ即ち理性だと思います。 慈悲、慈愛と聞きますと、慈善活動とか救済活動、非営利な社会活動を連想いたしますが、それだけでなく日常の生活から労働、文化活動にわたる多くの価値ある態度や行為、活動には慈悲や慈愛の心が働いていると思います。 ・・・・・ ◆再び言葉の表現の限界について スイスの言語学者ソシュール(1857~1913)によると、言語表現とは対象を他との差異を示したり、他の存在を否定することにより識別するところにあると、だいたいそういうことを言われているそうです。対象が桜の木であれば、「桜」という名称は桜の木そのものを表現していると言うよりは、桜以外の木を否定するための名称であるということになります。つまり「桜」とは「桜以外の木ではない」と同義であるということになるようです。また「桜」とはあくまで一つの名称であり、桜という対象そのものを象徴している語ではありません。 言葉というのは日常的に使われている便利な道具ですが、ものごとを表現したり、その実相を理解しようとするときにあまり言葉の表現だけに頼るとかえって本質から遠ざかるおそれもあると思います。 ・・・・・ ◆再び関係性について・・・真の自己とは 対象と自己との間には必ずある種の関係性が成立すると既に述べさせていただきました。自己が心象風景そのものであるのであれば、対象とは心象風景の中の一つの景色ということになると思います。然るに関係性も心象風景の中にある存在、つまり自己の中にある存在ということになります。 もう一度、心象風景をよく観察してみますと、まず景色が見えて、その景色の中心点に自分(身体)が見えます。では関係性はどこに見えるかというとどこにも見えません。実は関係性とは観察者である私たち自身なのです。この私には姿はありませんあるのは視界だけです。だから見えないのです。頭が混乱しそうですが、関係性とは正しく言えば、自己の中の自己そのもの、即ち心のそのものということになると思います。一般には心象風景の中の景色や自分(身体)を「客体」※、観察者である自己を「主体」という呼び方もしているようです。 ※「客体」とは凡そ感覚、知覚あるいは実感できるところの事象、環境、全てをいう。天体、空間、法則、凡そ全ての万象が自己に内在するというよりは自己そのものであるという定義。即ち自己とは主体と客体が一つになったものであり、故に人の認識を超越した存在であるということにもなります。 ここから導かれることは対象というものが自己の外側に在るということはない。在ると思うとすれば、それは不可解なもの、迷いそのものであるということになります。 ・・・・・ ◆再び表現について(建築コラムの第5を参照) 私たちが表現する※ということは自らの主観的世界そのものを表現していることに他ならない。即ちこれが自己表現ということになります。心豊かな人は表現も豊かであるということにつながると思います。ご承知のとおり表現とは言葉だけではなく多様なわけですが、日常の何気ない動作、例えば買い物をしたり、食事をしたり、目的の場所まで歩くようなことも自己表現の一つといえるのではないでしょうか。故に表現なくして存在なしという言い方もできると思います。表現を豊かにできるということは人生も豊かにできるということだと思います。 ※人とは自分と自分以外の存在との関係、自分と社会との関係の中で自己を表現し、その内省の中で新たな自己を創造してゆく存在です。そこに人としての存在の価値があるように思えます。(内省の深さ=霊性の深さ) (2006.6.22増補乃至改訂) |