|
.
. |
■□田園の憂鬱 佐藤春夫著□■ 作者 佐藤春夫(1892~1964) |
|
■□書籍講評 田園の憂鬱 □■ ■「田園の憂鬱 或いは 病める薔薇(そうび)」が、この小説の正式な題名である。 また、その後、本作品の大部分にあたる箇所を「田園の憂鬱」として書き上げる。(1918年2月)そして、それは雑誌「中外」に掲載されるのだが、(同年9月、題名は「病める薔薇 或いは 田園の憂鬱 」)それは不充分な作品であるとの自覚があった事情で、校正に校正を、推敲に推敲を重ねた後、ようやく1919年3月に定稿となるが、尚、今更、これをどうすることもできない箇所も多々ある有様で、深慮の末か、あえて、そのままとしてしまったとのこと。それが、本作品「田園の憂鬱 或いは 病める薔薇」である。 ■主人公の青年(その名は最後まで記されない)は当時の佐藤春夫自身と重なるところも多いはず。 ■この物語の中の情景について。 そして、その抒情的情景には、やはり私たち日本人が各々の感性でイメージできるところの古き良き時代への郷愁や思い慕う感情をも誘い出してくれるものがあるようで、それは、それ故、わたしたち読み手が今、抱くことのできている心の中の情景にも、新たな色彩を加えてくれるだろう。その色彩とは主人公の青年の心が奏でる情緒世界(それは、まさにそう呼ぶにふさわしいだけの抒情的深みがあるのではあるが、時には、幻覚や幻想がレンズのフィルターのように作用しているようだ)の明暗と田園の環境の彩度を直接に表現したものといえる。 ■ユートピア……その別の名を田園と呼んでいたのかもしれない。 この物語は「その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。……」で始まる。この田園の素朴な民家にたどり着くまでの経緯(いきさつ)については、あまり触れられていないが、この先も自分の頼りない神経を余計頼りなくされてしまうだけに終わりそうな都会生活から離れることと、その後遺症を癒すための場として、青年が選んだのが、この田園であったのだろう。 再び佐藤の言葉を引用すれば、「私のAnatomy of Hypochondria(憂鬱の解剖)は到底ものにはなっていない。」(当時、佐藤自身が実際、神経衰弱を患っていた)でも理解できるところだ。この言葉には作者、佐藤春夫、自らが、この物語の創作を機会に、自己蘇生を期待していたことが、かえって、うかがえるようにさえ思えてくる。 ■病める薔薇(そうび)は青年に何を喚起させたのか? この物語には青年自身の命と、この病める薔薇だけでなく、他の命との交流が痛々しいほどまでに描かれていて、それは思わず感情移入させられてしまうほどなので、いっそう痛々しくて仕方がない。しかし、その痛みこそは、自己蘇生への陣痛でもあるに違いない。そして、その交流の深みでは、最早、この物語の中の世界と、私たちの命が存する、この現実世界とを超え出ていて、両者に共通する普遍的なものが示唆されているようにさえ思えてくる。 はたして、その田園での生活は青年にとっても佐藤にとっても、ユートピア(自己蘇生の場)でありえたのか?(なりうる経験があったのか?)……それとも、そこは都会とは違う別の現実世界に過ぎなかったのだろうか?……それはこの作品の読み手である私たち自身が青年の心境を自らの生活経験に重ねて問いかけてみることで分かってくることなのかもしれないし、それが、この作品の魅力でもあるのだろう。 ■作品の舞台やその背景について。 神奈川県都築郡中里村鉄(くろがね)[現在の地名、横浜市青葉区鉄町(くろがねちょう)] 大正五年四月(1916年)佐藤春夫は内縁の妻と二匹の犬と一匹の猫をつれて、この地に移り住み、大正九年まで生活していた。現在、その地の街道沿いに文学碑「田園の憂鬱由縁の地」が建っている。 参考:物語の中に出てくる鉄道は鉄道院横浜線(八王子〜東神奈川、中央線と東海道線を接続し、信州や八王子で生産された生糸を横浜港に輸送する目的で1908年、横浜鉄道により開業された。1917年国有化) (2006年7月4日掲載 文責小川)(2006年10月26日改訂) |