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Design Study

住宅設計の実例(その1) 猪方の家(東京都狛江市)

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Column(建築コラム)

 1・建築家という仕事を考える

 職業とは、それ自体で家計が成り立つかどうかが、やはり大事になってくると思います。建築家に言及すれば、天分を生かせる仕事のみで生業ができているかどうかということになります。天分を生かせる仕事とは、純粋に職業人としての才能を生かせる仕事のことですが、建築家であれば当然、プランニング、デザイン、そしてその具体化としての設計ということになってきます。

 メジャーで活躍されている建築家諸氏の多くは、学校などの教壇に立たれたり、新聞や雑誌の取材、記事執筆、著述書の出版、講演と多忙で、なかなか本来の仕事のみに専念するわけにもゆかないようです。

 他人の台所事情を詮索するのはいただけませんが、著名な建築家といえども家計を都合するためには自分の才能だけで食べてゆくのは厳しいという事情もあるやもしれません。クライアント(建築主などなど)からいただいた設計料も、スタッフの給料や交通費、お夜食代、それに事務所の家賃、光熱費などの支払いに回してしまうと残りわずかとなり、不足分はいたしかたなく別の分野で補うということになってくるのではないかなどと勝手に想像したりもしてしまいます。

 しかし建築家の仕事というものを深く考察しますと、この様な理解だけでは浅薄のそしりを受けても致し方なしとも思います。やはり建築家たるもの、その才能や職能を広義、社会のために役立てるということが実際ないと充分とは言えず建築のみでは期待になかなか応えられないのではないでしょうか。

 世の中には、その職業名の最後の文字が”家”となっているものが少なくありませんが、この”家”とは、その道に優れたものという意味があります。そうであれば師弟の教育、社会への提言、啓蒙活動なるものも大事な仕事になってきましょう。こう考えますと建築家諸氏が教壇や演壇に立たれたり、メディアなどで発言されることは至極当然、家計の事情などとは別の必然というものがあるように思えてきます。もちろん建築家本人が個人的にこれを良しとするかは別でありますが。

 2・清貧の心で聖域に身をおく

 何とか口糊を凌ぐためにも不本意な仕事を受けざるおえない建築家諸氏も少なくないことと思います。この道に進めば必然的にそうならざるおえないというのが正しい言い方かもしれません。不本意なとは己の天分を生かせぬ仕事という解釈になります。

「そもそも社会が我々建築家の職能に対する理解が貧しいがために、いつまでも不遇の境地おかれている有様」などと愚痴も聞こえてきそうです。

 しかし古今東西を問わず、文化に関わる仕事というものは有力な後援者でも付かない限り、文化人、芸術家と称される人達は金銭的な豊かさとはあまり縁がないようにも思えます。皮肉にも文化なるもののレベルが高度になればなるほど大衆離れ世間離れして、少数の理解者、ファンによりようやく支えられている事例も少なくないようです。

 またしかし、こういう考えもできると思います。サブカルチャーなどと呼ばれている分野と同じように質の高い文化が金儲けの手段として成り立ちやすいということにでもなれば海千山千の連中がほっておかないでしょう。建築も文化である以上、例外ではありません。そうなれば、建築家たるもの不誠実と金儲けの標的とされてしまい、ますますひんどいことになるやもしれません。

 人を寄せつけることのない厳しい自然が美しいままでいるのと同じように建築家とその理解者だけが立ち入ることの許される聖域があっても良いと思います。やはり人は選ばられしものなのではないでしょうか。この名誉に預かったものだけが到達できる場所が必ずあるはずです。

 世の中に清貧※という言葉がありますが、やはり道に迷いそうになったときにこそ、この言葉の深い意味が心の琴線に触れてくれるのではないかと思います。本当に貧しくなるのは困りますが、やはり長年、苦労して身につけた職能は伝家の宝刀のごとく、しっかり鞘に収め機会を待つというのも建築家の生き方としてはなかなか潔く清々しいものがあるように思えるのですが、皆さんはこのあたりどう思われますでしょうか。

 ※清貧とは貧しきことを良しとする意味ではなく、心のあり方を意味しているのだと思います。何事にもとらわれない心、ものごとを達観できる境地、それはわたし達が理想とする人の心の有り様とも通ずるところがあるように思えます。

 3・自称建築家と他称建築家

 知らない人が聞けば少し変わった話であるのかもしれませんが、建築家が自分を称して”建築家”と言うことはあまり無いように思えます。建築家の”家”とは敬称の意味もありますから、自然そうなってくるのでしょうか。名刺などいただいても、やはり肩書きなどは役職名とか持っておられる資格ということになります。もっとも仕事用の名刺などというものは名前と連絡先を知ってもらう他は、その職場でどのような責任を負う立場にあるかを明らかにするのが目的で作られているのですからどうこう言うこともないわけですが。

 ”建築家”とはやはり敬称であり、その意味で他称なのではないでしょうか。他称となれば誰かにそう呼んでもらわなければならないことになります。人が建築家をどう呼ぼうと失礼がない限りその人の勝手なのですが、”建築家”と呼んでもらいたければ、それなりの実績(もちろん建築家と呼ばれるに相応しい)を示せなければなりません。

 外国などでは公に近い組織が実績を審査し結果、資格として建築家の称号を与えているところもあるようですが称号ですからもちろん堂々と自称できるわけです。「あなたはその道に優れた職能を持っておられることをここに証します」こんなお墨付きが、しかも権威ある組織からいただけるのであれば自称だ他称だとこだわるようなこともなくなるのでしょうが。

 いずれにしても”建築家”という名称は職業人としてのその人の優れた資質を表しているわけですから人が呼べば敬称になるわけです。

 では、更に深く考えまして、ある建築家が訳あって現役を長く離れたと仮定いたします。大病でもよいですし、若くしてリタイアしたとしてもよいでしょう。設問は「果たして、この人を建築家と呼んで良いのか」ということですが。結論を言いますと、どちらでも良いということです。つまり何にせよ、いかなる状況になろうと建築家としての職能が失われるわけではないのですから、もはや天分として身に付いているものなのですから、なんと呼ぼうと失礼がない限りよいわけです。終生現役でおられるかどうかはあくまで個人の内なる事情ということになると思います。

 4・建築家への王道

 建築家、その道に優れたものになるためにはどうすればよいのでしょうか? 立派な学校を卒業すればよいのですか。実務経験を積み努力すればよいのですか。それとも資格を取ればよいのですか。どれも大事なことですが、これらは、あまり本質を得ているとは言えないように思えます。

 建築家になるために”大事”なこと、そして建築家として世間に認知されてからも”大事”なこととは何なのでしょう。大言壮語なことを言ってるといさめられそうですが、あえて講釈をたれさせていただきますとやはりこれは”対象の本質を理解するための訓練”なのではないかと思います。

 では、この”対象の本質を理解するための訓練”とは何かなのですが、これはもう”頭脳の訓練”に他なりません。頭脳とは知性と感性ですが、では、またどうやって訓練するのかですが(やっと本題に入ってきました)、大事なことが三つあります。

 それは第一に”観る”です。見るではありません。これには観るだけでなく鑑賞する、読む、聞く、訊ねる、調べるなども含みます。第二が”想像する”です。これはイメージするの他に思考する、分析する、批評するなども含みます。第三が”描く”これは文字通り描くで、デザインを描く、ディテールを描く、エレベーションを描く、ロケーションを描くなどになります。

 この三つの要素、観る、想像する、描くは一連の環となって循環しているととらえるべきです。あるいは渾然一体となるときもありましょう。人の頭脳はこれらを同時並行的に行えるものですから分けることもないかもしれません。

 建築とは奥が深く、幅も広い、深すぎて広すぎてとらえどころが難しいという解釈もできますし、ごく単純に処することができる要素もありましょう。虚学、実学が渾然とした分野でもあります。工学的視点からきちっと合理性を持たせることが大事ですし、反面、美学的なアプローチも尊重されるべきです。これらは”対象の本質を理解するための訓練”により次第に各自各様とらえどころが見えてくると思います。

 そして、この様な現実体験の積み重ね※をもとに次第に建築家と呼ぶに相応しい資質が備わってくるのではないでしょうか。

 視点を変えまして建築というものを別の側面から観ますと、建築家とクライアントとのコミュニケーションの所産であるととらえるべきです。これには社会や環境、時代が必然的に深く関与してきます。決して建築家の唯我独尊の所産ではありません。

 最後になりますが、これら今、述べさせていただきましたことの原動になるものが、頭脳のレベルでは理性、その更に奥深いところでは魂のレベルになると思うのです。

※その現実体験の積み重ねにより、自分なりの理想が次第に形作られてくるわけです。逆になかなか形ある理想が持てないということであれば、それは建築家としての体験が足りないからということも言えてくるのかもしれません。

 5・建築の表現・・・内的体験の外部化

 表現について鈴木大拙氏が著書※の中で述べられていることは「人間というものに、心の働き方があれば、それに相応したところの表現形式というものがなくてはならない。それがなかったならば、その心の働きそのものがないというくらいに、表現というものと経験というものとの関係が密接なものである。」また続いて「何か心の中に動くところがあれば、それが必ず外に現れるということになるのである。外に現れないというと、その心にあることが完全に感ぜられたものでないということもいえる。とにかく、感情、意識、心の動き方に対しては、それ相応の表現というものがなくてはならぬのである。表現があって、初めてその心の動き方というものが、完全に動いたものと考えてよろしい。」

 そして最後に「だから、美術的な方面からいっても、絵を描いても、文章を書いても、うまく書けない、あるいは音楽をやっても、いい音が出ないというならば、その人の感じが、まだ不完全であるということも、ある程度までいいうるのである。」と説かれてます。

 話が少しそれますが建築の実務において表現といえば、それは純粋な経済行為という側面を持つことになります。実務は当然、最終的に収益を得ることを目的としてるのですから、そうなるわけですが、しかし経済行為となれば、当然、様々な利害が建築というものに入り込んできます。もう少し違ういい方をすれば、その建築に関係する人達が様々に利権を要求してくる。クライアント、投資家、監督官庁、周辺住民、工事会社、メーカーなどそれぞれに比重も違いますし、利権、職権、既得権と種類も分かれますが、その利害調整の役回りを担うのが建築家ということになってしまいます。

 この様な状況の中で建築家が表現というものをどこまでできるかは、はなはだ困難な場合もあるだろうと予想できます。そうなれば、”建築の表現”というものを実務の場だけに限定することは、やはり無理がある。然るに他の表現法、表現の場というものをいくつか得ることも必要になってくると思います。

 前のコラムで”観る”、”想像する”、”描く”の現実体験の積み重ねが建築家としての資質を育てると述べさせていただきましたが、この内的で個人的な体験をやはり、一つの形として外に表現することができなければ充分とは言えない。その内的、個人的なものが外に表現されることにより、社会性を帯び、知的財産として自分以外のものにも影響を与えたり、その一部が共有されたりもする。それがまた、時代の部分を形成する働きにもなる。

 これらの外的な力や働きが、小さい、大きい、あるいは重たいか、軽いかはさておいて、表現し続けるという行為そのものこそが、やはり大事になってくる。表現ということができて、はじめて自分の資質というものが実感できてくると思うわけです。

 建築家が、それを目指す人達が表現することを怠れば、これはやはり建築というものが力を失ってしまう。建築家が表現力を充分備えることができるのであれば社会における存在感は高まるし、地位も向上する。それに止まらず建築や都市を取り巻く諸問題に対しても、新しい傾向や潮流を引き起こす先駆けとなる。それがまた建築の実務に携わる人達に良い影響となってフィードバックしてくるような期待がもてるようにもなってくる。

 以上述べさせていただきますと、やはり表現というものが全ての原点、ものごとを決定する力となるのだと理解できてくるわけです。

 ※鈴木大拙著「禅とは何か」新版鈴木大拙全集8 春秋社 P149参照

 (2005.10.8 増補乃至改訂)

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