井ノ原は、街道の西に立つ、一軒の宿の前で足を止めた。屋根看板を見上げると、「会津屋」とある。まだ日があるので客引きはいない。
「ここに泊まれば、会津へ行くと言ったのもあながち嘘ではなくなろう」
そう言うと、井ノ原は長野の意向を聞きもせず、中に入った。
番頭が慌てて出迎えた。
「お早いお着きで」
「部屋はあるか」
「はい、ございます」
そう言いながら、番頭は外に立っている長野達の様子をうかがった。
「六人だ」
「みなさまご一緒で」
「ああ」
女中が出てきて、外に立っていた五人を招き入れた。すすぎが用意される。
剛毅とケインの足を洗った女中は、
「これでは難儀なさったでしょう」
と、赤く剥けたところをそっと洗ってやっていた。
一行は、奥まった広い座敷に案内された。身なりの整った長野と井ノ原がいるからには、悪い客ではないと思ったらしい。
障子を開けてみると、濡れ縁があり、竹を植えた庭に面していた。庭は土塀に囲まれている。
「外からすぐに入れますね」
昌行がそう言うと、井ノ原は頷いたが、
「そうだな。その時はその時だ。それに、その気になれば、途中でいくらでも機会はあったはずだ」
と言って障子を閉めた。
剛毅とケインは、膝を抱いて座っている。足の甲の赤い筋が痛々しかった。
「薬こうてこよか」
准がそう言ったので、長野は懐に手をやった。しかし、准は、
「潮来でいただいたおあしが、まだまだございます」
と言って、脇差しを手に提げて出ていった。
女中が二人、一人は茶の用意を持ち、一人は火種を持って入ってきた。
茶を淹れ、火を起こした二人が出ていくまで、長野たちは無言でいた。
二人が出ていくのを見送って、井ノ原が口を開いた。
「あの馬方も様子がおかしかったか」
そう昌行に尋ねる。昌行は頷いて答えた。
「へえ。どちらから来たのか、どこへ行くのか、しつこく聞いておりやした」
「あれこれ手を回しているようだな」
そう言うと、井ノ原は長野に目を向けた。
「おおよそのところだけでも話してはいただけないだろうか。これでは、何かあったとき、お役目不行き届きでとがめられかねん」
長野は視線を落とし、手にした茶碗を見つめた。薄緑の茶から、かすかな湯気が立ち上っている。
風が出てきたのか、西日が障子に映し出した竹の影が揺れた。
長野が黙っているので、井ノ原がまた口を開いた。
「こちらのお二人と長野殿が言葉を交わすときには、異国の言葉をつかっておられるな」 長野は頷いた。
「江戸で異人の警護をしたことがござるが、イギリスやアメリカの言葉のようですな」
また頷く。
「このお二人は、異国育ちですな」
長野が顔を上げ、剛毅とケインを見た。すると、それまで黙って膝を抱えていた剛毅が口を開いた。
「生まれたのはこの国だ」
井ノ原と昌行は、驚いて剛毅の顔を見た。
今度はケインが言った。
「わたしも」
長野は茶を一口すすると、
「わたしは洋書調所(ようしょしらべしょ)で英語を学びました。異国の言葉を話すからといって異国人とは限りますまい」
と言って茶碗を置き、腕を組んだ。
「しかし、箸の使い方もおぼつかないようですが」
井ノ原が食い下がる。
「いずれ、何もかもお話しできるでござろう。何もかも幕府のためです」
「では、なぜ命を狙われる」
「それこそ、幕府のために働いておるからでござろう。倒幕を標榜する者など珍しくもない」
「すると、このお二人は、それほどまでに重要な人物、ということになりますな」
長野は唇をかんだ。しばらく沈黙が続く。井ノ原は質問を続けた。
「鹿島で死んでいた男の鉄砲傷は、こちらの方の短筒によるのでは」
それにも長野は答えなかった。剛毅も黙っている。
「あのう」
昌行が言った。井ノ原が昌行の方を見た。
「何だ」
「へえ。あっしが気になるのは、なんであいつら自分で狙わねえのか、ってことでして。あの中居って侍も、草薙という侍も、自分では手を出さねえで、あの慎吾や慎吾の兄貴にやらせようとしておりました。草薙って侍なんぞ、一緒に寝泊まりしておったんですから、寝込んだところをぐさり、ってことだってできたはずなんですが。そこんところがどうも腑に落ちねえんです」
「全くだなあ」
井ノ原はそう言って長野の顔を見た。長野は腕を組み、目を閉じている。
「話は変わるが」
井ノ原は話題を変えた。
「取手で聞いた噂では、京ではいよいよ大変なことになりそうです」
長野はその言葉には反応を見せた。
「大変とは」
「どうも、このまま薩摩や長州と張り合うよりは、朝廷に任せてしまった方がよいのではないか、という話です」
「公方様がそのようにお考えだと」
「そこまでは分かり申さん。ただ、そういう噂が流れていることは間違いござらん」
長野は再び目を閉じた。
そこに准が戻ってきた。薬の小さな紙袋だけを持っている。
「これが効くっちゅう話や。薬塗る前に風呂に入った方がええで。もう入れるそうや。はよ入った方がええで。後になると、湯がよごれる」
そう言いながら、袋から、蛤(はまぐり)の貝にいれた薬を出して見せた。
長野は准に笑顔を見せ、剛毅とケインに、
「参りましょう」
と、声をかけて立ち上がった。
長野が二人を連れていなくなると、井ノ原が昌行に話しかけた。
「どう思う」
「どう、と言われましても」
「俺は、あの長野という人は悪党じゃねえとは思うんだが、どうもよくわからねえ。なんなんだ、あの二人は」
「さあ。最初は口がきけねえのかと思いましたが、そうではないし」
「わからんなあ」
「ただ……」
「ただ、何だ」
「あのお二人は、あっしなんぞが同じ座敷にいちゃいけねえようなお方なんじゃないかという気がいたします」
「なぜそう思う」
「長野様は、あのお二人にずいぶん気を遣っていらっしゃいます。それに、何というか、生まれつきの柄といいますか、格といいますか」
「違うか」
「へえ」
准は、二人の顔を見比べながら黙って聞いていたが、退屈したのか、自分で茶を淹れて飲むと、障子を開けて濡れ縁に出た。
西の空の雲は、茜色と黄金色に輝いている。少し高いところにある雲は、紺色になっていた。
沓脱にあった庭下駄を履いて庭におり、歩き回っていると、裏手に、物干しにでも使うのか、竹を切ったのが立てかけてあった。准は、それを一つ一つ手に取り、片手で握れそうなのを一本選ぶと、それを肩に掛け、表の方へ出ていった。
座敷に残った井ノ原と昌行は黙って茶を飲んでいたが、長野達が戻ってきても准が戻らなかったので、昌行が、剛毅とケインの足に、貝の中の軟膏を塗ってやった。
剛毅は塗って貰いながら、
「世話になるな」
と言って笑顔を見せた。
「おやすいことで」
そう言って昌行は薬を擦り込んだ。
准が戻ってきたのは、女中が膳を運んできたときだった。
出ていった濡れ縁から戻ってきたが、妙に機嫌のよさそうな顔をしていた。
それを見た昌行が、
「食い物のにおいをかぎつけて戻ってきたな」
と言うと、
「へっへっへ」
と笑っている。
「お前は食い物さえあればいいんだろう」
「そらそうや」
膳には、漬け物や干瓢(かんぴょう)の煮物のほかに、筒切りの魚の煮物が載っていた。それぞれ、徳利も一本ずつ載っていたが、長野は女中に言って、剛毅とケインの分は井ノ原と昌行の膳に移させた。
昌行の顔がほころぶ。
「なんや、自分かて、酒さえありゃええんやんか」
「まあな」
昌行も笑っている。
給仕のために残った女中は、奇妙な取り合わせの六人を興味深そうに見ていた。
魚は、鯉を甘く煮込んだものだった。砂糖がふんだんに使ってあり、淡泊な鯉の肉に甘みがしみこんでいた。
「こらうまい。うまいで」
准は、大喜びで食べている。井ノ原も感心して、
「うむ。確かにうまい」
と言うと、女中に尋ねた。
「これはこのあたりの名物か」
女中はうれしそうに言った。
「それは会津だけの料理でございます。ここの主人は奥州の会津の産でしてね。なんでも、会津の方では鯉をこうやって食べるんだそうです。それで、この宿の売り物にと思って作らせているんです」
「そうか、これはうまいな。甘露煮は何度か食ったが、これほど柔らかいのは初めてだ」
剛毅とケインもきごちない箸使いで食べている。ケインはしばらく考えて、
「美味」
と言った。
「そう、美味や、美味。こら美味やで」
准は、骨まで食べていた。骨まで柔らかく、噛むと、まるで水飴を食べているような感触がした。
女中は、声をかけられたのがうれしかったのか、笑顔で、
「皆さん、ずっとご一緒ですか」
と、一番近くに座っている准に尋ねた。
「一緒と言えば一緒やな」
「男の方ばかりで退屈でしょう。小山にもいい芸者がおりますよ」
「芸者より食いもんがええな」
「まあ。廓(くるわ)だって立派なのがありますし。もちろん、廓までわざわざおいでにならなくても……」
准は全く聞く耳を持たず、ひたすら食っていたが、井ノ原は少し興味を引かれたようだった。
「女か……」
「はい。ご相談によっては」
昌行が顔を上げて女中を見た。厳しい目つきだった。その目を見て、女中は少し慌てたようだった。
「いえ、うちはちゃんとした宿ですからね。体を売るような女に出入りされたんじゃ、体面にかかわりますからね」
昌行が口を開いた。
「体を売るような女だって、おめえと同じ女だ。そんな言い方をすることはねえだろう。この宿だって、そういう女の上前をはねてるんじゃねえのか」
強い口調に、女中は息を呑んだ。
しばし、気まずい沈黙が漂った。井ノ原も無言で酒をあおっている。
沈黙を破ったのは、准だった。
「あのー、これ、もう一つ貰ってもええらろか」
長野に向かってそう言いながら、空になった皿を指差した。
長野は笑って頷いた。
「そうだな。どうだ、みんな、もう一つずつ貰おうか」
それに便乗して井ノ原が言った。
「酒ももう少し」
横の昌行が、今度は少し揶揄するように、
「あんまり飲まねえほうがいいんじゃねえんですかい」
と言うと、井ノ原は軽く昌行をにらんで、
「よけいなお世話だ。何ならお前の徳利をよこせ」
と言って手を伸ばした。
「へっへっへ、とっくに空でさ」
女中は救われたように立ち上がった。
「では、鯉とお酒ですね。お酒は二本でよろしゅうございますか」
「ああ、そうしてくれ」
長野の声に送られ、女中は廊下に出た。
准は、皿に残った水飴状のたれを箸の先につけて舐めている。昌行は、その准の膳の徳利を手に取った。
「何だ、飲んでねえじゃねえか」
そういうと、その徳利を井ノ原に差し出した。
「どうぞ、やっておくんなさい」
「いいのかい、俺が飲んじまって」
井ノ原は笑顔を見せた。
「へい。どうぞ。あっしは熱いのが来てからやりますから」
「この野郎」
剛毅とケインには、二人のやりとりの意味はよく分からないようだったが、笑顔で見ていた。井ノ原はそれを見て、長野に尋ねた。
「うまい、というのは、英語では何というのでござろうか」
「美味、という意味ならば、deliciousです」
「ほう、デリィーシャス、でござるか」
准は目を丸くした。
「長野様は、異国の言葉が話せるんでございますか」
昌行が代わりに答えた。
「旦那は、こちらのお二人と、イギリスやアメリカの言葉で話してらっしゃるんだ」
そう言われて、准は剛毅とケインを見た。それから空になった皿を箸で示し、
「デリィーシャス、デリィーシャス」
と繰り返した。剛毅は笑って、
「very delicious.」
と答えた。
「ベリーちゅうんのは何やねん」
長野が答えた。
「大いに、甚だ、という意味だ」
「はあー、学問のある人っちゅうのはおるんやなあ」
准はただただ感心している。
鯉と徳利が運ばれてきた。
その夜は、存分に飲み食いしたが、心から楽しんだわけではない。
長野以外の者には、自分たちが何をしているのかが全く分かっていなかった。この先が何が起こるのか、不安は消えなかった。
夕食後、井ノ原と昌行は交代で風呂に行った。
先に井ノ原が入っている間、准は、剛毅とケインに話しかけていた。
「風呂はアメリカじゃなんちゅうねん」
「bath」
「寝る、ちゅうんは」
と、身振りをしてみせる。
「sleep」
剛毅とケインが交互に答えている。
その一方で、昌行は長野にこう尋ねられた。
「昌行は女は嫌いか」
そう言われて昌行は苦笑した。
「そういうわけじゃござんせん。ただ、金で女を買うようなことはどうも気に入らねえんです」
昌行は酔っているようだった。少し砕けた口調になっている。
「そうか。れっきとした武家の女でも、苦界(くがい)に身を落としていることがあるそうだな」
「はい。しかし、ほとんどは町人の娘でございます。旦那は廓においでになったことはおありですか」
「いや、ない。こう言っては自慢に聞こえるだろうが、学問に打ち込んでおった」
横から准が割りこんだ。
「学問、ちゅうのはおもろいもんでっか」
「ああ、面白い。准も今、二人に英語を教えて貰っていたが、どうだ、面白くはなかったか」
「全然違う言葉でしゃべっとる国がある、ちゅうんは不思議な気がします」
「そうだろう。言葉も違うし、考え方も違う。これからは、我々も、そういう人々と交際していくことになるのだ」
「そのためにアメリカの言葉の修行をなさったわけでっか。あっしにもしゃべれるようになるやろか」
「ああ、なる。言葉を話すことが出来る者なら、努力次第で身につけることができるはずだ」
「こちらのお二人も」
と、准は剛毅とケインの方を見た。
「長野様のようにして覚えなさったんですか」
長野は苦笑した。
「それは言えんのだ。いずれ話して聞かせよう。学問はできるだけしたほうがよい。この仕事が無事に終わったなら、塾を世話してやろうか」
「い、いや、そこまでは……」
准は頭をかいた。
「あっしなんぞが学問したところで、役に立つとは思えんし」
しかし、長野は真剣な目つきで准を見た。
「学問というのは、すぐに役に立つ、というものではない。しかし、必ず世のため人のためになるものだ。世が落ち着いたなら、わたしが手ほどきしてやってもよいぞ」
今度は昌行が言った。
「落ち着くでしょうか」
「落ち着く。落ち着いてくれなくては困る。そのための道中なのだ。協力してくれ」
「それはもちろん、よろしゅうございますが……。世の中が落ち着けば、貧乏人の娘でも、身売りなんぞしなくてもよくなるんでございましょうか」
長野は腕を組んだ。
「それは……」
昌行は、赤くなった顔で長野を見つめた。
「お上は安泰でも、下々は相変わらずですか」
長野が言葉に詰まったとき、井ノ原が襖を開けた。
「交替だ。なかなか広い風呂だったぞ」
昌行と准は、無言で用意をして出ていった。
「いかがなされた」
井ノ原は、わけが分からず、長野に尋ねた。
「いや。なんでもござらん」
長野の表情はやや沈んでいた。
(続く)
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