長野は草薙の横に立ち、井ノ原たちと草薙を見比べている。井ノ原たちの顔には殺気があった。それを見て、昌行は、剛毅とケインを、自分と准の後ろにし、脇差しに手をかけた。
「何者だ」
井ノ原が、草薙をにらみながら言った。その隣の松岡は、大きな目で草薙をじっと見ている。
「関東在方掛(かんとうざいかたがかり)配下、と言っても信じてはもらえまいな」
草薙は落ち着いていた。
「当たり前だ」
井ノ原が、柄にかけた手に力を込めた。その刹那、草薙は隣にいた長野の襟首をつかみ、長野の体を井ノ原に投げつけた。井ノ原はかろうじてそれをかわしたが、刀は抜けない。その隙に草薙は桑畑に飛び込み、走り出した。
「待て」
井ノ原が後を追う。井ノ原の連れも一緒に走り出した。
桑畑で人を追うのは容易なことではない。
人が通ると、横に張った枝がたわみ、そして反動で勢いよく戻る。そのため、後を追う者は、反動で戻る枝に顔を叩かれることになる。
井ノ原たちは、顔の前に片手を立てて後を追ったが、枝は、隙あらば目を叩こうとしているかのように襲ってきた。
草薙は、背を見せ、まっすぐ東へ走っていたが、後ろを振り返り、距離があいたのを見ると、向きを変えて南へ向かった。
その時、剛毅が動いた。畑に飛び込んだが、三度笠が邪魔して進めない。立ち止まるとすぐに懐に手を入れた。
草薙は右半身を見せて走っている。
銃声が響いた。そして、草薙が、右腿を押さえながら倒れた。
井ノ原が追いつき、草薙に覆い被さると、刀を奪い取った。草薙はそれでも逃げようと立ち上がったが、松岡が行く手に立ちはだかった。
草薙は観念して、撃たれた右腿に手を当て、腰を下ろした。
長野たちも、桑の枝に難儀しながらその場へ向かった。
「名を名乗れ」
井ノ原が、草薙をにらみながら尋ねた。
「聞いてどうする」
草薙は冷たい笑みを浮かべていた。
「何のつもりだ。目的は」
井ノ原は重ねて尋ねたが、草薙は無言だった。今度は松岡が尋ねた。
「なぜあの宿で待ち合わせしているのを知ったのだ」
草薙は冷たい目で松岡と井ノ原を見上げ、少し笑った。
「あれだけ大声で騒いでいれば、いやでも聞こえる。酒は少し慎んだ方がよかろう」
井ノ原と松岡が顔を見合わせた。二人の顔には後悔の色が浮かんでいる。思い当たることがあるらしい。
今度は長野が尋ねた。
「途中での待ち伏せは、策略だったのか」
「答えるわけには参りませんな」
草薙の声には、まったく臆する気配はなかった。
「おぬしとて、命は惜しかろう」
そう言って井ノ原は刀を抜いた。切っ先を草薙に向ける。草薙は井ノ原を見上げたが、長野に視線を移してこう言った。
「これだけは申し上げよう。世の中の流れをせき止めることは誰にもできぬ。まして、もとへ戻すことなど無理な話。無理に流れを遅らせるよりも、新しい世の中で力を発揮することを考えた方がよかろう」
長野は無言で草薙の顔を見ていた。草薙は言葉を続けた。
「今あるものを守るばかりでよろしいのか」
「そんなことではない」
長野が答えた。強い語調だった。
「ただ守るばかりではない。変えていかねばならんのだ。そのために……」
「そのために」
そう言って草薙は剛毅とケインを見た。剛毅とケインは無言で草薙を見つめている。
昌行と准は、自分たちが聞くような話ではないと思ったらしく、少し身を引いている。
草薙は次にこう言った。
「お互い、己の信ずるもののために命をかけておるわけです。もし、長野殿が我らと同じ道をとっておれば、心強い味方になったと思われるのに、残念なことです」
「我ら、とは誰のことか」
長野がそう尋ねたが、草薙は、
「ご存知のはず」
としか言わなかった。そして、刀を突きつけている井ノ原を見上げた。
「拙者は、ここで捕らえられてしまうわけにはいかんのだ」
「逃がしやしねえぞ」
井ノ原はさらに刃先を近づけた。
「逃げもいたさん」
草薙は、そう言うと無造作に立ち上がり、井ノ原に抱きつくように両手を伸ばした。井ノ原は慌てて刀を振り上げようとしたが、草薙はその手を上から押さえ、そして我が身をその刀に押し当てた。
刀は抵抗もなく草薙の胸に呑み込まれた。井ノ原は刀を抜こうとするが、草薙がそれを許さない。
井ノ原は青ざめた顔で草薙の指を離そうとした。しかし草薙は渾身の力を込めて柄を握りしめている。草薙が、がくりと膝をついたときに、井ノ原は、やっと草薙の指を離すことができた。刀から手が放れると、草薙は前のめりに倒れた。
すでに息が絶えていることは、一目で知れた。
「始末をつけなくちゃならねえな」
井ノ原の声は落ち着いてた。松岡も冷静だった。
「やくざ者ならどうにでもなるが、侍となると、ちと面倒だ」
井ノ原と松岡は腕を組んで草薙の死体を見下ろした。
昌行と准は少し離れたところから見ている。
剛毅とケインは長野に身を寄せていた。
冷たい風が、桑の枝を揺らして吹きすぎた。
「井ノ原、刀を取り換えよう」
松岡が口を開いた。
「俺が切ったことにする。脂がついてねえと疑われる。急に襲われてやむを得ず切ったことにすれば済む。十手を奪われそうになった、とでも言っておこう。これからも、こんなやつが出てくるはずだ。お前はそっちを頼む」
井ノ原は松岡を見て頷き、
「そうか。済まん」
と言うと、鞘ごと刀を抜き、松岡に渡した。松岡も、自分の刀を井ノ原に渡した。
「短筒の傷もあったな」
松岡は、そう言うと、受け取ったばかりの刀を抜き、草薙の銃創をねらって刀を振るい、袴ごと、傷跡に刀傷を重ねた。
「これでごまかすしかないだろう」
長野は松岡に頭を下げた。
「面倒をおかけする」
すると松岡は苦笑し、
「いやあ、こうなったのも我々の落ち度のせいですから」
と言った。井ノ原も決まり悪そうに笑い、
「実は、長野殿と別れた夜、こいつと久しぶりにあったもので、つい酒を過ごしてしまいまして。酔った勢いで、伊奈で落ち合うことを大声で話していたようで」
と言うと、松岡がそれに続けて、
「それでまあ、こいつに聞かれて、先を越された、というわけです。面目ない」
と、頭を下げた。
「先を越されたも何も、拙者も松岡も、飲み過ぎて翌日は寝過ごしてしまうというていたらくで。いや、まことに面目ない」
井ノ原も頭を下げる。
「松岡が青くなって取手に戻って参ったものですから、急いで二人で後を追ってまいりました」
草薙が、わざと鬼怒川沿いの道をとらなかった理由がこれで明らかになった。待ち伏せの段取りをたてていたのだ。
松岡は、井ノ原に、
「じゃあ、俺は役人を捜して来る。ここで別れよう」
と声をかけ、長野には、
「短筒をお持ちとは、ただならぬご一行ですな。御免」
と一礼して立ち去った。
井ノ原は、長野に、
「こうなると、拙者は最後までついて行かねば気がすむません。ともに参ります」
と言い、昌行には、
「俺がいたんじゃ窮屈だろうが、こらえてもらうしかないな」
と言った。昌行は苦笑して、
「滅相もない。ご一緒できて光栄でござんすよ」
と、少しおどけて答えた。
長野は無言で空を見上げた。
晴れ渡った空を薄い雲が流れていく。なにもかもが現実ではないような気がした。しかし、とにかく進まねばならない。
筑波の嶺は東にあり、紫に輝いていた。
剛毅とケインは無言で長野を見つめている。
「参ろう」
そう言うと、長野は歩き出した。
桑の枝を手で押さえながら畑を抜け、道に出た。
井ノ原は長野と並んで先に立ち、剛毅とケインを挟んで、昌行と准がしんがりを務める。
「なんか、おおごとみたいやな」
准が小声で昌行に言った。
「ああ。お武家はお武家で大変なんだろう」
昌行も小声で答えた。
しばらくは無言のまま鬼怒川沿いに歩いた。日は斜めに一行を照らしながら、南にさしかかろうとしていた。一行は日を背に受け、自分の影を前に見ながら進んだ。
昌行と准は、自分たちの頭の影が、前を行く剛毅とケインの足もとにあるのを見ていたが、剛毅とケインはだいぶ歩きにくそうだった。
井ノ原が立ち止まり、川の向こうに目をやった。鬼怒川の西は結城である。
「これからいかがいたしますか。このまま川沿いに行けば、宇都宮に行くことになりますが」
長野も立ち止まり、井ノ原に並んで鬼怒川を見た。
俵を積んだ小舟が下っていく。
少し思案し、長野はこう言った。
「行き先を知られている以上、少しでも早く着く道をとるしかありますまい」
井ノ原が尋ねた。
「行き先とは、どちらか」
「日光へ参ります」
井ノ原は振り返って剛毅とケインを見た。
「この二人を日光へ連れておいでになるのか」
「はい」
「何のために」
「それは申しあげられん」
剛毅とケインは、無言で井ノ原を見つめた。井ノ原は二人の視線を避け、昌行に声をかけた。
「ここから日光まで行くとなると、まずは小山(おやま)に出た方が早いな」
「へえ。壬生(みぶ)通りをおいでになるのが近いようでござんす」
「そうだな。それで行こう」
そう言って井ノ原は長野に向かい、
「それでよろしゅうござるか」
と尋ねた。長野は、
「そのように致そう」
と答え、歩き出した。
しばらく進むと大きな街道に当たった。脇街道ながら、水戸から下館、小山を経て足利に至る街道で、人も馬も多かった。
渡し場が見えてきたときには、日は真南を過ぎていたので、結城に渡る前に、目についた蕎麦屋に入った。
准は、運ばれてきた蕎麦を見て、
「また醤油のつゆや」
と言ったが、汁をはねとばしながら残さずに食べた。
太めの蕎麦は歯ごたえがあり、薬味の葱がつんと鼻にきいた。
長野と井ノ原は無言で食べた。それぞれ、思うことがあるようだった。
食べ終えると、昌行は、長野に話しかけた。
「旦那、連れのお二人は足にまめでもできたようですね」
そう言われて、長野は二人の足元に目をやった。
二人に腰をかけさせたまま、長野は足袋を脱がせた。草鞋の鼻緒が当たるところが赤く擦れ、血がにじんでいた。
井ノ原がそれをのぞき込み、
「これでは歩けまい」
と言って腕を組んだ。准ものぞき込み、
「慣れとらんのやろう」
と言って気の毒そうな顔をしている。
「大事ない」
剛毅がそう言ったので、井ノ原は目を見張った。
「なんだ、ちゃんと話せるのか」
長野は、剛毅の顔を見ると、
「川を渡ったら馬を雇いましょう」
と言って足袋を穿かせた。
蕎麦屋を出ると、空は晴れたままだった。
今度は西に傾き始めた日に向かって歩くことになった。
川を渡ると、結城側の渡し場に馬方がたまっていた。
「馬を二頭借りたい」
長野が声をかけると、相手が武家なので、馬方の頭(かしら)らしいのが、愛想笑いを浮かべた。
「へい、ちょうどいい馬が残っております。どちらまで」
「小山まで頼みたい」
「へい、承知いたしやした」
すぐに馬が二頭牽いてこられた。馬を牽いてきた馬方は、長野と井ノ原が乗るものと思って二人の前へ馬を寄せたが、長野が、剛毅とケインを招いて、
「どうぞ」
と言ったので、不安そうに頭(かしら)の顔を見た。頭も驚いている。
「何か差し支えがあるか」
長野が尋ねると、馬方は、
「そんなことはございません」
と首を振ったが、明らかに奇異に思っているようだった。
ケインはうれしそうに馬のたてがみをなでると、馬の右側からひらりと乗った。剛毅も身軽に、これは馬の左から鞍に腰をのせた。
「ほう」
井ノ原はその様子を見て声をあげた。
「馬には慣れとるようやな」
准も感心して見ている。口輪を抑えていた馬方たちも驚いていた。
「参りましょう」
長野は歩き出した。井ノ原がそれに並び、馬の二人が続く。そしてその後ろに昌行と准。
三度笠に道中合羽の二人が馬に乗り、羽織を着た武士が徒(かち)で供をしている図に、馬方は顔を見合わせてさかんに首を捻っていた。
結城にはいると、問屋らしい板壁の商家や白壁の土蔵が目立って増えた。
反物を背負った商人の姿が目に入る。
城下町であり、土地の武士の姿もあったが、いずれも余裕の感じられない表情をしていた。
幕府の不安定さが影を落としているようだった。
道は西へ向かっている。
剛毅とケインは、馬の感触を楽しんでいるようだった。 結城の宿を抜けると、馬方の一人は、相方に手綱を預け、馬をやり過ごし、昌行に並んで小声で話しかけた。
「珍しいお客だね。こんなのは初めてだ」
昌行としても答えようがなかったが、何か言わないのもかえって怪しまれるかと、
「まあ、いろいろあってな」
とだけ言った。
答えがあったのに気をよくしたのか、馬方は、
「前にいるのはどういうお武家なのかね」
と尋ねてきた。
「俺もよく知らねえ。ただ頼まれて一緒にいるだけだ」
「どこまで行くのかね」
「さあな」
「鬼怒川沿いに来たのかね」
昌行は横目で馬方をにらんだ。
「そんなことを聞いてどうするつもりだ」
そう言いながら、脇差しのを左手で軽く握り、鍔に親指をかけた。それを見て、准が馬方の横に回り、昌行と二人で挟むようにした。馬方の顔色が変わる。
「い、いや、ちょっと……」
「ちょっと何だ」
「何でもねえよ。珍しいもんだから聞いてみただけだ」
そう言うと、足をはやめ、再び手綱を手にした。
小山までは二里もない。
一時(いっとき)もしないうちに、家並みがとぎれぬようになってきた。
日は傾いてはいたが、夕暮れにはまだ間があった。正面からさす光がまぶしい。
さっきの馬方が、前を行く長野に声をかけた。
「旦那、今日は小山でお泊まりですかい」
長野はちらと振り向き、それから井ノ原を見た。小山で泊まるにはまだ日が高いが、連れの二人の足の具合を考えると、無理は出来なかった。
井ノ原も同じ考えらしく、
「そうだな。どこか、いい宿を知っておらぬか」
と言ったが、昌行は、その言葉が終わらぬうちに、
「できるだけ宇都宮の近くまで参りましょう」
と声をかけた。
「宇都宮?」
長野が立ち止まり、振り向いた。
「へえ。小山でまた馬を借りて、なんなら駕籠も借りて、急ぎやしょう」
昌行は、長野の顔を見つめながら言った。井ノ原も立ち止まり、じっと昌行の顔を見た。昌行は、顎で、自分の前にいる馬方を指し、顔を横に振って見せた。それを見て井ノ原は小さく頷き、
「そうだな。一刻も早く宇都宮へ行かねばならん。今日中に宇都宮まで行ければ、白河はすぐだ」
と言って歩き出した。
「白河においでになるんですかい」
馬方はまた尋ねた。
井ノ原は振り向きもせず、
「白河の先、会津まで行く。松平様のご用でな」
と言って足を早めた。
馬方はそれを聞くとあとは何も尋ねなかった。
小山の宿に入り、旅籠が目につくようになったところで馬を返した。酒手をはずんでやると、馬方は両手で押し戴いて大喜びで戻っていった。
一行は日光街道に入り、少し北へ歩いた。
小山の宿は、今通ってきた街道と、日光街道、壬生通りが交わる大きな宿場である。小山からは、江戸、白河、日光、足利、下館と、五つの方向へ向かって街道がのびているので、「五方追分け」と呼ばれていた。
小山を通る最も大きな街道である日光街道は、千住から宇都宮を経て日光に至る道中である。もとは、千住から白河までが奥州街道であったのだが、将軍家の日光参拝のために街道が整備され、宇都宮までは日光街道に組み込まれてしまった。そのため、奥州街道は、公的には、宇都宮の先の白沢から白河までのわずか十宿だけになってしまったのである。
なお、昔から「日光街道」「奥州街道」と呼ばれてはいるが、江戸時代においては、正式名称は「日光道中」「奥州道中」であった。ただし、近世(江戸時代)より前の中世では、関東から、現在の東北地方を南北に貫き、津軽まで達する道筋を「奥州街道」と呼んでいる。もちろん、江戸時代でも、俗称として千住から白河までを「奥州街道」と呼んでもいた。
六人は、まだ日暮れまでは間があるのでゆるゆると足を運んだ。特に、剛毅とケインは足を痛めているので、先を急ぐことはできなかった。
(続く)
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