長野の腹は決まった。
「今日発ちます。少しでも先へ行きたい」
「そうですか」
井ノ原は止めはしなかった。
「鬼怒川をさかのぼる、というお話でしたな」
「いかにも」
「それでは、ひとまず、伊奈へおいでください。おそらく慎吾は、長野殿が取手に来たことは知っていても、その先のことは知らぬはず。水戸街道を江戸へのぼるか、水戸へ下るか、あるいは船で関宿あたりへいくか。普通なら、こういった道をとると思うでしょう。ただ西へ行くとしても、利根川か鬼怒川沿いに歩くと考えるはず。少しはずれた道をとる方がよろしかろう」
「なるほど」
「明日の朝、伊奈の宿に、松岡という男を訪ねて行かせます。私と同年ではありますが、私より先に取り立てられた男です。少々気の短いところはありますが、腕は立ちます」
長野は、井ノ原の言葉に従うことにした。その意を伝えると、井ノ原は言った。
「昌行はどうします」
「伊奈まで一緒に行くように言ってみます。もし我々の命をねらっているのなら、慎吾が追ってくることを知らせてくれるはずはござるまい」
長野は、ひとまず昌行たちとともに伊奈まで行って宿り、そこで、井ノ原が世話をしてくれる男と落ち合うことに決めた。その先のことはそれから考える。昌行が役人との同行を好まぬなら、別れればよい。
井ノ原にその意を伝え、伊奈へ行く道筋や、泊まるべき宿の名などを確かめた。
取手から伊奈まではわずかの距離である。しかし、まっすぐ行って人目については困る。いかにして人目を欺くか、という相談をしているうちに、宿の主人が声を掛けてふすまを開けた。
「お昼はこちらでお召し上がりになりますか。ちょっと珍しいものが手に入りましたが」
そう尋ねられ、井ノ原は、
「ああ、六人分頼む」
と答え、それから、
「川は渡れそうかい」
と尋ねた。
「はい、風も止みまして、差し支えないようです。お渡りですか」
「こちらの方が、な」
そう言って井ノ原は長野の方を見た。長野はその意を察して、
「これから江戸へ参る」
と言った。
「さようでございますか。今日は冷えます。少し暖まるようなものもつけましょうか」
主人がそう言うと、井ノ原はにやりと笑った。
「さすが、気が利くな。飯を済ませたら発つとしよう」
「はい、承知いたしました」
「それから、あったまるものは二本でいい」
「かしこまりました」
そう言うと、主人は頭を下げてふすまを閉めた。
長野は、剛毅とケインに小声で何か説明した。井ノ原は素知らぬ顔をしながら耳を澄ませていたが、何を言っているのかは全く聞き取れなかった。
やがて、香ばしいにおいがしてきた。味醂醤油の焼けるにおいである。
「そろそろ飯になるらしい」
井ノ原は立ち上がり、廊下へ出ると、隣の座敷のふすまを開けた。鰯のにおいが鼻をつく。
「ご用だ、神妙にしろ」
いきなり怒鳴ると、昌行が跳ね起きた。枕元の脇差しを手に取って身構える。
「はっはっは、さすがだな」
井ノ原が笑うと、昌行は目を見張った。
「旦那……」
「俺がここにいるとは知らなかったのか」
「へえ」
横を見ると、准は口を開けて眠り込んでいる。
「准、起きろ」
昌行が体を揺すると、准はやっと目を開けた。
「何やねん。まだ眠いがな」
体を起こして目をこする。
「准というのか」
井ノ原は笑顔で准を見てる。准はやっと井ノ原に気がついて、起き直った。
「飯だ。来い」
そう言って井ノ原は戻った。昌行と准は首を捻りながらあとに続いた。
女中がすぐに膳を運んできた。
長野と井ノ原が床の間を背にし、剛毅とケインが障子窓の前に座った。昌行と准はふすまの前に正座する。
皿には、たれをつけて焼いた魚がのっていた。
「ほう、蒲焼き」
長野が声をあげた。長野と井ノ原の膳には燗徳利も載っている。昌行は、それを見て、少しうらやましそうな顔をした。
「さ、どうぞ」
井ノ原は、徳利を手に取ると、長野の杯に酒を注いだ。しかし、長野が注ごうとするとそれは断り、
「手酌で飲むことにしておりますので」
と言って、自分で注いで口に運んだ。
長野は酒を一口飲むと、蒲焼きを口に運んだ。タレはなじみのあるものだったが、魚は淡泊な舌触りだった。
「これは、鰻ではないのでは」
長野が言うと、井ノ原が笑って教えた。
「鯰(なまず)でござる」
「鯰……」
長野は驚いて蒲焼きを見つめた。
准も感心して、
「ほう、見かけとちごうて、うまいもんやな」
と、言いながら手を休めず口に運んだ。剛毅とケインは黙って食べている。
長野は、徳利の中身を半分ほど飲むと、
「少し飲んで暖まれ」
と、徳利と杯を昌行の膳に乗せてやった。昌行は笑顔を見せて頭を下げると、すぐに一杯注いで飲み干した。
「うーん、これはいい酒ですね」
顔がほころんでいる。すぐにまた注いで飲み干す。
いかにもうまそうな飲みっぷりだった。
昌行は酒に目がない、という井ノ原の話には、誇張はないようだった。
三杯目からは、蒲焼きや漬け物をつつきながら、チビリチビリと飲んでいが、たちまち飲み干した。それでも、名残惜しそうに、徳利を振って、最後の一滴まで絞り出している。
准は、そんな昌行の様子がみっともないと思っているようだったが、昌行はいっこうに平気なようだった。
「いやあ、うまい酒でした」
昌行の言葉に、井ノ原も笑った。
昼食が済むと、井ノ原がすべて支払い、一行はすぐに出発した。
外は、風はなかったがどんよりと曇っていた。
まずは渡し場へ向かう。
利根の渡しには、客の身分に応じて三種類の渡し船があったが、無宿人の昌行たちがいるので、最下等の船に乗ることにした。一緒に渡るところを人に見せなくてはならない。
川を渡り、街道沿いに進むと、すぐに我孫子に至る。
六人は街道を少し南へ下ったが、我孫子の宿の中心部までは行かず、右へ折れ、井ノ原の案内で利根川へ戻った。
それから川岸を少し上流へ行って布施に至り、七里の渡しで対岸の戸頭へ渡った。
七里の渡しは、水戸街道の脇往還である布施街道にある。
布施街道は、そこから、守谷、板橋、谷田部を経て土浦に至る。
渡り終えると、井ノ原は、長野に道を教え、そこで一行と別れ、一人、取手へ戻っていった。
長野たちは、井ノ原と別れると、布施街道を歩んで守谷まで行った。
筑波山が右手に見える。
昌行は油断なくあたりに気を配っていたが、准は半分眠りながら歩いていた。
守谷は鬼怒川と利根川の合流点にあり、やはり水運の中継地として栄えていた。
鬼怒川をさかのぼるなら、そのまま川沿いに行けばよいのだが、一行は、布施街道沿いに右へ折れた。右手にあった筑波が正面になる。
鬼怒川と並ぶようにして流れている小貝川を渡ると、板橋の手前で右へ折れ、筑波を左手後方に置いて歩んだ。伊奈を経て取手に至る道である。
伊奈と取手とは、小貝川によって隔てられている。小貝川は、伊奈から龍ヶ崎を抜け、取手の下流で利根川に合流する。大雨に降られると氾濫することが珍しくなく、川留めになって小貝川を渡れなくなった時に備えて、伊奈にも宿があった。
取手からまっすぐ来れば一時(いっとき)ほどの距離であるが、遠回りしてきたので日暮れ近くなっていた。
井ノ原に教えられた宿はすぐに見つかった。
宿の者には、武家の長野と渡世人の連れというちぐはぐさが気になったようだったが、それでも、一階の奥の広い座敷へ案内してくれた。
昌行は、座敷にはいると、すぐに縁側の障子を開けた。濡れ縁があり、すぐ庭になっている。勝手口や裏木戸が見えた。
「こいつはいけねえ。二階は空いてねえのかい」
そういうと、案内の女中は一度戻り、今度は二階の座敷へ案内した。
今度の部屋は、さきほどの部屋と向きは同じだったが、障子窓から外を見ると、足がかりになるような物は見あたらなかった。
曇ってはいたが、西の空が薄茜色になっていた。筑波はもう空に溶け込んでいて姿が見えない。
夕食の菜は漬け物と芋の煮物に、目刺しがついていた。女中に給仕して貰い、准はうれしそうに食べていた。
長野が気を利かせ、徳利を一本つけてやると、昌行は大喜びだった。
「申し訳ねえ、旦那。一度はとんでもねえことをしでかしそうになったあっしに、こんなにして頂いて」
そういいながら、うまそうに飲む。その様子を見ていると、何か下心があるようには見えなかった。その飲み方が気を引いたらしく、剛毅とケインも、面白そうに昌行を見ていた。
もし、昌行が、長野に危害を加えようとしているのであれば、井ノ原と別れた後、何度でも機会はあったはずだ。
「確かこのあたりは」
長野は、思い出したことがあって女中に尋ねた。
「間宮林蔵殿の生地だったな。生家は近いのか。伊奈に近い村と聞いた」
女中は首を傾げた。
「間宮という家はありますが、林蔵様というのは聞いたことがございませんねえ。お偉い方ですか」
「樺太の探索を行ったのだ。知らぬか」
「樺太というのはどこでしょう。異国でございますか」
「蝦夷地のさらに北だ」
「はあ、そんなとろこまでおいでになったんですか」
女中は何も知らぬようだった。
長野はつまらなそうに黙った。昌行は、それを見て少し気の毒に思ったのか、話に加わった。
「蝦夷地より北というと、ロシアという国があるそうでござんすね」
「ああ。間宮殿はロシアと清国の国境(くにざかい)まで行ったらしい」
「ほう、何のために」
「何のため……」
長野は箸を置いて腕を組んだ。それを見て昌行も杯を置く。
「しいて言えば、世のため人のためだろう。むろん、知らぬ土地を見てみたい、人の知らぬ事を調べてみたいという気持ちもあったろう。しかし、ロシアはしばしば北辺を犯しておる。対処するにも地勢を知らねばならん。そのために命懸けで樺太近辺の探査を行ったのだ。その志は見習いたいものだ」
昌行は感じ入った表情で長野の顔を見た。熱のこもった話しぶりに、剛毅とケインも長野の顔を見てる。准も箸を止めた。
「旦那は、確か、命のやりとりをしてでもやらなくちゃならないことがある、とおっしゃってましたね」
「ああ、そうだ。そう思ってご用を務めている。……なんだ、どうした、箸を止めて。飯時に話すようなことではなかったな」
長野はそう言って笑い、箸をとった。昌行も杯に手を伸ばす。
准も安心して飯を掻き込み始めた。
長野の話した、間宮林蔵の渡航は文化六年(一八〇九)のことである。樺太と大陸との間で行われていた現地人の交易に同行し、アムール川(黒龍江)の河口まで往復している。樺太(サハリン)については、それ以前から松前藩士などによって調査が行われていたが、間宮が、半島ではなく島であることを明らかにし、その功績がシーボルトによってヨーロッパに紹介されたことによって、大陸と樺太に挟まれた海峡が「間宮海峡」と呼ばれることになったのである。
なお、間宮林蔵は、シーボルト事件の告発者と言われ、実は裏では幕府の隠密として活動していたのだ、と、巷間伝えられているが、これは誤りである。
間宮林蔵は、樺太探索と大陸訪問の経験をもとに、北辺の事情を述べた書を何冊も著している。そのうち『東韃紀行』を、間宮の上司である高橋景保(かげやす)がシーボルトに贈り、間宮の業績を知ったシーボルトが、交誼を求めて間宮に品を贈った。当時、外国人から物を受けた場合は幕府に届けなくてはならないという定めがあり、
間宮はそれに従って届け出たため、シーボルトの動向が幕府の注目を引くことになったのである。それに重ねて、帰国に備えてシーボルトの荷を載せた船が破損し、積み荷から、持ち出しが禁じられている地図が発見されたために事件となったのである。文政十一年(一八二八)のことで、シーボルトは取り調べを受けて国外追放・再来日禁止となり、高橋景保は翌年獄死した。
その夜は、昌行が廊下の襖側、准が窓側に寝た。火鉢もなかったが、五人が同じ部屋にいることで、少しはぬくもりがあるように思われた。
翌朝、朝飯が済むと、女中が、来客を知らせてくれた。
「どんな客だ」
昌行が尋ねると、女中は、
「お武家様です」
と答えた。
「私が行こう」
長野がそう言って立ち上がった。
階段を下りていくと、上がりがまちに若い侍が腰掛けていた。長野に気づいて立ち上がる。穏やかな微笑が長野を迎えた。
「松岡殿か」
長野が声を掛けると、相手は首を振った。
「松岡は手の放せぬ用がありまして、私が代わりに参りました。草薙と申します」
「そうですか。どうぞ、こちらへ」
長野が部屋に案内しようとしたが、草薙は、
「すぐに発って、少しでも先へ進んだ方がよろしいのではござらんか」
と言って土間に立っている。
「すぐ参ります。しばらくお待ちを」
長野はすぐに戻り始めた。
「鬼怒川をのぼるのでござるな」
草薙が、階段へ足をかけた長野の背中に声を掛ける。
「いかにも」
長野はそう答えて座敷に引き返し、一行を促して用意をととのえ、支払いを済ませた。
草薙は、戸口の外に出てあたりの様子をうかがってた。長野たちが出ると、ちらっと一行を見たが、三度笠の二人を怪しむこともなく、昌行と准をうさんくさいと思う様子もなかった。
「あっしらも一緒でよろしいでしょうか」
昌行が尋ねると、草薙は笑って頷いた。
「差し支えはあるまい」
そこで長野が一同を草薙に紹介した。三度笠の二人は、昌行たちには剛毅とケインということになっていたので、そのままそういう名として紹介した。
草薙はその名を不思議に思う様子もなく、長野に、
「谷和原(やわら)を抜けて水海道(みつかいどう)へ参ろう」
と提案し、先に立って歩き出した。
今日もどんよりと曇っている。
しばらくは、筑波の嶺を北東に見ながら、小貝川沿いの道を進んだ。
長野は隣に並んで歩き、
「草薙殿は、井ノ原殿と同役でござるか」
と、尋ねた。
「いや、知遇を得てはおりますが、私は関東在方掛(かんとうざいかたがかり)の配下なのです」
「確か、昨年新たに作られた役職……」
「はい。江戸の生まれなもので、西も東も分からず、苦心しております」
「それにしては、よく道をご存知ですね」
「役目を果たすには土地を知らねばなりませぬから」
草薙の口調は穏やかだった。
ところどころに枯れ草の残る道に、荷車のわだちが続いている。霜は降りていたが、夜も曇っていたせいか、霜柱が立つほどには冷え込まなかったようだった。
竹藪のあるところにさしかかると、昌行は、
「ちょっと待ってておくんなさい」
と、声を掛けて、道の脇の竹藪に足を踏み入れた。真竹が繁っている。
その中に、片手で握れるほどの太さの竹が倒れて枯れていた。
昌行はそれを折りとろうとしてた。しかし、折れてはいるが切れてはいないので、ねじ切ることができない。
そばには、同じくらいの太さの竹が何本も生えていたが、昌行はその枯れた竹に執着していた。
「ほかにも竹はあるだろう」
と、草薙が声を掛けたが、
「枯れてなくちゃならねえんで」
と答えて苦戦している。
何度ももねじっていると、ケインが歩み寄った。手には、柄を昌行に向けて手斧を持っている。
「ありがてえ、貸しておくんなさい」
昌行が手を出すと、ケインは無言で手渡した。
手斧を受け取ると、昌行はそれを振るって竹を切り取り、枝を落とした。
准の身の丈ほどの竹竿ができあがる。
昌行は手斧を返すと、
「さあ、参りましょう」
と言って歩き出した。
そして、歩きながら、懐から小刀を出し、竹の切り口を斜めに削った。
竹槍ができあがった。
「お前が使え」
そう言って昌行は准に渡した。
「これで突くんか」
「お前の刀じゃ絶対に切れねえからな」
准は竹槍を振ってみた。鋭く削られた切っ先が空を切り、音を立てた。
草薙は振り返ってほほえんだ。
長野は少し遅れ、昌行に並ぶと、
「なぜ枯れた竹を選んだのだ」
と、尋ねた。
「青竹は刀で切れます」
昌行は答えた。
「簡単に切れるのか」
「ある程度の腕があれば切れます。よく、剣術の修行をなさってるお武家が青竹を切って見せることがありますが、枯れた竹を切るのを見たことはございません。あっしも一度試してみましたが、枯れた竹というのは切れるものではございません」
長野は感心してもう一度竹槍を見ると、草薙の横に戻った。昌行は、剛毅とケインを自分の前にし、准とともにしんがりを務めた。
(続く)
文中「伊奈」という地名が登場しますが、どうも、その後調べたところ、江戸時代には「伊奈」という地名はなかったようです。
とりあえずそのままにしておきますが、まちがいです。
hongming
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